ugatuno
2025-10-31 18:45:31
2447文字
Public 二次小説
 

その心臓は世界のかたち 13話


(……さてと)
ゼリーは、思った以上に普通に食べることができた。なら、こっちも少しなら食べられるんじゃないか──ジンペイは、パンの包みを手に取った。
昨夜、コマくんがそっと置いていったもの。ほんのり甘い香りがする、小さめの蒸しパン。
食べやすくて、優しそうな味──
たぶん、いろんなことを考えて選んでくれた。けれど──
……
指先に少し力を入れて、包みを開けた瞬間に、ふわっと立ちのぼった香りが、まるで遠くの記憶のようにどこか異質に感じた。
「ちょっとだけ……
そう言って、ジンペイはパンをひとちぎり口に運んだ。
ふわりと甘さが広がる。しかし、それは一瞬だった。
……ッ、う……
一口を飲み込む前に、胸の奥が、急に掴まれるような感覚に襲われた。
まるで食道が拒否するかのように、
口の中の唾液すら重く、下に落ちていかない。
「あ、……ちょっと……待って……っ、」
舌の奥に違和感。
喉の奥でひゅっ、と気道が痙攣する。
思わず咳き込み、パンのかけらが喉にひっかかって涙がにじむ。 
身体が、震えた。
ジンペイは慌てて立ち上がろうとしたが、
足元がふらついてベッドの端に膝をつく。
そのままサイドのゴミ箱に手を伸ばし、
口を押さえて──むせ込む。
ほんのわずかに口にしただけのパンと胃液が混ざり、苦い吐き気だけが喉に残った。
……はぁ、……く、そっ……
手が震えていた。
咳き込みながら、涙を拭く手も、
サイドテーブルに縋る肘も、みんな、頼りない。
(……情けねーな……俺)
もはや、水すら怖かった。
でも喉は焼けるように乾いている。
ベッドに戻る途中、視界がにじんで、一瞬、何も見えなくなった。
ぐらりと揺れた視界の中、
ジンペイは、ただただ静かにベッドに横たわった。
そして、もう一度目を閉じた。
──何も感じたくなかった。
 

時計の針が、カチリ、カチリと、時間を刻む音だけが響いていた。
病室は、静かだった。
外の陽光が薄いカーテン越しに差し込み、ぼんやりと白く、ジンペイの輪郭を浮かび上がらせていた。
……静かだな」
声にならない独り言が、喉の奥で途切れた。
昼も、夕方も、何もなければ、ただ時間は流れていくだけだった。
さっき無理して口にしたパンは袋に戻されて、机の隅に置かれている。
もう手を伸ばす気にもならなかった。
目を閉じると、不思議と胸の苦しみだけが強調される気がした。
だから、ずっと目を開けていた。
でも、開けていたところで、天井の色が変わるくらいしか、違いはない。
(……誰も来ない)
当然だ。皆にはそれぞれの生活がある。
自分は、そこから外れてしまっただけ。
誰かを責めるつもりはなかった。
でも心は、勝手にざらつく。 
『“助けて”って……言えたら、楽なんだろうけど』
何を考えているのだろう。思わず顔をしかめる。
息を吐きながら、目をつむった。
「ヒーローが、誰かに『助けて』って……どんな顔して言うんだろな」
呟いたあと、ふと手元にあったイヤーカフ──通信機に目を落とす。
いつも耳につけていたそれは、
今は机の上に置かれたままだった。
もしこれをつけていれば、
またどこかから呼び出しが来るかもしれない。
でも、それに応えられる気力が、もう残っていなかった。
……ごめん。ちょっとだけ、サボらせて」
ぽつりと謝る相手は、誰でもなかった。
それでも、言わなきゃいけないような気がした。
マタロウが言ってくれた「ヒーロー」から離れてしまうことに、
罪悪感みたいなものがどうしても消えなかった。
──自分で自分を許せないのだろうか。
それとも、誰かの期待に応えたくて、ずっと走ってきたからなのか。
答えなんて、もうどうでもよかった。
窓の外の光が、また少しだけ傾いた。


病室のカーテンの向こうで、夕焼けがじわりと滲んでいた。
薄明かりが差し込む部屋の中、ジンペイは仰向けのまま天井をぼんやりと見ている。
静かな足音が、病室に近づいてきた。
軽いノックの音。
急に現実に引き戻されて、反応が遅れる。ドアが音もなく開いた。
……あ、会長」
ジンペイは、ゆっくりと身体を起こそうとした。
けれど、それを止めるように、ラントが手を上げる。
「そのままでいい」
ラントは、静かに中へ入り、椅子を引いてベッドの脇に腰を下ろす。
手には何も持っていない。けれど、その沈黙は妙に重かった。
……あのさ、運んできてくれて、ありがと……
ジンペイは、気まずそうに視線をそらす。 
「わざわざ来なくてよかったのに。俺、わりと元気だし」
「元気なら、“わりと”はつかないだろう」
ラントはそう返し、目をそらさない。
説教めいた声色。ジンペイは少しだけ苦笑いする。
……なにそれ、“お大事に”もなし?」
「“お大事に”は、連れてきた時に言ったつもりだ。……今は、ちゃんと戻ってこいというだけだ」
ジンペイが、ふと視線を戻す。
ラントは、その顔をまっすぐに見た。
沈黙が落ちる。
ジンペイが、ぽつりと口を開く。
……俺、ちゃんとヒーローに見えてる?」
一瞬だけ、ラントの眉がわずかに動いた。
けれど、その目は変わらない。
「“ちゃんと”じゃない。“ずっと”だ」
その言い方には、迷いがなかった。
「最初から、ずっとそう見えてる。……それは、お前がどう見えるかじゃなくて、どうしてきたかの話だ」
ジンペイは、少しだけ目を伏せて、小さく笑った。
……そっか」
ラントは、短く頷いた。
数分後、ラントは立ち上がった。
「今日は長居しない。……ちゃんと休め」
「うん、あんがと。……また来てくれる?」
……タイミング次第だな」
そう言って、ラントは病室を後にする。
──ドアを閉めた後。
ラントは、しばらく廊下で立ち止まり、目を伏せる。
(もっと早くに……
思考がそこで止まる。
無音のまま、深く息を吐いてから──
ラントは、何も言わずに病院を後にした。