shioyama
2022-05-09 22:38:33
2081文字
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Rain or Shine

愛罠蜂現行未通過× うちの店長とバイト君


雨が嫌いな理由は、何も足元が悪くなるだけじゃない。

生地をかき混ぜるゴムベラすら重くなるし、脳味噌に鉛を詰められたかのような不快感が、やがて片頭痛へと姿を変えるのだ。痛い。煩わしい。どうにも気分が落ちる。大好きなはずの芳醇なこの香りさえもその時ばかりは憎くなる。

キッチンを薄く包む電灯にすら当たるのに嫌気がさして、夢丈は部屋の隅っこで顔をしかめていた。古びた木の椅子がぎしりと音をたてた。クローズドの時間に近づけば近づくほど、眉間の皺は深くなっていく。

鎮痛剤もまともに効きやしない。見た目だけ若く取り繕っても、体内は年相応にぼろぼろだ。いや、通常の80歳よりもイカれているに違いない。魔術や薬で無理を相当しいてきたため、腎臓あたりはもう死んでいるのだろう。もうスペアを気軽に揃えられるような立場ではないから、多少なりとも労わってやりたい。

そういえば、二十五年前だったか、あれは。街に解き放たれた魔獣の飼い主を探し当てて、あいつは容赦なく魔術を使ってきて、何発かあたってしまった。致命傷は避けたが、そこそこ痛かった。もちろんお返しにナイフを食わせてやったので、イーブンだと思う。そのあとが厄介だった。飢えた魔獣達は人々の腕を食いちぎるだけでは飽き足らず、更に巨大な……。ああ、もう関係ない過去だ。

まるで浸水したマンホールからあふれ出す汚泥の如く、思考回路がどろりとした過去の痛みで傷つけられる。これだから嫌なんだ。逃げ出した昔の記憶が、時折こうやって滲んでいく。左のこめかみに人差し指の爪をたてる。ぐりぐりと強めに皮膚を食い込ませると、少しだけ気持ちが楽になる。瞳孔が完全に開いていることも自覚せぬまま、夢丈は大きく息を吸った。どくん、とこめかみが脈打っている。心臓とリンクして動いているこれを引きずり出せば、楽になれるだろうか。そうだ、それでいい。ここはキッチンだし、ナイフだって腐るほどある。雨音がやけに響いて、すべてがどうでもよくなってきた。

「店長。大丈夫ですか?」

ふと、頭上からかけられた声で意識が明瞭になる。ざぶんと水たまりから顔を出したような心地だった。顔をあげると、陽蜜の心配そうな視線とかち合う。ここまで接近されていたのに気づけなかった。組織にいた頃ならありえなかったことだ。わざと長めにしている前髪からうっそりと陽蜜を見つめていると「もう表は閉めましたよ」と言う。トリップしている間に、営業時間は終わっていたようだ。

「ああ、すまない。ぼーっとしていた」
「大丈夫ですよ。俺が後片付けもやるんで……今日一日中体調悪そうでしたね。熱とかはどうなんです?薬は飲みましたか?」

よくもまぁこんな矢次にねぎらいの言葉を投げかけられるものだ。むしろ感心してしまう。雨の日はこめかみも痛むが、何より利き手が疼くのがよろしくない。気を抜けば隠し持っているナイフを握り込んで彼の眉間に突き刺してしまいそうだ。衝動に耐えながら貧乏ゆすりをしていると、ふわりと優しい匂いが鼻腔をくすぐった。ふと目線を動かすと、白いマグカップから湯気が揺らめている光景が目に入る。嗅いでみるとそれの正体が分かる。生姜と、はちみつだろうか。そういえば昼間から何も食べていない。

「これ、君が作ったのか」
「はい!ハチミツティーです。ショウガも入ってるんで、身体もあったまるかと思いますよ」

差し出されたそれを反射的にとる。嗅ぐ。毒は入っていなさそうだ。昔の癖ですべての食べ物に対して鼻を鳴らさずにはいられない。じんわりと掌から紅茶の温もりが伝わってくる。

「簡単なものですけど、ないよりマシかなって」

そういってはにかむ陽蜜君を黙って見つめた。敵意もなさそうだ。彼を雇ってからしばらく経つが、本当に喜怒哀楽がしっかりとしている子だと思う。羨ましい。暗部で人の心を落としてきてしまった自分とは正反対の好青年だ。よく働いてくれるし、こうして気も配れる。こんな廃れた店なんかじゃなくても、どこでもやれるだろうに。

カップの淵に口を寄せ、ゆっくりとあおる。胃に優しい味が食道を通っていくのが分かる。空っぽだった胃袋が満足げに頷いたのを感じ取る。

「うん。美味い」
「本当ですか!!」

はちみつの甘みが添えられているお陰で、なんとかその味をすくいとることに成功した。そうつぶやくと、陽蜜君は花が開いたように頬をほころばせる。ほころばせる、というより全力笑顔といったほうが例えるなら正しい。彼の髪の毛から犬の耳が映えたかのように錯覚を起こす。うん、まぁ喜んでくれたならよかった。

しかし、彼にこの前の仕事を見られたかな。ここを嗅ぎ取った組織の追手を始末した昨日の夜を思い出す。あの日は月がない、静かな夜だったから、目立ってしまったのかもしれない。あの現場に、恐らく彼は出くわした。何を見たのかまでは分からない。まぁ、その時はいつも通り殺せばいいか。彼には大変よくしてもらったから、せめて苦しまないように一撃で刺殺してあげよう。この紅茶のお礼だ。