小話倉庫(深上)
2025-11-04 23:30:54
4902文字
Public 悠アキ/haruwise
 

鼻腔を蕩かす(悠アキ/haruwise)

頂いたタイトルで書きました第三弾。
猫と仲良くなりたい悠真。澄輝坪のモブの会話でなんかこんな商品があった気がする。

 どうにか仲良くなれないだろうか――残業後の深夜帰宅を果たし、シャワーを浴びてしっかりと乾かし、毎日服薬する薬も忘れずに飲み、あとは寝るだけという状態でベッドに転がった悠真は、スマホを操作しながら悶々と考えていた。
 体も頭も疲れていて気力はゼロに近いのに、つい考えてしまうのは六分街でビデオ屋を営むアキラ――のところにいる、愛らしくて凛とした黒猫のことだ。
 悠真が頻繁にビデオ屋にお邪魔するようになって随分経つというのに、あの子にだけは距離を取られているような気がする。恋仲になったアキラとの心の距離をゼロだとするなら、クロとは数メートル以上というか。しかし嫌われているという感じでもなく、同じ部屋にいてもすぐに出て行くことはない。少し離れたところからじっと見つめてくるのに、こちらが視線を向けた途端ふいっと離れる姿を見送ったのは数え切れない。元々の性格がクールな子なのかと思えば、常連客には気紛れにからかいに行くこともあるらしい。
 アキラとリンにべったりということもないが、彼らには大人しく撫でられているのをよく目にする。しかし、それもまた当然と言えば当然だ。彼らはクロのことをペットというよりは家族のように扱う。アキラが店で寛ぐクロに触れようとする時も「撫でてもいいかい?」と断りを一つ入れているし、眠っている時は手を出さないという暗黙のルールがあるようだ。その距離感がクロにとっても心地よいのかもしれないが、そんな黒猫と仲良くなるにはどうするのがベストなのだろう。
 むー、と睨みつけるスマホには、猫の撫で方のレクチャー動画が流れている。ネットに頼るのも負けた気分にはなるが、背に腹は代えられない。動画に釘付けでなかなか寝ようとしない主人のもとに家で飼っている猫がやってきて、おもむろに悠真の腕を踏み始めた。柔らかい肉球にふわふわと眠気が湧いてきて、猫の背中を緩く撫でながら悠真は諦めてスマホを閉じようとした。その時。
「あ……これは、いい、かも……?」
 画面の下の方に流れてきた広告に目を留める。紹介されていた商品をじっと見つめ、悪魔の囁きに負けるように広告バナーをクリックする。そこに紹介されている文章を上から下までじっくりと読み込んだ悠真は、一度そのページを閉じ、別の通販サイトでその商品を探し始めた。見つけた商品の口コミをじっくりと読み込む。
 期待に胸を膨らませながら、注文ボタンをクリックする。こういう物を使うのは卑怯かもしれないが、やはりアキラの家の子とはどうしても仲良くなりたい。
「届いたら、あんたにも試してみようかな」
 腕に触れる温もりに向けてそんな言葉を吐くと、それを不穏だと受け取ったのか、おとなしく撫でられていた猫は主人の手をすり抜けてベッドから降り立った。もはや何の興味も失ってしまったかのように飼い主には目もくれず、少しだけ開いた扉の隙間にするりと体を滑り込ませ、悠真の前から姿を消してしまう。
 それを残念に思うこともなく、悠真は注文完了画面を見る。届くのは三日後。そして久し振りにアキラの家に行く約束をしたのは四日後。悠真の非番の日だ。
 ちょうどいい、と口元に笑みを浮かばせた悠真は、さすがにそろそろ寝るべきだと判断し、高鳴る胸を抑えつつ布団に潜り込んで目を閉じた。

  *

 約束通り家に遊びに来た悠真に、ビデオ屋の対応をしているので上で待っていてくれと伝えると、彼は勝手知ったる人の家とばかりに戸惑うこともなく軽い足取りで階段を上がっていった。
 何やら今日は機嫌が良さそうだ。何かあったのだろうかと首を傾げながら、アキラは珍しく忙しい店内の対応に追われる。アンビーが映画好きの知り合いを連れて来てくれたのだが、さすが映画に精通しているだけあって問い合わせを受けるビデオが店頭には出していない希少なものばかりなのだ。しかしこちらもビデオ屋の端くれ、まさか出せないと音を上げるわけにもいかず、裏の倉庫をくまなく探して彼らの要望通りのものを渡すことができた。
 段ボールを手当たり次第に漁ったり、高いところのものを何度も取ったりと捜索は困難を極めたが、店長としての責務を無事に果たせてやれやれと肩を落としたところで悠真の存在を思い出す。仕事があったので仕方がないが、折角休暇を恋人と過ごすために来てくれた彼を待たせるのはよろしくない。何より自分がしたくない。店のことは賢いボンプたちに任せて小走りで階段を駆け上がり、少し息を切らせながらアキラは自室のドアを開け――衝撃の光景を目撃した。
 あの、クロが。
 孤高でプライドが高く、時々仕方ないなぁとまんざらでもなさそうにアキラやリンにだけは柔らかい毛並みを撫でさせてくれる、うちの可愛いクロが。
 我を忘れたように、無心に悠真の手をペロペロと舐めているではないか。
 どちらにとは言わないが、裏切られた気持ちになってふらりと体が傾きそうになった。アキラが絶句している間にも目の前の光景は変わらなかったが、部屋の主がやっと来たことに気付いた悠真が顔を上げ、「店の方はもういいの?」とごく自然に尋ねてきた。
「あ、ああ。だいぶお客さんも落ち着いたからね」
「そっか、よかった。折角アキラくんに会いに来たのに、一緒にいられないのは残念すぎるし」
……その割には、楽しそうだね?」
 つい溢れてしまった棘を含む声に、悠真は目を瞬かせた。それから体を震わせて、くっと喉を鳴らす。
「嫉妬?」
「しっ……!?」
「あんた、めずらしー顔してるよ。拗ねてるみたいな感じ」
 ふふっと愉快げに笑う悠真を見て、アキラは頭を働かせる。クロは悠真に対して常に距離感を保って接していた。家族と同じくらいこの家で過ごす悠真を、それでもアキラやリンと同列だとは思っていなかったのか、まだ見極めていたのかは分からない。それが今日になって急接近。クロの心変わりを疑うより、悠真が何か仕込んだと考えた方が理に適っている。
 その冷静な分析とは別に、自分にも滅多にここまで甘えてこないクロが、悠真に対してでれでれになっているのを見るのはやはり面白くはない。これは飼い主としての矜持である。じとっと悠真を見つめて、アキラは静かに口を開いた。
……確かに、冷静に考えてみればこれは嫉妬かもしれない。うちのクロをここまで懐柔するなんて、いったいどんな手品を使ったんたい?」
「気になる?」
「そう言うってことは、やはり何かタネがあるんだな」
 アキラの指摘に肩をすくめた悠真は、私服の上着のポケットから何かを取り出した。小さなスプレーボトルのようだ。首を傾げるアキラの前で、クロだけが敏感に反応する。がばりと顔を上げると、にゃーにゃーと甘えたような声を上げて悠真の手にするボトルに手を伸ばそうとする。
「あ、こら、クロ。危ないから」
 ひょいっとクロの手から逃れて、悠真は腕を高く上に伸ばしてボトルから遠ざけた。それをアキラが横から取り上げる。あ、という間抜けな声に構わずボトルに書かれた文字を読んでみる。
……マタタビスプレー。クールな猫ちゃんもこれでイチコロ……?」
「あは、あっさりバレちゃった」
 笑う悠真の手をよく見ると、クロに舐められすぎて赤くなっている。それでもクロを好きにさせている辺りは、さすが猫好きと言うべきか。
「つまり媚薬だな」
「人聞きの悪い。賄賂だよ」
「どっちもどっちじゃないか」
「違うね。僕はただ、この子と仲良くなるための贈り物をしたかっただけだから」
 しれっと言い放つ悠真から、アキラはクロを抱き上げて無理矢理引き剥がす。んなぅ! と抗議の鳴き声を食らっても構わず、つぶらな双眸を真っ直ぐに見つめてアキラは低い声で告げる。
「こんなもので、君の理性は失われるのかい? 君はもっと思慮深い子だと思っていたのだけれどね」
 自分のためだけではなく仲間のために食べ物をねだっていた、まだ野良猫だった頃のことを思い出す。少しずつ距離を縮めてようやく心を開いてくれたクロを、アキラもリンもなるべく自由にさせてきた。クロとペットではなく、家族として共にいるために。横からぽっと出て来た男(まぁアキラの恋人であるのだが)に簡単に懐柔されるほど、飼い慣らしたつもりはない。
 アキラの妙な圧力に負けたのか、にゃ……と小さく反省したように鳴いたクロを床に下ろす。クロは悠真の方を気にしつつも、アキラの視線に従うように大人しく部屋を出ていった。まったく、と思いながら扉を閉めて、猫を惑わす魔性の薬との繋がりを絶つ。一部始終を見守っていた悠真は、クロの姿が見えなくなると「あーあ」と残念そうに零した。
「冷たい飼い主だなぁ、アキラくんは」
「しつけは大事なんだよ。うちの可愛い子に妙な物を与えないでくれ。クセになったらどうしてくれるんだ」
「妙じゃないって。ほら、ちゃんとよく知るメーカーのやつでしょ?」
 ボトルに記載されている販売会社の名前を見て、アキラはむうと唸る。
「ここ、エナドリとか作ってる会社じゃなかったかな?」
「ペット向けのものも売り出してるみたいだよ。僕も調べて初めて知ったけど」
 ボトルを悠真に返しながら、アキラは彼の隣に腰掛けた。すると彼は、クロに舐められていた方とは逆の手にぷしゅっと液体を振りかけ、悪巧みをするような笑みを浮かべながらアキラに差し出してきた。
「嗅いでみる? 飼い主のお許しが必要らしいし、どんなものか確認はしとくべきじゃないかな」
……また使うつもりなのか」
「状況によりけり、かなぁ。やっぱりさ、あんたの家族とは仲良くなりたいから」
「クロは君のことを嫌いなわけでも、避けているわけでもないと思うけどね」
 そうかなぁ、と首を傾げる悠真の手を取り、自分の鼻に近付ける。すん、と鼻を鳴らすと、どことなく花のような香りが漂ってきた。すー、とたっぷりとその香りを吸い込んで、はぁと息を零す。例えるなら、薔薇の香りに近いかもしれない。だがやはり妙に気持ちが昂るということはなく、人間にマタタビは効かないらしいことを改めて知る。クロと同じ感覚を掴めないことに少しだけ残念な心地で顔を上げると、悠真はなぜかほんのりと顔を赤くして、こくんと喉を鳴らしていた。
「どうかしたのかい?」
「いや……なんか、蠱惑的だなぁって……
「こわ……?」
「あんたが僕の手を嗅いでるのを見てたら、なーんかいけない気持ちになっちゃったと言いますか……
 目を逸らして気まずそうな顔をする悠真に、何を想像してるんだ、と心底呆れる。しかしすぐに、悪戯心が顔を出した。うちの可愛い子を懐柔しようとした彼にお灸を据えるチャンスなのでは、と。
 彼の指に自分の指を絡めて、再び顔を近付ける。横から動揺する気配がしたが気にせず、手の甲にそろりと舌を這わせる。先ほどクロが夢中になっていたようにペロペロと舐め取ってから、彼の指の先を喰む。爪の形をなぞるように舌の先で押したり、甘噛みをしたりとしっかり堪能してから解放してやると、もう片方の手で顔を押さえて指の隙間から鋭い視線を向けてくる悠真の姿があった。
……あんた、ほんとにマタタビが効いたとかじゃないよね?」
「ふふ。君の期待にお応えして、にゃー、とでも言ってみようか」
「僕がそれを望んだって? っはー……ほんっと、たちが悪いよねぇ……!」
 ぐい、と繋いだ手を引かれて距離が縮まる。紅潮する頬と、ギラギラと燃え滾るような瞳が見えて、ごく、と知らず喉が鳴る。
 どうやら自分の行動は、約一週間ぶりに会えた恋人の中にある何かを刺激したらしい。
 顔を近付けてきたので、自然と目を閉じて受け入れる態勢を作る。重なる熱と同時に漂ってきたのは、香水混じりの彼の匂い。
 ――ああ、マタタビなんか必要ない。この匂いだけで、自分を蕩かすには十分だ。
 次第に深くなる口付けに酔いしれる様に、そしてもっとと強請るように、アキラは悠真の首元にそっと両腕を回した。