あんころ
2025-10-28 23:12:22
2477文字
Public 伊奈スレ
 

ゆめゆめ、

まだ付き合うとかない、戦後やや不穏同居伊奈スレです。まだあんまりそんな気配がないしスレインが否定しようとしていますが、将来的に伊奈スレです

「スレイン」
 あ、夢だ。
 目の前の男に名前を呼ばれて、僕――スレイン・トロイヤードは確信した。だって彼はこんなふうに名前を呼んでこない。こんな風に、目を覆いたくなるような顔もしない。まだそれを受け入れるのが難しい愚かな男に向けて、愛おしいと、好きだと感情を溢れさせるようなヘマはしない。
 だから夢だ。
 けれど夢なんだとしたら、これは僕の願望の現れなんだろうか。彼にこんなふうに名前を呼んでもらうことが?
……スレイン?」
「いや、なんでもない」
 主観的な状況を説明するのも無駄だと判断してそうはぐらかす。現実の界塚伊奈帆であれば、「そう」とひとこと落として終わりだろう。まばたきの一つくらいはするかもしれない、その程度。けれど、夢の中の界塚伊奈帆は眉を寄せ少し口角を持ち上げて、そう……困ったような顔をした。見慣れてしまった童顔よりも、僅かに大人びたかたちの輪郭。人間らしい表情の起伏。記憶にあるそれより大きいてのひら。それにそっと体を引き寄せられて、僕よりも高い体温がじわりと混ざる。
 なるほど、これは未来の夢だ。そう理解した。
 未来、将来。考えもしなかった、あると思いもしなかった先の時間の可能性。時間を先取りする夢を見るなんて非現実的だけれど、ほんの近くの未来視なら何度も経験したことだし。所詮は現実と切り離された夢の世界の話だ。未来のひとつをシミュレートしてしまうことくらい、あるのかもしれない。

 そして、気づいたことがもう一つ。僕とこいつは部屋の中で、ひとつしかないベッドで一緒に寝ているらしい。ふかふかのベッドからは洗いたての香りがするし、見慣れぬ遮光カーテンのほんの僅かな隙間から陽の光が溢れている。一つの布団に包まれて密着した体温は混ざりあって、こっちまで熱を上げ始めている。
 正確には今の――眠っている僕自身の体も同じ状況にはあるのだけれど、こちらは監視目的だ。短絡的で衝動的な自殺未遂を繰り返した末の、必要な措置として実施されている。
 けれど夢の中の同衾は、現実のそれとは明確に異なる。はぐらかした僕の言葉に困ったような表情を見せた界塚伊奈帆は、何とも形容しがたい雰囲気を纏っていた。僕はそれを知っている。恋とか好意とか、そう呼ばれるものが見せる色だ。今の僕らの間にはないものだった。
 日常の中で界塚伊奈帆から「そういう」気配を孕んだ目を向けられている自覚はあったが、何か実行に移すような素振りは全く見せなかったし、僕にもその気はなかった。僕が気付いたその瞬間に彼自身によって閉じられてしまうような、遠慮がちでコントロールされた視線だった。だから彼のその間違った方向に向いてしまった熱も、そう遠くないうちに消火されると思っていた。
 なのに将来の僕たちはこうなってしまうらしい。

 道を誤っている。界塚伊奈帆も、僕自身も。
 けれどそのことについて、起き上がって言葉をまくし立てて否定しようという気は不思議と起こらなかった。
 どうせ、起きて数時間もすれば忘れる夢だ。夢である以上、このスレイン・トロイヤードが何をしようとも現実には影響しない。どんな選択をしても、世界は何も変わらない。
 ……なら、このふざけていて間違っていて嘘のような微睡みを、わざわざ壊すことはないんじゃないか。認めがたいけれど、僕を大切にしたくて苦心している男に応えてもいいのかもしれない。

 立ちすくんでしまいそうな心臓を焚き付けて、引き寄せられた腕の中に潜り込んで頭をぐいぐい押し付ける。普段積極的に触れようともしてこない男の体温は新鮮だ。ほんの僅かな息苦しさを無視して顔を埋めると、笑うような気配とともに温かい体が震えるのが伝わってくる。
「なに、まだ寝る?」
 二度寝する、つきあえ。そう言ったつもりの言葉はふにゃふにゃと輪郭を失っていた。夢の中でも眠れるのか、それとも覚醒に近づいているのか。どちらにせよ弛緩した体はもう動きそうにもなかった。遠くなる感覚が、抱きしめ返されたことを薄ぼんやりと伝達している。
……まあ、いいよ。朝ごはんは一緒に作ってね」



 何かに引きずられるようにして目を覚ます。二人で眠っていたはずのベッドは、痛いほどに冷え込んでいた。心臓がバクバクと響いてうるさい。遮光が弱いカーテンを通り抜けた陽光が、部屋をぼんやりと明るく照らしている。
 まだ寝ぼけている心身を叩き起こしてベッドから這い出ると、トーストの香ばしいにおいが漂っていた。
 朝食を一緒に作るという約束を反故にした、と一瞬の罪悪感が脳を突く。けれどすぐに覚醒した思考がそれを否定して、ようやく自分が今どこにいるかを思い出す。息が詰まるような気がして手癖のように胸元に手が伸びるが、そこに掴めるものは何もない。就寝時は危ないから外すようにと言われて、父の形見はベッドサイドに置かれていた。鎖を掴んで首にかけてようやく、夢との境界線が引かれていく。
 馴染みのあるドアを開けてリビングに顔を出すと、片方だけの視線が素早く全身を駆けた。
「おはよう、スレイン」
……おはよう」
「難しい顔をしている。悪い夢でも見た?」
 表情になんて浮かべたつもりはないけれど正確に言い当てられていっそ不気味だ。あの機械製だという左目もないくせに、界塚伊奈帆の観察眼はいつだって僕を射抜く。
 ――悪夢。間違いなくそうだったけれど、ただそれだけではなかった。少なくとも、嫌悪すべき悪ではない。それを隠さずに伝えても許される筈だ。
「まあ、そうだな。……でも幸福な夢だった」
……そう」
 ほんの少しだけ見えた表情は、夢の中で見たあの彼と同じで、けれどほんの少しだけ強張ってまだぎこちない。
 一瞬でその表情をしまっていつもの無表情に戻ったこいつが、夢の中の界塚伊奈帆のように笑う日は来るのだろうか。あんな幸福な時間に浸る自分なんて考えたくもない可能性だったけれど。あの彼は可愛かったなと一瞬思ってしまったから、僕はきっとまだ寝ぼけている。