ssblast_is
2025-11-02 23:08:47
11229文字
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この手の中に

とどち。とどちわ2記念の新作です。片想いからのくっつくとどち。
11/3 8時 完成しました!!



あぁ、逃がせないなと思った。
思い返せば逃げることの多い人生だったけれど、逃げたいでも逃げたくないでもなく、逃がせないと思ったのは初めてだ。
交換だと勝手に差し出されたコンビニの肉まん。了承していないと言葉にする前に、千早に向けられた緩んだ眼尻に胸の奥がどうにも締め付けられて言葉が出なかった。
「はは……
「何笑ってんだよ」
「いえ、饅頭部分の柔らかさや食感を追求した企業の努力を無為にする藤堂くんの力強い千切り方に関心していただけです」
「んだよ、お前の方はできるだけ力入れないようにしたっつーの」
だからですよ。
素手で触ってしまわないように包み紙の上から割ったせいでアンバランスに割れやや潰れた饅頭の方を、当然とばかりに自分の食べる分にして、紙の中に収まっている方を千早に渡す。藤堂葵という男はそういう人間である。
何かを分けるならいつだって綺麗な方を他人に渡すし、ついでの範囲を超えて他人に渡す分の間食用おにぎりを用意してくる。
この男が持ちうるそういった優しさを、善性を、他に向けて欲しくないと思ってしまった。ただの一つだって逃したくないと思った。
高いところにある顔を見ては呆れ以外の感情が混ざった溜め息を吐く。
同じように二つに割ったピザまんの紙に包まれた方を渡すと、感謝の言葉と同時にすぐに齧り付くところなんて全然千早の好みではない。
所々皮膚が硬くなった掌とかさついた指先。筋肉質で全く柔らかみのない脚と二の腕。笑うと大きく開かれる口と三白眼気味の瞳。
ぼんやりと描いていた理想の彼女像とやらには一ミリだって掠っていない。そもそも彼女ではなく彼だし。
肌や髪のケアはしっかりしていて、笑う時は口元に手を添えて控えめに微笑む。そんな女性を思い浮かべていたはずが、どうしてこうなってしまったのか。
自分でも理解不能で分析不可。理論も理屈も通用しない。恋とはするものではなく落ちるものだというが、落ちた先がこんなどろどろした沼だとは知らなかった。
もがけばもがくほど沈んでいく底なし沼。藤堂の一挙手一投足に浮かれては落ち込んで、傷つく前に逃げる方が性にあっているのに頭まで沈みきってもう手遅れだ。
「やっぱ両方食えるっていいよな」
「君が勝手に交換してきただけですけど」
「じゃあ返せよ俺の肉まん」
「俺のピザまんはどうやって返す気ですか?」
自分が買った物よりも先にピザまんを食べ終えてしまった藤堂に、まだ口をつけていない肉まんを突き出して脅迫する。返してもらう気も返す気も毛頭ない癖に、こういうポーズを取ることだけは慣れているのだ。気取られないように。悟られないように。逃がせないなんて思っているのに、どう捉えるかなんてことは考えられずにいる臆病さに勘付かれないように。
藤堂という男の勘の鋭さはピカイチだと知っているから。
「ゲロでいいなら」
……最低ですね」
でも同じくらい頭が悪いことも知っている。記憶力だって良い方ではない。
だから去年の今頃も同じようなやりとりをしたことなんて、きっと、藤堂は覚えていない。


小手指高校に監督がやって来てから早数カ月、初めて迎えた冬。バッティングやプレースタイルについて監督と話をした。
この季節は陽が落ちるのも早く、ナイター設備も禄にない都立高校では自主練ができる時間なんてほとんど取れない。闇に紛れるようにして、未だ揺れる自分の気持ちに少しだけだからなんて、ダサい言い訳をしていつもと違うフォームで素振りをする。そして山田や監督の終わりを告げる声にどこか安心して、何事もなかったかのように帰路に着く。
そんな日々が続いた時のことだった。
「コンビニ寄ってこうぜ」
相も変わらず腹が減ったと腹部を擦る藤堂がラーメンではなく他の選択肢を出してきた。
珍しい提案に雨でも降りそうと言いかけて、千早はその言葉を飲み込んだ。ただでさえ練習時間が短いのに雨にまで振られたらグラウンドが使えなくなってしまう。藤堂からしても特に意図はないのだろう。部活に明け暮れバイトもできない学生の身分で毎度毎度外食なんてしていられない。ただそれだけのことだろう。
レジ横のケースに鎮座した様々な饅頭たち。上段に目立つように置かれた水色の饅頭はゲームのキャラクターを模しているらしい。要が喜んで選びそうだと思いながら、気づけば千早の指はあんまんを指していた。最初は選択肢にもなかったのにどうしてだろう。
暖かい店内から一歩出ると寒風が吹いて千早の髪を揺らす。横には同じように白い物体を持った藤堂がいて、何を買ったのかと問われた。
「あんまん……です」
ぱくり。熱い餡に口内が驚きながらも、甘さがゆっくりと脳に沁み入る。空腹が満たされることよりも先に糖分の摂取を身体が喜んでいることで、千早は初めて自分が疲れているのだと気付いた。おかしいな。ちゃんと栄養も睡眠も摂るように心がけているのに。
「じゃあ交換しようぜ。俺肉まんにしたから」
「ちょっと、俺もう口つけちゃったんですけど」
「あ?んなの反対側ちぎればいいだろ」
「えぇ……
有無を言わせず自分の饅頭を半分に割り、包装紙に包まれた方を千早に差し出す。この男は千早が受け取るまで腕を引っ込めない。そういう人間だ。
だから仕方なくあんまんの下側を千切って藤堂の物と交換した。
二つを入れ替える瞬間、寒さで冷えた藤堂の指先に触れて、心臓が跳ねる。
「っ、」
「ん?」
……はぁぁー」
「え。何そのクソデカ溜め息」
「俺は藤堂くんと違って誰かと何かを交換したいという観念を持っていないですし、自分の食べたい物をじっくり食べたい派の人間なんですよね」
「へいへいソーデスカ」
溜め息と悪態を吐いて、不自然に固まってしまわないようにどうにかして取り繕うのが精一杯。野球含めて藤堂の手に触ったことなんて何度もあるのに今更どうして。疲労による脳の誤作動、もしくは心拍の乱れ。重篤な問題なんかじゃないと目を逸らしながら右手に持ったあんまんに噛みつく。
もったりとしたこし餡とふかふかの饅頭を折角だから味わうつもりだったのに。それどころではなく必死に自身を落ち着けている千早のことなど知らない男は呑気に肉まんとあんまんを交互に食べている。
「両方食えるっていいよな」
「藤堂君が勝手に交換してきただけですけど」
「じゃあ返せよ俺の肉まん」
千早の左手に持たれたまま口をつけられていない肉まんを指さして眉根を寄せた。別に食べる必要もないし、特段食べたい訳でもない。けれど藤堂と分けあったものを返せと言われると何だか胸の内が痛んだ。
だから、肉まんに齧りついてやった。もう返せとは言えないくらい大きく。煽るように横目で藤堂を見てから、細かく刻まれた具材が詰まった饅頭を咀嚼する。甘味の次の塩味はとりわけ美味しく感じた。
「ま、何でもいーわ。お前が元気出たんなら」
…………は?」
何を言っているのだこの男は。まるで千早に元気がなかったかのような。そんなことはないと反論に浮かんだ瞬間、先程自分が疲れていたことに気が付いていなかったことを思い出す。
「最近難しい顔して練習の終わり際に暗いとこでバット振ってよぉ」
けれど藤堂は気付いていた。千早が疲れていたことにも、わざわざ暗がりを選んでいたことにも。それこそ当の監督にもまだきちんとした返事をしていないからこそ、目立たない所で少しの時間だけ練習していたのに。
何のことですかね、といつもの口調でとぼけようにも千早の口の中は肉まんで埋まっていて情けない呻き声だけが零れ落ちる。
「お前のことだから理論だとか理屈だとか色々考えてんだろうけど……結局、最後はここよ」
自分の胸部分を叩いてドヤ顔をする藤堂は、もうすっかり肉まんもあんまんも食べ終わっていた。
「気持ちの問題ってやつ」
……頑張るだけじゃ駄目だって、俺前も言いましたよね」
「気持ちと頑張るのは違えだろ。だから悩んでんじゃねえの」
「何の、こと……ですかね…………
今度こそ言葉にできたのに、こんな言い方じゃ何かありましたと言わんばかりだ。みっともない。
「最後はてめぇがどうしたいかだろ」
何のことか具体的には知らねぇけど。
教えて欲しい訳では無い、聞く気も特に無いと言外に伝えるように藤堂は空っぽになった手をひらりと振った。
千早の好きにすればいいとそっと背中を押してくれている。
ああ、駄目だ。参った。今、はっきりと自覚した。藤堂の事が好きだと。そして、憧れと向き合いたいと願った自分がいることを。
…………これだから気持ちだとか勘だとかで生きてる人間は困りますね」
「嫌味言わないと生きていけない人間に言われたくねぇな」



「はぁ……
「んだよ、その馬鹿にしたような溜め息はよォ!」
こうして溜め息と悪態を吐かないと、本当にやってられない。あの日から今日まであっという間の日々だった。
走って、笑って、投げて、泣いて、打って、苦しんで、また笑った。
野球に関して前に進めていても、藤堂との関係は何も変わらない。このままの速度で世界が進むのならば瞬きの間に来年になって、その頃には千早も藤堂も進路を決めている時期だ。プロになるにしろ進学をするにしろ一応部活は引退という形になるし、二人で並んで帰路についているかも分からない。
藤堂の投げる球の軌道はいくらでも予測できるのに、野球を間に挟まなくなると途端に未来が見えなくなる。
正確には考えるのが怖くて思考を止めてしまう。藤堂は千早のことを友達だと思ってくれてはいるだろうし、真剣に告白をしたのならばそれを揶揄するような人間ではない。しかし藤堂は千早のことが好きなのか。友達ではなく、そういう対象として。
告白して関係が壊れるくらいならいっそ友達でいた方が近くにいられる。これが逃げなのか打算なのか判断もつかないくらいに藤堂のことが好きだ。
「いや、ほんとに、馬鹿だなぁと思いまして」
逃がしたくないのなら捕まえるしかない。でも勝算があるとは思えなかった。分の悪い賭けは嫌いだ。
「喧嘩なら買うぞコラ」
「高値で買取してくれるなら考えますけど、藤堂くんに俺の喧嘩の価値が分かるのか疑問ですねえ」
「あァ?喧嘩に高いも安いもねーだろ」
「ありますよ。いつ、どこで、誰に、どうやって売るか。それが分からないのなら喧嘩買取の看板は下げたほうがいい。じゃないと」
「ねぇと?」
……厄介なのに売りつけられて支払えなくなるかもしれませんよ」
藤堂が買取できないほどの売りつけ方をして雁字搦めにしてしまおうかと考える人間が現にここにいる。
「んな小難しいこと考えて喧嘩売るやつなんているかよ。俺が勝てそれにばいいだけだろ」
「だから勝てないようにされたらどうするんですかって話ですよ」
もっと警戒心を持て。千早以外にも計算高い人間はこの世にごまんといるのだ。
「あー?めんどくせえな。……じゃあそん時は」
「その時は?」
「千早にどうにかしてもらうわ。お前頭良いし口は達者だし」
にやりと口の端を釣り上げて藤堂が笑う。本人からすればなんてことない軽口の一つで、そこに意味なんて無い。
たまたま千早が隣りにいるからそう言っているだけで、きっと状況が違えば例に出す相手は変わるに決まっている。そうであってくれ。
大きく脈打った心臓のせいで二の句が告げなくなったことを誤魔化すようにピザまんを口にする。
ケチャップの味も溶けたチーズの感触も分からないまま、ただただ顎を動かす。
できるだけ平静を取り繕おうとしている千早に対して、藤堂は返事が無いことを特に気にしていないらしい。食べ終わって空になった両手を頭の後ろで組んでいる。
良かったと安堵しながら咀嚼した塊を飲み込んだ刹那。
ぽつり。ぽつ、ぽつ。
「うわ!降ってきた!」
小雨か、走って帰ればあまり濡れずに済むだろうか。などと考える暇もないほど一気に強まる雨脚。
「さむ……!」
「やべぇって!」
天から降り注ぐ針のような冷たさにたまらず二人で駆け出した。ガチャガチャとエナメルバッグの中身が揺れ、水を吸い始めたコートがどんどん重たくなっていく。
雨宿りをしようにもコンビニはとうに通り過ぎてしまったし、目ぼしい軒先はこの辺りにはない。それにこの時期寒さに震えながら雨が止むのを待つくらいなら、ずぶ濡れになってでも家に辿り着きすぐにでも暖を取った方が良いかもしれない。
走っているのに爪先からどんどん身体は冷えて、寒さと焦りで思考が鈍くなる。
だから、口にしてしまった。
「俺の家、来てください!」
藤堂と帰路が別れるのはもうすぐで、ここからなら千早の家の方が近い。合理的ではあるが不正解。
普通に自宅に帰った方が落ち着けるし、もしも雨が止まなかったらどうするのか。そもそも藤堂にも都合があるだろう。
冷静に考えればすぐに分かることなのに、藤堂をこの雨の中一人で帰したくない気持ちだけが先走った。
藤堂が一秒でも早く寒さから解放されて欲しい。風邪なんか引いて欲しくない。己の願望で間違いを口にした。
己への舌打ちを飲み込んで、やってきた分かれ道で先程の発言を撤回しようとしたのに。藤堂は何も言わずにそのまま千早の隣を走った。自分の家の方ではなく、千早の家に向けての道を。そうして一人で歩いている通学路に二人分の荒い吐息と雨音が響いた。



馬鹿で愚かで阿呆極まりない。千早自身も藤堂も。顎下までお湯に浸かりながら千早は目線を横に向けた。
濡れ鼠になりながらようやく辿り着いた自宅で、千早は予想だにしない出来事に襲われた。藤堂と二人で風呂に入る羽目になったのだ。
勢いで連れ帰ってきてしまったが、まず千早としては雨に濡れた藤堂を速攻で風呂に放り込む予定であった。練習後の汚物でもあるし綺麗になってくれるに越したことはない。そしてその間に自分は適当に着替えて服や靴を乾かそうと思っていた。なのに藤堂は、風邪をひくだの練習で見ているだのと言って半ば強引に千早を風呂に引きずり込んだのである。
「いいだろうが!」
「よくないです!!シャワーの使い方教えますから!勘弁してください!」
それなりに壁が厚いマンションでも隣に聞こえるのではというくらいの声で千早は叫んだ。抵抗した。他人と一緒に風呂に入ることも好きじゃない。何より好意を抱いている人物の全裸を見せられて何も感じないほど千早は枯れていない。本当に勘弁してくれ。
しかしそんな千早の拒否感をへし折ったのもまた藤堂である。びしょびしょになった玄関框の上で大きなくしゃみが一つ。
その瞬間千早は我に返った。何のために藤堂を連れ帰ってきたのか。ここで問答をして結局風邪をひかせたら意味がない。
……とりあえず着替えだけ取りに行かせてください」
仕方がないからここで折れてやる。あとくしゃみの仕方に品がないし汚い。そういう言葉を全部滅茶苦茶大きな溜め息の込めて吐き出してやった。まあ当の本人には一つも伝わっていないようで、風呂場でけーなどと言う声が聞こえてきたが。こうして千早は想い人と二人で浴槽に並ぶことになってしまったのであった。
恵まれた体躯ができるだけ視界に入らないように千早は何の飾りもない浴室の壁を見つめ続ける。
「別に二人で入らなくてもいいと思いますけど」
「この方がお湯の節約になんだろうが」
「うちの水道代心配してくれるなんて優しいですね」
正直な所今回の水道代と気まずさを天秤にかけれるのなら水道代を支払いたい。湯量の差なんてたかが知れたものを藤堂が気にするせいで、千早は心臓の鼓動が伝わってしまわないように、茹だりそうな頭を悟られないようにしければいけなくなっているのに。
部活の着替え時はさして考えたこともないのに、鍛えられた二の腕に抱きしめられたらと有りもしない想像をしてしまう。
「温まったんならさっさと全身洗って出てください」
「へいへい」
ざばり。音と比例するように波だった水面が僅かに縁を伝って流れ落ちる。他家の水道代を気にするならもっと丁寧に浴槽から上がれ。文句を言ってやりたり所だったが、何も隠すものがない藤堂の身体を直視する方が耐えられず千早は慌てて背を向けた。
「シャンプーとコンディショナーはそこの棚。ボディソープは白いボトルです」
……なんでお前後ろ向いてんの?」
「身体洗ってる所他人に見られたくないでしょうし、俺も見たくないです」
大柄の男が一人抜けて肩よりも下がった水位に合わせるようにずるずると沈みながら千早は答える。嘘は吐いていない。少し目に入った二の腕だけであれだ。自分よりも厚みのある胸筋だとかそれを支える腹筋群だとか引き締まりつつも重みのある下肢なんて物を間近で見てしまったら、いよいよ藤堂に顔向けできない妄想達が出てくるだろう。それでなくても、万が一があったら自分は抱かれる側の方がいいなんて考えたことがあるのに、
「俺は見たいけどな」
「は、ハァ!?何言ってるんですか!?」
後ろから飛んできたとんでもない発言に紫色の入浴剤に似た思考は突如霧散した。思わず振り返ると腕にボディソープの泡を乗せた状態で藤堂が固まっている。突っ込もうにも揚げ足を取ろうにも発言の意図が不明すぎる。それに何故藤堂の方が固まっているんだ。しかも、みるみるうちに耳まで真っ赤なっていくではないか。
「えっ、ちょ、どういう……!?」
からかえばいいのか心配をすればいいのかどうにも分からず困惑する千早に、ようやくフリーズが解けた藤堂が制するように手の平を向けた。
「ち、違う!!今のは!間違えただけで!」
「間違えたってなんです?何と間違えたんですかぁ?」
「別にッ!何ってーか、その……!俺は!断固として!!」
もごもごと口ごもり赤みが引かない顔を背けるらしくない藤堂の姿に千早の背中には正答の冷ややかなナイフが突き刺さった。
あぁ、なんだ。そういうことか。
「大丈夫ですよ。藤堂くんは女性が身体を洗う所を見るのが好きなんて誰にも言いません」
わざとらしく口元に手を当て目を弓なりにしならせれば目の前の男は途端に大声で騒ぎ出した。清峰兄から渡されてくる円盤にもよく女優のシャワーシーンは入っている。フェチまではいかなくてもそそられる人は多いだろう。
焦点をぼやかすように、瞳を閉じんばかりにもっとにっこりと笑ってやる。藤堂の姿が見えなくなるように。
「だぁから!違えって!」
「はいはい。どうせ俺が何も言わなくても清峰くんのお兄さんには伝わってるでしょう?」
実際去年辺りから千早には体格の良い男優や中性的な女性、もしくは男性同士の作品が渡されてきている。どこまでも見透かす神のような人だ。
「そういう事じゃねーんだって!分かれよ!!」
温まったはずの身体の芯が凍えるように冷え切って、湯船との温度差にくらくら目眩がする。必死に弁明する藤堂の声も頭に響いていらつくだけ。もういい。
……分かりましたから、さっさと洗ってください」
ドライヤー出しておきましたからちゃんと髪の毛も乾かして。
そう言って再び背を向けた千早に藤堂が何かを言いかけた気がしたが、滴り落ちた水滴の音で何も聞こえはしなかった。


「何やってるんですか」
風呂から上がり、様々な用をこなした千早を待っていたのはドライヤーを手にした藤堂だった。いつでも使えるようにコンセントに挿して、床に座って千早を待ち構えている。本当に何をしているのだこの男は。
先程は変な感じに会話を終わらせてしまった自覚があるし、雨は未だに降り続いたままで今晩は泊めた方がいいなと千早は気不味くなっているところだというのに。せめて平常なフリができるようにとすぐに自室に戻らず、回しておいた洗濯機から二人分の制服を干し、ローファーに新聞紙を詰め、濡れた鞄と家の廊下を拭く仕事を終えた。洗える仕様の制服万歳。コート共々浴室乾燥にかけてきたから明日の登校には間に合うはず。
そう、こういった細々とした作業は落ち込んでいる千早の心に大層優しかった。逃がせないと、逃がしたくないと改めて自覚してから数刻もしないうちに想い人から対象外だと言われたのだ。今こうして藤堂と相対しているだけでも褒めて欲しい。
「ここ、座れって」
「いいですよ、もう乾いてきてますし」
「いーから」
「えぇ……部屋で乾かすと毛が散らばるから嫌です……
脱衣所にドライヤーが無いなとは思ったが髪を乾かせないことよりも藤堂に訪ねに行く方が嫌でしっかりタオルドライをした。実際、部屋に戻るまでの時間で毛先部分はほぼ乾いてきている。それに本当に自室に髪の毛が散るから嫌だ。
「うるせぇ座れ」
どうして藤堂が千早の髪を乾かしたがるのか、なんでこんなに偉そうにされなければならないのかも、何もかも意味が分からない。もしかして性癖の話の口止め料になるとでも思っているのだろうか。残念ながらそれは叶わない。いつか笑って口にできる日が来たら要にでもバラして揶揄してやろうと思っている。
「何を必死になってるか知りませんけど藤堂くんの思ってるようにはなりませんよ」
「あーもー!……頼むから、せめて座ってくれ」
胡座をかいたままではあるが遂に頭を下げた藤堂の姿を見て千早は渋々座ることにした。惚れた弱みというやつだろうか。正直、対面で藤堂の顔を見て話せるメンタルではないので藤堂の提案に乗ることにする。
……そんなにやりたいならいいですよ。髪、乾かしても」
「マジか!」
喜ぶ藤堂の声を背に千早はそっと目を閉じた。雨音をかき消してドライヤーが唸りをあげる。
「引っかかって痛かったりしたら殴りますけど」
でもきっと藤堂は痛くしたりなどしない。妹の髪を乾かしてあげることもあると聞くし、そうでなくとも丁寧にするのだろうと分かる。他人が大切にしている物を無下に扱うことはしない。だって藤堂葵という男はそういう人間だから。
無骨な指がそっと後頭部の根本を一束掬い上げる。それだけで消沈したはずの心が浮足立つ。髪を梳く指先が気持ち良くて胸の内が暖かい物で溢れる。目を閉じているからこそはっきりと分かる手指の感触をずっと、覚えていたい。
けれどこの手は千早の物じゃない。いつかこうして千早以外の誰かに優しく触れる未来があるのだ。
「熱くねえ?」
……だいじょぶ、です」
声を出して初めて、自分が泣きそうになっていることに気が付く。やっぱり誰にもこの優しさを向けてほしくない。叶わないと背中から突き刺されたばかりなのにそう願ってしまう。追いつける物ならばこの脚で追いかけて逃さないのに、最初から勝負もされていないのならばどうしようもないじゃないか。
行き場のない気持ちを騒音に紛れ込ませたのに勘の良い男は聞き逃してくれない。
「お前、どうしたんだよ」
「どうもしてません」
「嘘つけ」
「元々嘘吐きですよ、俺は」
野球のことは本音でぶつかれるようになっただけで、生活において嘘を吐かなくなった訳じゃない。分の悪い賭けだって嫌いなままだ。
…………さっきのだけどよ」
「その話まだ蒸し返します?」
背中を突き刺さされた傷は癒えるどころかまだ抉られるらしい。そんな心中も知らずに一束一束丁寧に乾かされた千早の髪が揺れる。次は横の毛を乾かすようで、触れられた耳が熱い。熱いのと冷たいのばっかりだな、今日は。
「キモかったら悪い、あれはよ、」
「もう充分キモいんで大丈夫ですよ」
「だァー!!聞け!!」
勘が良いならどうして聞きたくないと抵抗していることを何故察してくれないのだろうか。
「あれは!お前だから見たいって意味なんだよ!」
「はい?」
千早だから見たいとは。千早の身体が見たいという意味がわからない。野球選手として小柄な方ではあるが二次元のように何か目立つ特徴がある訳でもないそこら辺にいるただの人間である。
「藤堂くんは人体の構造に興味があるんですか?生物の授業寝てるくせに」
後ろにいた藤堂が前に回り込んでやや赤くなった頬と焦った顔が視界に広がる。
「うっせぇな!好きな奴の裸は見たいだろってことだ、分かれよ!」
好きな人の裸は見たい。イエスかノーかで言えば千早もイエスと答える。たださっきは状況が状況だっただけで本当は見たかった。
いや、待て。千早だから見たくて、好きな人の裸が見たい。と、いうことは。
千早の思考がフリーズしている間にカチカチとスイッチの音がしてドライヤーが鳴き止んだ。この男、煩さを理由に言い訳できないようにしてきたな。
「あの、藤堂くんは、俺のことが好きって認識で、合ってます……?」
「だからそう言ってんだろ!」
「本当に?」
「本当」
……ちょっと、待ってもらっていいですか」
額に手を当て大きな溜め息を吐いて一度脳の回路を再起動させる。藤堂が千早のことが好き。藤堂に好意を向けられている。しかも先程の言葉からして千早と同じ意味で。青天の霹靂。いや、今は豪雨だけども。
どうやって藤堂を捕らえるかという思考は何度もした。そして勝機を見いだせなくて足踏みしていたのが現状だ。いかに逃さないか考えたことはあっても捕まえた後のことは考えていなかった。というか自分が捕まることは想定していなかった。そうか、恋愛において逃さないということは己も逃れられないということ。
「藤堂くん、もしかして俺が君のこと好きって気付いてました?」
「えっ」
えってなんだ。千早の好意を見抜いていたから告白してきたのではないのか。
「千早も俺が好きってことでいいのか?」
「質問を質問で返さないでください」
……何となく、嫌われてはねえだろうなって…………それよりもお前に変な誤解されてる方が嫌で……
ムード?的に今日かなって気はしてたけどよ。けどこんな形で言うつもりじゃなくて。うんぬんかんぬん。
珍しく歯切れの悪い藤堂の言葉を要約すると、勝算は分からないがいくなら今しか無いと思った。
「はぁぁー……
「んだよ溜め息ばっかりついてよ」
「これだから気持ちだとか勘だとかで生きてる人間は……
千早が一年以上何度も何度もぐるぐると迷路に迷い、浮かんでは落ち込み、沈んでは浮足立って、それでも出れなかった賭けに出て。何ならついさっき失恋したと思って泣きそうになっていたことも知らずに、裸が見たいなどという間抜けな告白でホームランを打ちやがった。こんな男、思い描いていた恋人像にも本来千早の好みにも一ミリだって掠っていないのに。
「俺は質問に答えたぞ。今度はお前が答える番」
「いいんですか。俺、藤堂くんのこと逃がせないですけど」
「逃げる気ねえし、逃さねえよ」
「あはは、もう撤回できませんからね」
「良いから早く言えよ」
「俺も藤堂くんのことが好きです」
手を伸ばして、部屋着に貸したシャツを引っ掴んで唇を押し付ける。カサついていて、でも柔らかい唇の感触。耳の裏側で心臓の鼓動が煩いくらいに鳴っている。今ならドライヤーの音さえ入ってこないかも知れない。
「ねぇ、藤堂くん」
「なに」
……キモかったらごめんって話の流れで本当にキモいことあるんですね」
「それはマジで悪ぃ」
「あと髪の毛全部乾かしてください」
止む気配の無い雨の中二人分の笑い声がして、今度は藤堂からキスをしてきた。唇の感触は好きになれそうだけど、やっぱりカサカサしているのは頂けない。明日からリップクリームを塗らせよう。掠っていないなら好みに仕立てれば良い。
だって、もうこの手の中にあるのだから。