狐の献身(かしへい)

狐の神様な伊東と拾われた人間の平助の話。かしへい。

 境内で人間の子供が倒れているというのはなんとも嫌なものだと、伊東はため息をついた。

 伊東甲子太郎は妖狐である。尻尾は四本、最高の九尾には半分しか足りないが有象無象の小者を従える程度の格を持つ。祀られる社の居心地は悪くはなかったので、ときどき人間をからかったり助言を与えたりしながら、現世からズレた妖の世界で隠居老人のように暮らしている。
 境内の中でも伊東の領域にまで転がり込む子供は珍しいがこれまでにもなくもない。伊東はいつものように家に帰るように急かそうと近づき、子供が虫の息であることに気づいた。
……やなもんだなぁ」
 伊東は子供を仰向けにひっくり返してみる。幼いくせに痩せてあばら骨の浮いたちいさな身体、擦り切れた着物。草履も鼻緒がぷちんと切れてしまっている。泥のついた額を撫でてみれば、切り傷と固まった血が指先についた。転んで剥いたのか、あるいは……。伊東は想像をやめた。
 はてどうするか。
 捨て置いてもいいが腐肉の臭いで獣が入り込むのは勘弁願いたい。しばし思案して、踏ん切りがつくと、ぐったりしている子供を伊東は掬い上げた。冷えたような手足は軽く、食べがいのない鶏ガラを思わせた。
 子供を社の中に連れ込む。寝かせてやれば回復するだろうし、運悪く死んだら、祀られる神らしく墓を作って悼んでやろう。


 伊東にとってはまばたきのような数日後、社の奥の一室で子供は目覚めた。
「ここ、は……
「僕の社。水飲む? 起きられる?」
 ぱちり、と開いた眼は竜胆か矢車菊の花を思わせる青。薄青がかった髪と血の気の薄い肌と相まって、雪に溶け落ちそうだなと伊東は思う。
 起き上がった子供はまだよく飲み込めていないような顔で、子供に与えるには広すぎた客室を見回し、自身が上等な夜着をまとって厚い布団に寝かされていたことを触れて確かめ、それから脇にあぐらをかいている伊東を見上げた。眼に焦点が戻ってくる。
「あ、あの……ケホッ」
 渇いた喉には喋るのもきつかったらしく子供は咳き込んだ。伊東が差し出してやった水の椀を受け取り、こくこくと傾ける。急ぎすぎて細い喉に水滴が垂れ落ちていく様子を伊東は見守った。
 また咳き込んだ子供は落ち着いてくると、かひゅ、と喉を鳴らして、まだ萎えたような足を動かして正座の形をとる。
「このたびは、このようにご立派なあなたさまに、不肖の命、おすくいいただき感謝いたします……
 つたない声ながら膝を揃えて頭を下げる子供に、神として気を良くして伊東はにこりと笑んで見せた。
「なに、たいしたことでもないさ。体調はよくなったかい?」
……はい。お稲荷様のおかげです」
「僕を怖がらないんだ?」
 機嫌よく、ふだんは邪魔なのでしまっている狐の耳や尻尾を伊東は出して見せた。子供は畏れ多いとばかりに首を垂れたままに是と返す。
 ふうむ、と伊東は顎を撫でる。痩せ細っていることを差し引けば五、六歳になるだろうか。この歳で礼節が取れるのは襤褸のようだった身なりにもかかわらず聡明な子だ。いったいどんな経歴をたどってきたのかはわからないが、気に入った。当分生活に困らない程度の金子を与えて生まれ里に返してやろうと腹に決める。
「いいね、きみ。名は?」
「へいすけ、と申します」
「へいすけ、平助君か。よしよし。今後、名字は藤堂と名乗りなさい。きみが長者になれるよう願掛けしてあげる。帰る村の名は——
「ぼくに帰るところはありません」
「へ?」
 かぶせるように話を遮られて、狐の神らしく振る舞うことも忘れて伊東は素っ頓狂な声を上げた。平助は頭を下げたまま語った。
「みやこ落ちの母が亡くなり、流れ者の子に食べさせる飯はないと村を出されました。下働きでもなんでもします。どんなひどい折檻も受けます。ですから、ここに置いてください」
「ちょっ、待っ、待って! タンマ!」
 伊東は文字通り跳び上がった。四つの尻尾が逆立ってぴんと立つ。幼い子供とは思えない言葉がぽろぽろと出てきたのだ。平助は裁決を待つ罪人のようにじっと身じろぎもせず身体を固くしている。
「ち、父親……は?」
 おそるおそるの問いかけにも平助は平然として答えた。
「母いわく、とても偉いお方に見初められたと聞きましたが、真偽はわかりません。村の人々は、ろくでもない盗賊の男に引っかかったのだろうと」
「そう……
 どちらにせよありがちなことだ。身籠った女が夫となるはずの男から捨てられて夢見がちな幻想を抱いて逝ったとしても。平助のそこらの村の子らしくない洗練された所作をみるに、都落ちなのは当たらずとも遠からずだろう。
「お願いいたします。慈悲深いお方。このご恩はきっとお返しいたします、どうかここに置いてください」
 嗚咽をこぼすような悲壮な声で平助は頭を畳にこすりつける。神を前にしてもあたりまえに礼を取れる豪胆な子であるはずなのに、全身が小刻みに震えていた。
……おもてを上げてみてよ」
「はい」
 平助と眼が合う。意思のつよい、利発そうな眼をしていた。こんな子供をあっさり手放して、市井に潰されて死んでいくのはもったいない。学問を積ませてやればどんな素晴らしい若者になるだろうか。
 とうとう伊東は自身がこの子供にほだされていることに気づかざるを得なかった。



 庭の松の木に身軽に登って、身の半分もある鋏で枝を切り揃えている平助を縁側で眺めがら、大きくなったなあと爺のようなことを伊東は考えた。
「実際爺なのではないでしょうか? あの子に比べれば」
「爺ってかあの子が赤子みたいなもんだからね。十年ぽっちであれだけ育つんだから、人間は寿命が違いすぎる」
 背後に現れたるは同じ妖狐の近藤勇。だが、いまの彼は生身ではなく尻尾の分身をこちらに飛ばしてきている。妖狐には簡単に看破できるので、伝言か見張りか人間を化かすくらいにしか用途のない狐の化け技だ。
 伊東は隣に座した近藤をちらと見やって、茶請けの豆大福の盆をずらしてやった。有難く、と本当に嬉しそうに近藤が一口で拳大の豆大福を食む。
「隠居の僕に会いに来てくれるのは嬉しいんだけど、本体はまた土方君に隠されてるんです? お気の毒に」
「すみません、勝手に座敷を抜け出して総司と団子を食べに行ったのがバレました」
「そりゃダメでしょ。貴重な五尾の狐が人里にふらふらするのは。最悪捕まって権力者の占いついでに尻尾斬られるのがオチだからね。ああ、頭が痛い……狐の噂が広がったらと思うと僕まで境内から出られやしない……若輩だからって自覚がないのも大概にしてよねえ」
「すみません……
「すみませんで済んだら土方君は要らないんだよ。しかも沖田君が現世の風邪をもらったら可哀想でしょう、ただでさえ身体が弱いんだから」
「申し訳ありません」
 ぴしゃりと云い放つとしゅんと尻尾が落ちるのは痛快だが、この大物妖狐の評判に振り回されるのは序列が下の狐たちだ。六尾より上位の妖狐ともなればおいそれと同輩の前にも現れないのもあって、近藤にはよくよく身の振り方に気をつけてもらいたいものだった。この分だと沖田は寝込んでいると思われた。
 芋づる式に彼の目付役の形相まで思い出してしまい、伊東は顔をしかめて湯呑を傾ける。近藤はいいが、土方とは相性が悪すぎる。
「それで? 謹慎中の近藤君が僕にどんな御用向きで飛ばしてきたの? 悪いけど、土方君に口利きはしませんよ」
「さすがにそこまでご迷惑をかけるには。来月の妖狐の会合ですが。此度は伊東先生が主催なさるでしょう?」
「まあ、そうだね。どうせ僕だし、集まりは悪いと思うよ」
 頭の痛い案件をもうひとつ思い出させられて、伊東は不機嫌に応答した。
 要は上位の妖狐が定期的に持ち回りで開催する宴会だが、狐のなかにも派閥はある。誰もかもが近藤のような穏健派ではない。伊東はどこの派閥からも手を切って久しく、理由のいくつかは伊東が喧嘩をふっかけたような形で終えていた。伊東をいまだ先生と呼び習わすのは昔馴染みの変わり者ばかりだ。
 会合自体は派閥にかかわらず声をかけなければならず、一挙に会するとなればはなはだ不安がある。適当に地酒と海の幸を出して、酔わせて楽しませておけばいいと伊東は考えているところだった。
 近藤はつい、と庭に眼を向ける。一生懸命に庭木の剪定を行う平助はまだこちらの話に気づいていない。
「念のため、先生のお耳に入れておきたいと思いまして。伊東先生が、人間の子を飼っていると狐の間でやたら噂になっているようなのです」
 はぁ、と伊東は呆れきって空を仰ぐ。薄青の空に綿に似た雲が浮いていた。よき秋の晴天だったが、上空の風ははげしい。
……飼っている、なんて酷いこと云うなあ」
「けして私の言葉では……いえ、最初に噂を流したのはおそらく歳でしょう。お詫び申し上げます」
「いいよ、別にきみが謝ってどうにかなることじゃないですし。どうせいずれバレることでもあるしね。質問攻めの覚悟はしておきますよ」
「それだけでなく。……伊東先生の子飼いの……その、気に入って手元に置くほどの子なら、よほど甘美なのだろうと。ひとめ、味見をさせてもらえまいかと。露骨な者はそのように」
……へえ……
 伊東は目を細めた。
 なるほど、わざわざ近藤が慌てたように分身を飛ばしてくるわけだ。伊東がいっとう気に入らない、不愉快で下世話な噂だった。伊東がぴきりと青筋を立て、近藤は冷や汗をかいて相対していたが、冷えた空気にも気づかず割って入る者があった。
「あっ、近藤さん! いつの間にいらしてたんですか? お出迎えせず、申し訳ありません」
「こんにちは、平助君。勝手に上がったんだから構わないとも。金木犀がいい香りだね」
 緊張したような面持ちを見事に優美な顔に入れ替えて、近藤は親しく平助に挨拶をする。すっかり平助は優しい貴人に騙されてしまって、菓子をくれる客として慣れ親しんでいるのだ。
 訊ねられるがままにはきはきと世間話に花を咲かせて、ほてったような頬がにこりと近藤に向かって笑いかけるのに伊東は我慢ならなくなった。
「おわあっ……! 伊東先生?! 僕、さっきまで庭作業してましたので……!」
「近藤君にばかり構ってるきみが悪い」
 ぎゅうと背中から抱きすくめると、平助はわたわたと暴れる。来客前ではしたないと思っているのかもしれない。幼少期の栄養失調のせいかちいさなままの体躯だ。すっぽりと腕の中に閉じ込めた平助のふわふわの髪を嗅ぐと感じのいい爽やかな草木の匂いがした。
 まるで沖田と土方がじゃれているときのように微笑ましい光景を見守っているような近藤に、伊東はキッと睨みつける。近藤は他の派閥や年長者への振る舞いをわきまえてはいるが、尻尾一本分の格上なのは確かだった。
「いくら近藤君でも、平助君をあげるつもりはありませんよ」
 ふわりと近藤の目元が緩む。妖狐の次代の長にふさわしい、伊東もぞくりとするような魅了の笑みをたたえて。
「ええ、ええ。そうでしょうとも。なにも私は、伊東先生のお気に入りに手出しをしようとは思いませんよ」


 会合の前日、伊東は平助に準備していたものを渡した。平助は厨房で、明日に振る舞う食事の仕込みをしているところだった。
 額に傷のある、赤いまなじりの狐の面を平助はためつすがめつ様々な角度で触れる。
「明日一日はこれを身につけるように。もちろん顔にね」
「穴が空いてませんが……あれ?」
「視界は塞がらないから心配しなくていいよ。これは魔除け。明日の客は無礼講だからね。みな酒が入ってるからって変に絡まれると仕事に支障が出るだろう。これをつけていれば、ただの式神に見える」
 正確には、人間の気配を極限まで隠して伊東の術式の匂いで上塗りする面だが、平助に教えなくともいいことだ。本音ではみなの前に出すのも渋りたいが、働き者の平助に暇を与えるのは逆に酷だろうと判断し、早々に引かせるつもりだ。伊東の勘案を知らない平助は伊東に深々と頭を下げて礼を云った。
「ありがとうございます、先生」
「それと、最初に食事と酒を運んだら、あとは部屋に戻っていていいよ」
「えっ、でも、お酌……
「いいって。飲んでるものが酒か水かわからないくらいに酔い潰すつもりだもの」
……先生は、ほどほどになさってください」
 伊東はにんまりと笑む。限界まで呑むつもりであることを察したらしい平助は、不遜なため息をつきながらも許してくれた。


 妖狐の会合に出会うのは初めてだったが、平助が宴会会場に踏み入れたとき、伊東が酌をしなくともいいと断ったわけに納得せざるを得なかった。
 身の竦むような威圧感——獣に睨まれている、とでもいうべきか。背中がぴりぴりとしていまにも逃げ出したくなるような、強大で異様な気配で充満していた。日頃、伊東やその客たちは平助のために妖気を抑えてくれていたのだとあらためて理解する。幸いに狐の面をかぶった平助は式神のひとりとしか見られていないらしく、見知らぬ妖狐と視線は交わらない。ただ完全に姿形が変わるほどの術でもないらしく、伊東と親しくしている服部や近藤ら数名だけは、平助が料理を置いたときに小声で礼を告げたり、明らかに陽気ににこりと微笑んだりした。
 ひと通り食事が振る舞われ、空の盆を持って平助は立ち上がる。上座に腰かける伊東には知らぬ妖狐が話しかけていたが、なにやら不穏な話し合いをしているようで平助がそばに寄りづらい。厨房で後片付けを始めてもいい。場合によっては追加のつまみをほしいと望まれるかもしれない。伊東の云いつけ通り、先に場を辞そうとした。
 ——伊東ときたら、人間の子を囲っていると聞いたが。はてさて、どこにお隠れになっているのやら。
 僕のことだ、と平助は気づいた。ひたりと閉じかけた襖の隙間から覗くと、年老いた風貌の男たちが囁き合っている。
 残念だ、馳走にあずかれると思ったのに。いやはや、独り占めする気であろう。伊東は我らと分け合うようなたまであるまいよ。はは、まったく。いまさら妖力を得ようとするとは、伊東め。あの伊東が隠しておるのだ、——よっぽど美味であろうな。
 どくり、と心臓が跳ねる。平助はそっと音を立てずに襖を閉じてすばやく動いた。心を落ち着ける場所が欲しい。式神たちを避けて廊下をいくつも回り、屋敷の最奥にある自室に駆け込んだ。
「僕、僕は……
 平助は大の字になって、幾度となく見た天井の木目を見上げる。よくよくと客の妖狐たちの話し声を、厚い唇から見え隠れする牙を、思い返す。
 二度三度と息をついて、平助は今しがた耳にしたばかりの事実を受け入れることができた。
「伊東先生が僕を育ててくださったのは、食べるためなのか……
 思えば伊東は稲荷の神なのだ。神に捧げられた人間がどうなるのかを平助は知っていたように思えた。いままでは哀れんで優しくしてもらえていただけ。食べがいがあるくらいに成長するまで待たせていただけ。
 狐の面を外し、掲げてみる。伊東のようなつり目の顔立ちの狐。平助が持っているものと同じ、額に傷跡がある。あらためて見ても、不思議と怖いとは思えなかった。
 伊東が望むのであれば、食べられてもいい。
 腹筋で起き上がり、平助はふたたび狐面をつけた。癖っ毛の髪を指で撫でつけて着物を直す。妖狐たちの会話には驚いてしまったが、初めから平助の心は伊東に捧げられていた。いつかその日が来たら、自らすすんで食べられよう。そう決心して、廊下に出た。
 つんざくような切っ先が目の前に迫って、平助は飛びのいた。中庭に転がるように着地する。
——っ?!」
「うむ、外したか。ウサギのようで愛らしいな」
「これが伊東の隠した子か。ようできた面だの。人間には見えまいが」
 複数人の、先刻宴会でも見かけた妖狐らがすぐ目の前に来ていた。どっと胸が鳴り響く。平助は片膝をついたまま、かすれた声で訊ねた。
……どなたでしょう、お客様がた。迷われましたか」
「かすかに人間の匂いがしたのでな、辿ってきたというわけじゃ」
 はっとして平助は狐の面に触れた。一度外してしまった。だが一分にも満たない時間だったはずだ。その程度の隙を突けるのか——伊東の助言を無為にしてしまったことに平助は申し訳なく思った。
 小者を斬り捨てられる程度の護身の刀は部屋にあった。友好をあたためる会に食事を運ぶのには帯刀は不要だと思えたからだ。いま平助と部屋の間には妖狐らが立ち塞がっており、押しのけて通るのは現実的ではなく、否、人間の平助ごときが上位の妖狐を斬れるはずがない。
 逃げの一手だ。
 平助は伊東がいるであろう宴会会場に向かって庭を突っ切った。
 そのつもりだった。
「ぐぁっ! ……あ、がっ」
 割れた狐の面が転がってゆく。平助は地べたに這いつくばっていた。瞬きにも満たない時間だったが、妖狐は平助の動きを完全に封じ込めていた。
 ひやりとした指が肌をなぞる。酒精混じりの生温かい息がかかる。平助は暴れたが押さえつけられている身体はびくともしなかった。
「ああ——いい匂いだ」
「我は腕を喰いたい」
「俺は眼をいただこう」
「私は脚を。ここがいっとう美味い」
「腹の中身は苦いが酒に合う。伊東のことだ、いいように仕込んでいるだろうな」
 妖狐らが嗤い合う。手始めにと腕を持ち上げられる。乱れてはだけた着物に毛羽立つ手を這わされてぞっと怖気立った。
 くすくすと耳を舐められ、喉の奥が不快感にきゅうと締まった。左の腕に長い爪が喰いこむ。赤い血が飛び散る。
 平助の絶叫が響き渡った。


 会合は騒然としたまま解散した。半数は逃げ帰り、残りの半数は追い払った。古馴染みの服部ばかりは居残って後片付けを手伝ってくれた。
 今頃は噂が広がったことだろう。伊東が会合を台無しにしたことを。伊東が養う人間の子に手を出した妖狐らを、妖力の源たる尻尾を引き裂くに飽き足らず原初の姿に返るまで手酷く痛めつけたことを。
「伊東先生。失礼します」
……服部君。色々とありがとうね。帰ってもらっていいよ」
「しかし」
「頼む。帰ってくれ。近づく者すべてくびり殺しそうなんだ」
 背後の影はしばし、伊東の背中を見つめていた。あえてその先に視線を寄越しはしない気遣いに伊東は安堵するとともに、ふつふつと湧き上がりそうな憤怒をじっと堪えた。やがて服部は一礼する。
……灯りもなく閉じ籠もっているのはお身体によくありませんから、ここは開けておきますね」
「あぁ」
「折をみてまた伺います。それでは」
 障子を開け放ったまま、服部が立ち去る音が遠くなっていく。伊東は詰めていた息を吐いた。
 布団に横たわる平助の血の気が失せた真白い頬を撫でる。口元に手鏡を近づければ薄く曇った。
 まだ、生きている。
 何度となく確認した事実だったが、足元が崩れ落ちて流されてしまいそうな不安を感じている。
 平助はある意味では無事で、ある意味では喪われてしまった。
 膨れ上がった妖力の元に伊東が駆けつけたときには、白い腕を咥えた者と、脚を折って引き千切ろうとする者がいた。かれらの下でちいさな愛し子が、か細く伊東に助けを求めて身悶えていた。
 平助が丹精込めてくれていた庭は血の海と化した。
 伊東が正気に引き戻されたときには近藤や原田が平助のそばに跪いて術をかけていて、伊東は突き飛ばすように駆け寄った。左の腕は無残に喰われ、右脚もまた切断せねばならなかったと近藤は青ざめた顔で弁明し、伊東は近藤に襲いかかろうとしたところを服部に制止された。近藤と原田が延命の術を使っていなければとうに死んでいた、そう聞かされても怒りは収まりどころを知らない。
 全員出ていけと怒鳴りつけ、おそろしく軽くなった平助を屋敷に閉じ込めて封印した。
 それからずっと、伊東は平助のそばにいる。
 平助の身体は清め、切断された箇所は術で形を留めている。足りない血は服部が工面してくれた。伊東が血を分け与える方法もなくはないが、神格が高すぎて急激な拒絶反応で死ぬか、人間ではなくなってしまう。服部の行き届いた心遣いに伊東は感謝した。
 何日経ったものか。身の内にほとばしる怒り、悔しさ、哀しみ。次々と波打つ情動に伊東は石のようであり続けていたが、平助が身じろぎした瞬間に同じように目覚めた。
 ふるりと睫毛が揺れる。いつかのように深い青が虚ろに開き、おもむろに焦点を結ぶ。
……せん、せ」
「平助君」
 長い沈黙から目覚めたばかりの平助が伊東を見てほころぶ。そんな嬉しそうな顔をしないでほしかった。
 生きながら身体をなぶられて、どれほど怖かったことか、痛かったことか。恐ろしい思いをさせたというのに、平助はいままでと変わらず伊東を慕うような笑みを浮かべていた。
「なんで」
 問いかけたのは平助の方で。頬にぽたりと雫が落ちる。
「伊東先生が泣いてるんですか」
 ほとんど唇は動いていない。おそらくは声もまともに出ていない。けれども伊東は正しく平助の声を読み取った。
「きみが、目覚めてくれたから……。おはよう、平助君」
「おはようございます。伊東先生」
 伊東の頬にはらはらと落ちるものを平助は救い取ろうとして、その腕がなくなってしまっている違和感にうめき、苦痛に歪む。伊東は覆いかぶさって平助が起き上がろうとするのをやめさせた。
「痛い? ごめんね、平助君の、取り戻せなかった……
 何に対して言い訳をしているのかわからないな、と伊東は自嘲する。どんなに謝っても平助の手脚はもはや戻ってはこない。代わりのようにまくしたてた。
「欲しいものはある? 水かい? 甘い物かい? 着物を仕立ててやろうか、それとも新しい四阿を建ててみるかい?」
「あの、先生」
「平助君のしたいようにしてあげる。平助君を傷つけたあいつらのことなら僕が」
 地獄の果てまでも追いかけて平助君がされただけ千切ってなぶって命乞いさせてから残酷に殺してやってもいい。このまえは取り逃がしてしまったから、今度は。そう云いかけた伊東を平助は制そうとしたのか、残った腕を動かして、痩せてしまった指先がひたりと伊東の着物の合わせ目に引っかかる。
「僕、伊東先生に食べられたいです。先生の糧になれるなら僕も嬉しいんです……先生?」
 色褪せた唇がはっきりと言葉を紡ぐ。伊東は絶句した。
 一冬を越えて、春告げの鳥が庭に鳴いていた。



 また季節が回っていた。雪が降りそうな重い曇り空の下、失った部位の繋ぎ目がかすかに疼く。痛みはもうほとんど感じない。伊東が作り与えてくれた、生身とよく似た絡繰の腕と脚は問題なく平助の意思に準じて動いている。
 妖狐に襲われた事件の後、平助は一歩も屋敷から出ることが叶わなくなった。以前とて気軽に出歩いていたものでもないので特に違和もなく平助は家事に明け暮れている。
 伊東もまたますます境内に籠もり、誰かを招くことも訪ねていくこともしなくなった。たまに馴染みの来客があり、平助はその間、狐の面をかぶって過ごす。伊東に不自由を強いていることに、平助は多大な申し訳なさと少しの嬉しさがある。
 ——伊東先生になら、食べられてもいい。
 平助が申し出たとき、伊東は心底戸惑ったようだった。妖はたしかに人間を喰らうこともある、妖力を得るために好むような者もいる、だが伊東は何百年と人間を口にしていない。喰わなくとも神格は維持できるからだ。だがまるで平助を労わるような伊東の物云いには平助は納得がいかない。
……いつになったら食べてくれるんだろう……
 落ち葉をかき集める箒を手に平助は幾度目かのため息をついた。もう十八だ。父母のない平助自身は正確な歳を知らないが、伊東がそのくらいだろうと云っているので平助もそう思い込んでいる。十八ともなれば成人、これ以上の成長の見込みはない。たゆまぬ鍛錬のおかげで筋肉はついたが十五の頃から一向に伸びなくなってしまった身長には不満がある。可食部が多いに越したことはないはずだ。
 日々の擦り傷が残るてのひらを閉じたり開いたりしてみていると、ひやりと冷たい粒が落ちて来た。初雪だ。
 呼びかけられた気がして顔を上げると何重にも着込んだ伊東が縁側から手を振っていた。
「おおい、平助君。雪が降るから部屋に入りたまえ」
「はい、ただいま」
 平助は伊東のもとに歩み寄る。いつか別れることになるのなら、早く食べられてひとつになりたい。最近の平助は伊東の顔を見るたびに思っていた。
 否、——いつまでもこのような幸せが続いてほしいのだと、うぬぼれに囁く心を押し込めた。


 いよいよ手放さなければならないと伊東は決心した。
 事件以来、片時も離さず手元に置いていたが、平助が一人前の男になっていることはとうに悟っていた。金子を持たせて賑わいのある街に行かせてやれば、可愛い娘を見初めて商売を始めて、そうして平凡で幸運な人間として生きていけるかもしれない。
 なにも伊東に食べられたいと、骨の髄まで捧げなくてもよろしい。妖狐の欲念と養育者の理性とを天秤にかけて、平助の幸福を願えるように押さえつける。
「あー……美味しそ……っ、だめ、だめでしょ、僕」
 首をぶんぶんと横に振る。伊東は欲望のままに力を振るう妖が嫌いだ。できうるなら対話で解決したいと考えている穏健主義者でもある。だから派閥争いから強引に距離を置いて、おだやかな隠居生活を送っていた。
 ただ、もう限界なのだ。食べたい、味見ならいいじゃないかと餓える欲が平助を喰らい尽くしてしまう前に手放してやらなければ。後悔するのはいつだって残された側だ。
 しんしんと雪が降り積もる晩だった。こういう寒い日には寝酒が欲しい。伊東は平助に云いつけて持ってこさせて、酒を呑み交わしながら街に降りるよう説くつもりだった。
「お待たせしました、先生」
……うん。……うん?」
 この雪が降る晩にも、平助は夜着一枚だった。緩く閉じた胸元がすべらかに光っているようで、伊東はこくりと唾を呑んだ。平助が淡々と障子を閉じて盆を畳に置き、行燈に火をともす。髪を結わえたままの彼の姿が浮かび上がる。平助は徳利に清酒を注ぎ、両手で伊東に捧げた。一連の所作が伊東好みに美しかった。
「そんな格好じゃ寒いんじゃないの。こっちおいで。平助君も付き合いなよ」
「はい、先生」
 緊張をやわらげるために平助を抱き込んでひとつの杯を交互に飲む。幼子の頃から平助の体温は湯たんぽのように心地よい。とりとめのない話をしながら、酒精と湯たんぽの温かさに決心が鈍りそうになる。
 いいか、明日でも……。もう少し、このまま……
「先生? お眠りになりますか?」
「うん、平助君も……
 空の杯を取り上げられて、布団に寝転がると安心する。いつかのように平助が隣に潜り込んできてくれるとなおいい。ここに来たばかりの頃はよく伊東の尻尾で包んで寝かせてやったのだ。
 腹に重いものが乗る。体重が軽すぎるよなあ、遠慮して食べていないことはないかな、と思いつつ、下唇に触れた蜜の甘さに喉が鳴った。
……——っ平助君!」
「はい。いかようにしてくださっても構いません」
「じゃ、なくて!」
 一気に酒精が吹き飛んで伊東は起き上がった。くらりと体勢を崩した平助を抱える。唇の濡れたようなのは、酒のせいとは云い切れない。平助はぱちりとまばたきをした。
「伊東先生は丸ごとは嫌だと仰いましたが、血や涙のような人間の体液を摂取することでも妖力を得られるのだと伺いました。具体的には目合いのような行為でも」
「誰に聞いたんだそれは!」
「先日お訪ねくださった勝先生に」
「あんの狸親父! 僕の平助君に余計なこと吹き込みやがって!」
 たしかに掛け軸を見せようと数分ばかり席を外した覚えはあった。勝は伊東と同じく人間を喰わない誓いを立てた古狸だからと安心していた伊東が阿呆だった。
 渾身のお誘いが失敗して見るからに気落ちしたように首を落とす平助に、伊東はあわてて抱きしめてやった。先ほどから香っていた、芯が湿ったような髪から伊東が好む花の匂いが鼻をついて、頭が湧くような思いに囚われそうになるが必死に振り切ろうとする。
「平助君の身体なんだから、大事にしてほしいんだよ。前みたいに添い寝ならいいよ、いくらでもしてあげる。でも、平助君の人生なんだから、こんな老いぼれの妖狐じゃなくてさあ、街に出て、可愛い娘さんと出会って、孫ができてよぼよぼの爺さんになるまで普通に、平穏に生きてほしいんだよ……
 ちいさなようで大きくなった身体をかき抱くと、平助が抱き返してくれる。
「僕、ずっと云ってるじゃないですか。この身、この心、伊東先生が救ってくださったこの命、ぜんぶ捧げますから……どうか」
 食べて。ずっと一緒にいさせてください。
 ひとひらの雪が溶けるように重ねられる本音。
 枷が外れる音を聞き届けて、伊東はやわい唇に噛みついた。


 寝顔は幼いころとまるで変わっていない。頬をふに、とつつくとむずがるように伊東の尻尾にしがみついて顔をうずめようとする。肌には点々と赤い花が散っていて、頭のてっぺんから爪先まで匂い立つような伊東の妖気が染みついていた。
 狐の尻尾に埋もれるようにして眠っている平助に、伊東はさっそく後悔していた。
……やってしまった」
 二日酔いでないというのに頭痛がする。
 後悔はしたが、反省はあまりしていないのが本心だ。
 百何十年ぶりかの人間は我を失いかけるほどの甘美な皿だった。どこもかしこも菓子のように甘く、妖力を馴染ませてやれば綿が水を吸収するがごとくますます伊東の好みに染め上がる。ただの人間ではないのだから当然だった。伊東が自ら食べ物を与え育て上げた、妖の世界にどっぷりと馴染んだ平助は、伊東のための極上の贄なのだから。
 どうしたものかと考える。一度贄として捧げられてはもはや人の世界では生きられない。老いさらばえて死ぬまで贄として手元に置いておくか、妖力を分け与えて伊東の従僕としてやるか——事件の直後にちらと過ぎった案が現実味を帯びたことに伊東は眉間を寄せる。時間をかけて血を混ぜ妖力で浸して魂から作り替えてやるやり方は、永遠に人間でも妖でもないどっちつかずの隷下になることを意味した。
 いつもなら夜明け頃には起き出して働きだす平助は、空が白みはじめたいまもすうすうと寝息を立てている。伊東は考えを投げ出して、愛おしい子を抱き込んで二度寝を決めることにした。








 蜻蛉を追いかけていたら、帰り道がわからなくなってしまった。
 ここはどこだろう。鳥居があるから神社だろうか。目の前には長い長い石の階段があって、後ろは霧がかっている。
 少女は脚をすくませて、前と後ろ、どちらが進みやすそうかを考え、階段を登ることにした。苔むした石はすべりそうで、ちいさな足でゆっくりと歩む。
「おや、迷子かな」
 ひゃ、と少女はかん高い悲鳴を上げた。せっかく半分ほど登ったのに転げ落ちそうになり、力強い腕に支えられる。突然に階段の途中に現れたように思われた青年は、どうしてだか額に傷のついた赤いまなじりの狐の面をかぶっていた。古風な赤い羽織の着物の裏に、髪と同じ白い尻尾があるのかと少女はよくよく見つめたが、とくにそれらしいものはなかった。
「こっちの社には来てはいけないよ。神様がおわしているからね」
 あなたがかみさま? 少女が訊くと、青年はころころと笑い声を震わせた。
「僕はただのお使いだよ。さ、境界まで送ってあげよう」
 青年が手を繋ごうとして、小首をかしげ、わざわざ反対に回って右の手で少女の手を取る。
 そっちの手じゃだめなの、と少女は云った。
「だめではないけど、神様がくれた手だからね。きみには少し冷たいだろうから」
 ふうん、とあまりよくわかっていない声で少女は答えた。登るときにはあんなに長いようだった階段も降りるときにはすぐだ。まもなく鳥居の前に来ていた。
「じゃあ、ここから先はきみだけだ。家までまっすぐ帰ること。いいかい?」
 こくりと少女は頷いた。狐面の青年の手を離し、鳥居をくぐって駆けてゆく。
 そしていつもの通学路に立っていた。
 振り返っても鳥居の中には誰もいない。通学路に面した神社の入口がぽつんと静かにたたずんでいる。