ugatuno
2025-11-01 22:54:04
2626文字
Public 二次小説
 

その心臓は世界のかたち 5話


 カーテンの隙間から、うっすらと光が差し込んでいた。空はまだ白んでいない。しかし、部屋の空気は少しずつ冷たさを失いはじめていた。
 ジンペイは、ずっと目を閉じたままだった。
 眠れたわけじゃない。ただ、時間が流れるのをやりすごしていただけ。
 ——右手の指先に、乾いた違和感が残っていた。
 (……拭いたはず、だけど……
 布団の端を少しだけずらす。そこに、かすかな色が染みている気がした。
 夜のうちに、自分で片付けた。気付かれないように。
 でも、その痕跡は、完全には消えていなかった。
 (……バレなきゃ、大丈夫……)
 手のひらは胸の上に置いたまま、少しだけ強く握っていた。
 夜の間ずっとそこにあった痛みは、朝になっても消えていなかった。
 「……さむ……
 ぽつりとつぶやく。
 言葉にしたら、なぜだか涙が出そうになった。
 身体が冷えているわけじゃない。
 でも、この朝の冷たさは、やけに心に刺さる気がした。
 「……コマくん……起きてんのかな……
 これは会話じゃない。届くはずのない問い。
 それでも、口にしないと、今の自分が自分であることを保てない気がした。
 ジンペイは、仰向けのまま、ゆっくりと天井を見る。いつもの天井だ。
 ただそれだけなのに、今はやけに、遠く見えた。
 「……そろそろ、起きなきゃ……だよな……
 でも、身体は動かない。ただ瞳が、静かに乾いていくだけ。
 起きたら、また明るいヒーローにならなきゃいけない。
 〝みんなを守れるジンペイ〟にならなきゃいけない。
 でも、今のこの身体は——
 (……なれんのかな……今日も……
 どこにも力が入らないまま、ふと、布団の端を握った。
 指先は冷たくて、それが今の自分を表しているようで、嫌だった。
 夜が守ってくれていた弱さは、朝にはもうそこに置いてけぼりになっている。
 その気持ちを振り切るように、ジンペイは呟いた。
 「……大丈夫。俺は、強いから……
 誰に言ってるわけでもない言葉。
 それは、何度も何度も繰り返してきた呪文みたいなもの。
 胸の奥が重くても、身体が鉛みたいでも、バカなこと言ってみんなを笑わせてれば、きっと大丈夫だって——そう思い込ませるための、唯一の楔。
 でもその声は、ほんの少しだけ震えていた。
 ジンペイは、ゆっくりと体を起こした。肩にかけていた布団がずるりと落ちる。
 ひんやりした空気が、肌に触れた。
 「はぁ……さっむ……
 また、それだけつぶやいて、ぐしゃっと髪をかき上げる。
 目の下に指を滑らせて、鏡は見ないまま、顔を作る。
 「……よし。普通に学校、行けるし……
 誰も聞いてないのに、声にする。言葉にして、自分自身を起こすみたいに。
 けれど、言ったそばから、少しよろけた。
 頭が重い。足も、なんだか地面を踏んでいないような感覚がする。
 それでも、クローゼットを開けて、制服のシャツに手を伸ばした。
 「……ふつーに、着れるし……な」
 右腕をシャツの袖に通す。左も……と、動かした瞬間。
 「——……
 身体が小さく跳ねた。
 まただ。また、あの場所が。
 胸の奥、心臓のあたり——そこに、冷たい手が入り込んだような、鉛の塊が押し広げられるような、強烈な重さ。
 「………………
 シャツを握る手に、力が入らなくなった。
 そのまま、崩れるようにベッドに腰を落とす。
 吐く息が白くなりそうなくらい、肺が苦しかった。
 「……はあ…………やば……
 でも、それ以上の言葉が出てこない。
 喉がぎゅっと絞られる感覚。目の奥がチカチカする。
 意識がゆらいで、足先から感覚が遠ざかる。
 シャツの前を掴んだまま、うずくまるようにして、ジンペイは肩を震わせた。
 「…………なに、これ……
 そう、思わず聞こえない誰かに言った。
 これは、たぶん病気じゃない。でも、病気みたいに身体が言うことをきかない。
 昨日までは、なんとか誤魔化せてた。胸の奥の重さも、気合いと勢いでねじ伏せてきた。
 でも今朝は——ただ制服を着ようとしただけなのに。それすら、できなかった。
 「……動けよ…………っ」
 俯いたまま、握った服にだけ怒りをぶつける。
 誰にも見られてないのに、誰にも責められてないのに、一番自分を責めてるのは、自分だった。
 時計の針は、もう始業時間の20分前を指している。
 なんだかんだで、今まで遅刻したことはない。
 でも今日は——制服のシャツを握ったまま、ベッドから動けずにいる。
 起きなきゃ、行かなきゃ――そう思うたびに、胸の奥がまたぎゅっと絞られた。
 「……ちょっと、寝すぎた、だけだし……
 声に出せば、何かが動く気がして、無理やり言葉にしてみる。
 でも、体は言うことをきかない。
 カーテンの隙間から入る朝日が、ゆっくり部屋の床を照らし始める。
 そんなときだった。
 ——コン、コン。
 「……?」
 扉をノックする、やわらかい音がした。
 「……ジンペイくん? 起きてる?」
 ……コマくんだ。
 ジンペイの脳が、ようやく反応する。
 どうしよう。声を出すべきか?
 でも……この声じゃ、〝いつものジンペイ〟には聞こえないかもしれない。
 一瞬、黙り込んだ。
 ——コン、コン。
 「遅刻しちゃうよー? 朝ごはん、まだでしょ?」
 優しい、本当になんでもない、日常のトーンだった。
 ジンペイの胸の奥で、何かがすっと緩む。
 「……あー……
 それだけ、小さくつぶやいて、ゆっくりベッドから身を起こした。さっきよりは、ほんの少しだけ呼吸が楽になっていた。でも、制服はまだ着られていない。髪もボサボサで、普通の登校風景からは程遠い。それでも——ジンペイは、ドアの方を見て、声を絞り出した。
 「……いく、から。ちょっと待ってて……コマくん」
 すると——
 「うん、じゃあ玄関で待ってるね」
 いつもの調子で、コマくんは軽く答えてくれた。
 何も聞かずに、何も詮索せずに、ただ待っててくれるというそのことが、なによりも〝いつものジンペイ〟を支えてくれた。
 ベッドの端に置かれた制服を、ゆっくりと羽織る。
 鏡には映さない。完璧じゃなくていい。
 「……ありがと、コマくん」
 届かないような声で、ジンペイは、誰もいない部屋にそう呟いた。