shioyama
2025-05-16 18:56:55
3446文字
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道草黒南風宵ノ咽

昭和怪談地獄巡り 現行未通過×
2話のネタバレあり

被害予測が十人を下回るようだったら気にしなくてもいい。……なるほど。合理的、だ。


正気ではない女を連れて倶楽部から抜け出すのは容易なことではなかった。体力は消耗していないはずなのにじっとりと嫌な汗が背中に張り付いている。梅雨の晩を思わせる湿りであった。

カフェーとはまた違った淫猥な雰囲気と、連れている女がいつ錯乱するか分からない緊張感が神経を削り取っていく。こういった潜入任務は初めてではないが、なんせ関わっている事件が事件だ。過敏にもなってしまう。行きはよいよい帰りはなんとやらだな。じめついた息が漏れる。

裏口の扉を開けると温い夜風が汗ばんだ頬を撫でる。気色が悪い。なんとか艮倶楽部から出ると、偶然にも他三名と合流することができた。超心理学者の火嶺狐と視線が合いそうになったので反射的に逸らす。俺は抱えていた美子を下ろし、手短に情報共有を行った。

牛頭天王ミノスの部屋を調べることが叶ったこと。趣味の悪いコレクション。本棚の裏にある隠し扉の先に、大虎美子とミチルがいたこと。脱出する際、大虎ミチルが突如何かに呑まれて見失ったことも、包み隠さずに言う。

報告が終わると火嶺狐は目に見えて狼狽していた。思った通りだ。婚約者の行方が知れぬとなったら誰だって慌てる。帽子を深くかぶりながら彼を諫めつつ、頭は冷静に現状を整理する。

ここには未成年(しかも女)の狼谷がいる。男装しているものの、その腕の細さに不安を覚える。婦女子たるもの夜の新宿をうろつくべきではないのは明白でもある。初対面の際にバターを丸舐めしていたので飛び上がったものだ……あれは彼女ではなく化けた猫の仕業だったな。

火嶺狐先生は自衛すら怪しい。職業が職業だから当然ではある。頭や機転は回るとはいえ、超暴力に晒されてしまえば為す術もないなかろう。だが彼はそれでも向かうのだろう。大切な人の手を取るために。

馬淵だって高等遊民ではあるものの守るべき国民だ……ショットガンを振り回し、喜々としながら下の話を朗々と語っていた男を一般人と称してよいか迷うが。只者ではないし常識人でもない、純粋なる変人だと俺は決めつけている。

兎にも角にもこれ以上彼らを無理に連れてはいけないと決断を下す。捜査の一環としてあらゆる協力してもらってはいるが、化け物の巣窟に引きずり込むわけにはいかなかった。巻き込まれて共に脱出を図るのと、危険だと分かり切っている場所に踏み込ませるのとでは訳が違う。

どうにかしてこの三人を帰した後、別途応援を呼ぶとしよう。そうだ、今回から都度報告の命をうけていた。周囲を見回すと近くで待機している隊員を発見する。

「定期報告をしてまいります。失礼」

三人に一言声を掛け、近づいた。簡潔に報告を述べ、今後の展開を並べる。美子を預け、民間人三人を保護。すぐさまに応援要請をかける。集まった部隊は自分が先導するのが合理だろう。一度潜入しているため、店内の様子は何となく掴んでいる。

「報告ご苦労様」

美子の腕を引いた瞬間、聞き覚えのある声に名前を呼ばれる。ふと顔をあげると、思い当たる人物の姿はなかったが、目の前の男が坂烏の声で話し始めた。坂烏の声帯を移植しただけではなく、まるでそのものが乗り移ったかのようないつもの調子に度肝を抜かれた。口が空いたまま塞がらない。不可思議な術を使っているようだが、いま考えるべきは他に山ほどある。

「被害予測が十人を下回るようだったら気にしなくてもいいよ」

あっけにとられる暇もなく、伝達要員として派遣された一隊員の口から撤退の命が下される。短く息を吸った。特憲隊が突入するのは明日、昼頃。気が緩んだ儀式後の隙を付け込むと説明される。意図はわかる。それこそ御国を守る部隊に求められる冷静な判断だと八鳥も理解はしていた。人死が出ている以上、確実に捕縛せねばならない。故に、絶妙な頃合いで万全を期して臨む必要があるのだ。

「承知、いたしました」

頷こうとした瞬間、俺のことをおじさん呼ばわりする無礼な男児の顔がよぎる。了解の返事が少しだけ詰まってしまった。俺がここで踵を返すと、男が一人呪い殺され、あの子供は無残な肉塊へとなる。それは隊長も理解しているはずだ。多少の犠牲には目をつぶるべきだと暗に言っている。

特憲隊は正義の味方ではなく、治安維持犯罪組織の確実な制圧と、十以下の犠牲者。綺麗ごとだけで治安は守れないことは重々承知している。天秤は常に重い方へ傾くものだ。傾いた器に乗っているものを俺は優先する。いつもならすんなりと飲み込めたはずなのに、今宵はやけに喉の通りが悪い。外の空気はぬるいはずなのに、喉はカラカラに乾いていた。

美子を仲間に任せた後、三人の元に戻って素直に状況を伝えた。特憲隊は、助けが来るのは明日になる。そう淡々と告げる。予想通り、火嶺狐の顔が激しく曇った。

「私も戻らねばなりません」

自分の婚約者を國から見捨てられた男を見下ろしながら言う。

何のための特憲隊だと嘆かれるが腹は立たない。憐れみすら覚える。微量の申し訳なさ。このような気持ちを抱くのは初めてだった。普段なら怒髪天をつく勢いで激怒していただろうが、この状況では当然の怒りであると飲み込むことができた。どうしてか、今夜の俺はどこかおかしい。

「早く戻りますよ。艮倶楽部に」

だからだ。このようならしくもない言葉がするりと吐き出てきたのは。この宵に浮かされて酔ってしまっている。

「俺は大虎ミチルを貴方の元まで送り届けると誓った。だからそれを果たすために戻ります。貴方がたはどうするのですか」

三人がそれぞれ違った反応をみせる。全員答えは同じだ。

俺一人で行くのがまだましな判断なのだろうが不可能に近いと察していた。勇気とやけっぱちは似て非なるもので、俺は冷静さを失ってはいない。

ミノスの部屋で見つけたショーケースを思い出す。純粋な暴力により陥没された頭蓋骨。あれをやってのけるのは常人離れした怪力の持ち主だ。くわえて躊躇いなく人の頭を殴れる異常者。はたまた、人間ではない何かだろう。相対すれば戦闘は免れない。少女一人に、男二人。彼女と彼らの協力あってここまで辿り着けたのは間違いない。色々と気を揉まされているが、いてくれて助かったのもまた事実であった。民間人に助力を求めるどころか、力をあてにすふ特憲隊などどこにいる?自嘲気味に鼻で笑う。さて然らば、今の俺は特憲隊を名乗るべきではない。ここにいる俺は、一体何者なのだろうな。これを考えるのも今じゃあない。

「行きましょう。猶予はあまり残されていない」
「燕小路さん、よいのですか?」

馬淵に問われる。彼の瞳を見下ろす。相変わらず何を考えているのかよくわからん目だったが、多くは語らずとも理解できた。上司の命に背く。すなわちそれは守ってきたものに背を向けるという事だ。明らかな抗命行動、軍律違反。厳罰は免れず、坂烏がいくら自分に甘いとはいえ軍法会議にもかけられるだろうう。処罰内容次第で特憲隊にはいられなくなる。特別高等警察に入隊し、この国を守る。夢を夢として終えることを許せず、相当な鍛錬や努力を積み重ねてきた自負はある。それらを、崩す。玩具の積み木の如く、すべて無駄になる。綺麗なビイドロを自らの手で泥を塗りたくり汚す。ヒビがはいり割れてしまっても自己責任。失ったものは二度と手に入らないのが道理だ。

「ああ、構わない」

すべて承知の上だ。自分でも驚くほどにすんなりと答えが出た。喉につかえていた何かが溶けていくのを感じる。

「それにこのまま帰ると……

どうせ俺がここで離脱しても、この三人は渦中へ飛び込んでいく。見張る、守るといった意味での同行でもあった。だがそんなのただの後付けだ。咎めの有無ですらどうでもいい。國を守る忠義に揺らぎはない。帽子を外して、開けた視界で倶楽部を見つめる。上司の命は命を賭して達成することがこの国のためになると思って働いてきた。これからだってその心づもりでいる。だが、今は。

「少々、目覚めが悪い」

今ばかりは、少しだけ道を逸れたい。

何故だろうか。本来なら罪悪感や自責の念で埋め尽くされているであろう心中が、驚くほどに凪いでいる。ススキを揺らす秋風のような心地よさすら感じる。なんだか、初めて肩の荷が下りた気がした。案外、いい気分だ。