部屋の湿度があがった。こころなしか肌も湿っている気がする。遠くで雨が降っているのだろう。冷え込む空気を見て、今日は昼から雨だったことを思い出す。もうそんな時間か。休養日だからといって寝すぎてしまった。床に素足を下ろしてベッドから立ち上がった。
あと数十分もすれば雨雲が訪れ、農作物たちに恵みをもたらしてくれる。最近、雨が少なかったからは悠々峰あたりが喜ぶだろうな。緩い頭痛に顔をしかめながら、窓を見た。やつれた顔の自分と目が合う。深い隈、光の届かない闇を映しているような黒い瞳孔。見ているだけで不安な気持ちになる。やっぱりこれは信者たちには見せられないものだ。サイドテーブルに置いてある目隠しを手に取る。
昔から、雨が降ると高確率で頭が痛んだ。ずくずくと血管が膨張と縮小を繰り返すような不快感。自然と眉間に皺が寄ってしまうので、笑顔でごまかすのも気が疲れる。
気圧の変化に弱い法雨ウルメにとって、雨は恵みではなく苦悩をもたらす災いであり、予兆であった。これからよくないことが起こるという、前ぶれのようなものだ。昔からそうだった。前向きに考えれば、変わってしまったものばかりの中で、この頭痛だけが変わらず傍にいてくれていると捉えられれば、ちょっとは好きになれるかもしれない。
そういえば、あの日も雨が降っていた。じんわりと滲む頭痛の中、ぼんやりと想う。彼女の額に手をかざした瞬間。二人の人生が大きく変わってしまった、運命の日。いや、俺達だけじゃなくてたくさんの人生に関与している。救われた人も、消えた人達も。
神様なんて信じていなかったのに、なぜあんな真似をしたのか。ひとえに彼女を救ってやりたい一心だった。現状が変わらずとも、何かを信じて己が救われたように、せめて彼女の心だけでも救えればいいと。まさかこんなことになるとは一つも考えてなかった。後先考えずやりたいことを優先する、自己中心的な幼少期にため息が漏れる。
まるで虎の威を借りる狐のように、大きく誇示したかったのだろう。自分の力ではない癖に。ただのガキの偽善であり、傲慢さすら感じられる。夢見がちなヒーローになれたという高揚感は長くはもたなかった。ガキだった俺は、自分に特別な力があることを誇りに思うと同時に、怖くなった。背筋を冷たい手で撫でられたような、あの時の御讙はいまだに記憶の中で横たわっている。静かに血の通っていない掌を伸ばして、ずっとこちらを見ている。
それからはとんとん拍子でここまで来た。あっという間だった。真菰と出会い、噂が広がり、救いを求める人に与えてやり、知らぬうちに教祖ともてはやされ。規模が広がり、どんどん救った人間の数が多くなり、消えた人間も比例して増えていく。
いま思えばどこかで逃げ出せばよかった。ためらったのは俺の怠惰だ。幼馴染たちの幸せのために、まだ見ぬ誰かのために……なんていうものは全て建前だ。俺がこの生ぬるい地獄を捨てる決心がつかなかっただけだ。
居場所があり、家族ともいえるような人間達がいる。幼少期のころ、ずっと願っていたものを壊してしまう勇気が俺にはない。歪な背景と、罪悪感とプレッシャーにさえ目を瞑ってしまえばここは天国なのだ。誰かの庇護下に置かれていない共同生活は、ここが初めてだ。教団はとても居心地がいい。皆が与えられた役割をこなして、各々やりたいことをしてのびのびと過ごしている。畑仕事に精を出す悠々峰、子どもたちに愛を注ぐ公喜、苦労を自ら背負ってくれる鬼灯、口喧嘩を楽しんでいる真菰と紫。俺の世話を率先して焼いてくれる、彼女。
彼女、彼女。岩鬼 舞命。俺の幼馴染、俺が一番最初に救った女性。
彼女はいつも一生懸命で明るく、俺の傍にいてくれる。時々俺への愛ゆえに暴走するが、それでも信用してくれているのは嬉しい。なのに、俺は一層毒々しい感情を彼女に抱いてしまっている。俺に家族を与えてくれた恩人、俺の傍にいてくれる幼馴染、俺がこんなに苦しむことになったきっかけ、俺の人生を滅茶苦茶にしてくれた恨み、綯い交ぜになった愛と憎悪、愛すべき共犯者……逆恨みもいいところだ。
舞命に崇められる度に目をそらしたくなる。尊敬されるたびに首を振りたくなる。舞命に「ウルメ様」と敬称を付けられるたびに嫌いになる。そのウルメ様とやらが、一層汚いものに感じられる。いったい誰だそいつは?様で呼ばれるほど、ソレはご立派なもんじゃない。俺はただの情けなく笑う、人間の法雨ウルメでありたい。
せめて付き合いの長い彼女と、真菰の前だけでもそうでありたかった。泣き虫で弱かっただけの俺を忘れないでいてほしかった。せめて信者達の前以外で、ウルメと気安く接してほしい。お前たちの前だけでも、肩の荷を下ろさせてくれ。
だが、それをねだると彼女は首を大げさなほどに横に振る。真菰に至ってはフランクに声をかけてきてくれるが、俺の力を心底信じているのが会話の端々で漏れている。分からんでもない。俺はしょせん偶像に過ぎず、彼彼女は俺の後ろにいる「ナニカ」にお熱なんだから。ナニカに救われた皆は全員そうだ。結局誰も俺のことを見てない。法雨ウルメではなく、みんなウルメ様に救われたのだから恩義を抱く相手は俺じゃないのは当然の流れだ。
……まるで二人を責めているような思考にうんざりする。二人はなにも悪くない。だって俺は子の胸の内を明かしていないどころか、取り繕うように毎日笑ったふりをしている。分からないように覆い隠している。たまに零れちゃったりした時も、あっけらかんに誤魔化す癖がついている。SOSをもとめながらも、実際に縄が下ろされれば元気なふりをする奴が、救いを求める資格なんてない。
ちゃんと真面目に話し合えば、優しい舞命はきっと腰を据えて耳を傾けてくれる。でも、彼女からこれ以上奪いたくなかった。肉親に虐げられ、失ってばかりだった彼女にはずっと笑顔でいてほしい。それが責務だ。俺が苦しんでいる分、幸せであるべきだ。じゃないと俺の苦労も無駄骨になる。恨んでいる相手に抱く気持ちではないことに気付き、また俺は彼女をどう思っているのか分からなくなる。
彼女が何も悪くないことを理解しながらも胸の疼きを抑え込めないのは、俺が悪人である証拠だ。無辜なる幼馴染を恨んでしまう醜い俺が、誰かを救う立場にあるだなんてとんだ皮肉なことだと鼻で笑い飛ばす。キャスティングミスを疑わずにはいられない。センスないんじゃねえの。
窓を水滴が打つ音がする。頭痛は先程よりも強くなっていた。雨の気配が近い。
早く逃げたい。真菰と舞命だけでも連れて、どこか遠くへ。そうして俺はただの法雨ウルメとして、新しい人生を歩みたい。
ちっぽけな人間でしかない俺の祈りは、どこの神が聞き届けてくれるのか。少なくとも、自分をどこかで見ている名も知れぬナニカは、俺を解放する気はまだないのだろう。だったらやっぱり、カミサマなんてものはこの世にいないのだ。
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