織音
2025-11-04 20:41:27
2163文字
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記憶のタナトフォビア

『忘れること=記憶の死ならば、いつか忘れた記憶たちも、忘れられることを酷く恐れていたのだろうか』
戦闘の外傷の影響で長期記憶を保てなくなってしまった指揮官とリーのお話。
もうちょっとなにか書けそうな予感がしている。

 今、貴方は何を覚えていますか。
 忘れたくないと、ノートにペンを走らせる指揮官の横顔を眺めながら思う。
 きっとこうやって忘れたくないとひとつのことを記し、留めている間にも貴方の記憶から様々なものが抜け落ちて、錆び付いているのだろう。そしてその錆は全てを覆い隠し、本来の姿がわからなくなるように、最後には何かを忘れてしまったことすらも忘れてしまうのだろう。
『毎日、朝起きる度に……自分じゃなくなっていく気がする』
 白い朝の光に染まったレースカーテンとその言葉がまだ意識海の表層で揺れている。
 感情を押し殺した悲しげな笑顔の奥で揺れる恐怖には疾うに気がついていた。指揮官も見透かされていることを知っていて、それでも笑ったのはこれ以上心配をかけたくないという指揮官なりの優しさなのだろう。
 ――失ったものの正体すら判然としないこと、それは貴方にとってどれほど怖いことなのだろうか。
 忘却とは本来、逃れられない人の理だ。本来ならば何かを忘れたことを忘れてしまったこと、それは恐怖に感じることすらないはずで。
 そんな思考の隙間、不意にペンが紙の上を走る音が消える。指揮官が顔を上げた。その唇は、震えている。
「違う、これじゃ、なくて……
 震えた唇から掠れた声が落ちた。漠然と彼の瞳の奥で揺れていた恐怖が溢れ出すように、落ちていく透明が落日の光を散らす。
…………あれ」
 くしゃりと軽い音と共に紙を握った指先が、荒く削った鉱石のように角張った形を生んだ。
…………あ、れ……?」
 落ちた透明が黒いインクと紙の境界線を溶かして、滲む。
「ッ、なんだっけ……
 指揮官の白い手からペンが音を立てて滑り落ちる。それが机の上を転がって、硬質な床の上で悲鳴を上げる。
――ぁ」
 ひゅ、と風の鳴るような音がして、指揮官の体が僅かに傾く。
「指揮官」
 ぎし、と不穏な音を立てた椅子から落ちてしまう前に支えるように手を添えて、空いた方の手で何かを記すことを忘れた彼の右手をそっと包んだ。機械の肌に宿る低い体温が現に引き戻したらしい。震えた瞼が眦に溜まっていた透明を散らし、こちらを見る瞳に揺らいだ恐怖が融解するようにふたつ、再び溢れた透明が引力に沿って落下する。
…………、リー……っ」
 握り返されないままの指先は、酷く冷えていた。
 はい、と返事をして機械の指が流れ落ちた透明を掬うように眦に触れる。
……こわいんだ」
 怖いと言いながらも無理に持ち上げられた口角に、「大丈夫」なんて言葉は伝えないままに急速に色褪せて枯れていく。記憶が死んでいく恐怖など、きっと当事者とならない限り理解し得ない。そんな痛みを知らないのに、「大丈夫」などどうして伝うことができよう?
「もうすぐ『自分』が死んでしまうことも、君のことを忘れてしまうのも、全部こわい」
 完全な死ではないにしろ、自分が生きた足跡たる記憶も大切な存在のことも何もかも、生きたまま失う恐怖。そしてやがては自分という存在の輪郭さえも生きたままに失って、忘れることを恐れたことも残らない。
「君のこと、置いて消えるのは、いや、だなぁ……
 『自分」という存在が明日にも消えてしまうかもしれない、不可視なまま迫り来るタイムリミットを恐れるのは酷く死を恐れる――タナトフォビアにも似ていて。
「忘れていって、ごめんね」
 ああ、どうして謝るのだろう。疾うに癒えた傷の形を覚えていないように、忘却は人間が人間である限り逃れられぬ必然だというのに。
「謝らないでください、指揮官」
 忘れられることに何も思わないかと問われれば、否。誰だろうと悲しいはずだ、大切な人の中で息をしている自分が消えてしまうというのは。それでも時に、逃れられない事は訪れる。今、指揮官の記憶を失っていくことを止められないように。
 苦しげに笑ったままの指揮官を抱きしめた。香水や硝煙に邪魔されない、何の加工も無い貴方の匂い。『指揮官』が消えても残り続けるものの一つを感じながら、僕は言葉を紡ぐ。
「僕は、忘れませんから」
 例えば、明日。今、此処にいる『貴方』が触れられぬ幻のように消えてしまったとして。貴方と交わした言葉も約束も消えることなどない。貴方がくれた光が、生かしてくれた心が、確かめさせてくれた現実がずっと、此処に在る。
……僕が覚えていますから。貴方の代わりに、ずっと」
 貴方が忘れたことを、忘れたくないと願ったことを、貴方が確かに存在したことを僕が覚えている。跡形もなく消えた傷の形も、ふたりで願いを込めて歩いてきた日々もきっと、忘れなどしないだろう。
 その言葉を聞いてか、指揮官の冷えた指先が機械の手を握り返した。その力は酷く弱いのに、今、確かに此処にいるのだと伝えるような不思議な強さを感じさせた。
 指揮官の傷跡が彩った白い手の輪郭をなぞりながら、構造体は構造体は目を閉じる。そしてどうか、と普遍的な祈りの言葉を心の奥で唱え、普遍的でない痛みを抱えた愛しい人の傍で願う。
 貴方が受け入れられなくなっていく明日がまだ遠く、時間が風化させて砂と散る過去が未だ、此処に在るように。そんな叶わないことを祈り願う僕たちは、きっと同じ哀しみの中で呼吸をしている。