「退廃的なことをしよう」

私は風呂でアイスを食べさせる癖があります

 玄関に着くや否や冒頭のように言われ、俺がなんのことかわからず眉間にしわを寄せていると、山田が「いいからこっち来て」と部屋へ上がるよう俺を招いた。昔はなかった玄関マットに足を置くと、短い毛足のそれはしっかりした固さがある。買ってきた当初は「こんなんいらんやろ」と思っていたのになかなか気に入っている。そういう一歩ですら今は動かすのがやっとなのに、山田は「早くしないと冷めるよ」と言って俺を急かす。
「お風呂、沸いてるから」
 そう言われ、鞄と上着を寝室にあるクローゼット近くへ置くのに移動した。山田は俺がそうしている間もなにやらいそいそと細かく動いていたが、機敏に動く姿は珍しいので、ついぼんやりと背中を追った。
「お腹減ってる?」
「まぁ少しは」
 了解。と告げられ、山田はガラガラと冷凍庫を開けている。
 そこまで減っていなかった腹の虫も、今すぐ食べられるわけではないとわかると、期待が外れて虚しく鳴るというもの。山田は目ざとくそれを聞き、「お風呂の後すぐ食べられるようにしよっか」と今度は冷蔵庫を開け、数種類のタッパーを取り出して台所に並べた。俺が作り置きした食材が二つ、山田が作った余りが小さく三つ。部屋にこもる白飯の香りが、炊飯器に炊き立ての米があることを知らせている。
 浴室へ向かえば、久しぶりに張った湯船が湯気を立てている。風呂場の前に押し込まれ、「あとで僕も入るよ」と言われた。
 なんやなんや、せわしない。と思いながら、ひとまずシャツを洗濯機の横にあるカゴに入れる。ネクタイと時計を別にし、棚の上に置くタイミングで、山田がやってきた。
……いつの間にそんなの買ってん」
「一回やってみたかったんだ」
 これならお腹壊しづらそうだし? と笑う山田がその手に持っているものは、さっき冷凍庫から出したてで、ほのかに白い水蒸気を漂わせているのでギョッとする。発想がまるでガキだ。

 二人で浸かると湯があふれるから、「松田さん先にどうぞ」と言われる。浸かった瞬間、「あ゛ー……」と息を吐いた。案の定、向かい合った山田が「おじさんの声だ」とからかってきた。いつもより幾分棘のない口調は、先月から続く俺の状態をよくわかっているからだろう。
 山田は服を着たまま、洗い場の椅子に座っている。珍しくTシャツとハーフパンツだ。湯気の中で見える白い肌がつるつるとしているように見えた。普段性的な匂いのない山田が、少しでも露出すると色めき立つように思えるのは、きっと自分が疲れているからだろう。今日は早めに休もうと思っているのに、こうして二人で風呂の中にいれば、なんとなく手を出したくなる──この二人の間にある、アイスがなければ。
「松田さんも食べようよ」
 バケツアイスほどの大きさでもなく、しかし四、五人分の量だ。二人で食べるには多い。冷やされた金属の入れ物に入ったアイスクリームは、バニラ味だがそこそこ黄味のある色で、山田が一口すくうと焦げ茶色のクッキーのかけらが入っている。
「意外と溶けないね」
 驚き、というより喜びが強い顔で、山田がスプーンに大きめのかたまりをすくう。三分の一ほど食べ進んだところでこっちを見てきた。諦めて俺も口を開ける。山田が活き活きした表情で、バニラとクッキーのほどよい配分のかたまりを差し出してきた。思っていたより甘すぎず、風呂のおかげで凝りがほぐされてきた体に効くように感じられる。もう一口、と口を開けて催促した。
「んはは、気に入った?」
 松田さん、高いアイスは食べるよね。そう言って、まるで俺が安いものを毛嫌いすると勘違いしているから、「そんなんやない」と訂正する。
「安かったらなんぼでも食うやろ、特に夏とかは。腹壊すねん」
 つまりゆっくり味わって食べた方がいいという意見なのだが、山田は肩をすくめた。丸みのある肩が上下する。Tシャツ越しの薄い体をなるべく想像しないように、アイスを寄越せと無言で口を開けた。
「大動物の餌やり」
「言うたな」
 山田からスプーンを奪い、容器も取り上げる。軽く跳ねる水滴に山田が目を細めている隙に、「おら」とアイスをすくって口元へ運んでやった。無防備に開けた赤い口へスプーンを入れてやると、目尻を上げてほころんだ顔をする。
 体は内側から冷えていく。けれど熱い風呂の中で足先まで温かい。山田はどうだろうか、普段冷え気味の体は風呂に入らなくていいのだろうか。
……んで? この後もお前の、松田さんねぎらい計画は続くん?」
 最後のアイスの一口は、計画者に譲ることにした。カップの底まで丁寧にすくい、スプーンに乗せるとちょうどいい量になる。
 ──この一ヶ月、ときどき帰りが深夜にさしかかることが多かった。山田に「今から帰る」と連絡を入れるのも、疲れ切ると面倒が勝って三日おきくらいになり、帰れば静まり返った家で、山田がソファで寝落ちているという姿を何度も見た。「待たんくてええ、夜は寝とき」と言うと、ベッドに運んだ痩身は身を縮こめて、「そういうときは、まず待っててくれてありがとうって言うんだよ」と生意気でもっともなことを言い、口を尖らせていた。
 けれどその日からちゃんと寝ているようになり、今度は冷蔵庫の作り置きが増えた。なかなか食べられないこともあったが、無言のいたわりは圧にも感じず、早くこの忙しい時期を終えて休みになってほしい、とそればかりが募った。仕事人間で、多少無理してでも時間を食いつぶしながら働いていた自分がだ。
 決して胃袋を掴まれたのでも、肌に溺れたのでもなく。山田は単純に、面白い男だからそばにいれば楽しい。今日のように、突拍子もないことを考えつくのもこいつならではだ。
「計画ってほどでもないんだけどね」
 山田が近づき、さっきまであんなに大事そうに抱えていたアイスの容器を簡単に押しのけ、浴室の床に置く。溶けたバニラの香りが広がった。
 山田がその場でシャツに手をかけ、服を脱ぎ始める。剥かれた体は相変わらず薄く、湯船に入れば溶けてなくなるのではないかと思った。先ほどのアイスのように。
 だから服を浴室の外へ置き、戻ってきて「交代」と言って浴槽へ入ろうとする山田をやや強引に引き寄せた。二人で入れば狭くてあふれる。湯が音を立てて排水口に流れていく。
 んはは、と笑った山田が俺の手を腰へ、腹へ運び、
「たまにはいいかなと思ってさ、お風呂」
 そして濡れた下腹部へ誘い、跨ってくる。山田の顔には、行為とは裏腹のあっさりした笑いが浮かんでいた。
「アイスはなんやったん。今からすんなら、風呂出た後でも良かったやろ」
 とお預けを食らっていたことを恨むようにぶつけてみると、さっきまで触れられなかった白さが、浮いたあばらを呼吸で動かして喋るのがわかるほど、体をくっつけている。
「良くない? ここで食べたらあれだけの量でも体冷えないし、キスしたら甘くなるし」
 それはまぁ、そうやけど。正論なんだかわからないその発言は、いつもの賢い山田らしさ、というより、無茶や無謀を好む山田らしさの方が垣間見える。
 ただ、
「お風呂出たらご飯だよ」
「おう」
「その後はベッド行こ」
……ん」
「昼まで寝ていいよ」
「わかった」
「洗濯物だけ、干すの手伝って」
「わかったから、なぁ、もうええか?」
 これ以降の予定を指示され、従順に頷くも、とうとう堪え性なく聞いてしまう。入れるからな、ではなく「入ってもええやろ?」と他責気味に問うと、山田の笑いはいっそう高くなる。
「指示待ち、話聞かない、責任転嫁」
「なんとでも言え」
 普段の仕事の姿勢とはおおよそかけ離れた言葉だ。まさに怠惰が皮膚をつけているだけ。それでも、山田は呆れずにその甘い舌でキスをくれた。
……お仕事、おつかれさま」
「おう」
 そのやわらかい肌を舐めると、さっきのアイスの味がするように思えた。