青は遠からず近からず、この空がつづくどこかにある。手で触れようも、決して届かない。それが空の青というもので、人間はただ地に這いずり、天を仰ぐことしか許されていない。
人類は月に行き、我が物顔で旗を立てた。けれどもあの月は人類の誰のものでもなく、今後一切、誰かのものになろうはずもない。今、たかだがひとつの惑星に住み着くしかできない人類が、空を――宇宙を手にするなどと、傲慢極まりない。
見上げるだけでいい。
仰ぐだけでいい。
俺は、あの青がほしくて求めているのではない。もう一度この目で、見つめたいのだ。息をのむほどの、鮮烈な青を。
青の反対は赤、とだれかが言っていた。
真偽はともかく青も赤も、色である。そうであるなら赤もまた手の届かぬ場所に、あるのだろう。
「甘いものが最近、おいしくなってきてしまって」
目尻をさげて、笑う。
偶然となりに座った白い髪の女性はその男に、そっと笑いかけた。
「秋ですものね」
「秋ってどうしてこんなにおいしいものがたくさんあるんでしょう」
長細いステンレスのスプーンをグラスに差し込み、クリームをすくいとる。クリーム色というが、これは真っ白い、芯から透きとおったような白だった。
ビスケットにチョコレートがかかった細長いお菓子を眺めて、スプーンを口にいれる。甘い匂いと濃厚な甘さが脳をしっかりと刺激した。
「これは年中あるわけですが……」
病院に併設されているチェーン店のカフェはありがたい。患者にとっても、見舞客にとっても――つとめる職員にとっても。
「そうですね。チョコレートパフェですから」
チョコレートは加工されているぶん、旬というものはないのだろう。
「パフェというものが特別好きというわけではないのですが、どうしてでしょう。クリームはもとより、果物もチョコレートもわらび餅もコーンフレークも、それぞれ名前があるのに、パフェという単語だけですべて内包できてしまいます。罪深い食べものです」
「飛白先生は真面目ですね」
「僕はいつだって真面目ですよ」
男はにっこりとほほえんだ。
となりにいる那月も、くすりと笑った。
まだ苦々も楽々もない――ずっと変わらず続くと思っていた、日常の一幕であった。
そんな、とりとめもない夢を見た。
夢、いや――今となっては悪夢か。そんなことも分からないくらいのちいささ、小指の爪ほどの苦みを感じながら、まぶたをもちあげた。
「……」
背中がギシリと軋む。硬い、一時しのぎに横たわるためだけのベッドだ。当たり前だろう。のろのろと起き上がりながら、天井を眺めて呆ける。視界が定まってきたころ、ようやっとベッドからおりた。空は漆黒であり、そして地上におりるにつれ明るく照っている。街灯、ビルの明かり、ネオン、管制塔や超高層建造物の赤く点滅する航空障害灯。その溢れる光のグラデーションをしばらく眺めた。
白衣のポケットに入れたままだった飴の包み紙をふいにつまんで、そのままぐいと突っ込む。
部屋の中のエスプレッソマシーンが鈍く輝いた。鈍い銀色と、深いボルドー色のマシーンは、マルタなりのスイッチだった。仕事の前、仕事のあと。切り替えなければ、自分という存在が伸びに伸びてアンチドートという組織にそっと包まれ、一体化してしまうような気がした。
飛白マルタは飛白マルタであり、ほかの誰でもなく、または誰かにもなれない。
ドアを少し開き、するりと身をねじ込んで廊下に出る。ぼんやりとした照明の下、ふらふらと歩く。夢遊病者のように。
照明が漏れている部屋を見つけた。扉を軽く叩き、ノブを引く。ぎい、とにぶい音が響いた。
白い、肩までの髪がゆれ、こちらを見る赤い目とかち合う。
「おう。こんな時間まで仕事か」
「飛白さん」
淡々とした目が少しの間、こちらを眺めた。そしてふたたび背中を向け、液晶に視線をうつす。
「もうじき日付け超えるけど、そんなに急ぎなのか?」
「いえ、特には」
「だったらちょっと夜食付き合ってくれ。腹減った」
手を休めず、彼女はかるく息をついた。キーボードを叩く音がその後、数分続き、やがてぴたりとやむ。
「飛白さんも昨日、深夜まで仕事していましたね」
「まあ。……いろいろあるわな。お前も、俺も」
椅子をひき、那月がそっと立ち上がる。表情はいつもどおりだが、疲れが滲んでいるようにも見えた。
「あんまりにも眠かったもんだから、すこし仮眠してた」
「短時間の睡眠は寿命を削りますよ」
どちらも、元医者である。
口をはさんでしまうのも、抜けきれないものがあるのだろうか。彼女にも、自分にも。
「飛白さんも、まだ仕事残っているんですか?」
廊下を歩きながら、先ほどとおなじようなトーンでたずねられる。
「そりゃ、途切れることはねぇな。戸叶もそうだろ」
「ここの研究員は皆、そうでしょうね」
外は妙に明るかった。
近くにある行きつけの中華料理屋に入る。
深夜であるにもかかわらず、大勢の客がいた。おそらくアンチドートか、研究員か、周辺の工事現場の誘導員か。思ったよりも客がおおかった。サングラスを忘れてしまった。脳を直に切り開くような、おびただしい量の情報が流れ込んでくる。が、慣れた。慣れた、といっていいのか分からないが6年間、こういう生活を送っているのだから慣れねば仕事にならない。
けれども飲食店ならば、俯いてメニューを見たりスマートフォンをいじったりしていてもなにもおかしくはない。そういった意味で、マルタは飲食店によく行っていた。この、まったく知らないわけでもなく、けれども他人に見向きもせず、食に集中するこの雰囲気が性に合っているのかもしれない。
カウンター席をとって、ならんで座る。
――パフェを食べていたころのむかしを、ふと思い出す。
「夜食……ですか」
メニューを見下ろしながら、呟いた。たしかにさきほど夜食、といった。だが中華料理屋は夜に軽くつまめる軽食ではない。むしろ、メインディッシュのほうである。
「小籠包とか、焼売、とか」
たどたどしく言い訳をしながら、ビールに目が行くが残業中の身分であるし、飲酒は禁忌だ。
「飛白さんはなににされるんですか」
「炒飯」
「では、私も」
炒飯をふたつ、注文する。炎がごうっとあがり、火の粉が天井までのぼった。それを眺めながら、沈黙する。火に意思はないと知りながら、それをぼんやりと見上げた。
「……ここの炒飯、美味くてな」
那月は一度、うなずいた。炒飯は炒飯であるし、味の想像もほぼ皆一緒だろうけれど、男はこの中華料理屋の炒飯が好きだった。
コップいっぱい入った水を氷と一緒に飲みこむ。空っぽの胃の中に、冷え冷えとしたものが流れ込んだ。
「おまちどおさま。炒飯ふたつ」
目の前にどんどん、と豪快に置かれた炒飯を眺める。勢いがよすぎて米粒が数粒、机に飛んだ。
「いただきます」
手を合せて呟く。香ばしい、脂をまとったネギや焼き豚や卵が脳髄に沁みる。
からだはカロリーを欲し、脳は糖分を欲しているようだった。昼以降、食事をとっていなかったから胃袋は素直に流れてくるものを蓄積していく。
「……甘いものが、ときどき無性に食いたくなることがある」
からになった皿を眺めながら、笑う。皿に笑いかけているのだ、今、自分は。
できるだけ、ひとの姿をこの目で拾いたくない。必要以上のことはしないのが、飛白マルタにとっての美徳でもあり、意地汚さでもあった。
「米もパンも、ほぼ糖質だ。とりすぎはよくないが、とらなければからだは動かない」
「はい」
彼女も、医者だった。
そう、医者だったのだ。医学生時代、自分の、そして他者の心臓の音を聴診器で聴くことから始まり、命を尊ぶことをまなび――いつからか、アンチドートの研究員になった。
生命をいじくることもある、この場所にきた。
人間の命の尊厳を踏みにじる苦々犯罪者、あるいはアンチドート、そして研究員。そこにはおそらく意味と意義があり、それぞれの正義やら秩序、自覚した悪や無自覚な悪を混ぜに混ぜて、もはや混沌化としているのが、今の東々なのだろう。
――先ほど食べた、炒飯の具材のように。
なにが正義でなにが悪か。そんな問いは、この世界では意味を成さない。おのれこそが正義だと豪語する人間こそ、脅威でもあろう。
「食事は命の縮図だな」
食べ終わり、脂でほの明るくつやめく皿を見下ろしてから、席をたつ。
「ごちそうさま」
会計をしてから外へ出る。冷たい風が首筋をさらう。無意識に肩を縮こめながら歩く。
街路樹の木の根っこのあたりに、うら枯れの植物がゆらゆらと揺れていた。葉先が黒ずみ、枯れている。
研究所にはいり、ぽつり、ぽつりとことばを交わしてから、廊下で別れた。
パソコンの電源をつけ、パスワードを打ち込みブルーライトを浴びる。
「変わらざるを得なかった。世界が変わったからだ。俺も、」
パフェという単語ひとつで完結できる簡潔な世界ではない。いつだってそうだ。ひとのこころも、そうなのだ。
秩序、正義、必要悪、悪、混沌。相反するものと衝突し、命を奪い合い、もはや今、ことばだけで解決はできないところまできている。
否――そもそも、世界とはそういったものだったのかもしれない。
けれども、生きなければならないのだ。食事をし、眠り、そうやって生きていかなければならない。命があるかぎり、生きなければならない。それが人類としての職務であると、マルタは考えている。
すくなくとも、となりあうひとたちには生きていたいと、願っていてほしい。
それが医籍登録を捨てられなかった飛白マルタの傲慢であった。
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