ここのところ、穏やかな時間が流れている。日課となっているこの日記にも書くことがろくにないぐらいだ。探偵業を営んでいる身としては、少しばかり恥ずかしい。
二カ月ほど前に書いた事件以降、大きな仕事はない。夫婦喧嘩の仲裁や、店に嫌がらせをする奴の炙りだし、娘の彼氏の素行調査。平々凡々な内容ばかりだ。
七色の脳細胞を持つ私には物足りないどころか、いい加減に腹が減ってきた。食指が動かないとしても請け負わなければ生活に支障が出る。来月プラモデルの新作が発売されるため、それに向けてコツコツと日常をこなしている。
自分の趣味に金をつぎ込むのも大切だが、この事務所を経営、維持するうえで退屈な依頼でもこなさなければならない。いくら持ちビルだといえど、人間生きているだけでやけに金がかかる。三食の食費(+三時のおやつ)、生活消耗品、税金、経費……それに、助手を務めてくれている五藍コウへの給料。
言葉に出しては言わないが、彼はよくやってくれている方だと思う。正直、時々困惑するぐらいである。
今まで出会ってきた大抵の人間は私の傍若無人ぶりに辟易として離れていった。傷つけられるより、孤独の方がマシだと考えている為それは構わない。
人間は己より弱いと思った相手を足蹴にすることにより一種の優越感を抱く。この世の全員がそうだとは思っちゃいないが、少なくとも私が出会ってきたタイプでは"そういうの”が多かった。
だから舐められる前に舌を伸ばしてやろうと、虚栄心と自尊心の張りぼてを創り上げた。最近では板についてきてこっちが本当の自分なんかじゃないかと錯覚する。そのたびにベッドから動けずひたすら活字を眺めていた幼い過去が蘇るのだが。
五藍コウ、という男について少し書き残しておく。
一言で表すとするなら、従順だ。不気味なまでに。
私の我儘無茶ぶりによくもまぁ付き合ってくれるものだ。立場が逆なら確実に私は投げ出している。突き放す態度をとっても、少し困ったように笑うだけでおさまる。少々舌足らずな口から出る「せんせぇ」という呼称だけを零して。何故、今までの奴らと同じように逃げたり詰ったりしないのか。まぁ一の罵詈を百の雑言で返してやるのだけれど。
とにかく、素直な男だった。なのに大事な場面では突然顔をそむける。訳が分からない、いや本当は分かってた。その駄々がいつ発揮されるのか。私に危機が迫る瞬間だ。おそらく私が人質にとられたら、何のためらいもなく己のこめかみに引き金を引く。
ふざけるなと何度言ってやれば気が済むのだろうか。いや、私だって痛い思いをするのは嫌いだし好きこのんでしてるけではない。病に伏せていたあの日の思い出だけで充分だ。
だが、私に与えられるはずだった痛みや、味わう必要もない苦痛に飛び込んでいくあの背中を見かける度に淀んだ苦みが口内に広まる。本人がどう思って行動しているのかは不明だが、今までの出来事を振り返ると否定できないに違いない。
一体、彼は何を求めているのだろうか。私に。辛酸を舐めてまで守る価値なんて私にはないだろうに。不思議な男だ。そこで一つ推測を立てた。
物的証拠が存在しないため、全て私の想像ではあるが。私が思うに、彼は。
「……やめだ。ページがいくらあっても足りん」
ペン先のインクが深く滲んでいく。
じわりと下の頁が汚染される前に万年筆を離した永楽乃は息をついた。室内の照明は落とされ、デスクライトが手元をぬるりと濡らしている
。静けさに浸った自室をひとしきり見つめた後、椅子を引いて立ち上がった。ぱたんと日記帳の表紙を閉じ、そっと本棚の隅に戻す。暇つぶしがてらに綴ってきたこの日記帳も数が増えてきた。また整理しなければいけない。
そのままベッドへ向かおうとした足は、自然と窓に吸い寄せられていく。分厚いカーテンを開けると、まばらに散らばった分厚い雲が夜の街を押しつぶしていた。ネオンも寝静まる時間帯だが、時々顔を出す三日月のおかげでそこまで暗くはなかった。いつもより妙に青く映る。シーリングファンが渇いた音をたてながら回っている。
「一雨きそうだな」
日常が壊れる時というものは、いつも唐突だ。甘受していた時間の優しさや和らぎが遠ざかる足音も聞こえてこない。当たり前だ。非日常という悪意が、わざわざ忍び寄ってきていることを、教えてくれるはずもないのだから。
世の常を土台にして、狂気の種は撒かれる。植えつけ、宿し、孕んで。どう足掻こうがなかったことには出来ない扉に静かに手を掛けて。二人は舞台に上がって行った。
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