shioyama
2025-04-09 17:02:53
5931文字
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月下ノ猟犬、プリン・ア・ラ・モードヲ逃ス

昭和怪談地獄巡り HO2のSS
本編ネタバレなし、公開情報に基づく記載や設定はあり。

昭和怪談地獄巡り
HO2 通過前短編

本編ネタバレなし
公開情報に基づく記載や設定はあり
オリジナル設定あり(特憲隊同僚、スパイ)
エセ昭和風味







月から這い出た影法師が逃げども逃げども追ってくる。まさしく月夜の悪夢である。

追いつかれたが最後、奴は己の影にどぷりとめり込み、全身を影一色に染め上げて絞め殺すのではないか。そう錯覚するほどに強い恐怖を──とある男が味わう時刻は丑三つ時。

街の活気はとうに失せ、薄らぬるいガス灯の下を駆け抜ければ静謐が広がっている。浮浪者たちの訝しげな視線を振り払い、男はただ暗がりへと飲まれていく。

男は己の脚に自信があった。これでもこの帝都に住み着いてから結構な刻が経っている。見知らぬ土地、文化に馴染むのには苦労したが、祖国を思えばどうってことはなかった。日当たりの悪い家に住み、他者の目を気にして裏道を選び、時には立ち入り禁止の場所にだって潜り込む。見つかったらタダではすまない緊張感の崖っぷちで精神をすり減らす毎日ではあったが、なんとか今日までやってこれた。ともすれば今宵ここで命潰えるやもしれぬ。違う。及び腰になるな。己を叱咤で鞭打つ。必ずや祖国へと帰る。そう強く気持ちを持たねばならない。あの影から逃げ切ればどうとでもなろう。
 
勇みながら道を曲がり、アスファルトを蹴る。足音がやけに響く。粗くなる息。後方を確認したのと同時に、すぐさま角からぬらりと影が現れた。気配は一瞬途切れるのだ。確かに振り切れた手ごたえはある。それは確信に近い直感であった。伊達に数年間監視の目から逃れ続けてきちゃいない。帝都の地形や街並みは一通り頭に入っている。たとえば、角を曲がった先にある最近流行の喫茶店。昼は敷居の高い喫茶店、夜は大人の社交場カフェーとしてにぎわっている。朝と夜の中間のような店である。油切れのよいカツレツと、芳醇な真っ黒い珈琲が人気で、名物はプリン・ア・ラ・モード。昼間は西洋と日本の文化をうまく混ぜ合わせた内装が婦女子たちの人気を博している、

その喫茶店と床屋の間にある細い路地は、入り組んでいるため慣れていなければすぐに迷ってしまうことも知っている。ああ、知っているんだ、そうだ、でもここを曲がらなければすぐに追いつかれてしまう。あいつはまるで猟犬だ。目に見えない糸や匂いをたよりに、執拗に追跡してくる。だから、やめろ、知っているんだ、分かってしまう、自分が追い詰められている事実に気づきたくないのだ!

勘違いであってくれと祈った希望は、眼前に広がる壁にぽっきりへし折られることとなる。壁というより巨大な衝立のようである。あちら側に空間があるのは見てとれる。高さ自体もさほどなく、時間を掛ければよじ登れそうではあるが、足掛かりになるゴミ箱も紐もない。そのようなことを許してくれる相手でもないだろう。

「もう仕舞か。他愛のない」

膝に手をつき乱れた呼吸を整えていると静かな声がかけられる。振り返ればやはり一つの影があった。闇から這い出てきた彼の者の姿があらわになる。相対してみると、その体格の良さに驚かされる。随分と大柄な男であった。人混みに紛れれば頭ひとつ優にとびぬける背丈である。目尻まで深くかぶった帽子が陰を落とし、橙色の瞳が怪しげに浮いている。男が悔しげに睨み返すも、うろたえるどころか鼻で笑われた。もしや性根が悪いぞ、こいつ。

「大人しく投降しなさい」

少しずつ間を詰めてくる追跡者の呼吸は憎らしいほどに乱れていない。体格のいい若者と己を比べてみじめになった。

「私は貴方を地平線の彼方まで追い詰めることができる。つまり、これ以上の抵抗は無意味。特憲隊から逃れられるとは思わないことだ」

政府特務機関、特憲隊。独自判断での逮捕権を持つ、いわば精鋭役人である。厄介な奴らに目をつけられた己の不運を嘆くことしかできない。

「誰が手引きしたのかもじっくり教えていただきましょう。勿論あなたの国籍についても洗いざらい吐いて貰う。嘘をついても無駄です。特憲隊は冷静でいないとやってられない──」
「こんな深夜に野放しとは、躾がなっていない犬だこと」

乾いてへばりついた喉を無理やり開きながら悪態をつくと、橙が明らかに細くなる。思った通りだ。男は内心ほくそ笑む。この手の輩は自尊心が高い。傲慢で自分こそ一番優れているのだと誇示したくてたまらない、息の粗い猛犬だと男は考えている。不名誉な発言を撤回させようと口論を続けてくれるやもしれぬ。その間、体力の回復にも努められる。前々から我が物顔で街を監視するこいつらに思うところはあったのだ。これ幸いとため込んでいた愚痴を吐き出す。

「貴様に人の言葉を説いたところで、畜生に人の言葉は理解できまいよ。与えられた餌だけで満足すればいいものの、腹を空かせて徘徊する始末とは、随分と意地汚い!」

今は少しでも時間を稼がねば。そうすれば定期連絡がないことを不審に思った仲間が、様子を見に来てくれるかもしれない。諜報活動のためこの辺りをうろついている何某が助けてくれるかもしれない。不確定要素にしか縋ることができないが、猟犬の言葉が止まったことに気づき、男は一筋の光を見出す。

「貴様のような駄犬にかみつかれたところで、我が国への忠誠が揺らぐとは到底思えんなぁ!」
……覚悟はあるのか」
「無論。祖国のためであるならばお前たちに指をかみちぎられる覚悟ぐらいは」
「違う」

ぴりり。特憲隊が帽子のつばをつまみ深くかぶりなおすと、立ち込める空気に緊張が走った。

「違う、違う違う。誰が貴様の腐りかけた愛国心なんぞ聞きたいのだ、愚か者め」

口の端からは怒気が滲み、視線の鋭さは増す。猛禽類を思わせる眼圧に思わず後ろへ下がる。とんと無慈悲に壁が受け止めてくれた。

「その罵倒が、どれほど重いか理解したうえで口にする覚悟はあるのかと問うたのだ。よもやたかが挑発、程度の軽い気持ちではないよな?」
「な、なにを」

力を込めた足音が徐々に迫ってくる。奴が踏み出すたびに路地裏全体が揺れるような威圧を覚えた。噛みしめた歯の隙間から、煮えたぎった怒りをはらんだ吐息が鬼のうめき声にも聞こえ、男の肝が冷える。

「御国に仕える俺を侮辱することは、即ち大日本帝国へ唾を吐き捨てるのと同義。土足で領土を踏み荒らすだけではなく、日の丸に泥を付ける蛮行……!この 燕小路八鳥 つばめこうじ やちょうが許すわけなかろう!」

額に大きな青筋を何本も浮かべている彼、燕小路は完全に頭にきているようだった。怒髪冠を衝くのお手本のような怒り具合である。燕小路は威圧するように大きく右足を地面へ叩きつける。

「お覚悟はよろしいか……よろしいな!?」

男は大いに後悔をした。言葉選びに失敗した。というか、何を言ってもダメだったと思う。あまりにも挑発に乗りやりすぎるだろ、特憲隊のくせに!冷静さとやらはどこへいった!こうなりゃ自棄だ。護身術には多少のこころえがある。一矢報いてやらねば気が済まな、あ、もう間合いに、反射的に拳を振るうが、容赦なく叩き落される、まてなんだこの馬鹿力は、まずい、風を切る音が──!


……またお手柄だってな、八鳥」
「特憲隊としての任務を果たしたまで。特別誉められるようなことはしとらん」

燕小路 八鳥は真っ黒い珈琲を一口煽りながら同僚へ事もなげに答える。濃厚な苦みで身が引き締まる。

「しかし引き渡した時、相手ボッコボコだったらしいじゃないか。私も見たけど、あそこまでやらんでもよかったんじゃないか?」
「俺を愚弄したんだ。つまり大日本帝国への侮辱。あれぐらいで済んだことを喜べと言いたい。それに口はきける程度にとどめてある。どこに不都合がある」

不満げに頬杖をついた袖が広がり、机の端に流れていく。燕小路はインバネスコートを羽織ったままカウンターテーブルに腰がけている。流石に帽子は外して膝の上に置いている。燕小路の左隣は空席だからそこに預けてもよかったかもしれないが、こういった場所に慣れてはいないとはいえ最低限の礼節は理解していた。

「俺を叱るためだけに呼んだのならもう帰る」
「そういうなって。たまには飯に付き合ってくれてもいいじゃないか。カツレツ食うか?ここのは油切れがよくて評判なんだ」
「揚げ物は体に悪い。日本男児たるもの魚と米で育つべきだ」
「おまえ……まだまだ若いのに……

洒落た模様のカップをソーサーへと戻した燕小路の目が喫茶店をぐるりとめぐる。婦女子たちの間で話題なだけあって盛況のようであった。西洋の文化を取り入れているからか天井が高い。客の割合は女が圧倒的に多く、モダンな衣装に身を包んでいる。身なりからして裕福な家系なのだろう。透明な硝子の器に盛られた生菓子を見てはしゃいでいる。黄色く艶があり富士のような形状をしている。新鮮そうな果実が周りを囲って色彩が豊かだ。味の想像がつかない。あれはプリン・ア・ラ・モードだよ、奢ってやろうか。そう耳打ちしてくる同僚の手を叩き落す。あれは女子供の菓子だろうに、揶揄いやがって。

「それよりなぜここを待ち合わせ場所にした。女子供が多くて落ち着かん」
「女っ気のないお前に紹介したい人がいてな」
「会わせたい?亡命者らしき男を尋問にかけるから手伝えということか」
「こんな洒落た喫茶店でそんなことお前に任せちまったら、プリンアラモードを食べているお嬢さんたちの邪魔になるだろ」
「じゃあなんだ。お前の所帯への愚痴なら酒屋とかでもよかったろ」
「初めて会う場所って言うのは、相手が行きたい場所に合わせるもんだ。覚えておけ、一同僚、所帯持ちからの助言だ」
「だから誰なんだ…………ッ!」

突如現れた柔い香水の気配に、燕小路は情けないうめき声をこぼす。動揺した際にテーブルの裏に膝を打ち付けた衝撃でコーヒーに波紋がたった。ぎぎぎ。油の切れたブリキのように首を左へと向ける。ふわりと花びらが落ちるような所作で空いている席についた女性が愛想よく微笑んでいる。見てくれに気を遣っているのが一目でわかった。彼女のことを世間はモダンガールと称するだろう。はじかれるように目を逸らす。

「こちらの淑女だよ。お前を街で見た時から気になっていたそうだ」

同僚はそう紹介するも返事はない。ちらりと燕小路の顔を見ると、とんでもなく緊張した面立ちで固まっていた。スパイを追い詰めた時もこんな形相にはなっていないだろう。額からは冷汗がとめどなく流れ、両目は振り子のように左右へ揺れている。ぐしゃりと何かがつぶれるような音に視線を下げると、燕小路か膝元に載せていた帽子をぎゅっと握りしめていた。硬い帽子が歪んで皺だらけになっている。馬鹿力の弊害だなと他人事のように思った。

「なぜ!おおお、俺に……お、女ァ……?女を紹介……!?だれが頼んだのだ!」
「だからその人だって。いいねぇ伊達男」
「んなあ……!?」
「特憲隊勤めで将来有望、若く力も背丈もあり、おまえけに面も悪くない。いいじゃないか、そろそろ女性と関係を持っても」

まぁ性格には難ありだが、馬鹿正直に言わずに飲み込んでやるのがいいだろう。誉めそやしてやると燕小路はわなわな震え始めた。顔色がさっきより悪い気がする、唇をしたたかに噛みしめているせいでそこだけ血色が妙にいい。

「か、かかかか関係と言われてもだな。俺は身も心もお国に捧げた者。そういう、なんだ、あれやそれは、困る」
「御国のためっていうんなら、所帯を持って子供を増やすのもそうじゃないか」
「ぬ!むうッぐぬぬッぎぎがががが」
「言い返す言葉がないからといってそう睨むな。男前が台無しだぞ。ほら私とばかり喋ってないで、お姉さんとお話をしろ。せめてあっちを見てくれ。私と肩が触れ合う距離にまで密着してくるな。椅子から落ちそうだ」
「し、しかし……ギャアッ!くあせふじこjafja!」

燕小路は驚いた声をあげながら椅子ごと後ろへひっくり返った。空中半回転ひねりを見せたのち床へ着地する。派手な音が店内に響いた。全客の視線がこちらへ向く。

「ふっ、ふしだら!破廉恥!不埒者!婦女子が男子の手、手に触れるなぞ!実にけしからん!けしからんぞ!」

持ち前の反射神経で後方のテーブルへの激突だけは避けたカ燕小路は顔を真っ赤にして女を指さした。さっきから顔の色が青かったり赤かったりと忙しい。点灯した椅子があった場所には、恐らく彼の掌に触れ合わせた細長い女の手が行く当てをなくして彷徨っている。

「おいおいここは喫茶店もどきのカフェーだぞ。大人の社交場でなんつう純真な叫びだ」

今どき童でもこんなに大袈裟な反応はしない。天然記念物だ。同僚は眉間をもみながら窘める。すっかり耳たぶまで熟れてしまった燕小路は落ちた帽子をひっつかみ、カウンターテーブルへ札を何枚か叩きつける。

「ッ、お、俺は先に、戻る!!釣りはいらんからな!間違ってもお返ししないと、など思うなよ!思わないでください!」

これでもかと帽子を頭へ押し込み、燕小路は出入り口のベルを叩きならした。大股で店前を通り過ぎようとした際、足元の段差につまづいたらしく一瞬姿が消える。すぐさま立ち上がるも、何度か足元をおろそかにしながらの這う這うの体で離れていった。

賑やかさが戻ってきた店内で、同僚はため息を落とす。奥手もここまでくると、ある種の病なのかもしれない。仕事も体格も顔もよくできている燕小路本人にその気が一切ない現状を前々から案じていたのだ。むしろ女性に対して並々ならぬ苦手意識があることは知っていた。これほどまで重症とは思わなんだが。

まともに女遊びをせず、青い春を鍛錬ばかりに捧げてしまった知人を憐れんでいた時に、この女性の話を聞いた。これ幸いとばかりにこの場を取りつないだ次第だ。想像通りを超えた態度にまた長い息が漏れる。誰かを愛することを知れば、いきすぎた正義感も多少は柔らかくなるかと思ったのだが。それ以前の問題であった。気遣いだったとはいえ裏目に出てしまえばただの迷惑。この場の後始末は自分の仕事だろう……

あいつもいつか。誰かとプリンアラモードを食べに来れたらいいな。いっそのこと、いい人だなんていわないから。親しい知人なんかでも充分さ。多分あいつ友達いないだろうし。

若人の未来を願いつつ、あらあらと口元に手をあてる女性のためにプリンアラモードを注文した。