衛非地区で忙しそうにしていたアキラが、六分街に戻ってきたらしい。彼からの連絡でそれを知った悠真は、真っ直ぐに帰宅してベッドに倒れ込む予定を急遽変更した。真面目にそつなく業務をこなし、定時ぴったりに退勤すると久し振りに地下鉄に揺られて六分街駅に降り立った。
アキラとは親友とも呼べる友人関係を築けていると思う。普段は温厚な微笑を浮かべることの多い彼は、悠真に対してはその外面を取り払って遠慮なく冗談を言ったり、嫌味で返したりしてくる。「まったく君は」から始まる台詞が多い気もするが、呆れつつ悠真の言葉を受け入れてくれる度、ほんのりくすぐったいような喜びが湧く。
年上ばかりの環境に身を置くことが多かったせいか、年の近い友人とやらに恵まれなかった悠真にとって、自分の立場を度外視して気安く接してくれる存在は貴重だ。どうやら脛に傷を持つ雰囲気を匂わせてはいるが、悠真は彼がどんな隠し事をしていても構わないし、打ち明けられたら受け入れるつもりでいる。彼が自分に話したいと思ってくれるのであれば。
だからこうして、機会さえあればいつでも会いに行こうという気持ちになる。今回も、アキラの方から会おうと言われたわけではない。「暇な時にラーメンでもどうだい」という緩い誘い文句があっただけだ。人によっては社交辞令と判断してしまいそうな言葉に対して、悠真は「今日行きたい」とすぐに返した。彼からは即、仕事は大丈夫かと返ってきたが、僕に仕事のことを聞くのはあんたくらいだよと皮肉を込めて返したら「やれやれ」と言いたげなスタンプだけを寄越された。遊ばれている。しかしそれすら心地良い。
彼との他愛ないやり取りを反芻していると、いつの間にかビデオ屋に辿り着いていた。こん、と一つだけノックをして、返事も待たずに扉を開ける。店内は客もなく、真面目に店番をしているボンプが悠真の姿を認めて「ンナ!」と元気に手を振ってくる。客に対する「いらっしゃい」というより、主人の友人に対しての「こんにちは」にニュアンスが近そうだ。
そんなボンプに軽く手を挙げて応えると、悠真は店内をゆっくりと見回す。アキラは店にいるはずだが、二階だろうか。視線を階段の方へ移動させると、その目が通り過ぎたところにある扉がガチャリと開いた。ボンプに扉を開けさせ、両手に段ボールを抱えて中から出てきた人物は、悠真の姿を認めると動きを止め、目元に笑みを浮かべた。
「やあ。早かったね」
どさりとビデオの詰まった箱を床に置くと、アキラは腰に手を当ててふうと一息ついた。ずっと作業をしていたのだろう、いつも着ているジャケットを脱ぎ、黒いシャツ一枚だ。ジャケット越しだと目立たないが、こうして見るとやはり痩せぎすに見える。訓練で体を鍛えることが日常的な悠真と比べるのは酷だと分かっていながら、しっかりバランスよく食べているのだろうかというお節介が顔を出す。
「アキラくん、久し振り。手伝おうか?」
「再会してすぐ、かつ仕事帰りの君に更に仕事をさせるのは気が引けるね。残業手当として奢らされそうだから、遠慮しておくよ」
「……えぇー、もしかしてそこまで僕のこと心ない奴だと思ってる?」
「ふふ、最後のは冗談だ。君は奥で座って待っていてくれるかい? 置いてあるお菓子は食べてもいいから」
相手が視線で示したのはSTAFF ONLYと書かれた頑丈な扉の奥だ。ここのスタッフじゃないんだけどね、と思いながら、扉の前で悠真を待っているレムの視線に負けて彼らの工房に足を踏み入れる。
彼らのアシスタントAIは作業中なのか、それとも主人の許しが無ければだんまりを決め込むのか、モニターの中央で静かに沈黙を保っている。それを流し見して、兄妹がいつも過ごしているであろうソファに腰を下ろす。物置として使われている棚の上に、確かにスナック菓子やクッキーの缶があったが、この後ラーメンを食べに行くのだ。折角の彼との食事を満腹で終わらせたくないので手は伸ばさず、テレビをつけて適当にチャンネルを合わせる。
見るともなしにテレビ画面を眺めていると、視界の端に黒い毛並みが映った。ちら、と視線だけを動かして一瞥してから、悠真は再びテレビを見る。するとその影はするりと近付いてきて、悠真の座るソファに飛び乗ってきた。
すり、と悠真の太ももに顔をこすりつけてくる黒猫をちょいちょいと指先で構う。それで満足したのか、黒猫は悠真に身を寄せるようにしてその場で丸くなった。そっと背中を撫でても逃げる気配は無い。今回もまた、悠真の存在を許してそこに居てくれることに嬉しくなる。
クロと初めて会った時、他の猫とは違って悠真の姿を見た瞬間に毛を逆立てることは無かったが、何故かじっと逸らさず見つめられた。睨めっこに耐えかねて触ろうとすると、興味を無くしたように逃げられる。それを何度か繰り返しているうちに少しずつ、クロとの距離は縮まっていった。最近ではこうして、体温を分けて貰うくらいには心を許してくれている。そんな一人と一匹のやり取りを見届けたアキラは「うちの猫に気に入られるとは、やるじゃないか」と素直に感嘆の言葉を漏らしていた。
まるで、ここに居ていいよ、と言ってくれているようで。この家とリン、そしてアキラの傍に居てもいいのだと認められたようで、秘かな喜びが満ちると同時に、悠真はこの家から離れがたくなるのを感じていた。ただの友達と言うよりはもはや、家族の一員になれたかのような錯覚すら抱く。
「クロは相当、君のそばがお気に入りのようだ」
後ろから声が聞こえて、顔だけをそちらに向ける。同じように段ボールを抱えて入ってきたアキラは、ソファで寛ぐ悠真達を見て笑みを浮かべている。どことなく疲れた顔をしているのは、力仕事のせいだろうか。
「この子、毛並みが柔らかくて落ち着くね」
「触らせてもらえるのはうちの家族と、君くらいだよ。……はは、毛並みで一つ思い出してしまった」
「なになに?」
段ボールを一度床に置くと、アキラは作業台の方に歩いて行く。手にしたのは折りたたみの踏み台だ。
「澄輝坪で知り合った犬のシリオンの男の子がね。尻尾がふさふさで、感情に合わせてよく動くんだ」
「へえ。セスくんみたいな感じ?」
「確かにセスの尻尾もわかりやすいけれど、体格はどちらかというとライカンさんの方が……ああ、言いたいのはそっちの方じゃなくて。はぐれて走り回っていた時、曲がり角から駆け込んでくる彼とぶつかってしまって……その、彼の胸に」
「胸に。ふむ……柔らかかった?」
「筋肉の弾力がありすぎて、弾き飛ばされてしまったんだよね……」
恥ずかしそうに話す彼の言葉から情景を想像して、ぷっと吹き出してしまう。
「あっはは! それはもう、相手もびっくりだっただろうねえ」
「終始すまなそうにされて、本当に居たたまれなかったよ」
「ひーおっかしい……不幸な事故だけど、アキラくん。ちゃんと筋肉つけようね」
「それはもう本当に、身をもって思い知ったところさ」
「でもさ、男で残念だったね。女の子だったらいわゆるラッキースケベだったのに」
「……その言葉、絶対にリンの前では言わないでくれよ。お兄ちゃんのスケベ、とか言われたらショックで立ち直れないかもしれない」
「あんた、妹に弱すぎじゃない?」
馬鹿な話で盛り上がっている間も、アキラは作業を続けている。踏み台を棚の近くにおいて固定すると、段ボールを持ち上げ、棚の一番上に置いた。一瞬持ち上げられるのかとハラハラしたが、そこはしっかり成人男性の筋力を備えているようで、ぐらつくこともなく段ボールの重みが棚にずしりと乗る。
ふう、と息を吐いて振り返ったアキラだったが、その瞬間、立ちくらみを起こしたようにぐらりと体が傾いだ。
「あ」
焦ったような声が上がる前に悠真は立ち上がっていた。揺れるソファに安眠を妨害された猫が俊敏に逃げていくのを見る暇もなく、彼が足を踏み外す前に手を伸ばしてその体を支える。
悠真がぶつかった衝撃で「うっ」と喉が詰まったような声を出すアキラを、それでもしっかりと抱きかかえる。彼の無事を確認して、はーー、と息を吐くと同時、時間を止めていたかのように心臓がドッドッと激しく音を立て始めた。
「びっ……くりさせない、で……」
ふに、と柔らかい感触を自覚して、彼の体に触れている部分に意識を集中する。左手は彼の背中を支えている。頭はちょうど彼の胸のあたりにあり、彼の鼓動を直に感じる。
では、右手は。
このふにっとする僅かな弾力は……?
「す、すまない。バランスを崩してしまって……悠真? 大丈夫かい?」
「アキラくん、意外と肉付きがいい……?」
右手に少しだけ力を込めると、指が食い込んだ。悠真の動揺をどう捉えたのか、ひくりと口の端を引きつらせると、アキラは上擦った低い声を出す。
「……おや、太っていると言いたいのかな?」
「ち、違うって。もっとこう、細身だと思っていたからギャップに驚いて」
「ふむ。つまり君は、僕のことをヒョロガリだと思っていた、と」
「まあ、はい」
正直に応えながら、悠真は彼を抱きかかえる腕に再び意識を集中する。骨張っていると思い込んでいたが、薄く贅肉がついているようで心地よい柔らかさを感じる。鍛錬をしない普通の人間と言ってしまえばそれまでだが、尻の肉付きを見るにアキラは体を動かすことすらろくにしていないのではないだろうか。そういえば、座ってゲームをしている姿もよく見るし、斜向かいのゲームセンターにも頻繁に行っているということを話してくれたこともあるような。
そもそも少し特殊なプロキシ業をしている彼は、仕事が終わるまでモニターの前で一歩も動かないことはざらにあるらしい。体は重力に逆らえないのだから、自然と肉も下に下がる。つまり、下半身に集まると言うことでは。それならばこの弾力も納得である。そこまで真剣に考えてから、はっとして悠真は呟く。
「これもいわゆるラッキースケベってやつ……!?」
「だからと言って君が自ら僕の尻を揉みしだくのは、もはやラッキーではないだろう……!」
離れろ、くすぐったい、と暴れる彼をひょいと抱き上げて、安全な床に下ろす。そこでようやく解放してやれば、悠真と距離を取ってアキラは自分の尻を押さえた。
「痴漢をされた気分だ」
「そ、そこまで言う!?」
「……まあ、助けて貰ったことには感謝するけれど……そんなに僕の尻の触り心地は良かったのかい?」
「え? いや、ええと、まあ……女の子の胸を触ったことはないので比べられませんが、アキラくんのお尻はとても柔らかかったです」
「そこまで……」
正直な心情を回答すると、アキラは顔を俯かせて黙り込んでしまった。彼の地雷を踏み抜いてしまったかと焦る悠真の前でようやく顔を上げたアキラは、予想していた恨みがましい目ではなく、一周回って諦めたような、羞恥が混じった苦笑を浮かべていた。
「はは……恥ずかしいな。しっかり鍛えている君に自分の体の怠惰ぶりを知られると、余計にね」
……なんだろう。この胸の高鳴りは。
アキラのこの恥じ入った顔を見ていると、先ほどまでとは別の感情が湧き出てきそうになる。このままこの熱を吐き出すと、それはもう、大変なことになりそうな予感がする。
「睡眠も足りていなかったからかな。少し目眩がしてしまったようだ」
「そ、そっか! それなら今日は僕、もう帰るから」
「え? ラーメンを食べに来たんだろう?」
「それはまた今度! 明日朝早いの思い出しちゃってさ~。あんたも疲れてるならそう言ってよ、それならほら、ゆっくり休んで欲しいし」
「……そうかい?」
納得できていなさそうな怪訝な眼差しが居たたまれなくなって、すすす、と彼らの秘密の工房の外に出る。店内には未だ客はおらず、このプチ騒動も外には漏れていない。追いかけてきたアキラから逃げるように足早に入り口の前に立つと、「じゃあ、またね」とにっこり笑って扉を開けた。
笑顔で軽く手を上げるアキラを一瞥して、外に出る。少しだけ何事も無かったように歩いてから、悠真は駅に向かって一目散に走り出した。
鼓動はまだ鳴り止まない。熱はまだ冷めない。彼の体の感触は自分の手のひらに、そして恥ずかしそうな顔はしっかりと脳裏に焼き付いている。
彼は友達だ。……友達のはずなのに。
(これはさすがにまずいでしょ……!)
自覚しそうになる感情を押し込めて、衝動のままに走る。人にぶつかりそうになってもすぐ横に避ける判断力はあるのに、頭の中は答えの出ない自問自答がぐるぐると渦巻いている。
六分街駅の改札を通り抜けて、ホームの端の壁にごつんと頭をつける。この鼓動も火照る頬も走ったせいだ。そう思い込ませる。
――そうしないとこの先、彼の隣に友人として立てなくなる。
はぁ、と息を吐いて心を鎮めようにも、なかなか熱は引いてくれない。駅の端で一人反省のポーズを取る悠真は少なくない乗客達の見物になっていたが、アキラとの関わり方について真剣に悩む悠真に周囲の様子など気を配れるはずもない。電車が何度ホームに着いてもなかなか動くことが出来ず、ただただ途方に暮れていた。
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