あー、早く死にてぇー。浮かんできた希死念慮に気を取られて、頬に一発痛いのを貰う。そういや喧嘩の真っ最中だった。奥歯が一本ぐらついている。舌の位置もよろしくなかったのか、血の味が口内に広がった。殴られた衝撃でさっきまであった死への渇望は消え失せていて、今は目の前の男の対処へと意識が向ぬ。全力で蹴りあげると、絡んできた男は路地裏にあるゴミ箱に派手に突っ込んでいった。相手は確か三歳ほど年上だったはずだ。俺は十五歳にしては体格がいいほうだし、喧嘩慣れしてるからか街中を彷徨いているとよく絡まれる。日常茶飯事だ。むしろ憂さ晴らしのサンドバッグが歩いてきてくれるのは有難い。
伸びている男がはまっているゴミ箱を半笑いで蹴り転がしたあと、その辺の公衆トイレで顔を洗ってから帰る。抜け出したことが孤児院の連中にバレたらまた面倒なことになるからだ。何が規則だ、くだらねえ。あんな仮初の家に閉じこもってるだけでおかしくなる。大人たちの目を盗んで息抜きがてら抜け出しているものの、次にバレたら折檻コースだと脅されたことを思い出す。ま、その時はその時だろ。両親から捨てられた俺は孤児院の中でも浮いている。自分からそうなるように振舞っているのだから当然だ。手を離されるのが怖いなら、最初から誰とも交流を深めなければいい。つるむのは孤児院でも素行が悪い奴らだけで後腐れがない。他の子どもからは距離を置かれているのも自覚済みだ。疎まれているぐらいが丁度いい、だなんて澄ましていたが、寂しさを紛らわそうとして我ながら必死だったんだろう。
そんな生活を送っていたが、あの女と何か話すきっかけがあったのだと思う。たまたま食事の席が隣だったとか、ぶつかった時あっちを吹っ飛ばしてしまったとか。些細なことだ。第一印象は可哀想な奴、という見下したものだったものの、話を聞いていくたびに親近感が湧いた。俺と同じ、両親に恵まれなかった子。別に男女差別をしたい訳じゃないが、女の子ってだけで俺より大変なことは沢山あっただろう。腹が空いたらパンを盗んでこれる性格でもなさそうだし、息抜きに孤児院の壁を乗り越えられる無謀さも持ち合わせてない、普通の女の子。少しでも気休めになればいいと彼女の手を取る。戸惑ったような表情に不器用ながら笑い返してみせる。
「よし、一緒にお祈りしてみようぜ!俺もよ、実は適当に祈ってたら運よく助けてくれたんだよ、カミサマってやつ?いるのかわかんねーけど、なんもやらねぇよりマシだろ」
遠慮がちな彼女を無理やり説き伏せ、作法なんて知らない俺はただひたすらに彼女の安寧を願った。どうか、この少女を取り巻く環境が良くなりますように。彼女に笑顔が増えますように。誰かに向けた初めての祈りは、振り返ってみると不格好で拙く、同時に一番心が籠っていた。出会ったばかりの子の幸福をこんなにも祈るなんて、荒くれ者の俺らしくない。祈るという行為は悪いものではなく、むしろ心が優しいもので充たされたのを今もつよく覚えてる。気休めでもいい。これで彼女の心が少しでも軽くなれば御の字だ。無責任だったな。後から気まずくなったが、救ってやりたいという気持ちは間違いなく本心だ。
結果として、祈りは通じた。彼女の両親がいなくなった、と告げられた時、俺はひゅっと息を飲む。マジ?疑っていたカミサマが形を為した瞬間だった。ということはつまり、俺の両親を消したのも。世界と自身の境目が曖昧になって、不安感に溺れそうになった俺をつなぎ止めるように、彼女の体温が手に触れる。ありがとう、と。感謝の言葉を向けられた。私を助けてくれてありがとう、だなんて。
「誰かに感謝されたのなんて、俺、初めてだ」
単純な俺はそれだけで舞いあがり、一気に熱が顔に集まる。耳まで赤くなってしまった。唇をかみ締めて何とか目元の熱を逃し、その場にしゃがみこんだ。情けない顔を見られたくない。でも、手は離さなかった、離したくない。生まれて初めて誰かの助けになれたんだ。彼女のぬるい体温が心地いい。お礼を言われた、ここに居てもいいと暗に言ってくれた気がする。嬉しい、嬉しい、嬉しい!その時、俺はやっとこの世に産まれたのかもしれない。誰にも関心を向けられない存在なんて幽霊と同じだ。真夜中の小雨のように、降ったことさえも気づいてもらえなかった俺に、彼女は傘を傾けてくれた。幽霊に、傘はささない。ずっと胸の中にあった希死念慮の雨雲は、笑ってしまうぐらい簡単に吹っ飛ぶ。喧嘩をするよりもずっと心が柔らかくなる。まるで晴れ間に咲く花のような。彼女を助けたつもりなのに、俺の方が救われてしまったようだ。
「あー、ちょっと今顔見ないで……よっしゃもう大丈夫!お前、名前なんてったっけ?……自己紹介はもうしてる?わり、もっかいだけ!もっかいだけ教えてくれよ!いわかみ、まもりね。OKOK!もう次は絶対、忘れねえよ」
重ねられた手のひらに、空いていた片手を添える。
「マモリ、俺がお前のこと、幸せにしてやるからな!どんな手を使ってもさ!」
心の底からの感謝と喜びを笑顔に乗せて、浮かれきった口調で俺は誓った。今もその誓いは、変わってないはずなのにな。
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