G7会議が終了してから、時計の針は一時間以上進んでいた。本来ならとっくに空港へ向かっている時間だったが、送迎の手配に手違いがあったらしく、各国の化身たちは控え室で足止めを食っていた。
広めの応接室。いくつものソファにそれぞれが思い思いの姿勢で身体を預けている。どこか間延びした空気が部屋に漂い、退屈の気配が静かに満ちていた。
その一角、イギリスは椅子に腰をかけて腕を組んだまま視線を落ち着きなく動かしていた。足先は細かく揺れて指先が袖口をいじっている。視線は宙をさまよっているようでいて、白いソファの一点から外れていない。
そこにはフランスがいた。白のソファに斜めに身を預け、長身を持て余すように足を組んでいる。片手にはコーヒーカップ。肩に落ちるブロンドの髪がやわらかく揺れてカップを口元へ運ぶ指の動きには、無意識の色気が漂っている。ふいにフランスが視線を上げた。イギリスの目線に気づいたらしい。目が合った瞬間、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「そわそわして、どうしたの坊ちゃん?」
ふわりとからかいが混じっている。
「うるせぇな」
イギリスはむっと顔を背けたが、肩のあたりがわずかにこわばっている。反発の言葉にも張りがなく、唇を尖らせて小さく息を吐いた。
「お前に相談なんて、気は進まねぇけど……力を貸してほしい」
フランスの眉がわずかに動いた。表情を変えず、カップを口元から離して肩をすくめる。
「えぇ〜?坊ちゃんから相談なんて、どう考えても面倒くさい匂いしかしないんだけど〜?」
「真面目に聞け」
イギリスの目が細くなる。
「俺とアイツのこと、知ってるよな」
主語はなかったが、それで十分だった。
フランスは椅子にもたれたまま顎に手を当て、ゆっくりうなずく。
「うん、もちろん、付き合ってるのもうずっと昔からでしょ」
「……だよな、お前とかスペインとか欧州の古株どもは、まぁ……」
言いながら、イギリスは深く息を吸い込んだ。そしてゆっくりと片手で顔を覆う。その指の隙間から覗く顔には気まずさと戸惑いが滲んでいた。
「そんなにわかりやすかったか?」
フランスは笑わなかった。カップをテーブルに置き、じっとイギリスを見つめる。
「……忘れたの?昔、外交の席で目配せしたり、会議中にテーブルの下で手を繋いだり……何度もやってたよね、こっちはもう開き直ってるのかと思ってたくらいなんだけど?」
「…………」
イギリスは黙ったまま、顔を覆っていた手をゆっくりと下ろす。フランスは一呼吸置いて、やや声を荒げた。
「ほんっっっとにバレていないと思っていたの!?」
声が思ったより大きくなっていた。フランス自身も気づいていなかったらしく、すぐに眉をひそめる。
「ばっ…!声がでけえよ!!」
イギリスが慌てて立ち上がり、フランスを睨んだ。
「お前の方が声でかいよ!」
「髭の声でかいだろ今の!!」
向かいのソファにいたアメリカとカナダがちらりとこちらを見たが、すぐに話に戻っていった。
……まだバレていない。かろうじて。
イギリスは咳払いしながら、スーツの襟を直した。
「で、そのことなんだけどな、最近になって気づいた、兄上たちもアメリカもカナダも……元弟たちも含めて誰も気づいてねぇ」
フランスの手が止まった。
カップの中の波紋が静かに揺れたまま止まる。
「…………」
数秒の沈黙ののち、フランスは無言で立ち上がった。カップをそっと置き、やけに軽い足取りでドアの方へ向かう。
「お兄さん、ちょっと用事思い出したから帰るね!」
「逃げるなぁ!!」
イギリスが慌てて追いかけた。
部屋の奥にいたドイツが「静かにしろ」と言いたげな目でこちらを睨んだが、ふたりの耳には入っていない。勢いのまま控え室を飛び出す。
「お前の力が必要なんだよ!」
「やだやだ!お兄さん、死にたくない!眉毛兄弟に吊るされる未来しか見えない!」
「変なこと言ってんじゃねぇよ!!」
「だったらどうして今まで黙ってたのよ!?昔兄弟仲が冷えてたのは知ってるけど、シェアハウスで一緒に暮らしてからもう百年よ!?弟たちにも言う機会なんていくらでもあったでしょ!」
イギリスは勢いのままフランスの袖をつかんだ。顔は少しだけ俯いている。
「付き合い始めたのがあまりにも昔すぎてさ、正直みんな知ってるもんだと思ってた、それに、アメリカたちに言うタイミングも……うまく、掴めなかったんだよ」
肩越しにこぼれた言葉は、どこか答えを求めるようだった。
「だから教えろ、どう言えば一番マシにすむのか……クソ髭」
===
ドアが閉まる音がひときわ鋭く控え室に響いた。
その直前まで騒がしく言い争っていたイギリスとフランスの姿は、もはやそこにはなかった。怒鳴り合いとも漫才ともつかないやり取りを交わしながらバタバタとした足音を残して廊下へと消えていったふたり。部屋の中には奇妙な静寂だけが取り残されており、沈黙を最初に破ったのはソファにもたれかかり半目で扉を睨んでいたアメリカだった。
「なーにやってるんだい、あのおっさんたちは……」
氷が、かちり。アメリカはコーラのカップをくるくると回してストローをくわえたまま視線だけ閉まったドアへ向けていた。その隣、カナダが苦笑し、小さくうなずく。
「でもイギリスさんとフランスさんって、いつも一緒にいますよね」
カナダは穏やかな表情で首を傾げた。ソファの向かいの日本が静かにため息をついた。膝の上の湯呑みにいちど視線を落とし、言葉を選ぶように口を開く。
「はぁ……とはいえ、なんやかんや仲が良いですよね、あの二人は」
声音は控えめだったが目元にはうっすらとした笑みと柔らかな温度が浮かんでいた。
そのとき、ソファの端に寝転ぶようにしていたイタリアがひょいと上体を起こす。まるで何かを思い出したように無邪気な声を上げた。
「そうそう!さっきちょっとだけ聞こえたんだけどね〜、恋バナしてたよ?」
その一言が控え室の空気を一瞬で変えた。アメリカの眉がぴくりと跳ねる。彼は半身を起こし、イタリアをまっすぐに見つめた。カナダも思わず紅茶のカップを持つ手を止め、目を見開く。
「イギリスとフランスが?……恋バナ?」
アメリカは信じられないという表情で身を乗り出し、疑うような声を上げる。イタリアはけろりとした顔で首を傾けながら答えた。
「え?だってイギリスは恋人いるんだから、恋バナしてもおかしくないよ?」
沈黙が落ちた。アメリカとカナダの動きがぴたりと止まる。アメリカはコーラのカップを持ったまま目を見開き、固まっている。カナダは視線を泳がせながら唇をわずかに開いたまま、言葉が出てこない。ドイツが真顔で問いかける。
「何?イギリスは恋人がいるのか?」
その言葉に日本がうなずき、静かに応じる。
「ええ、イギリスさんご本人から伺ったことはありませんが、恋人さんのほうとは昔に少しだけ」
日本は湯呑みに視線を落とし、記憶をたぐるように続けた。
「その方とは、ご縁があった時期がありましたので、その際に自然と話の端々で」
イタリアがにこにこと笑いながら補足する。
「あ〜、そっかぁ、ドイツは若いから知らないもんね!でもね、イギリス昔からラブラブたよ!」
そう言いながら片手でハートを作ってみせる。本人はいたって無邪気だが、その言葉はさらに場の空気を凍らせた。アメリカの顔がみるみるうちに引きつっていく。
「……は?イギリスが、恋人……?」
カップが止まる。カナダも同じようにぽつりと漏らす。
「え……イギリスさん、恋人いるんですか……?」
ふたりが同時に曇らせる。手の中の飲み物の存在すら忘れたように呆然と座っていた。空気がぴんと張り詰める。
その異変に気づいた日本とイタリアは気まずそうに視線をそらした。
やってしまった。
日本はそっと目を伏せて、低く呟く。
「……すみません、イギリスさんからは何も言われていなかったのでしょうか」
イタリアも手元の紙コップをいじりながら小さな声で言う。
「あ……えっとぉ……知らなかったの?」
重たい沈黙が再び控え室を支配する。誰も次の言葉を選べずにいる。
そして遠くの廊下では、まだ続いているイギリスとフランスの言い争いが、かすかに響いていた。
===
数日後。場所はアメリカの自宅。
壁一面に据えられた巨大なテレビが鎮座する広いリビング。その中央、ガラステーブルにはポップコーンやチップス、カラフルなドリンクボトルが山のように並べられていた。けれど、誰もそれに手を伸ばそうとはしない。
その場を仕切るようにアメリカが立ち上がった。胸を張り、腰に手を当てて、高らかに宣言する。
「というわけで!イギリスの恋人を特定するんだぞ!」
勢いのあるその声が吹き抜けの天井に跳ね返るように響いた。
リビングの片隅でマグカップを両手で包みながらソファに沈んでいたカナダが静かにため息をつく。視線はカップの縁に落ちたまま、苦々しげにつぶやいた。
「……兄弟、本当にやるの?これ」
隣のソファの肘掛けに寄りかかっていたオーストラリアが勢いよく飛び上がった。
「ええぇぇ!?マジかよ!?あのイギリスが恋人!?そんなん聞いてねぇって!!」
その声はリビングに響き渡り、置かれていたグラスの氷がかすかに音を立てる。驚きに顔をしかめたニュージーランドが、すかさず肘で彼を突っついた。
「ちょっとオージー、声!アメリカん家って広いけど、防音が完璧じゃないからね!……ていうか、本当なの? イギリス兄さんに恋人?」
オーストラリアは苦笑いしつつ、「悪ぃ悪ぃ」と肩をすくめた。
「いや、マジでイギリスに恋人がいるの?」
カナダは口を引き結び、少しの間黙っていたが、やがてこくりとうなずいた。
「うん……あの日、日本さんとイタリアさんから聞いたんだ、ずっと昔から付き合ってる人がいるって、でも名前は教えてくれなかった」
カナダが答えると、オーストラリアが天を仰いで嘆く。
「信じらんねぇ……あのイギリスが」
「僕ら、誰一人知らなかったってことだよね」
ニュージーランドがぼそりとつぶやくと場に短い沈黙が落ちた。
沈黙を再び破ったのはアメリカだった。テーブルに手をパンッと打ちつけ、ひときわ大きな声を響かせる。
「だからこそ!今こうして集まってイギリスの恋人を特定するんだぞ!」
勢いよく立ち上がったアメリカが胸を張って言い放つ。
「えぇ〜イギリス兄さんの恋人に問い詰めるつもりなの?」
ニュージーランドが冷ややかに応じた。
「それにアメリカって元弟だったでしょ独立した元弟に恋人のこと言うわけないじゃん」
ニュージーランドの皮肉を込めた一言にアメリカは一瞬たじろぐも、すぐに表情を立て直して無理やりテンションを戻した。
「そ、それでも!長年の付き合いなんだぞ?恋人の一人や二人、紹介されてもいいと思うかい!?」
「完全に詮索ってやつだよ…兄弟」
カナダが淡々と口を挟んでもアメリカは聞く耳を持たずにメモ帳を広げた。
「よし、まずあの日のこと! イタリアと日本に直撃したけど、どっちも絶対名前を明かさなかったんだぞ!」
その瞬間、カナダが静かに眉をひそめてアメリカを睨む。
「……まさかと思うけど本当にCIAに調査依頼を出したわけじゃないよね?」
警告するような口調にアメリカは咳払いをひとつ。
「頼もうとしたけど、ボスに即却下されたんだぞ!同盟国の恋愛に国家機関を使うなってさ!」
「そりゃそうでしょ」
ニュージーランドが心底呆れたように返す。
カナダはそっとカップを置きながら、数日前の一幕を思い返していた。
日本とイタリアに詰め寄ったアメリカ。けれど返ってきたのは固い沈黙だけだった。しびれを切らしたアメリカは怒りに任せて、ジャケットの内ポケットからスマートフォンを引き抜いた。
「……もういい!CIAに調査依頼出すぞ!!」
その言葉にカナダは慌てて手を伸ばした。
「やめて!そんなの絶対に後悔するから!」
結局、本部に相談したアメリカは「前代未聞だ」と一蹴された。
「本当にあの日、CIAに頼むんだぞ!って大騒ぎしてたよね……」
回想を終えたカナダがつぶやく。
「却下されたけどね!そのくらい調査してもいいと思わないかい!?」
「いや、だからって国家機関使うのはヤバいでしょ」
ニュージーランドがきっぱりと返す。
「CIAとかスケールがデケェな!アメリカ!」
オーストラリアがからからと笑う。
「普通に論外だから」
カナダがため息をつきながらも、やれやれといった顔でマグカップを口に運んだ。
アメリカは笑ってごまかしつつ、手元のメモ帳をパラパラとめくった。
「だから、もう自力で調べるしかないんだぞ! 過去百年のイギリスの交友関係、全部洗い出してやる!」
「百年で足りるのか?イタリアの話ぶりだと、もっと前から付き合ってそうだったじゃん。五百年くらい前からじゃね?」
オーストラリアがポップコーンをもうひとつかみしながら、軽く言う。
「確かにオーストラリアの言う通り、五百年くらいから洗い出したほうがいいかもしれないね」
アメリカが真顔でメモ帳にメモし始める。
「ごひゃく……」
ニュージーランドの顔から、色がスーッと引いていく。二百年そこそこしか生きていない自分には想像もつかない年月だった。
「気が遠くなるよ!それよりスコット兄さんたちに聞いたほうが早くない?」
そのとき、カナダがはっとしたように手を打つ。
「あ、そういえば、ウェールズさんが言ってたよ、イングランドのことは自分が一番わかってるって、もしかしたら知ってるかも」
「それだ!」と、オーストラリアが立ち上がる。
スマホをポケットから取り出してロックを外して画面をスワイプ。
「今すぐ電話しようぜ!聞くなら今だろ!」
リビングの空気が、ぱっと明るさを取り戻す。
===
久しぶりに弟分であるオーストラリアから電話がかかってきた。
普段なら真っ先に彼が慕ってやまない育ての兄、イングランドへ連絡するはずなのに今回はなぜか自分の番号を選んでいる。ウェールズは小さく首を傾げて着信に応じた。珍しいこともある。そう思ったのも束の間だった。
それは彼の平穏な一日を終わらせる、まさかの爆弾投下だった。
「もしもし、ウェールズ?いきなりなんだけどさ、イギ……イングランドの恋人って、知らねえか?」
耳を疑った瞬間、脳内で雷鳴が轟いた。言葉の意味を飲み込むより先に衝撃が全身を駆け抜ける。
「…………は?」
反射で漏れた声は、自分でも驚くほど間の抜けた響きだった。冗談かと思った。しかし、オーストラリアの声音にふざけた色はない。
「ちょ、ちょっと待って……なに?い、いーくんの……恋人、って……?」
喉の奥がきゅっと渇く。
いつだって近くにいた。誰よりも家族として長く共にいた弟のはずだった。
それなのに、そんな大事なことを、一言も。
「うそぉ……」
なに、いつの間に?え、うちのいーくん、そんな……ラブロマンス展開あったの?どこで? 誰と??
あたふたと問いを並べ立てながら、ウェールズは軽くパニックを起こしていた。
……そういう話があったなら、俺が知らないなんておかしいだろう!?
そこへ、オーストラリアが追い打ちをかけるように、さらなる爆弾を投げてきた。
「そうか、ウェールズも知らないんだ!イングランドの恋人って、国らしいぞ」
ウェールズは固まったまま、言葉を探すことすらできなかった。
「うん……うん……あー……うん……」と、取り繕うように相槌だけを並べ立て、ほとんど反射で通話を切る。
切った瞬間、何を話していたのかが跡形もなく抜け落ちていることに気づき、こめかみを押さえた。
しばらくその場に立ち尽くし、「……え?」とようやく声が漏れる。
いーくんの恋人は、国?
理解できない。いや、したくない。いや、やっぱり理解できない。
胸の奥で混乱が渦を巻き、収まる気配はない。
衝撃を抱えきれず、ウェールズはふらつく足取りのまま階下のリビングへと降りていった。そこにはソファに腰を下ろしたスコットランドがぼんやりとテレビを眺め、テーブルでは北アイルランドが雑誌を広げていた。ウェールズの気配に気づいた北アイルランドが顔を上げ、次の瞬間、ぎょっと目を見開く。
「ど……どうしたの?ウェールズ?顔色、すごく悪いよ?」
その声に釣られて、スコットランドもゆっくりと振り返った。眉をひそめた彼の視線の先にいたのは、まるでこの世の終わりを見てきたかのような表情のウェールズだった。
「おい……大丈夫か?どっかの呪いでも食らったのか?」
スコットランドが心配そうに声をかける。
「も〜スコット!あのウェールズが呪いなんて食らうわけないじゃん!」
軽口めいた北アイルランドの言葉にウェールズの肩が小さく反応する。
「いーくんが……」
二人は顔を見合わせ、その続きを静かに待った。目の前のウェールズの様子は尋常ではない。肩は微かに震えて唇はためらいがちに動く。その顔は骨の芯まで冷え切り、沈黙を切り裂くように重くかすれた声が落ちる。
「……いーくん、恋人がいるんだって」
その一言は静まった空気に鈍く響き、三人の間に重苦しい沈黙を広げ、部屋全体がその言葉によって凍りつく。最初にそれを破ったのは北アイルランドだった。
「えー!イングランド、恋人いるんだ!?知らなかった!」
驚きの響きには好奇心とわずかな面白がりが混じっている。事実そのものよりも思いがけない話題を掴んだ喜びのほうが勝っている様子だった。一方、スコットランドはわずかに眉を動かし、間を置いてから薄く笑みを浮かべる。
「ウェールズ、お前、大袈裟すぎるんだよ」
肩をすくめてみせる仕草はあくまで軽く受け流すかのようだ。
「俺たち千年以上も生きてるんだ、アイツに恋人がいたって、何の不思議もねえだろ」
声音は落ち着いていたが、その直後、視線が一瞬だけ宙を彷徨った。ウェールズはしばらく口を閉ざしていた。視線はリビングのカーペットに落ち、まるでその奥に答えが沈んでいるかのように動かない。沈黙は重く、低く押し出すような声が落ちた。
「そう、いーくんの恋人は普通だったらよかったのに……」
その言葉にスコットランドと北アイルランドは互いに視線を交わす。静けさを割ってスコットランドが眉間に皺を寄せた。
「おい、その言い方だと……イングランドの恋人は普通じゃねぇってことか?」
北アイルランドも半ば冗談めかしながら身を乗り出す。
「恋人は幽霊とか?」
ウェールズは小さく首を振るでもなく、ただ吐き出すように続けた。
「何百年も前から付き合ってるらしいんだって……」
その一言に北アイルランドとスコットランドの顔色が変わる。二人とも一瞬、息を呑み、互いの視線を確かめ合った。
「何百年前から?えっ、ガチで幽霊……?」
北アイルランドはあの弟なら恋人は幽霊って紹介しても。まあ、あり得ると一瞬よぎらせつつ、問いかける。ウェールズの喉仏が震える。
「幽霊……うん……そうだったらいいのに……幽霊でも、妖精さんでも、いいのに」
言葉がぷつりと切れ、次の瞬間、堰を切ったように叫んだ。
「なんで、国なんだよ!!!!」
その声でリビングの空気がきゅっと凍りついた。国?あのイングランドの恋人が、国?二人の目はまんまる、口はぽかん。そのまま時間が止まる。
「え?国って」と北アイルランド。「国、だと?」スコットランドが低く言う。ウェールズは額を押さえて床の一点を見据えたまま低くうめく。
「俺だって信じたくないよ、でもオーストラリアが言ってたんだ、いーくんの恋人は国だって、しかも数百年の付き合いだって」
「いや待て、国と付き合うって何だ、昔、同盟国と婚姻を結んだこともあるが……そういう話か?」
スコットランドが真顔で言う。
「えっ、俺たち兄弟、イングランドの恋人と交際してるの?」
北アイルランドは混乱している。
「やめて!いーくんの恋人と俺たちも付き合うとか想像したくもない!」
ウェールズは両耳を塞ぐ。三人の頭を同時にイングランドの宿縁や因縁、歴史がよぎる。
「……フラン」
北アイルランドが言いかけた瞬間。
「フランスはない!!」
ウェールズが食い気味に叩き落とした。反射的、条件反射的、生理的拒否。
「絶対ねえだろ!!」と、スコットランドも追い打ち。
北アイルランドはうーんと唸って、次をひねり出す。
「スペインは?」
「スペインはないんじゃないかな?アルマダで険悪になったし」とウェールズ。
「じゃ、日本は?」
「えーたしかにいーくん、日本にデレデレしてるよね……」
弟が「俺の相棒だ」と嬉しそうに自慢していたあの頃がウェールズの脳裏をかすめる。
「じゃあ、プロイセン?」
北アイルランドが首をひねる。ウェールズは遠い目になる。
「いーくんがプロイセンに嬉しそうに料理を作ってたことはあったね…」
なお、イングランドの料理は絶望的に壊滅的である。その後のプロイセンはお察しだ。
「おい…お前ら、挙がってる国は全員男じゃねえか」
スコットランドが引いた顔でつぶやく。
「女だっているけどさ、イングランドの長い付き合いで思い出す顔はだいたい男でしょ」
北アイルランドがあっけらかんと答える。
「まじで誰だよ」
ウェールズはぼそりと零した。唇を噛み、つかみかけた言葉を手放す。
「うちのいーくんに手ぇ出したのは誰だ……呪ってやる……」
ぶつぶつと呪文がこぼれ、北アイルランドが半歩引いた。
「えっと…ポルトガルは?」
北アイルランドが天井を見上げる。一拍、二拍。妙にまじめな沈黙が落ちた。
「ポルトガルが?うーん、逆にないんじゃないかな」
「俺も同意見だ」
ウェールズとスコットランドが同時にうなずく。
「よし、尋問だ」
最初に現実へ戻ったのはスコットランドだった。指の関節をコキッと鳴らす。
「イングランドが俺たちに隠し事?舐めてんのか」
「酒飲もうよ!酒ならイングランドも口割るから!」
北アイルランドが前のめり。
「ダメだ!酔っ払いのイングランドは面倒くせえ……酒は無し」
スコットランドが即答で斬る。北アイルランドは残念そうにちぇっと舌を鳴らした。
ウェールズは深く息を吸い、吐く。
「とにかくいーくんが帰ってきたら落ち着いて、ちゃんと話を」
ガチャリ。
廊下に金属の擦れる音が走り、取っ手がわずかに震えながら回ると扉はゆっくりと開き、冷たい外気とともにイングランドが帰ってきて、玄関マットの上で靴先を二度鳴らし、無言のまま廊下を進んでリビングの前で足を止めて扉が開く音を合図に空気が一変し、固まった兄弟三人の視線を一身に受けながら、彼は眉間に皺を寄せて疲れの滲む顔で上着を脱ぎ、スコットランドが黙って腕を組んだ。
「お前、話あるよな?」
イングランドがきょとんとする。
「は?何の話だよ」
北アイルランドが勢いよく身を乗り出した。
「イングランド!お前恋人居るの!?」
「……は?」
一拍遅れて、イングランドの顔から血の気が引いた。ウェールズが深く息を吸って一歩前に出る。
「いーくんの恋人は国だって聞いたんだけど!?」
「なっ、なんでお前ら知ってるんだ?!」
声がわずかに裏返る。そのたった一言で兄たち三人の心拍がそろって跳ねた。スコットランドが眉をひそめてゆっくりと立ち上がる。
「お前、まさか本当に国と?」
「な、なんだよそのまさかって顔は!」
イングランドが顔を赤くし、慌てて上着をソファに投げた。北アイルランドが手を振る。
「どこの国!?ヨーロッパ?アジア?南半球!?」
「そんな広範囲なんだ?!」
「だってイングランドって昔から外交関係だけは広いじゃん!友達少ないけどなあ!」
スコットランドが冷ややかに笑った。
「で、誰なんだ」
短い沈黙。
イングランドの視線が泳ぎ、やがて諦めたように小さく呟く。
「ポルトガルだよ」
一瞬、空気が止まった。
次の瞬間。
「うわぁーー!やっぱりーー!!」
北アイルランドが頭を抱え、スコットランドが額を押さえ、ウェールズはその場に崩れ落ちそうになる。リビングの空気が重く張り詰めて時間だけがゆっくりと流れた。イングランドは眉間に皺を寄せて兄たちの視線を受け止めきれずに視線を逸らす。スコットランドが腕を組んだまま、低く言う。
「お前な、なんで隠してたんだ」
「別に隠してたわけじゃねぇ」
イングランドの声は小さく、どこか刺々しい。
「言う機会がなかっただけだ」
「はぁ?俺たちに言う必要がねぇってか、イングランド」
スコットランドの眉が跳ねる。北アイルランドとウェールズが慌てて間に入る。
「ちょ、ちょっとスコット!そういう言い方やめようって!」
「そうだよ!スコ君!意地悪なことを言わないでよ」
「お前らと一緒になる前から、あいつとは恋人だった、だからお前たちに言う機会なんか無かったんだよ」
ウェールズが困ったように言葉を探す。
「怒ってるわけじゃないよ、でも教えてくれてもよかったのに」
スコットランドが皮肉を滲ませる。
「相手が国だって聞いたら妙に納得だな、どうせ利害で繋がってるだけだろ」
「ポルトガルはそういう奴じゃねぇ!」
イングランドが一歩踏み出した。
「お前らが何も知らないくせに勝手に否定すんな!」
スコットランドも立ち上がる。
「じゃあ何で言わなかった!後ろめたいことがあるからだろ!」
「違ぇよ!!」
イングランドの声が弾けた。
「言ってもどうせ笑うだろ!人間の恋愛ごっこ、そう言うんだ!!」
ウェールズが思わず口を開く。
「いーくん、そんなこと…」
「あるだろ!」
イングランドが遮る。沈黙が落ちた。北アイルランドが何か言おうと口を開きかけたが、声が出ない。空気が張り詰めて兄弟たちの息づかいだけがかすかに響く。イングランドは小さく息を吸い、かすれた声で呟いた。
「俺はあいつを愛してる、同盟結ぶ前からずっと昔から、それだけで十分だろ」
その言葉を最後に視線を逸らした。誰も止めることができなかった。
イングランドはソファの背に投げかけたジャケットを掴み、玄関へ向かう。足音が床を叩く。
「待て、イングランド!」
スコットランドの声が響く。イングランドは振り返らなかった。
バタン。乾いた音が家に響き、すべてを断ち切った。その音が消えたあと誰も動けなかった。
===
パリ郊外の邸宅にて。うっすらと雨の降る夕暮れ、低く差し込む光が石畳を濡らしていた。フランスの邸宅の玄関チャイムが静けさを破って鳴る。誰が来たのかは開ける前から察しがついていた。この時間帯にこの勢いで押しかけてくる人物など世界広しといえど限られている。扉を開けたフランスの眉間には早くも疲労の皺が寄っていた。案の定、濡れた金髪を額に貼りつかせたイギリスが、ぶすっとした顔で立っている。片手には鞄。目を合わさないまま、黙って玄関の隙間を押し広げるようにして中へ入り込んできた。
「おまえねえ、いくらなんでも厚かましいと思わない?」
眉をひそめてフランスが言っても返事はない。まるでその台詞すら予測済みであるかのようにイギリスは濡れたジャケットに手をかけた。
フランスは呆れたようにそれを引っぺがすと玄関先にバサリと投げ捨てた。
「で、夜ごはんは何がいい?」
「ビーフ」
「はいはい、ビーフね、ほんっと芸がないよねおまえ、毎回それだもん」
そう言いながらタオルを放り背中を軽く押して浴室へ向かわせる。イギリスは文句も言わず濡れた髪をぬぐいながら無言で足を進める。その足音だけが廊下に残った。フランスはため息をつきながらキッチンへ向かう。まな板の上には赤身のブロック、開けたばかりの赤ワイン。
こうして当然のように世話を焼かされるのにはいつものことだった。また兄弟と何かあったな。手慣れた動きで牛肉を下処理しながらフランスは小さく鼻を鳴らす。
(逃げてくる場所がいつもここなのはいいけどさ……)
正直なところ、彼自身は完全に面倒を引き受けるつもりはなかった。イギリスとその兄たちのいざこざに当事者でもない自分が巻き込まれる気などさらさらない。
(どうせ場所は割れてる、いずれあの眉毛兄貴たちが怒鳴り込んでくる、バレた瞬間、面倒は倍に膨れ上がる)
想像するだけで胃が重くなる。
(だったらさ、俺だけ巻き込まれるなんて理不尽すぎる)
スマートフォンを手に取って画面をスワイプ。開いたのはスペインの連絡先。
「家に来てね」
たった一行のメッセージを送り、添付したのは先ほど購入したばかりの今夜のパリ行き航空券。
唇の端をにやりと歪めると再び火の前に戻る。鍋の中では赤ワインソースが静かに煮詰まりつつあった。ジュウと鳴る肉の焼ける音にかき消されてフランスのため息とともに静かに夜の空気に溶けていった。
数時間後、ダイニングには雨上がりの夏の夜らしい熱気がまだ残っていた。
窓の外では虫の声がかすかに聞こえて遠くでパリの郊外を走る車の音がかすれ気味に届く。
イギリスは背もたれに寄りかかり、グラスの脚をくるくると指で回していた。彼の金の髪に影を落としていいた。どこか所在なく見えるその姿をフランスはちらりと横目で見た。テーブルの上には、牛のローストと、ほどよい酸味の赤ワインソースの残り。皿の縁にはこすられたパンの跡と乾きかけたルッコラが名残惜しげに残されていた。
「で、そろそろ話してもらおうかな?」
フランスが軽い口調でそう言ったとき、イギリスはわずかに肩をすくめただけで返事をしなかった。
「坊ちゃん、アポ無しで押しかけてきて厚かましく晩ごはん要求して黙ってるつもりじゃないよね?」
イギリスはグラスを少しだけ傾け、口元だけでつぶやいた。
「別に黙ってるわけじゃねぇよ」
「早く言えよくそ眉毛」
ワインの赤がグラス越しにイギリスの表情を照らす。どこか疲れた眼差しをいっそう深くした。
「兄上たちにバレた」
短く、吐き出すような声だった。フランスの眉がぴくりと動く。
「あらら、ついに」
「……」
うつむくイギリスはどこか無防備な陰が差していた。フランスは冷静にイギリスのつむじを見つめていた。
とうとう来たかと、そんなふうに他人事のように思いふけっていた。
(まぁ、あの坊ちゃんのお兄ちゃんたちなんだから、隠しごとなんてできるわけないって、わかりきってたけどね)
「顔に出てんのよ、そういうの、すっごくわかりやすいんだから」
「うるせぇ……」
イギリスは低く唸るように言って残っていたワインを一気に飲み干した。その口元にはかすかに苦さがにじんでいた。フランスはにやりと笑う。
「で?何?逃げてきたの?」
「……っ!」
「図星か〜」
「うるせー!」
「言われたくないことを図星って言うんだよ、坊ちゃん」
そう言いながらも、フランスはその声の調子を少しだけ優しくしていた。
「兄さんの前で、どうしていいかわかんねぇんだよ」
「ふーん、じゃあなんでうち来たの?」
「メシを食いにきた」
「そう」
イギリスは返さない。フランスは続ける。
「俺のご飯大好きもんね〜アングルテールちゃん?」
「その呼び方やめろ!バカぁ!」
「はいはい俺は寛大だからね」
フランスの声がすっと落ち着いた調子になる。
「坊ちゃんさぁ、スコット達と話し合いなよ?」
イギリスが息を詰めたように顔を伏せる。
フランスはそれを見て、小さく笑ってからワインを口に含む。
「どうしていいか、わかんねぇんだよ」
その声には、ほんのわずかだけ迷いが混ざっていた。 まるで迷子になっている子供のようだった。フランスは席を立ち、キッチンからチーズの盛り合わせを運んできて、テーブルに軽くトレイを置いた。グラスが重ねられ、ボトルの数がゆっくりと増えていく。そして気づけばワインのボトルは三本目に入っていた。チャイムが鳴る。フランスはにやりと笑った。
「ちょうどいいタイミングだ」
「誰だよ、こんな時間に」
「さあね」
立ち上がるとフランスはそのまま玄関へ向かった。足取りはゆるやかで肩の力が抜けたように見えたが、その口元には何かを企んでいる者特有の余裕が滲んでいた。扉を開けるとそこには片手に小さなトランクを下げたスペインが立っていた。うっすらと湿った夜気の中、彼の栗色の髪が少し乱れている。
「ったく、なんやねん、いきなり航空券送りつけて今すぐパリ来いって……マドリードのチェックイン地獄やったぞ!」
フランスはさらりと挨拶だけを返す。相変わらず説明はない。スペインはむっとしたまま玄関を上がり、奥を見やった。
「ほんま何かあったんかと思ったんやけど……なんやあれ?」
視線の先、リビングにはソファにふんぞり返っているイギリスの姿。グラスを片手に真っ赤な顔をしており、明らかに酔っている。目は半分開いていたが何を見ているのか定かではない。
スペインはその光景を一瞥し、盛大なため息をついた。
「なんやこれ?」
フランスは肩をすくめる。その仕草はあくまで優雅だったが目元は笑っていた。スペインの眉が一段としかめられる。
一方のイギリスは視界の隅に何かが入ったような反応を見せたが、事態が飲み込めていない様子で手にしたグラスのワインをぐいと飲み干すだけだった。スペインはしばらく黙っていた。玄関の上がり框に手をかけたまま、リビングの奥にいるイギリスと扉脇で飄々と立つフランスを交互に見比べる。
やがて、ゆっくりと荷物を傍らに下ろした。
「まぁええけどな、イギリスが居る時点でロクなことやないとは思ってた」
呟くように言いながら、スペインは進んでいく。奥のリビングに足を踏み入れるとイギリスがちらりと目だけをこちらに動かした。
「なんでお前がここに居るんだ」
声はくぐもって口調も荒れ、顔は火照って金髪が汗と酒で額に張り付き、まぶたも重そうなイギリスに対し、スペインは「知らんがな。俺にも説明なしでチケット送りつけてきた奴が悪い」とため息まじりに言って壁際のソファにどかりと腰を下ろし、全身から巻き込まれた感を滲ませる中、フランスはキッチンへ向かい、ワイングラスを一つ持ってきて慣れた手つきでスペインの前に置き、「ようこそ、スペイン」と軽く笑いかけた。
「その言い方、全然歓迎してへんやろ」
スペインは皮肉気に笑いながらグラスに手を伸ばし、赤ワインをひと口含む。芳醇な香りが広がる中、ようやくイギリスが低く唸るように呟いた。
「なんでコイツが来るんだ?」
フランスは肩をすくめる。
「だって、こういうの一人で相手すんの嫌なんだもん」
「おまえなぁ……」
イギリスは途中で言葉を詰まらせ、息が引っかかり、手にしたグラスの液面が微かに揺れる。ワインの香りが深まる夜気に混ざって鼻をくすぐる中、スペインはそんな二人を交互に見渡し、わずかに眉をひそめた。
「で、何のことや?」
沈黙が降りた。イギリスはグラスを握りしめたまま視線を逸らし、フランスは涼しい顔でワインを口に含んでいる。スペインはその様子に徐々に察していった。
「なあ、これ絶対あかんやつやんな、イギリス絡みの面倒くさい話に巻き込まれるやつやんな?」
「ご名答」
「やから言うたやん、絶対ロクなことにならんって!」
スペインはトランクを取り戻すように一歩引いたが、フランスがさっと彼の肩を押さえた。
「逃がさないよ!」
「いやや!なんで俺まで巻き込まれなあかんのや!!」
「隣国でしょ!俺たちの仲じゃないの!!」
「わかりとうない!!」
スペインが必死に拒否の姿勢を取る中、すでにイギリスはソファに沈み込み、グラスを握ったまま眠りに落ちていた。火照った頬は赤く、口元にはまだ拗ねたような影が残っている。フランスはそれをちらと見やり、溜め息まじりに呟いた。
「まったく、坊ちゃんは手がかかるよね」
「いやほんま、たち悪いわ……」
スペインはソファに深く腰を下ろし、脚を投げ出すようにして体を沈めた。グラスを手にしたまま、ちらりと隣に目をやる。イギリスはすでにぐったりとソファにもたれかかり、うわごとのように何かを呟きかけたが意味を成さないまま寝息に変わっていた。頬は赤く火照り、指にはまだワイングラスが引っかかっている。スペインはため息まじりにぽつりとつぶやいた。
「で、コイツ、なんで酔い潰れてんの?」
フランスは向かいの椅子で肘をつきながら、優雅な手つきでグラスを回した。
「今日バレたのよ、まゆげお兄ちゃんたちにポルトガルとの関係が」
その言葉にスペインの手が止まる。
「えっ、今さらやん?」
「うん、今日バレたんだって」
フランスがさらりと繰り返すとスペインは思わず身を乗り出した。
「ウッソやろ!?あんなにベッタベタやったのに!?あの眉毛兄貴たち、今まで気づいてへんかったん!?」
「信じられないでしょ?あれだけ毎回いちゃついてるのにね、どこ見てたのって感じ」
フランスは鼻で笑いながら肩をすくめた。スペインは呆れたように頭を抱えた。
「いや、俺ずらずっと前から知っとったけどな?ってか、気づかんほうが無理あるって、あいつら公共の場でも普通に手ぇ繋いでたし、……キスしとったこともあったやん?」
昔の記憶が不意に胸の奥から蘇る。
イベリア半島の陽射しが白い石畳と木陰を染めていた。乾いた風に吹かれて色褪せたオリーブの葉がかすかに揺れる。その木陰に小さなイギリスが座っていた。まだあどけない顔に似合わない真剣な眼差しで隣にいる年上の少年を見上げていた。ポルトガルは成長の途中にある少年の輪郭を持ちつつも、その眼差しにはすでに大人びた静けさが宿っていた。指と指がそっと重なり、手を繋ぐ。
ポルトガルが目線を落とし、イギリスの額に静かに唇を寄せた。その仕草は自然でそこに言葉は要らなかった。スペインはその場に居合わせ、何も声をかけずにその光景を目撃していたのだった。見てはいけないものを見てしまったような、目が離せないあの数秒間。
(そら、気づくやろ普通)
スペインは思わず顔をしかめてグラスを持ち直す。
「なーんでそれであの眉毛兄貴たちが気づかへんかったん?目ぇ節穴か?」
「今日で全部おしまいだって、坊ちゃん勢いで家飛び出したらしいのよ」
フランスはそう言ってワインを一口含み、わざとらしく喉を鳴らした。スペインはソファに沈み込み、天井を仰いだ。
「よりによって一番めんどくさいパターンやん、あの兄貴らが一番騒ぐやつやん」
「ね?だから呼んだの、こんなに面倒くさいことを俺一人で抱えるのなんてごめんだし」
「はぁ〜勘弁したって」
スペインはぐったりとした動きでグラスを持ち直し、赤ワインをひと口含んだ。さっきより少し渋く感じた。ソファに横たわるイギリスは、変わらずスピスピと寝息を立てている。眉間にはうっすらと皺が寄り、頬にはまだ酔いの赤みが残っていた。握ったままのグラスの中では、残りわずかなワインが静かに揺れている。スペインはしばらくその寝顔を見つめたまま動かず、やがてひとつため息をつくと、グラスをテーブルに戻して立ち上がった。イギリスの前に回り込むと、しゃがみ込み、その顔を覗き込むようにして呟いた。
「ほんまに、なんも気にせんと寝とるな」
呆れとも諦めともつかぬ口調で言いながら、人差し指を伸ばしてぽすりとイギリスの頬を突いた。イギリスはわずかに眉をひそめたが起きる気配はない。ただ口を少し開けたまま、何事もないように寝息を続けている。
「ったく、人騒がせな眉毛やな、ほんまに」
スペインはかぶりを振って立ち上がり、再びソファへと腰を下ろした。その様子を横目に見ていたフランスはにやりと口元を緩めるとグラスのワインを静かに傾けた。パリ郊外の夏の夜は雨の名残を帯びながら、静かに深まっていった。
===
ずっと昔、戦乱のイベリア半島から軍事援助の要請が来た。レコンキスタのただ中、赤い十字の旗を掲げて遠征に出た記憶が夢の底でゆらゆらと揺れている。
あれは遠い過去のはずなのに、今の記憶と絡まりあっていた。
ポルトガル。俺の初めての友達で、初めて好きになった人。初めての、恋人。
「どうしたん、イングレース?悲しいことがあったん?」
「ポルトガル…兄さんと喧嘩しちゃった」
「そうなんや、それで、そんな寂しい顔してるんやな」
「……うん」
すこし躊躇ってから子どものころのように額を彼の肩に預けた。
「だって、俺たちのこと、兄さんにちゃんと認めてもらいたかったんだ」
「そっか」
ポルトガルはあたたかい手で俺の後頭部をなでた。
ぱち、と乾いた音が頭蓋に響いた。まぶたをこじ開けると見慣れない天井。テーブルの上には空のボトルが三本、コルクとキャップが床に転がっている。椅子ではフランスが片肘を落として半分ずり落ち、ソファの端ではスペインが大の字でいびきをかいていた。どっちもグラスを握ったまま動かない。
「あー、クソ頭痛ぇ……」
こめかみを押さえて舌打ちをひとつ。立ち上がった拍子に椅子の脚がキュッと鳴り、二人が同時に「ん……」と眉をひそめたが、起きる気配はない。
キッチンへ移動する。フランスの家は洒落てるくせにやたら使いにくい。フランスからイギリス紅茶淹れる以外にキッチン出入り禁止と厳しく言われている。フランスはおおらかに見えて実は自分のテリトリーが狭くプライドが高いやつなのだ。
本人がイギリスに料理をさせたらキッチンを破壊されるのが嫌で禁止しているのが真相である。
ヤカンを見つけ、水を張って火にかける。戸棚を開ければイギリス専用の高そうな茶葉の缶が並んでいた。
「アッサムがいいな」
独りごちてティーポットを温め、濃いめに落とす。こぽこぽと湯が鳴いた。注いだアッサムの香りに、さっきまでの夢の残り火がふっと疼く。
(ポルトガル)
カップを三つ並べて、自分のカップをひと口。渋みが喉を擦って、頭の中が少しだけ晴れた。キッチンのテーブルに二人分のカップを置く。
「兄上たち、どうすっかな」
ポケットの中で指先が勝手に動く。スマホの画面をしばらく見つめて、ため息と一緒に画面を伏せた。のろのろと目を覚ましたフランスとスペインが同時に頭を押さえながら身を起こした。イギリスは湯気の立つカップを手に「朝メシ作れ」と低く命じる。フランスが眉をひそめ、呻き声を上げた。
「ボンジュールって言う前にそれ?人使い荒いね……」
「なんなら、俺が作ってやってもいいけど?」
その瞬間、フランスとスペインが同時に飛び起きた。ほぼ反射的な動きだった。
「やめてぇ!」
「それはアカン!!」
イギリスは目を瞬かせて、むっと眉を寄せる。
「そんなに嫌かよ…俺の料理が」
スペインは額を押さえ、呆れた目をこちらに向けた。
「アホか、自分の料理食うたら腹どころか命までもってかれるわ!……ていうかさ、自分な、兄ちゃんらに何も言わんかったん?ほんまアホちゃうん?」
「はぁ?」
「俺らでも昔から知っとったで?ポルトガルのことなんか、隠せてるつもりやったん?」
フランスも苦笑まじりに頷いた。
「そうねぇ坊ちゃん、ほんと顔に出るのよ、あれで隠せてるつもりだったなんて可愛いとこあるじゃない」
イギリスはむっつりと唇を結び、カップを一気に煽った。フランスとスペインは用意した朝ごはんを差し出す。フランスがパンを裂きながら、じろりとこちらを見やった。
「ねぇ坊ちゃん、昨日みたいに逃げてばっかりじゃ何も変わらないでしょ」
「……」
「素直に話しなよ、お兄ちゃんたちと」
スペインもコーヒーをすすりながら片眉を上げた。
「せやせや、だって自分ら兄弟が喧嘩すると、アメリカやカナダ、弟たちまで巻き込まれるんやで?もうええ加減、大人になれや」
イギリスはパンをかじる手を止めて、ほんの少しだけ目を伏せる。テーブルにうっすら反射した金髪が無駄に幼く見えた。あどけない童顔のままのこの男が、かつて世界の四分の一を手中に収めた覇者だった。俺たちを蹴り落とした。そのはずなのに今はただ頑固で拗ねた弟に戻っている。フランスがため息をつく。
「偉そうに威張ってるくせに家族には勝てないのねぇ」
「うるせぇ」
イギリスは顔を背けてカップを乱暴に傾けた。熱い紅茶の香りが、どこか遠くの海風を思い出させた。あの声が波に溶けて聞こえた気がした。
===
列車の車輪がトンネルの中で低く響く。ユーロスターの窓に映る自分の顔は、陽に照らされて白く霞んでいた。空調が効いているのに首筋に汗が滲む。フランスが手を振り、スペインが笑っていた。早朝に見た夢のせいで、ポルトガルに会いたくて堪らなかった。海岸が近づくにつれて窓の外が明るくなる。
最初に出会ったのは1147年の春。
リスボンの港は十字軍の船団で埋まり、異国の旗が潮風に揺れていた。海の匂いと鉄の音が入り混じり、朝の空気をざわつかせていた。イングランドは従者の外套の裾をぎゅっと掴んでいた。見上げれば、知らない国の人間。知らない言葉。今まで会った方がある国は兄たちとフランスだけで、初めて見る「国の化身」が近づいてくると身体がすくんだ。
「初めてやんな?おれはポルトガル王国。ここまで来てくれてありがとう、イングランド王国?」
声は低くなりかけで、まだ幼さの残る響きだった。陽を受けて波打つ深茶の髪、右目の下の小さな泣きぼくろ。深いエメラルドの瞳に、イングランドは息を呑んだ。
びくっとして従者の影に隠れると彼らはそっと背を押した。ポルトガルは腰を落とし、安心させるように目線を合わせた。
「自分、イングランドやろ?」
外套の陰から小さな声がもれる。
「……うん、イングランド」
「そっか、初めましてやな、友達になろうや」
緊張していた小さな肩がほんのすこし緩んだ。
「……ともだち?」
「そう、いっしょにおったら怖ないやろ」
ペリドットの瞳がぱちぱちと瞬く。頬が赤くなり、やがて決意するように口を開いた。
「……ほんと?……うれしい」
そして小さく胸を張って言った。
「おれが、まもってあげゆ!」
その舌足らずな声に従者たちが思わず目を細める。ポルトガルも一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。少年はやさしくイングランドの頭を撫でる。
「ありがとな、ほな、よろしゅうな」
従者たちの表情に小さな微笑みが広がる。彼はそのまま剣を握り、リスボンの勝利の煙の中で笑っていた。差し出された手の温かさを、いまも覚えている。
車輪の響きが現実へと戻す。セント・パンクラスに着く放送が流れ、窓の街並みが滲んでいく。
(兄上たちと一緒になってもう百年、それでもポルトガルのことを言えなかったのは怖かったんだ)
最初の出会いから九百年。そして恋人になって六百年。あいつはずっと、俺の隣にいた。
改札を抜け、兄たちの待つ家への乗り換えに向かう。気づけば家の前に立っていた。
扉の前で深く息を吸う。ポケットの中の手が汗で湿る。ノックするか、引き返すか。一瞬迷って、拳を握って木の扉を軽く叩いた。夏の光が手の甲をまぶしく照らす。
その音に応えるように家の中から足音が動いた。
扉が開く。湿った風がふわりと流れ込む。玄関の向こうに立っていたのはスコットランドだった。
しばらく言葉を失ったまま、彼はイングランドを見つめていた。
「……帰ったか」
低くて乾いた声。それだけでイングランドの喉が少し鳴った。
「あぁ」
リビングではウェールズが本を広げて氷の入ったグラスを片手にしていた。
「……いーくん」
穏やかな声だった。その目の奥には心配と少しの怒りが混じっている。
北アイルランドがテイトーの袋を手に持ち、ぎこちなく笑った。
「おかえり」
その言葉が胸に刺さる。イングランドは小さく息を吐いた。
「ただいま」
声がかすれて沈黙が落ちた。
「昨日は……悪かった」
イングランドが言う。
「本当は早く言うべきだったんだろうけど……どうしても言えなかったんだ」
俯いたまま、言葉が空気に溶けていく。昨日から喉の奥に引っかかっていたものがようやく形になった気がした。スコットランドは何も言わず、立ったまま目を細めて見下ろしていた。ウェールズがそっとグラスをテーブルに戻す。氷がカランと音を立て、静かな部屋にひびいた。
「別に怒ってないよ」
ウェールズの声はやわらかかった。
「俺ね心配してたんだよ」
イングランドはわずかに目を伏せる。唇がかすかに動いて声にならない息が零れた。
「ん……」
声音はどこか弱い。北アイルランドが少し笑う。
「まぁ、スコットランドが言いすぎたんだよな、昨日フランスんとこで酒飲んでたんだろ?」
「なんで知ってんだよ」
「スペインがSNSに写真上げてたよ」
スコットランドが腕を組んだまま、ぼそりとつぶやく。
「……恋人とか、お前が好きにすりゃいい、ただ黙って出てくのはやめろ」
イングランドはその顔を見上げた。兄の瞳に怒りよりも深い疲れと心配が滲んでいる。
「なんでそんな言い方しかできないの、スコくん!」
「そうだよ〜!お前が出てったあと、スコットランドとウェールズが大喧嘩したんだよ!俺、仲裁すんのマジで大変だったんだから!お兄ちゃんを慰めてよ、イングランド!」
「あぁ……悪かった」
北アイルランドがキッチンへ向かった。
「紅茶飲む?」
「ん、飲む」
「俺も」
「俺も」
「おっけー!」
窓の外では庭の芝が風に揺れていた。テーブルの上にはサンドイッチと、隣家の夫人が作った焼き菓子。バターの香りに紅茶の湯気が混じり、ゆるやかに漂っている。
「お兄ちゃん、イングランドの恋人の話、もっと詳しく聞きたいんだけどな〜」
最初に口火を切ったのは北アイルランドだった。目を輝かせ、サンドイッチを皿に戻して勢いよく前のめりになる。
「だってポルトガルってイケメンじゃん! どっちから告白したの? やっぱイングランドから?」
「誰が言うか、そんなこと!」
イングランドは眉を跳ね上げ、椅子の背にもたれかかった。ウェールズが紅茶を吹き出しかけ、スコットランドが冷ややかに眉を上げる。
「お前、兄弟の恋話とか気になるのか?」
「別にいいじゃん! 弟の恋バナを聞くのは、なんかお兄ちゃんっぽいかなって!へへ……」
北アイルランドが照れたように笑った。
「別に、そんなこと聞いてどうすんのさ」
ウェールズがむすっとしてカップを置く。軽く唇を尖らせ、カップの底を指先でくるくる回した。
「え〜、気になるでしょ!」
「いや、俺は聞きたくねぇな」
スコットランドが小声でぼやく。ウェールズは紅茶を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「ふーんポルトガルねぇ、意外だね、いーくん昔はフランスにべったりだったくせに」
「あいつのほうから寄ってきただけだ!クソ髭が!」
イングランドが即座に反論する。
「……それにしても俺には一言もなかったんだ、まぁ、別にいいけど」
その言葉に空気がすっと静まった。ウェールズは笑みを作ったが、その目は笑っていなかった。一瞬、誰も言葉を挟まなかった。イングランドの手が止まる。スコットランドが目線だけで二人を見比べた。北アイルランドが焦ったように声を上げる。
「ちょ、空気重くしないで!ウェールズ!」
ウェールズは視線を逸らしたまま、紅茶をひと口。
「してないってば……」
「いや、拗ねてるって!完全に!」
北アイルランドがオロオロして、ウェールズの肩を軽く叩く。ウェールズは首を振った。
「弟が恋人できたくらいで拗ねたりしないよ……ちょっと寂しかっただけ」
「ウェールズ」
イングランドが息を詰めて言葉を探すように視線を落とす。指先でカップの取っ手を弄びながら小さく息を吐いた。
「悪かったよ、別に隠してたわけじゃないんだ」
その声は、不器用でまっすぐだった。
「うん、わかってるよ」
ウェールズが小さく笑う。北アイルランドが頬杖をついて、にやりと笑った。
「でもさイングランド、国と恋人って、なんかロマンチックだよな」
「……そうかな」
「だって俺たち国だろ?人間と違って、ずっと隣にいられるじゃん」
イングランドのまつげが一瞬だけ揺れた。カップの中の紅茶がゆらゆらと波打つ。
(イングレース、約束やで、俺たちはずっと変わらへん)
ふと懐かしい記憶が胸に滲んだ。
「……まぁ、そうかもな」
静かに漏れた言葉が紅茶の湯気に溶けて消える。ウェールズがその横顔を見つめ、ふっと息をついた。
「まったく、もう少し早く言ってくれたら、ちゃんと祝ってあげたのに」
「祝うって……呪いか?」
「も〜、お兄ちゃんのこと疑うの!?ひどいよ、いーくん!」
その言葉に北アイルランドがぷっと吹き出した。
「いやだって、昨日ウェールズ、イングランドの恋人誰だ!呪ってやる!って騒いでたじゃん」
イングランドは目を上げてウェールズを見る。ウェールズは思わず目を逸らした。
「ちょ、のんくん!余計なこと言わないで!」
「ウェールズ……お前……」
「ち、違うってば!かわいいいーくんを手籠めにしたのが許せなくて!」
「………………ポルトガルを呪うのはダメだからな」
イングランドが疑わしげに釘を刺す。北アイルランドとスコットランドは笑いをこらえながら紅茶をすする。
笑い声がテーブルの上にふわりと弾けた。
イングランドはふと窓の外を見た。青い空の向こう、遠い海を思う。
(ポルトガル)
紅茶を口に含む。ほろ苦さの奥に潮の香りがした気がした。
===
リスボンの港近く。潮風と陽射しの中、野良猫と並んで寝転んでいたポルトガルは人の気配にゆるく目を開けた。陽に照らされた石畳の上に見慣れた影が立っている。
「……イギリス?」
声をかけると影がわずかに肩をすくめた。
イギリスは眉間に皺を寄せ、どこか拗ねたような顔をしている。
「悪かったな、いきなり来て」
その声には長い航海の疲れのような影が滲んでいた。
ポルトガルはゆっくり体を起こし、猫の背を撫でた。潮風が二人の間を抜けていく。
「いや……嬉しいで?」
やわらかく笑ってそう言ったあと、しばらくの沈黙が落ちた。
イギリスは視線を落としたまま、低くつぶやく。
「……兄さんたちに、話した」
「何を?」
イギリスの肩がわずかに揺れる。
「俺たちのことを、兄さんたちに……やっと、言った」
その言葉は胸の奥にしまい込んでいたものをこじ開けるように掠れて出た。ポルトガルは何も言わず、彼を見つめる。長い風の音がふたりの間をゆっくりと過ぎていった。ポルトガルは微笑み、目を細めて静かに言葉を落とす。
「そうなんや……嬉しいわぁ」
イギリスは何も返さず、息を吐いた。港の波が石畳に打ち寄せて遠くで鐘の音が鳴る。その音は少しだけ祝福のように響いていた。
リスボンの港に面した古いアパート。白壁に青いタイルが散りばめられ、開け放たれた窓から潮の香りと陽射しが差し込んでいる。港の鐘の音が遠くで鳴り、猫の鳴き声が石畳を渡って届いた。ポルトガルはイギリスをリビングに通し、ティーカップをそっと置く。窓の外からは海の匂いがゆっくりと流れ込んでくる。二人の前のテーブルには紅茶とコーヒー、それからエッグタルト。イギリスは椅子の背にもたれ、指先でカップの縁をなぞる。ポルトガルは向かいに腰を下ろし、にこりともせずに彼を見つめていた。壁際の棚には古い羅針盤と帆船の模型が並び、外からの波の反射光が天井を揺らしている。
(昔のお前やったら、絶対言わへんかったやんな)
心の中でそうつぶやきながら、ポルトガルは静かにコーヒーの香りを吸い込んだ。
昔、イングランドは出会ったときからずっと、血の繋がった兄弟への愛情を飢えたように求めていた。それは痛いほど分かりやすかった。誰が見てもそう思うほどに。けれど、俺たちは国や。王がいて、貴族がいて、民がいて。そうして築かれる存在。国としての愛は手を差し伸べるだけでは済まされへん。他国を求めることは同時にその地を奪うことでもあった。
イングランドはそれを分かっていたはずやのにそれでも兄たちを求めた。理解されたい、受け入れられたい。その願いが、やがて征服という形をとっていった。
ポルトガルは目を伏せ、指先でカップの取っ手をなぞる。
(あのころのイングは誰よりも愛し方が不器用やったなぁ)
1386年。最初に出会ってから二百年あまりが過ぎていた。イングランドは真剣な目で俺の動きをじっと見ていた。頬をわずかに赤らめ、俯きながらも、その瞳はまっすぐで迷いがなかった。
「……俺は、お前を信じる」
その声を聞いた瞬間、小さな肩で戦の重みを背負おうとしている幼い決意がたまらなく愛しかった。
イングランドは迷うように俺を見て、それから静かに頷いた。
「……うん、絶対、この先、何があってもお前を信じる」
俺はそっと彼の頭に手を置いた。
「それは俺も同じやで、イングレース」
その言葉にイングランドは少しだけ目を見開き、それから恥ずかしそうに俺の胸に顔を埋めた。
「……俺のイングレース」
呼んだ瞬間、指先がわずかに震えた。触れてしまえば戻れないと分かっていた。それでも、抱きしめた。
「イングレース、約束やで、俺たちずっと変わらへん」
あのとき、戦も国境も何も関係なかった。ただの己として、小さなこの子を抱きしめた。
ポルトガルはゆっくりと目を開け、現実へと戻る。陽射しは午後の色を帯びたカップの表面でコーヒーの湯気が淡く揺れていた。
向かいのイギリスは、背もたれに身を預けたまま港の方を眺めていた。頬をなでる風が彼の髪を揺らす。その横顔を見ているうちに、ポルトガルはふっと笑みを漏らした。
「やっぱり、昔と変わらへんね」
イギリスは小さく眉を上げただけで何も言わない沈黙の中にはどこかくすぐったいような照れが滲んでいた。ポルトガルはカップを置き、そっと身を乗り出す。指先がテーブルの端を越えて、イギリスの手の甲に触れた。軽く撫でるように温度を確かめる。
「そんな顔せんとき。ちゃんと頑張ったんやろ?」
「……まあな」
短い返事のあと、イギリスは視線を逸らす。その耳の先がわずかに赤く染まっているのをポルトガルは見逃さなかった。くすりと笑って手を離さずに言う。
「偉い子やな、……ほんま、よう頑張ったやね」
イギリスが小さく舌打ちする。その指先は、わずかにポルトガルの指へと絡むように動いた。窓の外では、白いカモメが一羽がゆるやかに弧を描いていた。
リスボンの夜。港の灯が窓の向こうでゆらめいている。波音がゆるやかに続き、夜の風が白いカーテンを揺らしていた。ポルトガルはベッドの上でイギリスの髪を指先で梳いていた。
「……眠れへんの?」
小さく問うとイギリスは目を閉じたまま答えた。
「お前の心臓がうるさくて、寝れねぇだけだ」
ポルトガルはくすりと笑って、片方の手で彼の頬を撫でる。
「ほんま、口だけは達者やな、甘えるのは下手なくせに」
「甘えてねぇっての」
「ほな、その顔は何やねん」
イギリスは目を開け、視線だけで彼を見た。
「……お前のそばにいると落ち着くんだよ」
その言葉にポルトガルの胸が熱くなる。短い沈黙のあと、彼はイギリスの額にそっと口づけを落とした。
「愛しとるよイングレース」
「……俺も、愛してるよ、ポルトガル」
イギリスは小さく息をつき、腕を伸ばして彼を抱き寄せた。二人の呼吸が重なる。外では波が打ち寄せて風が海の香りを運んでくる。ポルトガルはその肩に頬を寄せたまま、穏やかに目を閉じた。
===
世界会議が終わったあと、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの四人は並んで会場を出た。廊下の空気はまだ少しざわついている。オーストラリアが伸びをしながら言った。
「せっかくだし、イギリスも誘って飯行かねぇ?最近会ってねぇし」
「うん、いいね、僕も賛成」
ニュージーランドがすぐに頷く。
「もちろん僕も」
カナダが柔らかく笑いながら言った。
アメリカはポケットに手を突っ込んだまま、少し眉をひそめる。
「しょうがないんだぞ、あの人は寂しがり屋だからね!」
口では素っ気なく言いながらも、歩幅は自然とみんなより少し速かった。カナダはその背中を見つめ、胸の中で小さく思う。
(ほんと……そういうところ、イギリスさんにそっくりだなぁ)
四人は廊下を抜け、昼の光に目を細めながら中庭へ出た。草の匂いを含んだ風が頬を撫で、遠くで鳥の声が響く。そのとき、聞き慣れた声が耳をかすめた。イングランドとウェールズだった。声をかけようとした、その瞬間。
「えぇ〜!?次の休みも出かけるの!?やだ!お兄ちゃん優先してよ!!」
ウェールズの大きな声が中庭に響く。イングランドはこめかみを押さえ、深く息を吐いた。
「だから言ってるだろ、前から約束してたんだ、仕方ないだろうが、ウェールズ」
「うぅ〜……最近ずっと恋人とばっかりじゃん!いーくん!お兄ちゃんと恋人、どっちが大事なの!?」
「お前なぁ……まるで手のかかる恋人みたいなこと言うなよ」
呆れたような、どこか皮肉めいた声が響いた。その直後、ガシャーンと乾いた音が中庭に弾ける。二人が同時に振り向くと、そこには固まったままのアメリカたちが立っていた。アメリカはぽかんと口を開け、目だけがぎこちなく動いている。オーストラリアとニュージーランドは硬直したまま顔を見合わせ、カナダは小さく「あ……」と呟いた。足元には落とした書類やカバンが散らばっていた。
「……お、お前ら……今の、聞いてたのか!?」
イングランドの声がわずかに上ずる。ウェールズはきょとんと首をかしげた。
「え?どうしたの?もしかして、いーくん探しに来てたの?」
アメリカが一歩前に出る。口元には笑みを浮かべているが目だけが笑っていない。
「ねぇウェールズ、君、この前の電話でイギリスに恋人が居ることなんて知らないって言ってたじゃないか」
ウェールズの目がぱちぱちと瞬き、「あっ」と小さく声を漏らす。気まずそうに頬を掻きながら、言葉を探す。
「えっと……あの時は本当に知らなかったの!でもそのあと、いーくんに聞いたら教えてくれて……」
「だったらその時に言ってくれりゃよかったのに!」
オーストラリアが肩をすくめる。
「そうですよ〜ウェールズ兄さん、僕らにも教えてくれてよかったのに」
ニュージーランドが少し悲しそうに言う。ウェールズはあわてて両手を振った。
「ご、ごめんね!その後スコくんと大喧嘩してて、すっかり忘れてたんだよ!」
イングランドが頭を抱えた瞬間、空気がぴたりと止まった。静けさが落ちる中、沈黙を破ったのはアメリカだった。
「……なんで俺たちには言わなかったんだい?」
声は一見落ち着いているようで、その奥にわずかな幼さが混じっていた。
「恋人くらい、教えてくれてもよかったじゃないか」
最後の言葉はかすかに掠れていた。イングランドが顔を上げるとアメリカは目を逸らしていた。耳の先がほんのり赤い。カナダは静かに一歩進み出て、柔らかな声で言う。
「イギリスさん、僕もアメリカと同じ気持ちです」
少し間を置き、言葉を選ぶように続けた。
「……知らなくて、ちょっと寂しかったんです」
その声は穏やかで、どこか胸の奥に響くものがあった。イングランドの喉が小さく鳴る。目を伏せ、指先で無意識に袖口をいじった。
「……隠してたつもりはなかったんだ、お前らが生まれる前からの付き合いで……紹介するタイミングを逃してな」
言葉の終わりは少し震えていた。イングランドは目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
「……その、悪かった」
アメリカはしばらく黙っていたが、唇を噛んでぶっきらぼうに言った。
(未完)
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