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Nagisa_burn
2025-10-28 22:29:55
26618文字
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祈り手を折る
消失篇から分岐する穏やかめな再教育√Qです。ユハ一とメゾンドからの矢印がベース、一護愛され気味です。(未完)
⚠️自傷行為、嘔吐などを含むPTSD描写、モブの死亡表現を含みます。
きっと、何もかも、間違っていたのだと思います。
何もかもです。行動も、言葉も、存在も。おそらくは、ここにいることそのものが、否定するに値する事象でした。有り体に言ってしまえば、生まれてきたことが間違いだったのでしょう。
そうでなければならない。そうでなければ俺は耐えられなかった。いいや、嘘です。耐えられてなんかいない。苦しくて、悔しくて、悲しくて、痛くて、泣いて泣いて泣いて、泣くことしかできずに、
……
。
いつだったか、父が言いました。また護れなかったと、そこで座って泣くのかと。
まさに、その通りでした。俺は弱くちっぽけで、馬鹿みたいに騙されやすく、利用価値のあるガキでした。少なくとも、ありとあらゆる手段を使い、根こそぎ奪い取ることを画策する程度には、いいカモだったというわけです。本当に、お笑い種でしかない。
雨は嫌いでした。今も。何もかも奪われて、そういう日はいつも雨。
謝れと言われました。何度も、たくさん、いろんなひとに。友人は大切です。仲間は大事です。家族のことを愛しています。けれど、その大切で大事で愛するひとたちは、俺のことは、べつにそこまで大切でも大事でも愛してもいなかったようでした。世の中で、それも人の心という移ろいゆくもので釣り合いが取れることのほうが珍しく奇跡的なのだと思います。だから、それについては、もう、どうでもいいんです。
ただ、謝ることだけは、できませんでした。口は固まり、舌は震え、声を出すことを拒みました。羽交い締めにされ、顎を掴まれ、雨でぐちゃぐちゃになった地面に膝をついて頭を下げさせられても、喉の奥からその言葉はこぼれ落ちませんでした。
友人たちは、それがひどく、気に入らなかったようです。すでに裂かれていた傷口を抉り、恐ろしいほど冷たい目をして、去っていきました。何もかもを壊して回った男たちも、いつのまにか消えていました。
涙は、もう出ませんでした。出ていたとしても、雨でわかりません。
俺は笑いました。笑うしかなかった。さっきまであんなにも詰まっていた喉がひらいて、声を上げて笑いました。こんなに笑ったのはひさしぶりでした。
父が、遠くから走ってくるのを見たところで、記憶は途切れています。そのあと、父にどんな迷惑をかけて今に至るのか、恥ずかしながらあまり覚えていません。狂った息子を家に戻すのも、娘たちの非難を受け止めるのも大変だったでしょうに。本当に、申し訳なく思います。こんな役立たず、さっさと見限ってくれればよかったのに。
主治医の■■さんは、きみのせいじゃない、と言いました。
何度聞いても、うまく聞き取れなくて、笑って濁しました。首にかかっているネームプレートを見ればわかるはずなのですが、文字も、なんだか滑ってしまって読めません。それを素直に伝えると、■■さんはつらそうにして、黙ってしまいました。一度、手を伸ばされたときに暴れてしまったようで、■■さんはいつも撫でてくれようとするのですが、最後には拳を握ってしまいます。申し訳ないと思います。暴れたことも、名前すらわからないことも、貴重な時間を割いてもらっているのに、それを浪費するばかりでなにも返せないことも。
ごめんなさい、と、■■さんには言えました。■■さん相手にはすらすらと口にできたので、これ幸いと何度も言いました。だって、間違っているのは俺なんですから、俺が謝るべきなのです。診察はいつも、それで終わります。
待合室にいる父とともに家に帰り、妹たちの視界に入らぬよう部屋に戻るのがうまくなりました。食欲もなく、気力も湧きません。これじゃあだめだという気持ちはありますが、こんな俺が学校に行って、みんなを不快にさせるのは嫌でした。俺にだって、人並みに恥はあります。これ以上、みじめな思いはしたくないのが、本音です。
そうすると、自然と部屋から出なくなります。かといって何をする気も起きず、ベッドと壁の間に座り込んで、じっと床の木目を見つめるだけ。昔から、座り込むのは得意でした。本当に、馬鹿の一つ覚え。
俺が動けずにいる間も、太陽は昇るし月は沈みます。視界に入るようになったので、髪はそれなりに伸びたようですが、鏡は全部捨てたので、どうなっているかはわかりません。カーテンは閉め切ったので、窓に映ることもない。見たいとも思わないので、問題はありません。
ある日、父が悲壮な顔をして、やってきました。ドアを叩き、ドア越しに名を呼んで、父しか回すもののいなくなったドアノブを回して。
そうして目の前に膝をついて、父は言いました。尸魂界に喚ばれたので、しばらく家を空ける、と。何かあれば必ずすぐに飛んでくるから、これを強く握りしめろと、御守りを手に持たせて。
「ごめん、ごめんなあ、一護。
……
絶対戻ってくるからな。だから一護、ゆっくり寝て、ゆっくり休め。■■には連絡を入れておくから、何かあれば頼るんだぞ。父ちゃんはおまえの味方だからな」
俺は、笑えていたでしょうか。毎日毎日懲りずに息だけをしていると、何もかも忘れてしまって。
ただ、いってらっしゃい、は、言えたと思います。そう信じたいです。声に出そうと思って、口をあけたので。
父がいなくなると、いよいよこの部屋に訪れる者はいなくなります。静かな家でまどろんで、起きて、また眠って。頭はもうずいぶん前から霞みがかっていました。体ももう、ずっと重くて。
ふと、夜中に目が覚めました。天啓だと思いました。そうだ、父はここにいないのです。妹たちからも、虫を見るような目で見られます。俺ははやく消えてしまいたくて、生きているのが恥ずかしくて申し訳なくて。
ならば死ねばいいのだと、ここで初めて気づきました。俺はとんでもなく馬鹿なので、今まで気づきもしなかったのです。そりゃあ、呆れもされるし馬鹿にされるし、虫けら以下だと思われるでしょう。
引き出しを開けると、カッターとハサミがありました。とはいえ、この体はそれなりに頑丈です。腹を裂かれても生きているのに今さらこれで死ねるだろうか、と思いつつ、何事もやってみなければわからないと、カッターを繰り出した俺は柄を握りしめ、『せーの』と勢いをつけて、気前よく首を狙いました。
ぶつん、と。ソーセージに、フォークを突き立てたときのような。それからまず、熱い、と、思って。
「
―――
まったく。目が離せんな、おまえは」
黒。
第一印象は、それでした。時間が止まったかのように、カーテンの隙間からわずかな月明かりが差し込む部屋は、一瞬で闇に包まれました。
手首を掴む男は、呆れたような声でそう言うと、汚れたカッターを奪いました。床に落ちて、耳障りな音がして。心臓に合わせてどくどくあふれる血が熱くて、頭がぐらぐらして、その場に座り込みました。手首は掴まれたままだったので、中途半端な膝立ちで。
「哀れだな」
どこかで聞いたような声でした。目は、よく見えません。暗いし、霞んでいるしで、あまりわかりませんでした。
「どうせ捨てる命ならば、私に捧げろ。私のために生きろ、一護」
ただ、言葉に、嘘はありませんでした。労りも、気遣いも。だからこそ、その声はからっぽの体にすとんと落ちて馴染みました。
必要とされるのは、幸福なことです。俺にはもう得られないもの。得られないはずのもの、でした。だから俺は。
俺は馬鹿で、この期に及んで、幸せになりたいと思ったのです。苦しいのも、悲しいのももう嫌でした。死んで楽になりたかった。それが駄目なら、せめて幸福になりたかった。その形も資格も、もう失っていたけれど、俺はきっと、だれかにゆるしてほしかった。
何もかも、間違っていたのかもしれません。何が正しかったのか、どうすればよかったのかは、今もまだわかりません。きっとこの先も。
ただ、差し出されて、そうっと握りしめた手は、あたたかかったのです。
それだけは、嘘じゃなかったんだ。少なくとも、俺にとっては。
*
曰く。男のひとは、皇帝様、のようでした。
長い金の髪の人や、ほかの人。軍服を着た人たちから「陛下」と呼ばれていて、一番偉いのだということだけはわかりました。
「我が名は■■■■■■。歓迎するぞ、一護」
名前は、聞き取れませんでした。それを素直に伝えると、顎に手を当てて何かを考え込み、ちいさく「奴の仕業か?」と呟きました。けれどこれは、■■先生でも起きていたことです。続けてそう伝えれば、皇帝様は眉をひそめて、それから何かを納得したようにうなずきました。
「なるほど、理解した。傷は深いか」
「
……
?」
「こちらの話だ。私のことは好きに呼べ、私以外の者も同様に。聞き取れた際は名を呼べばいい」
「
……
はい、ありがとうございます、
……
陛下?」
「ふ、
……
今はそれでよかろう」
案内された部屋は、自室として使っていいとのことでした。家のリビングより広くて唖然としていると、金髪の人がてきぱきと案内をしてくれました。浴室と洗面所の使い方。キッチンと寝室の仕様。扉の鍵は陛下と、陛下の右腕らしいこの金髪の人、それから俺にしか開けられないそうです。クローゼットと戸棚の中にあるものは好きに使っていいとのことでしたが、クローゼットを開けた側近さんは、軍服が数着並んだそれを見て眉をひそめていました。曰く、動きやすく負担にならない軽い服を用意します、とのこと。申し訳なくて頭を下げると真顔のまま慌てていました。たぶん、きっと、いいひとです。
ベッドはふかふかでした。清潔な洗剤のにおいがしました。俺がぼんやりしているうちに手当てが終わっていた首に触れてから、これからどうなるんだろう、と思いつつ眠りに落ちました。それが一日目。
―――
いいえ、それでは終わりませんでした。
場所を変えても、頭は変わらない。もう何度も何度も、毎日嫌というほど見た、同じ夢。実際のところ、夢ではなくすでに起こったことの再演です。もう今さら仕方のないことだっていうのに、どうして繰り返すんだろう。
謝れ、謝れ、謝れ、謝れ、謝れ、謝れ、謝れ。
大合唱が耳から脳まで全部揺らして、足もとがおぼつかなくなって。逃げるようにして走り出した先にはなんにもなくて、背後から伸びてきたたくさんの腕に掴まれて、それで。
飛び起きて、ゴミ箱を探す。けれどいつもの位置に見当たらない。そうして自分が今どこにいるのかを思い出して、トイレに駆け込んだ。便器を掴み、胃液だけをぶちまけて、嗚咽して。
背中に滲む汗が気持ち悪い。寒い。口のなかが酸っぱい。頭が痛い。うるさい。だれか。だれか助けて。寒い。寒い。寒い。痛い。いたい。
「一護」
大きな手が、背中に触れる。びくりと体が跳ね上がり、ひゅ、と吸い込んだ息で思い切り噎せた。そのまままた胃液ばかりの嘔吐をする俺の背と頭を、あたたかな手のひらが何度も往復する。
「驚かせたか。
……
落ち着け、息をしろ」
「ッ、ッぇ、げほ
……
っ! ッ、っひゅ、ッ、はあっ、は
……
っ」
「そう、ゆっくりだ。私に合わせろ」
「は、はー
……
っ、は、ぁ、
……
ッ、
……
ッは、」
声に合わせ、呼吸を繰り返す。便器を掴む手は冷え切っていて、そこに重ねられた手が熱かった。大きくて、ごつごつしていて、
―――
不思議と懐かしい、大人の男の手だ。
「
……
は、は
……
ッ、ッ、
…………
へい、か、」
「どうした」
「ごめんなさ、い、こんな、きたない、」
「そうか、
―――
おまえはその状態でも、他者を慮るのだな」
「
…………
?」
「良い、許す。私はおまえのすべてを許そう」
―――
なにを、言われたのか、わからなかった。
ただ、冷えきってきた体がどくんと音を立てて、胸の奥が揺れた。顔を上げた先、真っ赤な瞳と目が合って、そこに一切の濁りや混じりけがないことに気づいてしまった。
「
……………………
ぁ、」
ぼろぼろとあふれ出した涙が、顎を伝い服を湿らせ、床までも濡らしていく。止められなかった。目を逸らすこともできず、ただ涙を流しながら、ひさしぶりにまともに動き始めた心臓の音の大きさに酔う。
「一護。おまえは、なにも悪くない」
■■先生にも、父にも言われた言葉が、指の先にまで染み渡る。
耐えきれなくなって、吐瀉物と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔と体で、目の前の男に抱きついた。縋るように、祈るように、愛を求める子どものように、情けなく。
怒ることも機嫌を損ねることもなく、男はずっと、一護を抱きしめては頭と背中を撫でていた。幼い裔の子が泣き疲れて眠るまで、ずっと。
「
…………
さて、」
横抱きにして抱えた子どもをベッドシーツの上に横たえる。一度風呂にでも入れて汗を流してやったほうがいいだろうが、今の精神状態では悪手になりうる可能性があった。見通すのは簡単だが、先が分かりすぎてもつまらない。それでなくとも、これは道筋を逸れた未来なのだ。楽しまなくては損だろう。
治療を終えて包帯を巻いた首もとが熱を持っていることを確認し、顎に手を当てる。朝食はスープにするべきか。起きてくるのを待つのもいい。どうせ、ここから逃げる気力も体力もないのだから。
今後のことを考えながら、ユーハバッハは腰かけていたベッドから立ち上がった。去り際に手の甲で頬を撫で、目もとに手のひらをかざす。
「眠れ。これで夢も見ないだろう」
赤く腫れたまなじりに目を細め、今度こそ部屋のドアへ向かう。ベッドの中で眠る子どもは、身じろぎひとつしなかった。
まばたきを繰り返して、たぶん、五分は経った。
ここはどこだろう、と、思考をめぐらせる。寝起きの頭が動き出すまでには時間がかかり、これまでのことを思い出すのにはもっと時間がかかった。
たっぷり二十分かけて現状を把握して、そろりと身を起こす。一人で眠るには大きすぎるベッドの端までずりずりと這って足を下ろし、ご丁寧にも用意されていたスリッパにつま先を引っかけた。ふらつく体をどうにか動かして窓際に寄り、カーテンを引いて。
「
…………
う、わ
……
」
眼下に広がるのは、異国情緒あふれる街並みだった。
海外のどこにも当てはまらない。強いて言えばヨーロッパだろうか。日本では見ることのない石造りの建物が所狭しと並び、放射状に街を形成している。緑はほとんど無いに等しいが、曇り空の合間から覗く光に照らされた白い街は、ひどくうつくしいものに見えた。
ふらり、誘われるように窓枠に手をかける。鍵を開け、窓を開け、朝の空気を吸い込みながら目を閉じて。
「
―――
殿下!」
ぐん、と、体が後方に引っ張られる。倒れるかと思ったが、なにかに阻まれてそうはならなかった。予想していなかった動きに目がちかちかして、どっと冷や汗があふれ出す。
「申し訳ありません、ノックはしたのですが
……
。お怪我は」
「
……
な、い、です」
心臓の音がうるさい。ほとんど座り込むようにしてもたれかかれば、安堵したような息が降ってきた。恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは昨日親切にしてもらった金髪の男のひとで。
そこでようやく、自分がどう思われてこうなったのか、という事実に気づいた。
「
…………
あ、
……
ごめんなさい、俺、」
「いえ、私も手荒な手段を取りました。
……
抱えますので、失礼します」
へたりこんだ体を軽々と抱き上げられ、ベッドのふちに座らされる。まだ心臓がばくばくしていて、指先が震えていた。
「
……
外が、綺麗で、つい。ごめんなさい」
「謝る必要は、
……
では、お体の調子が良くなりましたら、城下を案内いたしましょう。城の中のほうが先ですが」
「
……
、
……
? 城?」
「? ええ。我が主、■■■■■■様が御座す城
―――
……
名を銀架城といいます。殿下がおられる、この建物の名称です」
「
……………………
、
……
殿下?」
「はい」
座る一護に視線を合わせるようにして膝をつき口をひらいていたおとこが、不思議そうに首を傾げる。涼やかで気品のある相貌に加え、騎士然としたこの態度がおそろしく様になっていた。
いいや、違う、そうではない。そうではなくて。
「
…………
ここ、お城、なのか?」
「こちらへお戻りになったときはあの様子でしたから、無理もありません。体調は如何ですか? 問題なければ、朝食を運ばせますが」
「あ、と、はい。大丈夫です」
「では、少々お待ちください。
……
ああ、お体は冷やさぬように」
流れるような手つきで、ばさりと男が身に纏っていた外套を羽織らされる。一護の肩から背中をすっぽり覆ってシーツに広がったそれを半ば呆然と握りしめながら、もう一度、窓の外を見た。
この位置からでは、空ばかりが広がる景色。そうだ、あの街並みは眼下にあった。まるで、小高い丘や山の上から見下ろしたような。あるいは、ひどく背の高い建物から覗き込んだような。
「
…………
」
ぼすん、と、ベッドに沈む。天井が高い。殿下、というのは、想像する意味で合っているのだろうか。わからないことばかりで、思考がまとまらない。たまらず目を閉じて丸くなれば、外套の暖かさが身に染みた。
「殿下」
低く、落ち着いた声が鼓膜を揺らす。ゆるゆると揺蕩うようなまどろみのなかで、もう一度誰かが己を呼んだ。目を開けて、ぼんやりと霞む視界でまばたきを繰り返す。
「殿下、お体の調子は
―――
……
」
極めて弱い力で、大きな手のひらが肩を掴んで揺さぶった。一護のことを慮った、丁寧な動き。そのはずだったのに、伝わる体温と男の手が、あの雨の日を思い起こさせる。
ぞわりと全身が総毛立った。脳が覚醒し、触れていた手を弾き、飛び上がる勢いで体を起こして後ずさる。ベッドヘッドを背にして近場にあった何かを掴んで引き寄せて、身を守るようにして縮こまった。
「ゃだ、やめ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
……
! ッも、とらないで、ごめんなさい、おねがいします、ごめんなさい
……
ッ」
「ッ殿下、」
「下がれ、■■■■■■■■」
「
……
はい」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんな、さ
……
っ」
「一護」
名を呼ばれ、肩が跳ね上がる。布にくるまりながら震える体が太い腕に抱かれ、暴れて逃げ出そうとしたところを抑え込まれる。ほとんど悲鳴混じりに身を突っぱねてもびくともしない男の手が背に回り、癇癪を起こした子どもをなだめるように往復した。
「落ち着け。ここにおまえを害する者はいない」
「ゃ、め、ゆるして、ごめんなさい、ッ、ごめ
……
ッ」
「一護、私を見ろ」
「ッひ
……
!!」
両頬を、大きな手のひらで覆われる。顎を掬われるようにして上を向かされれば、男の赤い目に射抜かれた。その色が、宿るひかりが、いつかどこかで見たもののような気がして息をとめる。
「雨は降っていない」
男の言葉は、唐突だった。流れもなにも汲まない、ただの事実。
「ここに、おまえの敵はいない。我らをそう思うのは自由だが、今この場において、我らはおまえを傷つけない。そうする意味がないからだ」
「
……
は、ッ、
……
っはあ、
……
、
……
?」
理解は遠い。言葉の意味はわからない。ただ、害意も敵意もないことだけは、ありありと伝わった。乱れた呼吸が少しずつ落ち着いてゆくのに合わせ、頬に触れていた手がゆっくりと離れていく。
「朝食だ。席につこう」
「陛下もこちらでよろしいので?」
「ああ、構わん。せっかくの機会だ」
「ではそのように。
―――
殿下、失礼します」
「あ、」
頭を下げて踵を返そうとした男の背に声をあげる。ぴたりと足をとめた彼を見て、己が手に持っているそれを見て、もう一度顔を上げた。
「そ、の、
……
すみません、でした」
「滅相もありません。殿下のお世話が、当面の私の役目ですので」
「それと、これ、ありがとうございました」
おずおずと、外套を手渡す。涼やかな目もとがふ、と緩められ、それから男は恭しく受け取った。ばさりと音を立てて羽織られたそれは、やはり持ち主の背を覆っているほうがよっぽど気品よく見える。
「あの、
……
名前、」
「■■■■■■■■と申します」
「
…………
、っ、」
「聞こえぬか」
「
……
はい、その、」
「私のことはお好きなようにお呼びください。お伝えが遅くなりましたが、敬語も必要ありません。貴方の従者のようなものですから」
名乗ってもらっても、ノイズが走ったかのようにそこだけが欠落する。どうすれば改善するのかもわからず服の裾を握りしめれば、黒い男が「そうだな、」と口をひらいた。
「仔細は後に話すが、その者はおまえの遠い兄のようなものだ」
「
……
、え?」
「そう思うほうが呼びやすいだろう。今のおまえにはな」
ぱちぱちとまばたきを繰り返す。兄のようなもの、と称された男は、眉を寄せて「陛下」と苦言を呈したが、それきり口を閉ざした。それらを見て、考えて、床ばかり見つめていた視線を上げる。
「
…………
じゃあ、
……
兄さん。名前、聞こえるまでは。
……
いいか?」
「
―――
ええ。では、私はこれで」
頭を下げて、男
―――
……
仮初の"兄"は今度こそ部屋を出ていった。それを見送ってから、のろのろと食卓につく。用意されていたのは、未だ湯気を上げるスープと柔らかそうなパンだ。
「
……
あのひと、嫌だったかな」
「不快なことをそのまま受け入れるような男ではない。案ずるな」
「
…………
これ、治るかな」
「それはおまえ次第だ。呪いや能力の一種ならば私が手ずから弾いてやったが、心因性のものはそうはいかん。おまえがそう望み続ければ、いずれ光明も見えるだろうよ」
「
……
うん、
…………
あ、すみません、俺、」
「堅くなるな、必要ない。それより先に食事にしよう、いい加減、冷めてしまうからな」
一護の言葉を遮って言い切った男が、手本でも見せるかのようにさっさと食事を始める。スプーンでスープを掬って口に運ぶさまをじっと見て、一護もまた己の器に視線をやった。
深い琥珀色のそれは、コンソメスープのような香りがした。一護にも馴染みのある、家庭料理の範疇だ。小さく切られた野菜と鶏肉が入っており、おそらくはパセリであろう葉が浮いている。それを恐る恐る掬って、意を決して口に運んだ。
「
……………………
、
…………
おいしい、」
あたたかい料理を、ひさしぶりに食べた。
飲みこんだ先から染みてゆくようだった。じんわりと、冷え切っていた体に熱が灯る。煮込まれた鶏と野菜の味わいが、長らく機能していなかった空腹感を呼び起こしてゆく。
「おいしい、です、
……
こんな、の、っすげえひさびさ、っ、で
……
」
「そうか」
ぼたぼたと涙を流しながらスープを口に運ぶ一護のことを、男は笑いも嘲りも、心配もしなかった。ただうなずいて、それだけ。それでよかった。それがよかった。
鼻水を啜り、袖で涙をぬぐい、息を吐く。ちぎったパンを浸して咀嚼する。少しずつ少しずつ、固まって眠っていた体が起きてゆく。
食べることは生きることで、生きることは食べることだ。
そんな当たり前のことを今更思い知りながら、一護はずいぶんと久しぶりに、
―――
まともな生命活動を再開した。
ゆっくりと時間をかけて食べ終えて、まず覚えたのはなんともいえない居心地の悪さだった。会って間もない男の前で醜態を晒し、なおかつそれを咎められない。意味もなく椅子に座り直したところで、そもそもどうして見ず知らずのこの男にここまで気を許しているのか、という当然の疑問が湧き上がった。久しぶりに食事をしたからか、活動を抑え込んでいた頭が回り始める音がする。
「足りたか」
「えっと、
……
はい。ごちそうさまでした」
「ならいい。では、話をしようか」
「はなし、」
「そう。おまえのこれまでと、これからの話だ」
男がテーブルの上で指を組む。不思議と、すべての所作がさまになっていた。自然と背筋を伸ばした一護を見て、男の口角が上がる。
「だが、一度に話すには多すぎる。おまえの様子も鑑みて、
……
そうだな。問答はふたつまでに限定しよう。私が話すことに制限はないが、おまえからの問いに答えるのはふたつまでだ」
「
……
、」
「さて、
―――
まずは前提だな。この国の名は見えざる帝国。私が治める、私の国だ。帝国の中央に位置するこの城を銀架城という。ここまでは、彼奴に聞いているな」
ぎこちなくうなずく。それらはすべて、金髪の男
―――
……
兄、らしいあのひとが教えてくれたことだった。
「私の名はすでに明かした。いずれおまえにも届くだろう」
「
……
あの、」
「なんだ」
「陛下、は、
……
何者なんですか」
「それはひとつ目の問いか?」
「
…………
はい」
「よかろう。
……
これについては、見せたほうが早いな」
椅子から立ち上がった男が、距離を保ったまま手を空中にかざした。瞬間、青白い光がその手のひらに収束し、弓の形をつくる。
「
…………
、
……
滅却師
……
?」
「そうだ」
巻き起こる風に前髪を煽られながら、一護は呆然と呟いた。目の前に在る光景は、一護にも馴染みの深いものだ。級友であり仲間である彼が扱っていた光の弓矢。何より、その手首から垂れ下がった五芒星が、男のことを如実に表していた。
「すべての滅却師は私の子に等しい。王と呼ばれるのはそれが所以だ」
「
……
滅却師の、王様」
「そうだな。そしておまえも、我が子にあたる」
「
……
、
…………
え?」
「生きとし生けるすべての滅却師には、私の血が流れている。おまえもそのひとりだ。おまえが殿下と呼び慕われるのは、他でもない我ら一族の裔の子だからだ」
「血、
……
こども、って。だって俺は、人間で、
……
親父は死神で、
…………
おふくろ、は
……
」
おとこが笑う。なにも言わない。一護の問いを、じっと待っていた。
からからの喉で唾を飲み込んで、視線をさまよわせる。空になった器と皿、曇りがちの空、綺麗なテーブル、だれかに似たおとこ。
「
…………
おれ、は」
手が震える。そうなんだろう、という朧げな確信と、そうであってほしくない、という願望のあいだで揺れる。だって、それが本当なら、真実なら、
―――
……
信じたものは、なんだったのか。
「おれは、
……
なにもの、なんですか?」
震える声で、王に問う。
ゆるりと笑ったおとこが口をひらくのを、その声が紡ぐ真実を、ただ呆然と、奇跡の子は受け入れていた。
*
忌々しくも、その雨が途切れたのは、あの男が訪れた時だった。
心の傷は精神世界に直結する。あるじの心を反映しているのだから当然だ。傷つけばビルは崩れ、悲しめば雨が降る。そして今、ほとんどのビルが崩れ去り、その残骸が血の雨の底に沈んだころ。
止むことのなかった赤い雨が、ふと途切れた。どれだけ叫ぼうと暴れようと届かなかった己の声ではなく、遠ざけることを願った凶星の声に、あの子どもは命を絶つ手をとめたのだ。
その事実が憎らしく、妬ましく、腸が煮えくり帰りそうになる。どうして貴様が。どうして。なぜ私の声は。どうして。一護。一護。一護。
ああ、けれど。それでも。
あの子が泣き止んだことには、どうしたって、安心して
―――
……
。
だから、そう、だから、だ。
いつかこのような日が来ることを、私はずっと前から知っていたのだ。
*
ノックののち、控えめに「殿下」と声がかけられる。返事をする気力もなく身を丸めて布団をかぶれば、失礼します、という断りののちにドアノブが回された。足音も、物音も、ごく静かだ。己のことを従者のようなものだと称した男は、一護が背を向けて無反応のままでいても態度を変えなかった。
「夕食をお持ちしました。軽いものを拵えましたが、不足やご要望があればいつでもお呼びください。不便がある時もなんなりと」
ベッドサイドに置かれたハンドベルのようなそれは、実際には楽器や雑貨の類いではなく、実用性を重視して作られた特別なものだった。一護が手にして鳴らせば、それがどれだけ小さな音であろうと、この男か陛下には届く。そういう造りになっているのだと、昼に訪れたときに彼が語ってくれた。
ぐ、とシーツを握りしめる。背を丸めて子どものように籠城する一護のことを、男はひとことも咎めなかった。呆れたような視線も、ため息のひとつもない。ごくごく自然に気を遣われていることがわかって、余計に胸の奥が痛くなった。
「
……………………
にい、さん」
「
―――
はい。どうされました、一護様」
絞り出した声に、一拍置いて返事が返る。扉のそばまで進めていた歩みを引き返した男が、ベッドのそばに立った。おそるおそる振り向けば、美しい湖畔の瞳と視線が合う。
「
……
あんた、は。
…………
俺に、なにをさせたいんだ?」
「
……
何、とは」
「みんな、そうだろ。俺になにかさせたくて、だから優しくて、
……
おれが、都合がいいから。馬鹿なガキで、使いやすいから、だから使って、ぜんぶおわったら捨てるんだろ。もういらないから、ゴミみたいに。それなら最初から、やさしくなんてしなきゃいいのに、なんで、」
言葉があふれて止まらない。ぼろぼろと落ちる湿った声に合わせて、明るい部屋がみるみる滲む。男が目を見開くのがわかって、恥ずかしくてみじめでどうしようもなくて、服の裾で何度も顔をぬぐった。それでも止まらなくて、ひ、ひ、と引き攣った音が部屋に響く。
「もう、やだ、なんで、
……
なんで、こんな
……
!」
やわらかな布が目もとに押し当てられ、擦っていた腕を弱い力でどけられる。ぎこちない動きで腰を折った男が、一護様、と名を呼んだ。
鼻の奥が痛い。胸が痛い。頭が痛い。擦り切れた心が、もうずっとずっと前から、じくじく痛い。
「どうして、ッ、ざんげつ
……
!!」
目の前の軍服にすがりついて、一護はわんわん泣いた。固まっていた手のひらがやがてそろりと頭を撫でて、その温度が深く刻まれた傷に染みて、また泣いた。どんどん湿っていく軍服にも構わず、男が一護を引き剥がすことも、突き飛ばすこともなかった。
『
―――
そうか。やはりおまえはなにも知らぬのだな。自身のことも、母のことも、おまえが持つ力のことも』
語られたのは、すべての真実。滅却師であった母のこと、母が死に至る原因となった聖別のこと、滅却師の王である男がそれをおこなったこと、数奇なうまれにより宿したいくつもの力のこと、そのうちのひとつが、斬魄刀のフリをして名を偽っていたこと。
『私の姿を見て、なにかを思い出さなかったか?
……
いいや、その様子では信じたくなかったのだろうな。無理もない、おまえはソレに、ひどく心をひらいていたようだから』
問答はふたつと制限された。けれど、男は"己はなにものなのか"という一護の問いについて、懇切丁寧に答えてみせた。その回答に至るためのすべてを詳らかにし、濁流に呑み込まれる一護を慮った。
『私のことが憎ければ、傷を癒してから来るがいい。簡単には明け渡してやらんが、その機会だけは与えよう。おまえにはすべてが許されている。ほかでもないこの私が、すべてを許す。そのことをゆめ忘れるな』
与えられたのは、短剣だった。金属製の、玩具ではない本物の。
斬魄刀とは似ても似つかぬそれで、つまりは男は、殺しに来いと言ったのだ。その権利があり、おこないを許されているのだと。滅却師の、この国を総べる王である男の首を狙っても良いのだと、そう言われたのだ。
泣いて、抱きしめられて、さんざん泣いて。
気づいたとき、部屋は暗くなっていた。一護の体はきちんとベッドの中におさまっていて、額には濡れた布が当てられていた。熱を出したわけではなかったが、純粋な、善意からくる労りだった。
泣きすぎて霞む思考のなかで、一護はのろのろと体を起こす。布団をどけ、床に足を下ろし、テーブルに置いたままのそれを持って、覚束ない足取りで部屋のドアノブに手をかけた。
―――
がちゃり、音とともに扉がひらく。月光が射し込む、誰もいない廊下をふらふらと進む。
どこへ向かえばよいのかは、どうしてだか心が知っていた。足裏から這い上がるつめたさに身を震わせながら、ひたすら進む。ここのところずっとうずくまって動かなかったせいか、少し進むだけで息切れがした。手に持つそれを取り落とさぬよう胸の前で握りしめ、時折壁に寄りかかって休みながらたどり着いた、その先。
重厚な扉の前で息を整えて、一護は意を決してドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。見張りも、誰もいない。
部屋の中は、静謐な夜に満ちていた。気位の高さを示すためか、所々に深紅が使われているが、一護の部屋と大きな変わりはない。ここだけでじゅうぶんに生活ができる部屋の奥、ひときわ目立つベッドの中に、目的の男はいた。
後ろ手で扉を閉め、息と足音を殺して進む。そばにまで寄れば、寝顔が見えた。かすかに上下する布団は、男が息をして生きていることを示している。
ぞわりと、体が震えた。渡された短剣を握りしめ、深呼吸を繰り返す。人魚姫の童話を思い出して、自分への似合わなさに笑った。
鞘を外し、持ち替える。月光を弾いてきらめく刀身は、磨きあげられて美しかった。反射した己の顔のあまりのひどさに眉を寄せ、ぐっと目を閉じる。
右の手を大きく持ち上げ、もう一度深呼吸をして
―――
……
そうして一護は、意を決して短剣を男の胸へと振り下ろした。
*
「すべてを許すと、告げたはずだが」
男の声が、暗い寝室に響く。床に膝をついてベッドに突っ伏していた一護は、頭に乗せられた手の感触にびくりと体を硬直させた。けれどその手は意外にも頭蓋を握り潰すことはなく、首に下りてへし折るわけでもない。ただゆるりと、猫の毛でも撫でつけるかのように、額から後頭部までを往復する。
「お膳立てされても出来ぬか。底抜けの善性だな」
呆れ混じりに笑い、男は体を起こした。的を外れ、顔のすぐそばに突き立てられた短剣を抜き、床に放る。「一護」と名を呼ばれ、おそるおそる顔を上げた。そうすることしか、できなかった。
「おまえはどうしたい?」
問いかけの形をしたそれは、けれど尋問に近かった。赤い瞳に見下ろされ、からからに渇いた喉に唾液を送り込む。
「
…………
斬月、と、話がしたい
……
」
「裏切られるとわかっていて、話したところで何になる」
「
……
それ、は」
「ソレは私の一部だ。私の力の具現、その末端。おまえが先程、終ぞ心臓を抉り出せなかった仇と同じ存在だ。それでもか?」
震える膝に力を入れ、崩していた足を揃える。視界の端、遠くにナイフが見えた。あんなものが無くても、この男がほんの少し力を込めれば、一護の頭は撃ち抜かれるだろう。滅却師の力を使えば簡単だ。そうでなくとも、ただ殴りつけるだけで、おそらくは。
斬月も
―――
……
斬月、だと名乗ったあの男も、きっとそうだった。滅却師の王。死神を憎む一族。であるなら、一護は内側から侵され、殺されていてもおかしくはなかった。けれどそうはならなかった。
『勝ちたいか?』
死の間際。あのとき、どうして男は、一護を見殺しにしなかったのだろう。どうして、生かす道を選んだのだろう。
『誰だ? 何を言ってる。私だ、■■■■■■だ』
初めて会ったそのとき、口にした動きは"斬月"ではなかった。ならば何故、どうして、斬月を名乗ることにしたのだろう。
「
……
知らないまま、終わりたく、ない」
声を振り絞る。頭を下げる。至近距離で見つめた床が滲んだ。声がくぐもって反響する。
「裏切られる、なら。
……
どうせならちゃんと、あのひとの手でこわされたい。そうしたら、
……
それならきっと、もう、馬鹿な夢もみないから」
「
……
まったく。おまえの思考は理解できんな」
何度目かのため息を吐いて、男は一護に顔を上げさせた。床から引き上げ、放るようにしてベッドに仰向けに転がされる。眼前にかざされた手のひらが恐ろしくてぎゅっと目を瞑れば、宥めるように指先で額をとんと叩かれた。
「ひとまずは、一度きりだ。おまえは未知数が過ぎる故、扱い損ねると面倒なことになる。
……
案ずるがいい、おまえが二度と戻れずもの言わぬ人形に成り果てたとしても、私はおまえをうまく使ってやろう」
言葉尻は愉しげだった。初めて見る実験に心を浮き立たせる子どものようで、暗闇に覆われた視界の隙間から覗く笑みを見て、一護は不思議と安堵した。
役に立てるなら、それでもよかった。どうせ、もう必要とされていない身だ。行くあてもなく、死にきれもしない。有用性を見出してもらえるなら、それだけで。
「ではな、一護。よい旅路を」
ぶつん、意識が切れる。重く深い泥の底へと落ちてゆく。
揺らぐ水面が遠くに見えた。口を開けると、ごぽりと気泡が吐き出される。不思議と水が喉奥に迫ることはなく、呼吸はおこなえた。けれど、それだけだ。
かつて水に沈んだ町は、今やその姿すらも消していた。摩天楼の影は遠く、慣れ親しんだ町の気配はない。ただ、底の見えない昏い穴に沈んでいく。水圧に押し潰されるようなことはなかったが、ただ、身を切るように寒かった。そして、もうひとつ。水が血のように赤い。だからといってどうということもなく、ただ、テクスチャがそういうものだ、というだけ。
ゆっくりと、落ちてゆく。水中を漂うわずかな空気の粒や滞留物を眺めながら、手足を動かすこともなく、一護は沈んでいた。水面はもうとっくに見えない。どこまでゆくのだろう。
目を閉じる。
「
――――――
……
一護」
どれくらい、時間が経っただろうか。
あぶくの弾ける音ではない、意思を持った声が聞こえて目をあけた。水流に身を任せ、仰向けで自由落下に勤しんでいた体に力を込めて反転させる。足を下に向けると、つま先に何かが当たった。どうやら、底のようだった。
「一護」
もう一度、今度ははっきりと。光の届かない海の底、暗闇の隙間で影が動く。目を凝らせば、ほんの少しだけ闇が薄れた。見たい、という意識が、世界に影響したのだろう。恐らく。
「
………………
斬月?」
シルエットがうつる。月光のような光が、射さないはずの底にまで届いた。水面の模様がゆらゆら揺れて、その表情があらわになる。
男は、唇を引き結んでいた。もう一度だけ名を呼べば、苦しげに眉を寄せる。それが、それこそが、すべてに対する答えだった。
「すまない」
膝から崩れ落ちた一護の視界の端で、足が動く。靴先が近づいて、距離が縮まった。顔を上げれば、手を伸ばせば届く位置に男が立っている。
「すまない。私にはもう、おまえにかけるべき言葉を持ち得ない。こんなにもおまえを苦しませ、こんなにも、
……
酷く、深く傷つけた。弁明の余地も無い」
「
…………
はじめから、」
「ああ、初めからだ。私は、
……
斬月ではない」
海は、揺らがなかった。月の光も。無音も。
ただ、一護は確かに、この期に及んで期待して背中に隠していた希望が、粉々に砕けた音を聞いた。
指が、唇が、勝手に震える。目の奥がじんと熱くなる。涙はこぼれず溶けて消えた。口角が勝手に上がり、笑い混じりの泡が浮かぶ。
「うん、
……
うん、わかった。わかった、よ」
「
…………
」
「
………………
最後に、ひとつだけ、いいか?」
「
……
私に、答えられるものなら」
男が目の前に膝をつく。視線を合わせてくれるのが好きだった。見下ろすだけでなく、対等であろうとしてくれていた。嘲られたことは一度もない。馬鹿にされたことも、罵倒されたことも。
―――
本当に? と、頭の奥で自分がせせら笑った。
「あんたの、名前は」
「
――――――
……
我が名はユーハバッハ。滅却師の王、見えざる帝国の皇帝、
……
その千年前の姿を象った存在だ」
長く一緒にいた男の名前ひとつ、知らなかったくせに。
一護の瞳から、光が消えた。
いいや、とっくに失われていた。絶望に身を浸し、生きるための気力を無くし、存在を否定され。まともな人間に耐えられる仕打ちではない。一護の心は、ずっと前から軋んで壊れ、血を流し続けていた。
最初に街並みが消えた。次に空が消えた。血の雨が降り続け、地面に値する場所だった底が抜け、凍てつくばかりの深海と化した。そこに存在するだけで身を掻きむしるほどの痛みと苦しみに襲われる、自責の墓場。
問いに答えた。それはつまり、己をその名と定めたと同義だ。借り受けていた銘は返すことになる。手続きも何もない、一方的なもので悪いとは思うが、どうすることもできない。
一護がここに来ることができたのは、ユーハバッハが力を貸したからだ。触れたところから滅却師の霊圧を僅かに浸透させたことで、ここに至るまでの道筋と切っ掛けを作った。故にこそ、死神と虚の力を司る男
―――
……
本当の"斬月"は、この深層まで容易には辿り着けない。
「私はおまえを護りたかった。その言葉にも気持ちにも嘘はないが、おまえを騙し、おまえの信頼を悪用し、おまえの心を弄んだのは事実だ。
……
許してくれとも、私を信じてくれとも言わん。おまえが望むのであれば、いくらでもこの身に刃を突き立ててくれて構わない」
一護の服装は死覇装でなく、現実で身に纏う寝間着姿だった。その細くなった手に刀を握らせれば、ひく、と喉仏が上下するのが目に入る。
「おまえを苦しめた根源を、おまえ自身の手で絶つといい」
瞳が揺れる。血の気のない唇が震え、何度も弱々しく開閉した。何かを言おうとしては声にならず、泡だけが弾けて消えていく。うつむいて己の手の中の刀を呆然と見つめる一護が、ぎゅ、とその柄を握りしめた。
瞬間。
―――
……
天より、一条の光が駆け落ちる。
「ッざ、けんじゃねえッッ!!」
重く苦しい水の壁を突破して、薄く細くなった力の糸を無理矢理に繋いで手繰り寄せ、ぼろぼろになった真っ白な男が轟音を立てて降り立った。ばっと顔を上げた一護の傍に控えるでもなく、怒りをたたえた男の拳が斬月の横っ面目掛けて繰り出される。
「こいつに何をさせる気だ! ンなこと望んでねえって、そんなことしたって誰も救われねえって、なんでこんな簡単なこともわかんねえんだ!! 傷つけたなら謝って償え!! 一度騎馬を名乗った男が、簡単に責任から逃げてんじゃねえよ!!」
必死の形相でまくし立てる白い男の言葉は、まっすぐな正論だ。王のことを考え、王のために名を隠し、ただひとりを護りたくて力を振るってきた紛れもない忠実な騎馬の姿は、眩しくて仕方がない。
言葉も行為も、甘んじて受け入れるべきものだ。そう思って脱力したのが余計に癇に障ったのか、ぎり、と歯噛みした男が胸ぐらを掴み上げてくる。そうしてもう一度、拳を振りかぶられて。
それが頰にまで飛んでこなかったのは、袖を引く手があったからだ。震えながら、顔色を蒼白に染めながら、それでも割って入る姿がそこにあったから。
「や、
……
やめて、くれ。もういい、もういいから」
「いいワケあるか! てめえは黙ってさっさと戻れ!」
「いいんだ、もう怒らなくていいから、
……
ッ、斬月!!」
白い男が、
―――
……
ほんとうの
銘
なまえ
を呼ばれた彼が、ぴたりと動きを止めた。死覇装を掴む手は血の気をなくしており、とてもではないが強い力などは込められていない。それでも、いいや、だからこそ。
「斬月、なんだよな。
……
俺がずっと、わかろうとしなかっただけで、
……
おまえは最初から、ちゃんとそう名乗ってた。俺みたいな奴のことを、
……
ッ、相棒、だなんて、言ってくれてた。なのに俺、」
「違う。自惚れんな、てめえのせいなんかじゃねえ」
「でも!
……
でも、ちゃんと、謝りたいから。今までごめん、斬月。
……
それから、ずっと護ってくれて、ありがとう」
一護が死覇装を離しても、男は
―――
……
斬月はそれ以上何も言わなかった。ただ、深くため息を吐いて一歩下がる。それがそばに控える仕草だと察した一護がぎこちなく笑って、一歩進んだ。動きに合わせて、一護を中心として赤かった水が透明度を増していく。
「斬月」
胸の前で両手を握り、恐怖を隠しながら、聞き間違えることのない声量で一護はその名を呼んだ。今しがた真名を取り戻した男に向けてではなく、眼前に立つ偽りの男に向かって、まっすぐと。
「
……
知らないまま終わるのは嫌だった。どうせなら、全部知って、それから終わろうと思ってた。でも
……
」
さらに一歩、距離が縮まる。水の冷たさが和らいでいく。
「なあ、ちゃんと話したいんだ。これまでのこと、これからのこと。俺は何も知らなかったから、
……
知りたいと、思えたから。あんたは違うと言うだろうけど、俺にとっては、あんたも斬月だから」
震えがおさまった手のひらが、男の手を掬いあげた。弱い力で握られて、はく、と、口端からあふれたあぶくが空を目指してのぼってゆく。
「あんたがよければ、一緒にいてくれ。弱くて情けねえ王で悪いけど、
……
あんたが、斬月たちがいるなら、もう一度がんばれそうだから」
「
…………
いいのか。私は
……
」
「うん。俺こそ、また何度も迷惑かけると思うけど」
「ハッ、それこそ今更だろうが。何回てめえのケツを拭いてやったと思ってんだ」
「わ、悪かったよ
……
。でもおまえも、ちょっと怖すぎたからな!」
「ハイハイ。
……
で? 王がこれだけ望んでんだ。まさかここから逃げ出すなんてこたァねえよなあ?」
「
……
ああ、一護が望むならいくらでも。本当にすまなかったな」
「もういいって、俺のためだってことは、わかったから。
……
でも、もうちょっと時間をかけて話したいかな」
「それより先に世界の修復だろ。もっと食って風呂入ってちゃんと寝ろ、不健康ったらありゃしねえ!」
まだうまく笑えない一護が、それでもへにゃりと口角を上げて目を細めた。その足元を中心として重く沈んだ水が弾け、元のかたちを取り戻していく。鈍色の空が割れて日が射して、梯子のように降りそそぐ。
ずいぶんとひさしぶりに見た、晴れ間の青空だった。
* 以下まったく繋がってないシーンたち
「我らの裔の息子だ。最も若く、最もあたらしく、いずれ私の隣に並ぶ。
……
少し空ける、街を案内してやれ」
「かしこまりました」
「かしこまりました、へーか!」
「ユーハバッハ様、お気をつけて!」
口々にそう言って、子どもたちは一護の手を取った。え、と思う間もなく、そのまま引っ張られるかたちで駆け出す。慌てて振り向いた先の男は、うすく笑みを浮かべていた。
「あっちに広場がある!」
「みんなに紹介する! なあ、名前は!?」
「こら、失礼だろ! 陛下がああ言ってたってことは、たぶん次期皇帝様とおんなじくらい偉い!」
「そうなの?」
「え、いや、俺は
……
」
「ねえ名前は?」
「
……
一護。一つを護る、で、一護。黒崎一護
……
」
「一護様!」
少年が笑う。楽しげに、頬を赤らめて。ぐいぐいと引っ張られるがままついていきながら、あれこれ勝手な憶測やら何やらを話し出す子どもたちを半ば呆然と見やる。
そうして数分もしないうちにたどり着いた広場では、朝市のようなものが開かれていた。噴水が中心にあり、それを囲むようにして露店が並んでいる。老若男女が思い思いに過ごしているところに飛び込んで、一番歳の若い少年が「みんな!」と声を張り上げた。
「陛下からご紹介だ! 俺たちの仲間の、えっと、すえ
……
」
「裔の子。現世に渡った滅却師の末裔だ」
「すえのこ! の、一護様! これからここで暮らすんだって!」
ざわめきがぴたりとやみ、皆が手と足を止めてこちらを見た。いくつもの目玉がいっせいに己に向けられて、たまらず息を呑む。まばたきを繰り返す視界がブレて、あの雨の日が重なって見えた。
「
―――
……
ッ、ひ」
足が竦む。体が震える。外套の合わせ目をぎゅうと握りしめて、一護は逃げるようにうつむいた。こみ上げた恐怖から一歩後ずさるが、手を繋がれているためにそれ以上は叶わない。左手を握っていた少女が異変に気づき、遠慮がちに「
……
一護様?」と、声を上げた。
「一護様、どうし
……
」
「あらまあ、これはこれは」
―――
少女の声をさえぎって、のんびりとした声が響く。杖を鳴らして歩み寄ってきたのは、一護の腰ほどまでの背丈の、背の曲がった老婆だった。にこにこと笑みをたたえながら手を伸ばされて、一護はびくりと体をこわばらせて目を閉じる。
「お日様みたいな子だねえ。お腹は空いていないかい? ごめんねえ、こんなものしか用意できなんだ」
「
………………
、は、」
「おや、甘くないほうがよかったかね。ちょいとあんた! しょっぱいものは持ってるかい!」
「ジンジャークッキーならどうだい」
「野菜でも焼いてやろうか」
「陛下がわざわざお越しになったんだろ? そんな御方の口に合うかね」
「現世にいたんだろ。もっとこう、新しいやつのほうがいいんじゃねえか」
広場が喧騒を取り戻す。呆然と立ちつくす一護の手はいつの間にか自由になっていて、その手のひらをそっとすくい上げられた。やさしく乗せられたのは透明なセロファンに包まれたチョコレートが三つで、のろのろと顔を上げると、相も変わらず笑顔の老婆と目が合った。
「向こうに比べると、豊かじゃないだろうねえ。でもあんたさえよければ、いつだって遊びに来てくんな。あたしら年寄りの楽しみを増やすと思って、お願いだよ」
「
…………
嫌じゃ、ないんですか。こんな、俺みたいな、得体の知れないの
……
」
「初対面なら、誰だって得体が知れないだろう。それにねあんた、これは老婆のお節介だけども」
チョコレートごとぎゅっと手を包まれる。あたたかく、わずかに湿った、生きた人間の手だ。一度も笑みを崩さないまま、それどころかどんどん深めて、老婆が口をひらく。
「こどもはそんな気を遣わんでいいのよ。文句言って、振り回して、迷惑かけてこそのモンさね」
「
……
おれ、もう、こどもじゃ」
「ふふ、そうかい。じゃあ、あたしのために甘やかされとくれ。ほらあんたたち、一護様を案内してやりな。ゆっくりね、あまり急がせないように」
「はーい!」
「ソフィばあちゃん、俺にもチョコレート!」
「はいはい、ちょっと待ってな」
*
「殿下、お迎えに上がりました」
「あ、
……
ユー、」
「ハッシュヴァルト様!」
「騎士団長さまだ!」
「こら、おまえたち。一護様が困っている」
「あ、ごめんね」
続くはずだった名は、子どもたちの声にかき消された。このあたりではあまり見かけない上等な椅子に座らされた一護の周りには、たくさんの子らが輪を作っている。一護の手の中にあるものを見て「図鑑ですか」と問えば、こくりとうなずいた。
「実物は、見たことねえって。だから、わかる範囲で、俺の感想とか
……
」
「なるほど」
「えっと、
……
ごめん」
「
……
何故謝られるので?」
「あ、
……
と、
…………
癖、で」
どんどん尻すぼみになりうつむいてしまった一護のそばで、勘のよい子らは不安げに眉を寄せていた。数時間関わるだけでも、一護に刻まれた傷の深さは伝わったのだろう。何せここに暮らすものたちは、みな程度の差はあれど虐げられてきた記憶と歴史をもつ。
合わない視線も、他人の機微に過敏になるのも、防衛本能からくるものだ。誰だって苦痛は遠ざけたい。傷つかないに越したことはない。
殴られ、蹴られ、刺され、嗤われ、罵倒され、踏み躙られ。染みついた恐怖は、薄れることはあっても完全には無くならない。一護が人を恐れるのは、親しい友人たちに手のひらを返された経験からだ。どれほど親密であってもああなるのなら、そうでない者がそうならないわけがない。単純な道理で、
―――
いびつに歪んだ認識だ。
「一護様」
びくりと跳ねる肩の細さを、ハッシュヴァルトは知っていた。カッターナイフで首を刺して自害しようとしていた子どもを知っていた。その子どもを抱え上げて帝国に連れ帰った時の、腕の中の軽さを知っていた。
頭に向かって手を伸ばす。びくりと跳ね上がった一護が、けれど逃げはせずぎゅっと目を瞑った。いまから与えられる苦痛に、耐えるように。
それが、無性に哀しかったし、腹立たしかった。
「
…………
、
……
?」
オレンジの髪を、ゆっくりと撫でつける。おそるおそる目をあけた一護が、困惑した様子でこちらを見た。それには構わず、周囲で固唾を飲んで見守っていた子どもたちに視線をめぐらせる。
「ほら、おまえたちも」
「
……
うん!」
「え、わ、ちょっ
……
!」
なにも傷つけないちいさな手のひらが、一護の頭を撫で、手を握り、頬を包んだ。わあわあきゃいきゃいと途端に騒がしくなった輪の中心で、わけもわからずもみくちゃにされる一護が、とうとう困ったように笑う。
「
……
っ、はは、くすぐってえ、って!」
*
「おい、お前。何持ってる」
「は、バズビー様、何故こちらに
……
」
「質問してんのはこっちだ。なんでお前があいつの剣を持ってる?」
指をさして言えば、門番は露骨に狼狽えた。これはその、と、要領を得ない返答に苛立ちながら扉を見る。
―――
そういえば、ここは例の"光の子"の部屋だったか、と思い至り、末裔でもあるその子どもの世話役を任された、剣の持ち主の背中をまぶたの裏に描き出した。
「ハッシュヴァルト様の言いつけでございます。一護様とお会いになるのに、武器は不要、との仰せで
……
」
「ふゥん」
門番の手から剣を奪い取る。焦ったように「バズビー様!」と声を上げるが、その声音は極限まで落とされていた。騒ぎを起こさないためだろう。
「なら俺が持っててもいいだろ」
「いや、よくはありませんが
……
」
「どうせそのうちそこから出てくるんだろ。いい機会だ、せいぜい探し回らせな」
「ええと、その、
……
はあ
……
」
それきり、門番は抵抗を諦めた。騎士団の中での序列は、年数や歳ではなく力の差で決まる。これ以上問答を続けて焼き焦がされては敵わないと思ったのだろう。門番の気になれば、ハッシュヴァルトに詰られるほうがまだマシだ。
「
…………
」
ハッシュヴァルトの剣を、ここまで近くで見るのは久しぶりだった。何せあの男は、こちらがいくら吹っ掛けても、剣を抜く素振りすら見せない。私闘は禁じられている、だからその申し出は受けない。機械のような返答ばかりで、もうずいぶんと時が経った。
長い廊下を歩きながら、使い古された剣を眺めて、回して、腕を下げようとして
―――
バズビーは足を止めた。窓越しに降り注ぐ陽光が、手もとできらきらと輝いている。
「
………………
、あ?」
きらきらと。古ぼけて、錆びて、劣化した、小さなボタン。いいや、元から汚れてはいただろうか。あのマントの扱いはお世辞にもよくなかった。違う、そうではなくて、どうしてこれが、こんなところに、だってあれは始まりの日のことで、千年以上も前の話で。
「
…………
ユーゴー?」
振り向いた先には、誰もいない。長い廊下の向こうは、暗がりに紛れて見えなかった。
*
「
……
不躾で申し訳ありませんが。お目を悪くされていますか?」
「あ、
……
と、うん、最近視力が落ちて。頭蹴られ、
…………
や、なんでもねえ。ヘーキだよ、見えねえわけじゃねえし」
「殿下」
言いかけて飲み込んだ言葉を的確に拾われて、一護はしばらく視線をさ迷わせてから観念したようにうつむいた。まばたきを繰り返した視界は、日常生活に支障が及ぶほどではないが、それでも以前に比べると明らかに輪郭がぼやけている。
「
……
見えねえ、ワケじゃねえんだけど」
あの雨は、寒かった。思い出すだけで背筋が凍る。耳を塞いで、うずくまって、その芋虫のような惨めな姿を男に笑われた。硬い靴のつま先がこめかみにめり込んで、頭が揺れて嘔吐した。そのままいくつもの足に踏みつけられて、自らの吐瀉物に顔が埋まって、気持ち悪くて。
片腕を己の手で抱く。つとめて長く息を吐いて、一護は顔を上げた。この距離だ、ハッシュヴァルトの整った容姿を眺めるのに支障はない。
ただ、それでも。
「
…………
俺なんかに優しくしてくれるアンタらのこと、ちゃんと見てえな、って思うときは、ある」
「
……
殿下、」
「はは、なに言ってんだろ、俺。
……
忘れて」
いつだって恐ろしい。あたたかいものは怖いのだ。どんなに信じていても、どんなに愛していても、どんなに大事にしていても、崩れ去るのは一瞬で。だったらもうなにものからも遠ざかればいいのだと、そう考えたからあの部屋でカッターを手に取った。
この城は、やさしすぎる。もしもこの先、二度目が起きれば
―――
……
今度こそ耐えられない。
「殿下」
ハッシュヴァルトの声が凛と響く。逸らした視線をもとに戻せば、わずかに身を乗り出した男が、湖畔の瞳に確かな決意を滲ませていた。
「行きましょう」
「
……
は? 行く、って、どこへ」
「陛下のもとです。生憎私には貴方を癒す手立てがありませんが、方法は思いつきます。とはいえ、ありきたりなものですが」
「
…………
?」
「いいですか、殿下。貴方は少し無欲に過ぎる。それは貴方の美点ですが、同時に玉瑕でもあるのです。失礼を承知の上ですが、此度ばかりは私にお任せを」
「
……
アンタの言うこと、難しくてよくわかんねえんだよな」
「医者にかかって眼鏡を作れば視力などいくらでも補えます」
「は、っはは、ンだそれ、力技!」
ハッシュヴァルトに手を引かれながら、一護は笑った。けらけらと楽しそうに、心の底から、ごくごくふつうに、ただ笑った。くすぐられたわけでも、無理やり物理手段を強いられたわけでもなく。
―――
ハッシュヴァルトが、黒崎一護というただの青年のほんとうの笑顔を見たのは、このときが初めてだった。
*
いっさいがっさいが燃えていた。
立ちすくむ一護のすぐそばで、人のうめき声がした。はっとして膝を駆け寄って膝をつくと、倒壊した建物の瓦礫の隙間から細く皺のある手が飛び出している。その手首にかかるブレスレットは、昨日、一護が手ずから作ってやったものだった。
「ぁ、
……
ッ、ソフィ、ばあちゃん
……
!」
「
…………
ああ、一護かい。よかった、ケガはないかい
……
?」
「ない、ないよ、ばあちゃん、すぐどけるから、」
「あたしはいいんだ。見ての通り、っ、
……
老いぼれだからね。向こうの広場に、グレースたちが、いたはずなんだ
……
。あの子らを、よろしく頼むよ」
ばちん、音がはじける。燃えた木が火の粉を上げる。血と煤で汚れた手のひらが一護の手をやさしく、けれどしっかりと握りしめた。
「あんたは、生きるんだよ。ほら、おいき。振り向くんじゃないよ」
「
…………
ッ、
……
、
……
ありがとう、ばあちゃん。おれに優しくしてくれて」
立ち上がって走り出す。背後から、崩れる音がした。振り向かなかった。不思議と、火は一護を避けるかのようにして燃えていく。滲んだ汗を拭いながら走って走って、広場にまで出て。
「
……………………
、あ、あぁ
……
」
そこは、地獄絵図だった。
噴水は砕かれ、水は枯れ果てて見る影もない。露店はただの瓦礫になっていた。地面に倒れるそれらは真っ黒で、ヒトの形をしている。焼きが甘いのか、まだ顔のわかる者もいて、
―――
そのすべてに、見覚えがあった。
そして、何より。その広場の奥に佇むおとこが、振り向いて。
「おう、一護! 助けに来たぜ!」
満面の笑みを浮かべる父の顔と手にした刀は、いつかともに歩いた夕暮れみたいに真っ赤に濡れて、きらきらと美しく照らされていた。
「
――――――
……
、」
「
……
一護? どうし
……
ああ悪い、ちょっと汚かったな、すまん」
ぽりぽりとこめかみを掻いて、困ったように一心が笑う。腕で血をぬぐうさまを呆然と見ながら立ちつくしていると、服の裾がくん、と引かれた。慌てて下げた視線の先で、焼け焦げた腕を伸ばした子どもが、必死に口を動かしている。
「いちご、さま。おにげください。どうか、あなただけは、どうか
……
。わたし、たちの、ひかり」
焼けただれて崩れた顔。眼窩からこぼれ落ちかけた、白濁したアイスブルーの瞳。ろくに動かせもしないのに、その子は笑った。泣き笑いに近い、やさしさだけをこめた、いたわりの笑みだった。
「あなたの、みちゆきに、ごかごが、ありますよう、」
「なんだ、まだ生きてたのか」
火柱が、目の前で燃える。悲鳴も何も無く、後に残るのは消し炭だけ。伸ばしかけた手の先が火にのまれたのに、火傷ひとつ負わないことがおそろしかった。足から力が抜けて崩れ落ちた一護の前に、焔を背負ったおとこが立つ。
「さあ、父ちゃんと帰ろう」
差し出された手が、記憶と重なる。けれど。
―――
けれ、ど。
はく、と喉がわなないた。不思議そうに首を傾げた一心がしゃがみこみ、さらに手を伸ばし、その指先が頬に触れて。
―――
その瞬間、一護は手を叩き落としていた。がくがく笑う膝に力を込めて、背を向けて走り出す。ぼろぼろあふれる涙がひどくみじめで、無力感に胸が締め付けられて、怖くて怖くて仕方なくて。
「たすけて、
―――
ユーゴー!」
名を呼んで、鍵を握る。無我夢中で光のなかに飛び込んで、一護にしか使えない道を通る。そうして自室へたどり着き、四つん這いでうずくまって、一護は泣いた。何もかもが、恐ろしかった。
『あなただけは、どうか』
そんなことを祈られるような、価値のある人間ではないというのに。
*
「
―――
は、はは、あはははははっ!!」
雨のなか、ひとり。
狂ったように声をあげて笑うこどもは、全身ぼろぼろだった。殴られ、蹴られ、あまつさえ刃物で斬られ。どう見たって重傷患者で、けれどそれよりも、引き裂かれた心のほうが酷いものだった。
「はっ、はは、バッッカみてえ! 俺なんかが、期待するから!」
「ッ一護、一護
……
! 落ち着け、もう動くな、怪我が
……
!」
「はは、は、は
…………………………
、
…………
」
目を見開いて笑い続ける息子の体を抱きしめる。宥めるようにして何度も背中を撫でて叩いてやれば、少しづつ声は収まっていった。がくりと力の抜けた体ごと地面に膝をつき、項垂れる一護とようやく向き合い、息を呑む。
「
…………………………
も、
…………
つかれた、」
妻譲りのあたたかな瞳は、どろりと澱んでいた。雨に紛れて涙を流し、口角は未だ上がったまま戻らずに、か細い声で音を紡ぐ。掴んだ肩は細く頼りなく、塞がっていない傷口から滲む血が、足もとをじわじわと赤く染めていた。
「
…………
帰ろう、一護。な? 父ちゃんと帰ろう」
「
………………
帰る?
…………
どこに?」
「どこ、って、そりゃ俺たちの、」
言葉尻に被せるように、一護が口をひらく。かくんと首を傾げるさまは、ブリキの人形にもよく似ていた。
「おまえなんか兄じゃない、って。そう、ふたりに言われたのに?」
ひゅ、と、情けなく喉が音を立てる。ざあざあと雨がうるさくて、またけらけらと笑い始めた一護を前にして、一心はただ、その濡れた体を抱きしめてやることしかできなかった。
掻き回され、打ち捨てられて、粉々になるまで砕かれた心には、なにひとつ。癒しを与えてやることなど、できなかったのだ。
残ったものは、強烈な自己否定と精神的外傷。それ以外は、本当に根こそぎ、何もかも、跡形もなく奪われて壊されていた。
母
―――
……
真咲を亡くしてから、一護は護ることに固執していた。それは家族から母を奪ったのだという自覚と思い込みからくるもので、非常に厄介なことに、それを根幹に置いてしまったがゆえに、だれかを護るために立って走っていける子だった。
家族を、友達を、仲間を、知り合いを、見ず知らずの他人を、世界を護りたい。そうして手を伸ばして力を得て、綺麗さっぱり失って。喪失感と孤独に苛まれる迷子には手が差し伸べられ、おそるおそる縋ろうとしたあの子は、裏切られることになった。
護りたい人々に、非難される。大切にしてきた記憶を弄られ、おまえの頭がおかしいのだと責め立てられる。謝罪を強要され、暴力を振るわれ、取り戻しかけていた力さえ奪われ、
―――
まるで、使い終わったゴミを捨てるみたいに、雨の中取り残されて。
それらに、一心は間に合わなかった。力を取り戻させるのが本当に息子のためになるのか、悩んで迷ってしまったからだ。手段と方法はもう準備されていて、けれどそれに対して待ったをかけたのは他ならぬ一心だ。もう少し、あと一日考えさせてくれ、と。
そんなふうにグズグズしているから、また息子は傷ついた。あの日妻を助けに行かなかったのと同じように、何度でも過ちを繰り返す。
『ごめんなさい』
竜弦の診察を受けているあいだ、一護は俯いたままそればかり口にした。入力されたまま壊れた機械みたいに、あるいはそれしか知らない子どものように。
『ごめんなさい、俺が悪かったんです、ごめんなさい、ごめんなさい、
……
おれ、
…………
出来損ない、で、ごめんなさい
……
』
爪が皮膚を裂くまで拳を握りしめたって、一護の傷は治らない。
暗い顔をして俯く一護の手を握り、一護にとっては地獄に等しい家に連れ戻し、食事を運んでやることしかできない。
それが歯痒くて、悔しくて、苦しくて。
けれど、
―――
あの子はもっともっと苦しんだのだ。
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