whityyokko_hkg
2025-11-01 23:46:15
8266文字
Public
 

Nighty night

ハロウィン村グリ小話。なんちゃって猟奇注意。

 妖異に娼館へ連れ込まれた村正を待っていたのは、客としての立ち居振る舞いだった。妖の娼婦を一晩買い、ともに過ごさないと館から出られないらしい。館に掛けられた出入りの定めに則り、入館者は客となる者、春を鬻ぐ者、好きに選んで館を出るしかない。

 ここは、生気を吸収して腹を膨らす類いがオーナーの売春宿だ。交わりの精力を代金にするため金銭は不要、回数と時間、何より客の生気の質がものを言う。
 サーヴァントにとっての生気は、肉体を持たざる英霊の魂が形もつものとして在るため、魔力を還元した存在力と言ってもいい。それを求める魔の輩が一晩1人相手程度で己を解放するとは到底思えなかった。こうして部屋の支度を待つ時間さえ、品定めと舌舐めずりが飛び交う待合は居心地が悪い。客同士が対面しない作りであっても、村正から放たれる霊気は一際強く、フロアの誰もが振り返り、ちらちらと様子を窺っていて、鬱陶しいことこの上なかった。
 一晩と言わず一刻も堪忍袋が保たないかもしれない。晩年まで第一線を走った経験値の故か、熟考型に見做されることも少なくないが、村正は本来短気でせっかちな性格なのだ。
 だからと言って売春宿で独寝が許されようはずもなく、まとわり押し迫る怪異達に閉口した村正は、苛立ちと破れ被れで暇を託つ娼妓を適当に選んだ。飾り窓を無視し、顔どころか名前すら見ずに直感で記名されたメニュー表を指差す。聖杯ですら解読できない文字である。読む気も起こらなかった。

 そうして、押し込められた部屋に入ってきたのは、眼帯をした年嵩の異人の男だった。自分より上背もあれば体格も良い美形である。滴る色気は、確かに体を売る者独特の禍々しい魅力に溢れていたが、背に流した空色の髪と体の線を出しつつ肌を隠す導師めいた衣装がいかがわしい室内では浮いている。
 まさか同性が来るとは思いもよらなかった。直感が狂ったのか、やきが回ったのか定かではないが、依代からして村正の性対象は女性だ。いくら顔が良いとはいえ、男と懇ろになる気はなかった。部屋から追い返そうとすると、男娼は笑って村正から逃れる。ベッドに座り隣を叩いて促され、村正が幾分広い距離をとって腰を下ろすと、男は長広舌で提案してきた。

「その様子じゃ、狐狸に化かされて館に迷い込まされたんじゃねえか?此岸の奴を煙に撒いたり、気に入った奴を拐かすなりは異境の輩の手口さね。特に、今晩はあちらとこちらの境界も朧だ。これだけ眩しい霊気を放ってるとくりゃ、あいつらに見境なく引き摺り込まれたと見たぜ」

 雇い主を輩と呼ばわるあたり、明らかに隔意がある。男娼は、誘惑より挑発に長けたタイプのようだ。

「とばっちりもいいところなアンタに朗報だ。ここからすぐにでも脱出したいとみたがどうだい?無事にかは約束できんが頼みを聞いてくれるんなら、一緒に逃げるにあたって協力してやらんでもないぜ?」
「逃すんじゃなく、テメェも逃げるのか?」
「オレも気づいたらここで客を取ってた口でね。お仲間というには立場が違うが、同じ誘拐犯の被害者同士と言えるだろうさ」

 男が足を組み替えると、荷重の移動に併せて、えぐみの残る薔薇香が赤い天鵞絨カバーから立ち上った。ベッド横で燃える媚薬香の移り香に、村正は顔を顰め、次いで隣の男がそれを眺めて安心の笑みを浮かべたのを視界に留める。
 男は我が意を得たとばかりに香の火を消すと、香炉ごと窓から放り捨てた。

「どうだい?算段立てるのも、一人よかふたりの方が手の数だって倍だ」

 それは、ひどく魅力的な意見だった。
 知らぬ土地の隔絶された建物の中、味方と呼べる者は1人とていない。味方でなくても敵ではない存在を知るだけでも精神衛生上、非常に貴重だった。
 それに、早く下総へ戻っておぬいと田助にくりぬき南瓜の灯籠を拵えてやる約束を果たさなくてはならないのだ。
 日常の娯楽に乏しい民草にとって、季節毎の行事は、生活基盤であると同時に、年に一度あるかないかの楽しい一大行事である。子供たちらは収穫を祝う村祭りをそれは楽しみにしていた。指折り数えて日付を待っているのを微笑ましく見守っていた村正としては、こんなところで性欲を解消するよりも、はるかに大事で重要なことだった。
 男の誘いには信頼など一つも置けない。館の働き手が客の逃亡を幇助するなど、己の首を絞めるものでしかないと、逃げたい村正でさえ危うさを感じるが、男は本気で逃げるつもりらしく、そらで逃走経路をシミュレーションしている。
 元は似たような連れ去りの被害者であるのなら、出れない館に倦んでいるのかもしれないし、元が客が付かずに時間を持て余している暇人だ。暇潰しにくだらなくも大騒ぎできるタイミングを欲しているだけかもしれなかったが、村正にとって、男の都合などどうでもいいことだ。早く2人のもとに戻られるなら、男の進退が如何様になろうと知ったことではなかった。
 こうして、即断即決を基礎とする刀匠は、取るものとりあえず提案に乗ることにしたのである。

 大仰な口上の割に、男の頼みは至って簡単だった。大きな力も金も暴力も機転も蛮勇も要らない。たった一つ、男の要望を叶えればよかった。

「なぁに、アンタの懐に入ってるオレの目ん玉を返して欲しいのさ」

 ギョッとする村正を他所に男娼は顔の左半分を隠す眼帯を外す。
 はらりと落とされた布の下では、左の眼窩が黒々と穴を空けていて、朱赤の右眼に射すくめられた村正は男から目が離せなくなった。
 じわじわと寄せられるかんばせは﨟たけて白く、被り物から覗く明るい空色の髪が秀でた額を彩る。長く青い睫毛が村正のそれにかかるほど近づくと、目と鼻の先で蠱惑的な唇から紡がれる言葉はまじないじみて村正を唆しにかかった。

「袂を探ってみな」
「テメェとは初対面だぜ?」
「連れねぇな。昨夜は炎の赤だって喜んで引き摺り出したのに?」
「知らねぇな。色事のプロに言うのも何だが、儂とお前さんのいい奴を見間違っちゃいねえかい?生憎と初見の野郎とっ捕まえて眼を抉る悪趣味は持たねぇのさ」
「そいつはアンタ側の問題だ。オレの知ったことじゃない。いいから返せよ。片目だと見辛くてしょうがねぇんだわ」
「返すも何も持ってねぇって」
「四の五の言わず手を入れろ」

 しつこく強請る男に根負けした村正は、疑りつつ袖に手を入れ瞬時に固まった。そこにはあるはずのない錦の袋。シャラリとした絹の感触が手を通じて、理解不能な脳に絹の冷たく柔らかい触り心地を届ける。

「ご大層にしまいやがって」

 驚いて声もない村正を尻目に、男は袋を取り上げた。ひっくり返した中から男の左目と同じ赤瞳の球体が掌に転がる。
 白目は水気たっぷりに青みを帯び、朱の虹彩は赤瑪瑙を象嵌した飾り物みたいにとろりと光り煌めいていた。
 掌を動かし、球の動き、光り方、傷の有無など眇めた右目で鑑定する。気が済むまで検分し、男は徐に窪みに押し込んだ。しかし、渇いた眼球は眼窩に嵌らず涙骨に跳ね返され、瞼を滑る。力任せに押し入れるせいで、左目からは血涙が、右目からは無色の涙が溢れて頬を伝う。

「潤滑剤にちょうどいいさね」

嘯きながら、涙の筋に球体を擦り付けるが足りるわけもない。諦めた男はぽいと口に放るともごもごと舐め転がし、口を窄め硬度を確かめた。
 取り出された眼球は、吸収した水気で透明感を増しているが、硬質な輝きを残し、弾力性には疑問が残る仕上がりだった。

「突っ立ってるのも暇だろ?アンタも協力してくれ」

 ぐいと押し付けられた珠が村正の唇をこじ開ける。歯触りを知るのが恐ろしくて開いた口腔に、つるりと目玉が入り込んだ。硬貨程の円形は圧迫するほど大きくないが、口の中に留め置くには気持ちが受け付けない。拒絶を測る男の掌が口を塞いで邪魔をする。吐き出すこともできず、頬の内側と舌とで一頻り避ければ男の目論見どおり球体は唾液塗れになった。口の端からこぼれた涎が男の手を湿したことで、ようやく縛めが外される。溜息とともに口の中の異物を吐き出す。指が口腔を探り、球体を取り除くと、村正は生理的嫌悪感からの解放に激しくえずいた。
 ゲェゲェと喉を震わせる横で隻眼の男は眼球を眺め回し、満足気に口づけを落とすと次こそは丁寧に嵌め込む。ぴたりと嵌まった左眼を閉じて馴染ませ、再び開いた時には眼力が宿っていた。

「よくやった赤ぇの!」

 男を取り巻く魔力の種類が変わった。深く奈落の底を覗いた広がりの黒が払拭され、何処までも続く青藍から日の昇る曙の階調が澱んだ室内を浄めていく。
 先刻まで何処の誰かも知らなかった男の真名が当然のように喉から漏れた。

「おまえグリムか!」
「両目が戻ったんだ!その名はお役御免よ!」
「クー・フーリン!」
「キャスターの方で悪いな爺さん!逃げるぞ!」

 大きく口を開き犬歯を剥き出しにしたキャスターは木杖を振りルーン魔術を発動する。炎と共に出現したウィッカーマンが何者かを檻に閉じ込めたまま館を踏み潰し、自身も焼き崩れていく。広大な館はたちまち火に撒かれ、館内のそこかしこから悲鳴と怒号が上がった。

「三十六計逃げるに如かずだな」
「魔を相手に戦術なんぞクソの役にも立ちゃしねぇさ」

 崩れ落ちる娼館を振り返りもせず村正とキャスターは暗闇を走り抜ける。煌々と燃え盛る業火の熱や光源、倒壊音と焼ける匂いの全てが遠くなったところで、隣を走るキャスターが突然村正を突き飛ばした。脇道に逸れ暗闇に呑まれ落ちる村正の目前で、キャスターの心臓が撃ち抜かれた。
 村正の愛刀が背中から体躯を突き抜ける。研ぎ澄まされた刃先が村正を掠り、足元へと突き刺さった。
 異様なことに、今の今まで刀のことなど思い出しもしなかった。我が人生の主眼であるというのにだ。
 背後から刺されたキャスターは、勢いのまま前のめりに倒れ、びくりともしない。
 キャスターの血液を纏った刀は地面に夥しい血溜まりを作る。赤い水鏡は村正の影を綺麗に映し取った。水面に映る己の顔は笑っている。有り得ないほど悍ましい笑顔の真ん中にぼとりと何かが落ちた。
 キャスター、否グリムの眼球だった。血の海に沈んだ瞳は磨き抜かれた鏡面にも似ていて、血に塗れた赤い虹彩にも村正は映り込んでいる。瞳孔が映す村正が呟いた。

「グリムの逃亡を阻止。任務完了。仕事は終いだ」

 馬鹿を言うなと叫びたいのに声が出ない。そんな任務を受けた覚えはない。
 それにグリムとは誰だ?あれはキャスターのクー・フーリンだ。知らない名前が魂の底から湧き上がり、当然のように感じる自分がいて気分が悪い。そう思う傍からグリムの響きが舌に馴染んでいるのを感じ、再び吐き気が襲う。喉を鳴らし、胃液を抑え込む。ぐぅと胃が反りかえるのを背を丸めて耐えた。
 せめてもの抗いに、村正は穢れた地面へ手を伸ばす。擦った前腕に血が跳ね、びちゃりと汚い音が立った。汚泥混じりの血液が赤黒く村正の頬をまだらに染めるが、気にせず伸ばした指先で球を引っ掻ける。
 指先で転がし、近づけたグリムの眼球を握りしめる。潰さないように指で包み、今度こそ奈落の底に村正は落ちた。高度のある場所から地に叩きつけられ、背と腰を打つ強かな痛みが体の中心を走る。例え体が散らばり四肢が千切れようと、この手は絶対に離さない。


 そこで、唐突に村正は目が覚めた。
 ここは何処だ?誰かに何かをしてやる予定の誰かは誰だ?×××はどうなった?手の中のまなこは?
 開いた手の中には、当然の如く何も握られてはいなかった。

「汗すげぇな」

 声のする方へ顔を向けると、横で寝ているキャスターが何とも言えない顔で村正を凝視していた。

「起こしちまったか?」
「マスター以外の魘され声を聞くのは新鮮だったぜ。それも老ぼれ爺いの唸りだ。地鳴りかと思ったわ」

 憎まれ口の中に村正を窺う心根が透けて見え、自然と頬が緩む。冷え切った体に熱が灯った。

「アンタほどの男でもサーヴァントでも、今世の人間なら夢を見るのかね?」
さぁな。記憶の再生だってぇ話だが、中身はさっぱりよ。嫌な気分だけ残っちまった」
「最悪だな。夢見が悪いのと変わらん」

 キャスターが流れ落ちる汗を手の甲で拭い、額に張り付いた前髪を梳き上げる。こうして見ると、運命的に性格が合わない誰かさんそっくりだ。一回りほど小型にしただけで、特に癖のある眉尻など総髪にすれば誰の目にも相似は明らかだった。唯一、瞳に宿る色と想いが完全に違う。それが彼らの相似を掻き消す一番の材料であり、魂の有り様は人それぞれだと示す証しでもあった。

「聞き流してくれよ。夢にしたって魔境ってぇのはロクなもんじゃなかったぜ」
「そいつはまた面白い場所へ出かけたもんだ。楽しそうじゃねぇか」
「うるせぇ、二度と行きたかねぇや。そんなものよりこっちが断然面白ぇ」

 村正は手を伸ばし、キャスターの頭を抱き寄せた。血の匂いはしない。媚薬混じりの薫香が移った寝具の居心地の悪さなどここにはなかった。キャスターが寝しなに焚いた精油の芳香が仄かに薫り、敷き直したシーツの清潔さが村正の心を落ち着ける。

「どうした?」

 されるに任せるキャスターに甘え、顔周りを撫で回し、左眼の瞼と目尻を何度もなぞった。暗闇でも朱眼の美しさは別格だ。人を温める炎の柔らかさで輝いている。

「アンタ、今日は矢鱈目ばかり触りたがるんだな」
「そうか?」
「さっきもしながら目ん玉舐めてきただろ。さすがにびっくりしたぜ」
「儂が?」
「目の前の奴以外に誰がやるんだよ?いたら怖ぇわ。他人に見られながらする趣味はないぜ。そっちがどうかは聞かないでおいてやる」
悪い。記憶が飛んじまってるみてぇだ」
「いいとは言わんぜ。左眼を集中攻撃されたからな。明日オレの目が爛れて使い物にならなかったら、当分夜遊びはなしだ」
………全く覚えがねぇ」

 呆れたようにキャスターがため息をつき、仕方なさそうに片頬を歪めた。
 許しの合図を受け、村正は左眼のまつ毛に唇で触れる。睫毛の先が震えたのを口唇で覚知し、目頭から眦までキスで辿る。名残惜しいがこれ以上構うと、キャスターの機嫌を損なうし、何より村正自身が混乱しかねない。夢でなくてもキャスターの赤い瞳はお気に入りなのだ。大事に懐で温めてやりたいほどに。
 不意に心臓ががなり出す。夢の残滓が心音を狂わせる。のろのろと顔を離し両眼の揃ったキャスターの顔を視線でなぞった。

「そのうちオレの顔に穴が空きそうだな」

 黒々とした洞が開いた×××の左目が、目と鼻の先で微睡むキャスターに重なる。眼窩から溢れる血と転げ落ちた眼球以外、全て同じ作りの顔が村正を瞳に映す。両眼に揃う己の顔は、今度は確かに村正本体の表情を映し取っていた。

「悪いことは言わねぇ。寝直すぜ。」

 血色の悪い村正の顔を両の掌で温めながら、キャスターは村正に言い聞かせる。

「ガキどもに南瓜ランタン作ってやるんだろ?厨房でもそれ用のやつを取り置くそうだ。ブーディカに訊いたから間違いねぇ」
ジャックオーランタン
「それだ。南瓜をくり抜いた顔もどきよ。うちのサウィンより万人受けするってのも悔しいが、とっつきやすさで言うならハロウィンなのは認めざるをえん」
「ハロウィン
「どうした爺さん。やりすぎてボケちまったか?悪霊退治の余興は一大イベントって張り切ってたじゃねぇか。子どもらがアンタの仮装南瓜をそりゃあ楽しみにしてるってのに腑抜けてんのかい?」
ランタン約束した

 黙り込んだ村正は、ますます顔色を悪くしている。キャスターは村正の冷えきった手を掴み、両手で指先に精油を擦り込んだ。ラベンダーと村正に以前貰った柚子を精製し組み合わせたもので、温感とリラックス作用がある。柚子の甘苦いさっぱりとした香りが揮発して寝所一帯に漂った。自分の体温を指先に移し、摩擦でなおも温める。ルーンを唱え魔術の補助をかけると、血流が滞り黒ずんだ村正の瞼がうつらうつらと閉じられた。香りを吸い込む息が深く大きくなり、呼吸が整っていく。

「仕切り直しだ。目を瞑れ。オレ直々に子守唄を歌ってやろう」

 頷いたのか寝落ちたのか、こくりと首を縦に動かし、村正の頭はすぐに枕に落ちた。子守唄は次に持ち越してやる。
 キャスターは手と手を重ねて温めながら、寝息が紡がれるのを息を潜めて待った。村正の呼吸と共に胸郭が規則正しく上下するのを見届けると、今度は、部屋全体に浄化魔術をかける。
 今日はサウィン前夜。冥府が開き、死霊も魔物も悪霊も生者も渾然として夏の終わりと冬の始まりを祝う日だ。村正のように強く輝く光は時として良からぬものを惹きつける。今日の不審な有り様からして、彷徨い出てきた夢魔にでも目をつけられたのだろう。憔悴具合を見るに、相当タチの悪い夢を見させられていたはずだ。

 村正は異聞帯とはいえ、このクー・フーリンがひと時でも背を預けた男だ。クラスが違おうが、キャスタークラスのクー・フーリンが体を使い心を捧げて落としたサーヴァントに他ならなかった。身も心も落とし落とされる間柄を、季節の移り変わりにしか表に出てこれないようなちゃちな怪異に横取りされる謂れはない。人のものに唾をつける輩など消滅しようが知ったことではなかった。

 キャスターは、念入りに術をかけ、聖域に近いほど室内を清め尽くした。僅かな時間であったが、おそらく精鋭の魔術師達であれば一瞬の変異などすぐに気づいたことだろう。知らぬ存ぜぬを突き通すつもりのキャスターには、もはやどうでもいい話であった。

「夢なんざにかまけてねぇで熱いキスの一つでもブチューっとしろってんだ」

 そう言いながら、深い眠りに入った村正の唇に唇を重ね、触れるだけで終わらせる。色気も技巧も何もかもすっ飛ばして、真心だけを込めた口づけは想像よりも気恥ずかしくなかったが、できれば今回限りで終わりたいところだ。
 もっと熱くぐちゃぐちゃに混じり合い噛み合わせる方が自分たちらしい。それに村正の厳しい眼差しが欲に沈み愛しさに溶解するのを誰よりも間近で見るのは、自分ひとりいれば充分だった。
 穏やかさを取り戻した寝顔を確かめ、キャスターも寝床に入る。村正の横に潜り込み、隣からの温度を感じながら眠る至福の時を迎えようとして、キャスターは村正の袖が膨らんでいるのに気づいた。
 寝巻の袂から覗く紐を引っ張ると、金銀の糸で織られた豪奢な布袋がついてくる。

「寝床に何持ち込んでんだこいつ」

 袋口を開きひっくり返す。中から出てきたのは美しい球体だった。赤瑪瑙と共生した水晶が眼球のようにカッティングされている。水晶の透明性は高く、深く濃い赤瑪瑙もムラ一つなく光沢を放っていた。一目で貴重なものと知れるが、人形のパーツにしては豪華すぎるし、目玉なのに一つしかない。だからと言って貴石ひとつで持つには悪趣味がすぎる。
 悍ましいことに、自分を含むクー・フーリンの瞳に似ている気がして、キャスターはそそくさと石を袋に戻した。
 これは見なかったことにしよう。
 さりとて村正の袂に戻す気にもなれず、袋をサイドテーブルに置いたキャスターは、今度こそ己の男の横で目を閉じた。
 ケルトでは、年に一度の此岸と彼岸の境界消失でしか死者は現世に現れることができない。であれば、死者でもあるサーヴァントは、サウィンの恩恵を常に受けているようなものだ。まして、異国の違う時代を生きた男と交わり心を通わせるなど、不可能を可能にする奇跡と言ってもよいだろう。
 村正の温もりを真横に感じながら睡眠の誘惑が訪れるのを待つ。夢は見ずとも、満ち足りた休息の時間を共にできるこの現界もそう悪いものではないのかも知れない。こそばゆい気持ちが照れに変わる前に、運良くキャスターは眠りに落ちた。
 
 翌朝、袋ごと目玉石が消失して慌てるキャスターと、袋の存在自体を知らず、キャスターの挙動不審を訝しむ村正が痴話喧嘩を始めてイベントどころでなくなるまで、半日足らずの夜の一幕である。