「これからずっとあんたの人生は誰かの所有物で、辛かろうが痛かろうが苦しかろうが、あんたに拒否権は一切なくなるんだよ。後悔しない?」
そう問いかける弾正は、まっすぐな誠実さを込めて藤堂を見つめた。これから違法なオークションに商品を出品する仲介者だというのに、最後の人間扱いをしてくれるなんておかしなことだと藤堂は思った。そんなの、いままでもずっとそうだったというのに。母が亡くなってから、見知らぬ親戚をたらい回しにされ、誰にも必要とされず、誰からも倦まれて、息をひそめて生きていた。
「いいよ。もう、僕はどうなったって」
誰でもいい。どうか僕を、必要とされるところに連れていってほしい。
弾正はにんまりと悪徳な笑みを浮かべる。
「これまでの最低な出来事が序の口みたいな地獄が待ってるよ。——裏の世界へようこそ。藤堂平助君」
クーリングオフは受け付けないからね、と弾正は云って、藤堂の首に鉄の輪をかける。ひやりとした重さは、いつしかの母の冷たいからだを思い起こさせた。
*
一千八百万、の数字を藤堂はぼんやりと眺めていた。
どうやらとんでもない額で落札されたようだった。こんな傷モノの身体に価値を見出すなんて変なひとだなと藤堂は思い、弾正が世には傷モノをことさら好む変態もいるのだと訳知り顔で語っていたこともまた思い出す。
藤堂の見目は世間一般からみても上等らしいことは藤堂も何度となく知っていたが、幼い頃に切られたひたいの傷は価値を損なうものだ。弾正はその程度の付加価値では生温いと云って、追加で左腕と右脚を斬り落とし、特別製の義肢をつけた。それぞれ好事家にいい値段で売れたよ、と諸々の仲介料や手数料を差し引かれて振り込まれた通帳は、桁数が間違っているのではないかという額が入っていた。
通帳の中身は最後の自由にパーッと使っていいよと示されても藤堂には使い道が思い浮かばず、まったく減っていないまま藤堂の持ち物として落札者に引き渡される。それでも藤堂自身の額にはまるで及ばないはずだ。
日本国籍。歳は十五。身辺は洗ってある。弾正が端的に契約書を読み上げるのも耳を通り過ぎていく。高い買い物をした男はいくつか質問をしながら冷静に聞き、きれいな筆跡で契約書にサインをする。それでは商品をと弾正が鎖を引いた。
鎖に繋がれている藤堂は、初めて正面から落札者の男を見た。
男の第一印象は、思ったよりも若いな、ということだった。これほどの額を積むからには金持ちの暇をもてあました爺だろうと思っていたのだ。当たらずとも遠からずかもしれない。男は藤堂に向かって微笑みかけたようだが、堅気の職には見えないきな臭さが拭え切れていなかった。
このひとが今後、藤堂の命運を握る主人となるのだ。そういえば最初になんと挨拶をすればいいのかを藤堂は知らなかったが、弾正も男もなにがしかの特別な反応を求めなかったので、藤堂は無難な会釈に留めた。
「藤堂君、だね」
「はい」
「おや、喋れるんだ」
それはただの感想のようだったが、弾正は気を悪くしたように眉を吊り上げた。
「あったりめーだろ。喉潰したら可愛い悲鳴も聞けないし、楽しくなんかないじゃん」
「悲鳴? まあ、こちらとしても都合がいいけど。お世話さまでした。良い買い物をありがとう」
「へーい。せいぜい大事にしてやってよ」
ひらひらと弾正は手を振る。もう彼女とは二度と会うことはないのだと思って、藤堂はこれまで世話になった感謝を告げたいように覚えたが、弾正は藤堂を見てはくれなかった。それでも、藤堂は彼女に向かって軽く一礼した。
「おいで、藤堂君」
「はい」
男は奴隷の鎖には眼もくれず、ひとりでさっさと歩き出した。藤堂は彼の背中を追いかけていく。エレベーターに乗り込んでも男は堂々と前を向いて立っているばかりで、藤堂を気にしているそぶりはない。話しかけるのも気が咎めて藤堂は床ばかりを見ていた。
向かったのは駐車場で、男はみずから運転席を開け、藤堂が立ち尽くしていると振り返った。
「ああ、これはもういらないか」
顎を捉えられる。かちゃん、と首輪の鍵が外される音が静かに反響した。続けて手首の鎖も落とされる。
呆然と藤堂は男を見つめる。男は第一印象と変わらぬ微笑みを浮かべて、鞄から取り出した珈琲缶を藤堂に押しつけた。
「どうぞ、藤堂君。これを飲んで、後部座席でひと眠りするといい。ここから少し遠いから」
男の云う通り、車はなめらかに高速を走った。
夕陽が落ちる見知らぬ街の灯りが通り過ぎ、暗い山々の中を突っ切ってゆく。男はなにも喋らない。いつからか雨が降り出して窓に細長い線を打ちつけていた。車窓には直線の道路と風に揺れる森を背景に、珈琲缶を握る藤堂の姿が反射で映り込んでいる。右目にかかる傷痕をなんとなく撫でると、冷たい鉄の指がでこぼこの生身の肌に触れ、こんな身体に何を求めているのだろうと藤堂はまた考えながら、甘い珈琲を傾けた。
いつからか眠り込んでいたらしい。
着いたよ、と声をかけられて藤堂は返事をしようとしたが、身体は重く沈み込んでいて、まるで泥をかきわけるようだった。また名を呼ばれる。返事をしないと叩かれるかもしれない。必死に眼を開けて地に足をつけようともがけば、ふいに身体が浮かび上がった。
「……きみ、軽いねえ」
耳元でささやかれているような気がする。バランスを崩しそうになって手足を動かすと、「じたばたしないの」と咎められる。云うことを聞かなければ。脳髄に染みついた習慣で藤堂は石のように固まった。
「効きすぎちゃったかな。まあいいか」
男の言葉を理解することはできず、浮遊するうちにふたたび泥に沈んでいた。
*
やわらかな黄色い光に包まれていた。藤堂は飛び起きた。
「寝坊……!」
家人の朝食を作らなければという強迫観念と、見知らぬ部屋に寝かされていたことが頭の中で繋がらず一瞬混乱する。
ややあって、昨夜、ついに買われたことを思い起こす。
親戚の家とも、弾正に仕込まれていたころのホテルとも違っていた。十二畳もある和室の中央、藤堂は清潔な敷布団に寝かされていたようだった。片側の障子から朝日が透き通っている。布団から這い出てみれば、背後は正式な形の床の間があり、鳥の掛け軸と刀がかざられている。
おそるおそる襖を開けると予備の布団や紺色の着物が畳まれて入っていた。眠り込んでいた間に着替えさせられていたのか、藤堂はオークションで着せられていた白い上下ではなく、着物をまとっている。藤堂は四苦八苦して慣れない着物を脱ぎ着してから障子を引いた。
廊下を挟んで目の前は中庭で、松や桜の樹がのびのびと植わっていた。どうやら藤堂が寝ていたのはつきあたりの離れであるらしい。道すがら洗面台があったので顔を洗い、どうやっても癖のつく髪は手で漉いて直し、廊下を歩いていった。
反対のつきあたりは誰もいない和室で、藤堂は途方に暮れた。和室に似合わないような西洋式の柱時計が六時十五分を示している。
「どうしよう……」
「あれ、藤堂君。早起きだねえ」
「……⁉ お、はようございます!」
「おはよう。別にもうちょっと寝ててくれてもよかったんだけど。僕も寝てたし」
襖を挟んで隣の部屋から現れた男は、まだ胸元が緩んだ着物のままで、ふああと大あくびをした。藤堂はしゃっきりと立礼した。
「申し訳ありません! 出直します!」
「いいよー。どうせ今日は午前から来客あるもの。朝ごはん食べる? 昨日ぜんぜん食べてなかったものね」
「……食べます」
またあくびをこぼして男は手招いた。藤堂がついていくと床が黒光りのするフローリングに変わった。男は段差を降りて別の部屋に入る。洋館のような和洋折衷のダイニングルームだったが、十人はくつろげそうなテーブルが鎮座していた。
座ってていいよ、と気軽に述べる男に藤堂は息をつめた。ホテルではそうではなかったが、食事は藤堂がやるべきことで、住まわせてもらうからには仕事をしなければならない。
「僕もお手伝いさせてください。云ってくだされば覚えます」
「そーお? じゃあベーコンと卵焼いて。目玉焼きね。適当でいいから」
「はい」
「冷やご飯だけどいい?」
「はい」
男は電子レンジで椀に盛った白米をあたため、冷蔵庫から昆布の佃煮とキュウリの浅漬けを出した。まるでタイムスリップしたかのような古風な邸宅であるのに最新の電化製品があるのがちぐはぐだ。藤堂はコンロで目玉焼きとベーコンを焼く。男はフライパンを覗き込んで旨そうだと褒めたので、ほっと胸を撫で下ろした。
「あと味噌汁……いいや。食べようか」
「はい」
男の向かいに座り、いただきますと手を合わせる。久方ぶりの誰かと共に食べる食事だった。
食後に男が茶を淹れようとしたので、藤堂が請け負った。ひと息をついてから、やにわに男は云った。
「そろそろ訊きたいことがあるんじゃない?」
藤堂は戸惑った。戸惑ったのは、訊きたいことがあふれて言葉にならなかったのではなく、質問を許されていると勘違いしてしまいそうなほど、男の声色が穏やかなものだったからだ。
どこに行っても藤堂は厄介な邪魔者でしかなかったから、余計な主張はせず役に立とうと努めてきた。なにも周囲は悪いひとたちばかりでもなかった。藤堂がいれば当たり前に一人分の食い扶持が増えるし、学校に行けばその分の費用がかかる。迷惑をかけているのだから、怒鳴られても、殴られても、飯を抜かされてベランダに放置されても、藤堂が気にかけてもらえる価値なんて——。
男がため息をついたので、藤堂は気に障らせただろうかと硬直した。
「云いたいことは云ってもらってもいいんだけどね。僕はきみを買ったけれど、普段から奴隷のように扱いたいだとか愛玩人形のように振る舞ってほしいだとか、そういうのは考えにないから」
「なら、なぜ僕を買ったのですか」
喉がかさつくように絞り出すと、男は肘をついて小首をかしげる。
「んー? 第一の理由は仕事の助手がほしかったからかな。ちょいとのっぴきならない事情で普通の子を雇うわけにはいかなくてね。第二も似たような理由だけど、この家、無駄に広いじゃない? 維持に手が回ってないからお手伝いさんがほしくて。現状云えるのはそんなところかな」
だから、まあ。きみには残念なことかもしれないけど。昨日の出品で仕事こなせそうな年齢の子がきみくらいしかいなかったからね。男の口調はあっけらかんとしていて、嘘をついているようには見えなかった。
「それとも、酷くされた方がいい?」
ぶんぶんと首を横に振る。弾正に念押しされていたので覚悟はしていたが、藤堂には被虐趣味はない。
よかったよ、僕も高い買い物をむやみと潰したくはないし、と男はまた茶に口をつける。
徐々に藤堂は男がしごくまっとうな理由で——手段はまっとうとは云えないものだが、必要としてくれたのだと呑み込めてきた。藤堂はやっと、いちばん訊きたかった質問をした。
「あなたのお名前をうかがってもいいですか。なんとお呼びすれば?」
「あれ? 名乗ってなかったっけ」
男は頭をひねり、そうだったなあとつぶやく。
「僕は伊東甲子太郎。好きに呼んでくれていいけど、先生と呼ばれることが多いかな。今後よろしく、藤堂平助君。……あ、こう見えても無頼者の悪い奴だからすぐ信用しちゃだめだよ」
わかりきっていたような不穏な言葉を付け加えて、伊東はうっそりと笑んだ。
*
腕に抱えていた外国語の書物を棚に収め、藤堂は伸びをした。慣れない作業だからか、それとも義肢が合っていないのか、どうにも筋肉痛が取れないのだ。
邸宅の書庫はまるで外つ国の図書館のような内装にびっしりと本が詰まっている。それらを順に一度取り出し、埃を掃いてまた棚に戻す。途中までは整理整頓しようとした形跡があり、分類ごとにこそまとまっていたが順序や縦横は滅茶苦茶になっていたので、藤堂はひとまず整理から始めていた。
『平助君。お茶頼むよ』
「あ、はい!」
りぃんと耳元に鳴り響く通信機越しに伊東がくすくすと『慌てなくていいよ』と告げる。そういうわけにはいかないと、藤堂は書庫から飛び出してダイニングまで駆けた。左耳に開けたピアスはどんな理屈か、伊東の声を直接届けてくれる。スマートフォンじゃあだめなんですかという問いには、急ぎには間に合わないからともっともらしい理由をくれた。
湯を沸かしながら、藤堂は埃まみれのエプロンをしたままだったことに気づいて、外して椅子にひっかけた。生まれて初めて新品でぴったりサイズの洋服の皺を引っ張って整える。これも伊東から与えられたものだった。
由緒正しい手順で淹れた緑茶と和菓子の盆を客間に持っていくと、伊東と客人が話し込んでいた。客人は藤堂に眼をとめて、おしならべて意外そうな顔をする。通過儀礼であるので藤堂は努めて平静を装う。今日の客は、柔和そうな印象の眼鏡の男だった。
「本当に弟子をお取りになったのですね、伊東先生」
「方々に云ってるけど、弟子じゃないんですよ。助手を買っただけで」
「ぐぼおっ⁉ ……すみません、なんと?」
「弟子じゃなくて助手」
茶を吹き零しそうになった客人は、優雅さを取りつくろってハンカチで口元を拭き、藤堂と伊東とを見比べる。藤堂は伊東の後ろに下がった。ありがとね、と伊東が微笑んでくれるので藤堂は嬉しい。
「聞き間違いでなければ、買ったのだと伺いましたが」
「購入しましたよ。二週間前の闇オークションで」
「……ええと、差し出がましいのですが、足はつかないようになさってらっしゃいますよね。これで伊東先生が飛ばれたらこちらは大損害なのですが」
「やだなあ、放り投げていくほど薄情でもありませんって。ちゃんと裏の金で動かしましたとも」
「それなら良いのですが……」
自分自身の話だと理解しているのに現実味のないような心地で藤堂は退室する。盆を持ってダイニングに戻り、出涸らしの茶を淹れた。香りが飛んでしまっても高級茶は美味しい。
伊東がまともな職の人間ではないらしいことは、少しも隠されていなかった。毎日ひっきりなしに老若男女問わずの来客があるが、見るからにヤクザじみた近づきがたい印象の客も多い。そうでなければ後ろ暗いものを背負ったような、思いつめたような顔の客もいる。その中間もあって、さきほどの客のような、親密さを感じさせるような客もいるものの、帰っていくと伊東はさっさと書斎に籠って夜まで出てこなくなる。経験上から、藤堂は最も厄介な客だと悟った。
客は二時間ほど滞在すると帰っていったようだった。またも通信が入り、書庫から必要な書物を取ってきてとの指示。外国語のタイトルを何度も聞き直して、苦心して厚い上製本を探し出すと伊東のところに行った。
伊東はまだ客間のソファに座り込んで思い悩んでいるようだった。藤堂が本を渡すと、ぱっと表情がやわらぐ。
「悪いね、あすこから探すのやってもらってて」
「たいしたことでは……。さっきのお客さまですか? 伊東先生に何か無茶ぶりを」
「ああ、それこそたいしたことじゃない。心配かけて悪いね。これから夕飯までは書斎にいるから、何か緊急事態があれば報せるように」
「はい」
藤堂には是という答えしか持っていない。伊東がどんな職で、客人たちからどんなことを頼まれているのか——藤堂は何度となく訊ねてみたいように駆られたが、伊東が秘しているようだったのでいつも口をつぐんだ。
「書庫の整理はまだかかるよね」
「はい」
「ゆっくりで構わないから。平助君の夕飯楽しみにしてるね。頼んだよ」
伊東が頭を撫でてくれる。子供扱いのようだと思ってもその手を振りほどけない。伊東は自身を悪い人間であるかのように語り、仕事上でその片鱗を見せるが、そんな彼に真綿のような優しさを向けられていることに藤堂の穴の開いた自尊心が満たされていくように思えてしまう。
飽きられて捨てられたらどうしよう。出会ってたったの二週間で、ぼろぼろと欲求が大きくなっていることに藤堂は怖気づいてしまっている。
*
夜を徹して書斎で書き物をしていた伊東は糸が断ち切れた音にペンを置いた。
屋敷の周囲に張っている糸は侵入者に反応して音をかき鳴らすが、避けるでも無効化するでもなくすっぱり斬られたようだった。深夜に堂々とやってくれるものだ。よほど腕に自信がある侵入者に違いない。
伊東は魔術書を持って書斎を出た。
月が出ていた。書斎から数歩もいかないうちに砲を撃ったような爆炎が上がる。どこかが吹き飛んだような振動が鼓膜を揺らす。邸宅そのものが工房であるのでダメージは少ないが、再建の礼装を仕込むのには骨が折れそうだ。
「あちゃあー。平助君たら 、派手にやってるなあ」
侵入者は一人。屋根の上を駆けていく身軽な足音の先行きに向かって伊東は魔術書から取り出した蛾を放った。あっさりと看破され破られたがほんの一瞬、障害物に気を取られるだけの猶予があればいい。
天井から地面へと突き抜ける斬撃。がらがらと瓦屋根が崩れ落ちる。煙いような風が頬を過ぎ去っていく。縁側に立つ伊東の真横、ふたたび上がった銃砲を避けて庭に飛び降りる侵入者がひとり。
魔術トラップだらけの伊東の邸宅に踏み込んでおきながら、大立ち回りにも傷ひとつないらしい。はてさてどんな侵入者かと一歩踏み出せば、低く刀を携えた和装の女が月影に浮かび上がり、伊東は翠の眼を見開いた。
「おや、かの知名なヒラクチの彦斎じゃないの。僕の工房に直接突撃してくる剛胆には感嘆してあげたいところだけど、その前にちょおっとお話しない? どんな奴に依頼されてきたのかな。僕としちゃ心当たりがありすぎるんだけど」
「……わたしは依頼されただけ。あなたには用はない」
彦斎は闇にまぎれそうな黒々とした眼で伊東を見返す。あってないような間合いだ。裏の世界に悪名をとどろかせる彦斎がそのつもりであれば、ほんの五寸先にいる伊東を斬るのに躊躇はしないだろう。たとえ伊東がまとう魔術礼装を警戒しているのだとしても、評判通りであれば目視に入った時点で斬られている。
視線を彼女が抱える不自然な荷包みに移し、伊東は盛大に顔をしかめた。
「暗殺者からコソ泥に転職したわけ? 失敗知らずの暗殺者がずいぶんとランクダウンしたものだね」
「……」
挑発には乗らないか。伊東は思考する。
事実、彦斎は何も漏らしていないに等しい。暗殺者といえば顔が割れた時点で価値が落ちるものだが、彦斎は昼日中であろうと堂々と成し遂げる腕がある。特定の組織には所属せず、金払いによって仕事を請け負う点でも尻尾を掴みにくい。捕らえて依頼者の名を吐かせるのは伊東にもリスクが高い。
「仕方ないなあ」
刹那。
彦斎が飛び退いた。庭の松の木が斬り倒される。
「喋ってくれなくてもいいけど、それ、置いていってくれないかな。きみに扱えるような代物じゃあない」
彦斎が抜刀する。信楽焼の灯籠が真っ二つになった。伊東は身じろぎをしないまま魔術書から防御の幕を引っ張り出す。
「噂通りの抜刀斎だ。石を紙切れみたいに斬るとは」
ひらりと舞踏のように彦斎が宙を舞う。火砲が放たれる。風速で火炎を斬り、斬撃は鋼鉄製の腕が阻む。彦斎に驚きの色が表れた。すとん、と互いに距離を取って着地した彦斎と、——藤堂。
全身に金を張り巡らせたような回路をきらめかせて、藤堂は裂かれて乱れた着物には一切構わず、赤い瞳孔は凪いだままに彦斎を睥睨する。そこには何らかの感情は含めていない。刀を振るうのに躊躇も懐疑も要らない。伊東の命令にのみ殉じる魔術兵器だ。
彦斎は不愉快極まりないという舌打ちをした。
「あなたこそ、噂通りに気味が悪い術を使うわね。それ、魔術自律人形に仕立てた元人間でしょう? いたいけな子供を盾にするなんて魔術師って心がないのね」
伊東は即時打ち返した。
「人斬り抜刀斎に指摘されるのは心外だな。さんざん手を汚して世間に混乱をもたらしておきながら、いまさら善人面するんだ?」
「わたしが斬るのは悪党。あなたたちとは違う」
まるで子供の云い訳のようだなと、伊東は唇をひくつかせて嗤った。
魔術師にはより悍ましい術、より犠牲を伴う術を使う者はめずらしくもないが、それこそ伊東は贄を必要最低限に厳選している。彦斎が斬った大物、すなわち不幸にした人の数の方が多いくらいだ。そのうえ彦斎が持ち去ろうとしている呪物は、解放すれば善人悪人の区別なく大勢が死ぬことになるのを彼女は明確に理解しているのだろうか。
いや、依頼者が懇切丁寧に説明しているはずがないな。伊東は直球で訊いた。
「それで、その危険物は置いていってくれるの、くれないの?」
「当然。退散するわ」
「平助君!」
後を追うように命じたのではなかった。
機能停止とともに藤堂のまとう回路が色合いを失う。彦斎は闇にまぎれて去った。伊東が隠し持っていた呪物とともに。どこへ持ち去られたかは、後日調査することになるだろう。
伊東は立ち尽くす藤堂のもとに駆け寄った。人形のように抵抗のない身体を上から下まで検分し、彼に怪我がないことを確かめる。
「よかった。彦斎君が手加減してくれてたみたいで。さすがに目覚めたら大怪我で動けませんじゃあ可哀想だものね」
彦斎は誤解していたが、なにも伊東は藤堂の顕在意識すべてを奪ってはいない。昼間は本人そのまま、本人が眠っている夜間と伊東が操作したいときに自律人形型に切り替え可能な、人体工学と呪術を掛け合わせた魔術礼装。加えて護身に弾正が義肢につけていた火砲と仕込み刀、伊東が与えた刀、四方八方に敵が多い伊東がそばに置くには身を守るすべはいくらあってもいい。
離れまで運んでやるために伊東は藤堂の身体を持ち上げる。ぐったりと力が抜けたような身体は義肢込みであるというのに思いのほか軽い。
「……ちゃんと食べさせなくちゃなあ。年齢のわりに小さいもの」
伊東は自身がどっぷりと魔術世界に浸かっていることをよく理解している。藤堂には噓は云っていない。真実を黙っているだけで。いずれは伊東が棲まう魔術世界のことも、勝手に内蔵させてもらった魔術礼装のことも明かして藤堂の意思で従わせるつもりだが、いまだ怯えているような子にはなにもかもを突きつけたところで自暴自棄になりかねないと考えている。ひとめ気に入って落札したというのに、すぐに壊れてしまってはつまらないものだ。
それまでに、たくさん食べて育ってもらわなければ。伊東は次の休日にはステーキでも食べさせてやろうかと、呑気な予定を立てた。
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