カーテンの隙間から、うっすらと光が差し込んでいた。空はまだ白んでいない。しかし、部屋の空気は少しずつ冷たさを失いはじめていた。
ジンペイは、ずっと目を閉じたままだった。
眠れたわけじゃない。ただ、時間が流れるのをやりすごしていただけ。
——右手の指先に、乾いた違和感が残っていた。
(……拭いたはず、だけど……)
布団の端を少しだけずらす。そこに、かすかな色が染みている気がした。
夜のうちに、自分で片付けた。気付かれないように。
でも、その痕跡は、完全には消えていなかった。
(……バレなきゃ、大丈夫……)
手のひらは胸の上に置いたまま、少しだけ強く握っていた。
夜の間ずっとそこにあった痛みは、朝になっても消えていなかった。
「……さむ……」
ぽつりとつぶやく。
言葉にしたら、なぜだか涙が出そうになった。
身体が冷えているわけじゃない。
でも、この朝の冷たさは、やけに心に刺さる気がした。
「……コマくん……起きてんのかな……」
これは会話じゃない。届くはずのない問い。
それでも、口にしないと、今の自分が自分であることを保てない気がした。
ジンペイは、仰向けのまま、ゆっくりと天井を見る。いつもの天井だ。
ただそれだけなのに、今はやけに、遠く見えた。
「……そろそろ、起きなきゃ……だよな……」
でも、身体は動かない。ただ瞳が、静かに乾いていくだけ。
起きたら、また明るいヒーローにならなきゃいけない。
〝みんなを守れるジンペイ〟にならなきゃいけない。
でも、今のこの身体は——
(……なれんのかな……今日も……)
どこにも力が入らないまま、ふと、布団の端を握った。
指先は冷たくて、それが今の自分を表しているようで、嫌だった。
夜が守ってくれていた弱さは、朝にはもうそこに置いてけぼりになっている。
その気持ちを振り切るように、ジンペイは呟いた。
「……大丈夫。俺は、強いから……」
誰に言ってるわけでもない言葉。
それは、何度も何度も繰り返してきた呪文みたいなもの。
胸の奥が重くても、身体が鉛みたいでも、バカなこと言ってみんなを笑わせてれば、きっと大丈夫だって——そう思い込ませるための、唯一の楔。
でもその声は、ほんの少しだけ震えていた。
ジンペイは、ゆっくりと体を起こした。肩にかけていた布団がずるりと落ちる。
ひんやりした空気が、肌に触れた。
「はぁ……さっむ……」
また、それだけつぶやいて、ぐしゃっと髪をかき上げる。
目の下に指を滑らせて、鏡は見ないまま、顔を作る。
「……よし。普通に学校、行けるし……」
誰も聞いてないのに、声にする。言葉にして、自分自身を起こすみたいに。
けれど、言ったそばから、少しよろけた。
頭が重い。足も、なんだか地面を踏んでいないような感覚がする。
それでも、クローゼットを開けて、制服のシャツに手を伸ばした。
「……ふつーに、着れるし……な」
右腕をシャツの袖に通す。左も……と、動かした瞬間。
「——っ……」
身体が小さく跳ねた。
まただ。また、あの場所が。
胸の奥、心臓のあたり——そこに、冷たい手が入り込んだような、鉛の塊が押し広げられるような、強烈な重さ。
「……っ……ぅ……」
シャツを握る手に、力が入らなくなった。
そのまま、崩れるようにベッドに腰を落とす。
吐く息が白くなりそうなくらい、肺が苦しかった。
「……はあ……っ……やば……」
でも、それ以上の言葉が出てこない。
喉がぎゅっと絞られる感覚。目の奥がチカチカする。
意識がゆらいで、足先から感覚が遠ざかる。
シャツの前を掴んだまま、うずくまるようにして、ジンペイは肩を震わせた。
「……っ……なに、これ……」
そう、思わず聞こえない誰かに言った。
これは、たぶん病気じゃない。でも、病気みたいに身体が言うことをきかない。
昨日までは、なんとか誤魔化せてた。胸の奥の重さも、気合いと勢いでねじ伏せてきた。
でも今朝は——ただ制服を着ようとしただけなのに。それすら、できなかった。
「……動けよ……俺……っ」
俯いたまま、握った服にだけ怒りをぶつける。
誰にも見られてないのに、誰にも責められてないのに、一番自分を責めてるのは、自分だった。
時計の針は、もう始業時間の20分前を指している。
なんだかんだで、今まで遅刻したことはない。
でも今日は——制服のシャツを握ったまま、ベッドから動けずにいる。
起きなきゃ、行かなきゃ――そう思うたびに、胸の奥がまたぎゅっと絞られた。
「……ちょっと、寝すぎた、だけだし……」
声に出せば、何かが動く気がして、無理やり言葉にしてみる。
でも、体は言うことをきかない。
カーテンの隙間から入る朝日が、ゆっくり部屋の床を照らし始める。
そんなときだった。
——コン、コン。
「……?」
扉をノックする、やわらかい音がした。
「……ジンペイくん? 起きてる?」
……コマくんだ。
ジンペイの脳が、ようやく反応する。
どうしよう。声を出すべきか?
でも……この声じゃ、〝いつものジンペイ〟には聞こえないかもしれない。
一瞬、黙り込んだ。
——コン、コン。
「遅刻しちゃうよー? 朝ごはん、まだでしょ?」
優しい、本当になんでもない、日常のトーンだった。
ジンペイの胸の奥で、何かがすっと緩む。
「……あー……」
それだけ、小さくつぶやいて、ゆっくりベッドから身を起こした。さっきよりは、ほんの少しだけ呼吸が楽になっていた。でも、制服はまだ着られていない。髪もボサボサで、普通の登校風景からは程遠い。それでも——ジンペイは、ドアの方を見て、声を絞り出した。
「……いく、から。ちょっと待ってて……コマくん」
すると——
「うん、じゃあ玄関で待ってるね」
いつもの調子で、コマくんは軽く答えてくれた。
何も聞かずに、何も詮索せずに、ただ待っててくれるというそのことが、なによりも〝いつものジンペイ〟を支えてくれた。
ベッドの端に置かれた制服を、ゆっくりと羽織る。
鏡には映さない。完璧じゃなくていい。
「……ありがと、コマくん」
届かないような声で、ジンペイは、誰もいない部屋にそう呟いた。
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