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yoqips
2024-11-17 19:05:49
4164文字
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春望
房芳の元帥時代
大協帝国軍人の
潘博文
パンブォウェン
中将は、空が白むほどの早朝に人気のない房芳元帥の執務室へ呼び出されていた。潘博文は社会保守党の一派副主席であり、共和同国党が背後についた房芳とはある種野党同士の間柄である。つまり敵ではないが味方でもない。しかし現在国内武力の多くを掌握する彼の呼び出しは無視できるものではなく、黒い軍服を着込んで参上した。
房芳は執務机には座っておらず、今淹れたばかりであろう花の香りのする茶を前に、リラックスした様子でソファに座っていた。あまり近くで見たことはなかったが彼は若々しく、実際に歴代元帥の中で群を抜いて若い。既に白髪混じりの髭をたくわえた潘博文よりも30歳も下の、壮年にも差し掛からない青年である。だが内戦が続く今の大協帝国では年齢と軍階級が逆転することなどあまり珍しいことではなかった。
「閣下、参上いたしました」
「お待ちしていました、潘中将」
元帥は柔らかい物腰と微笑みで、潘博文を向かいのソファに促した。簡素な執務室である。潘博文が副官を務める大将の部屋などまるで貴族時代の栄華を引きずるように豪華絢爛だが、彼の執務室は事務方のデスクのように金がかかっていない。
重そうな勲章をいくつもぶら下げた軍服のコートを脱いだ房芳は、演説台でスピーチする姿をテレビ越しに見るよりも小柄に見えた。一部の民衆たちが熱狂するのも頷ける黒々した髪と品のよい白皙の美青年である。堅苦しいところはなく、いっそ気弱に見えるほど柔和で、正面に座って眺めると親しみすら感じる。
彼は元は陸軍の単なる尉官の一人であった。当時の少将に気に入られ可愛がられていたと聞く。それが混迷極める帝国の中で今や元帥となったのだから歴史というものは分からない。
茶を一口飲んで軽く世間話をしたあと、房芳は特に前置きすることもなく「さて」と本題を切り出した。
「本日お呼び立てしましたのは、率直に言って引き抜きのお話です。空軍の将軍を辞し、今後は陸軍の私のもとで活躍していただきたいのです」
「
………
左様ですか
……
」
潘博文は「なるほど」とも「馬鹿な」とも言えなかった。
彼は中将だが、目立った戦歴や技術を持っているわけでもない。英気溢れる若い兵なら山ほどいるはずだ。政党を跨いだ異動は間違いなく混乱が起こり、しかし得られるものは階級の下がった老兵だけ。一体彼が何を考えているのか分からなかった。
混乱する潘博文の前に房芳は立ち上がって机の上の分厚いファイルを取り出し、慣れたようにページの紙をめくる。この形態の資料をやけに使い慣れているようだった。
「東部の黄川省は、あなたの統括ですよね。データを拝見しましたが素晴らしい功績ですよ」
「は
……
いえ
……
お恥ずかしいことですが、黄川省は過去百年あまりと今現在に至るまで重い税に喘いでおります。昨今は特に内戦の影響で悪化の一途を辿り
……
」
「そう、黄川省の民は飢えている。けれど死んでいない」
あなたが着任してからは。
潘博文は元帥の黒い瞳にゆらめく星を見て、背筋に氷柱を差し込まれたような寒気に襲われた。確信を持った口調だ。房芳は簡素な書類を何枚もぺらぺらとめくり、あるページで手を止める。そこには黄川省の三十年以上の税の推移と国民たちの死亡率が手書きでグラフにされている。そして計算式。潘博文の額に脂っぽい汗がたらりと流れる。
「潘中尉、あなたの横領の手口は実に鮮やかだ。私も改めて資料を拝見して証拠を探させるまでは確信が持てませんでした。公僕の誰かが横領に手を染めれば、たいてい民が死にますからね」
「
…………
」
「言葉を選ばす申し上げますと、あなたの上官はいにしえの吸血鬼のような方です。税という血液を民から吸い上げても飽き足らず、自分の食える量も忘れてテーブルに乗せたがる」
「口を慎まれよ」
「あなたは人を人と思っていない上官を止めなかった。肥えさせて飼い慣らしたのです。口元に美味しそうなご馳走を運んで」
中将は完全に沈黙した。何故かは分からない。だが房芳陸軍元帥は空軍と社会保守党のトップたちの腐敗しきった体制と、潘博文の数十年にわたる横領がすべてが詳らかにしたようだった。
潘博文とて昔は国を富ませようと希望に胸を膨らませたひとりの青い軍人だった。だが軍と政党の強固な癒着と数千年にもわたる血と矜持の結束が、一介の軍人でしかない彼の心を折った。戦時でもないというのに飢えて死んでいく人民たちからさらに血液を搾り取るような仕事を繰り返し、いつしか腐敗の中で狡猾に泳ぐ方法を学んだのだ。
上官にはさらに税を取る方法を提案し、民には農作物を効率よく作る方法を人伝てに伝える。報告する数はわずかに詐称することによって上官の舌を満足させる。次に自分の懐を潤わせて縦と横のつながりに使う。そうして微妙な均衡を保ってきたのだ。
「中将。汗水垂らして懸命に働く者たちが権力によって弾圧されるような時代は、もう終わりにしましょう。私が今からこの国に成す革命を手助けしてほしいのです」
青臭い台詞が乾いた老兵の胸中を打った。
困難と苦渋のなかでそのような情熱はとうの昔に失ってしまった。潘博文は厳しく皺のよった顔を項垂れさせ、ようやく背筋に力を入れて頭を持ち上げる。
「房芳元帥、あなたの理想は分かりました。しかし独裁的な国家よりも腐敗した民主主義のほうがマシだというのが私の見解です。だからこそ長年主席のそばでその腐敗を進ませ、金庫の中身を調整し続けていたのですから」
「しかし、国がなくなってはどうもならんでしょう」
「帝国は滅びはしない」
「世界は目にも見えない速さで進化し続け、我々はこの国で足踏みしている間に老いてゆく。今までの前時代的なやり方に固執している以上、いずれは少しずつ手足をハゲワシに食われることになるでしょう。お隣の倶舎皇国に首をもがれる方が先かもしれませんがね」
「では、どうするというのです!」
「先にお聞かせください。あなたが長年危惧したように滞った水は腐ってゆく。私が欲をかいて暴走した際に、自らの手を汚してでも手綱を握ろうとする者が必要です。状況が許せばこの国を立て直すのに力を貸していただけますか?」
「
…………
ええ、わかりました。私は仕事をしましょう」
房芳は大きく息を吐き、ソファに腰を沈めた。
暖かかった茶はすっかりと冷え切り、部屋にほんの少し弛緩した空気が降りる。房芳は黒髪を頬に垂らして俯いたあと、立ち上がって扉のほうへと歩いた。コンコンと数回ノックをすると、いつの間にか部屋の外に誰かいたのか、足音が遠ざかっていく気配がする。
「あなたの決断に感謝します」
「今のは陸軍の部下ですか?」
「はい。そして、事後の報告で申し訳ありません。民主社会党の主席肖俊杰、空軍の殷破浪、金雲嵐両名、社会保守党の黄俊宇、海軍大将の袁宇辰、共和同国党の主席夏子涵、議員の叶哉藍、張奕沢は殉職しました」
「は」
「あなたの上官の肖破浪もです。これで、まもなく帝国は滅びるでしょう。旗が立ち、革命が成ったのです」
潘博文は二の句が告げなかった。
それはこの国の誰もが知っているリストに並ぶ名前だった。王朝時代からこの国に巣を下ろす毒蜘蛛の一族。甕の中で憎み殺し合う青い血の貴族たち。数千年にもわたって紡がれた魔の歴史の末裔たちが、この男のノックの音ひとつで合図が出され、同時にこの国を永遠に去ったという。まるで外科手術で患者の皮膚を裂き溜まった膿を出すかのように、房芳はやってのけた。
そして同時に理解した。残る空軍で最高階級の潘博文が頷いていなければ、これは陸軍と空軍の全面的な戦争となり、流れる血は数千倍に膨れ上がっていただろう。だが残った兵士たちは潘博文の言うことなら苦くも飲み込める者たちばかりだ。邪魔者は文字通り一人もいなくなったのだから。
老兵はからからに渇いた口の中をなんとか唾液で湿らせ、声を絞り出した。
「この国で何を為すおつもりか?」
「祖国救亡です、閣下。私は
……
この国の膨大な人口を食わせるためには、こうする他ないと気づいてしまったんです」
房芳は気弱そうな眉を下げ、ほろ苦く笑った。
房芳元帥は宣言通り、数千年の歴史を持つ国を滅ぼした。そして自身を大協共和同国軍軍務尚書、統帥本部総長、陸軍司令長官と定め、ここに「大協共和同国」が誕生したのである。
共和国とは名ばかりの、ほとんどが房芳の独裁的な一存で即座に実行される政策と作戦は、アジア諸国に電撃的なショックをもたらした。協に狙いを定めていた倶舎皇国と異例の速さで平和的な「大倶同盟」を結んだのち、周辺国の一つに開戦を宣言。内戦でバラバラになり疲弊していたかと思われた大協共和同国の陸軍は、倶舎皇国の空軍と手を取り破竹の勢いでアジアを蹂躙していった。
かつての大国は衰え、眠れる獅子は豚になった。そう揶揄していたほとんどの国を彼らは渦中に飲み込んでいった。大協共和同国民の中にはここ数百年夢にも見なかった希望と熱狂があった。
「この混迷極まる時代において悪徳は栄え、弱い者は虐げられ、働きには正当な報酬がなかった。我々のなかにあった正義は眠っていた。しかしすでに目は開かれ、諸君らは正しい選択をした。我が国と敵国の兵力の差は半分以下である。それでも今日まで一歩も引かず戦ってこれたのは、我々こそが正道であるからに他ならない」
指導者は演説する。
「大協共和同国の正しき賢明な我が兵たちよ、憚ることなく戦い、恐れることなく敵に立ち向かえ。神は勇気と正義を愛される。弱き者を助け、家族を決して見捨てるな。太陽の民と国土を守れ。法と良心の守護者たちよ、ただ正しきことを成せ! 戦いの果てに建国の誓いは成就される!」
指導者は演説する。
「自由の民よ、太陽の輝きを胸に立ち上がれ! 大協共和同国に永久の栄光を!」
すべての国土と国民を飢えから守り、人民を救済するため。
それは若き政治的指導者がアジアの片隅で巻き起こした、未曾有の大戦乱のはじまりであった。
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