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高尾
2024-08-30 20:21:53
4716文字
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孫歌③
秋の野辺。
放棄された世界とは、これほど禍々しく歪んでゆくものなのか。
追手から逃れ、岩陰に隠れて息を殺しながら、俺は赤黒い空に墨のように流れる雲を眺めた。
このあと、さして時間も掛からずこの世界は崩壊して消えるだろう。
孫六兼元という、一振りの刀とともに。
今頃になって酷使した身体と全身に受けた疵がじくじくと痛む。一番大きかった太腿の疵は襟巻きの端で強く縛って止血したが、次第に足の感覚がなくなってゆくのがわかった。片足が動かない状態であの数の追手と戦えるのか、思案してみたものの矢張り相当に状況は厳しい。このまま敵に見付からずにやり過せるとも思えない。援軍が来る望みも薄いだろう。
そもそも此処が何処だかわからないのだ。時空の歪みに巻き込まれたせいで。
敵の将と主要部隊を殲滅して任務完了したと思われたのが数刻前。時空が歪み始めたのはその直後のことだった。
帰り道に通じる時空の入口が閉ざされる直前に部隊の皆を逃がし、殿として敵の軍勢を撒いて来たものの、俺は足をやられて歩けなくなった。
何とか岩陰に潜り込んだが、雑木林のそこかしこに既に相当数の敵の気配がある。瘴気と殺気で息が詰まるほどだ。草葉を踏む足音、鎧が触れ合い、軋み、鍔が鳴る。音は近い。見付かるのも時間の問題だろう。
窮地、というやつだな。と禍々しい赤い色をした夜空を仰いだ。
この孫六兼元が、こんな救いのない棄てられた戦場でここまで追い込まれるとは。
そう言えば
…
と、血塗れの手で懐を探り、小さな懐紙の包みを取り出した。
歌仙が「櫛のお返しだよ」とくれた栞を、出陣のお守りに持ってきていたのを思い出したからだ。
金色の薄い長方形の金属プレートに、繊細な透かし彫りがされている。秋の芒と野花の間に小さな蟷螂が隠れている図柄だ。
これをひと目見たとき、やられたなと思った。蟷螂の意匠なんてそうそうあるものではなかろうに、"秋の野辺"を見つけて来てくれるとは。栞についている紐も芥子色なのは、下緒に合わせた誂えか。
集合体である俺の一部、孫六兼元の刀のうち細川家に由来する一振り。その誂えを模した栞とは。
愛だな
…
と言うと耳を赤くしてぺちんとおでこをはたかれたけれど、これを愛と呼ばずして何と呼ぶのか。
薄い栞を曲げないように大切に握り込んで、その手で胸を押さえた。そうすると少しばかり疵の痛みが和らいで、呼吸が楽になったような気がした。
さて、この刀一本でどこまでやれるか。
まぁ俺は殿だからさ、皆が無事に逃げ遂せたならそれでいいんだが。
歌仙。
戦うこと以外にこの身を受けた意味があるのなら、あんたと寄り添ってみたかった。
ガサッ、とすぐ傍の茂みが鳴る。振り向けば、眼窩の中の2つの赤い光と目が合った。身体から角を生やした異形は刀を振り上げて咆哮する。オオオォォ
…
!!と闇夜を劈く雄叫びは木々を揺らし、ザアッと温い風が吹き抜けた。それが戦闘の合図だった。
抜刀の勢いで相手の刀を薙ぎ、返した刀で突く。それだけで眼の前の太刀は霧散した。個々の戦闘力は高くはない。斬れさえすればこの最上大業物は確実に致命傷を入れられる。だが多勢に対しこちらは手負いの一振り、囲まれれば厄介だ。岩を背に目の前の相手を仕留めていくが、数に圧されてじわじわと追い詰められていく。
こんなものをいくら斬ったところで
…
! と俺は奥歯を噛み締めた。
最期の戦闘がこんなものになるとは遣る瀬ない。どうせならもっと骨のある相手にこの首を賭けたかった。たとえば、いつかの俺の『もと主』とかさ。
斬られた足が痺れている。これまでの失血で眼の前が霞み、息が切れ、腕も上がらなくなってきた。『実戦では足を止めた奴から死ぬ』は俺が常々言っている科白だが、まさか己に降り掛かって来るとはね。
一体どこまで持ち堪えられるのやら。否、帰還の望みは限りなく薄いだろう。
どうせここで力尽きるのなら
――
苦労して持ち堪えたところで何になる?
そんな思いが過った、その時。
懐が光を放った。正確には、歌仙が贈ってくれた秋の野辺の栞が光っている。
「
………
!?」
なぜだろう。今まで気付かなかった。栞から主人の気配を強く感じる。間違いなく霊力が通っている。
『孫六さん』
突然、インカムから主人の声がした。凛として気高い彼女の声は、高揚を孕みながらも冷静だった。
「主人!」
『座標を特定しました。無事ですね?』
「さて、無事
…
と言っていいのやら。今は少々取り込み中で、ね!」
斬撃音と敵の断末魔は主人にも届いただろう。戦闘中であるのは伝わった筈だ。よかった。俺の居場所がわかったということは骨は拾って貰えそうだ。骨というか、刀身か。
『すみません、5秒待ってください』
「5秒?」
って何だ?と突っ込みながら敵を袈裟に斬り下ろし、顔を上げたその直後、閃光とともに眼の前の地面にガッと刀が突き刺さり、そして眩いばかりの桜吹雪がぶわっと膨らんで弾けた。
(来るのか
……
!!)
俺は息を呑んだ。桜吹雪の中心に目を凝らす。まず現れたのは黒い外套と、鮮やかな藤色の髪。
「
――
迎えに来たよ、孫六」
「歌仙
……
」
振り向いたその姿に、己を呼ぶ声に、絶望に浸されていた心が他愛もなく揺れた。最期に見たいと願ったその姿が目の前にあった。間違いなく世界が変わった。これは夢じゃないのかと疑っていると、続けて現れたもう二振りが俺の横に立っていた。
「あとは此レらが引き受けた」
「かっこ良くてつよーい俺達が来たからにはもう大丈夫だぜ、孫さんは座ってな!」
「無骨、和泉守
……
」
兼定の同士達がそこにいた。安堵で力が抜ける。心做しか周りの敵さんも退いているようだ。そりゃな、こんな華やかで元気一杯の殺気に満ち満ちた連中が突然眼の前に現れたらなぁ
……
。
「いや
……
なんで揃いも揃って」
『行くと言って聞かなかったもので』
主人の声が笑っている。彼等を送り込んで負ける訳がないという絶対の信頼がそこにある。現に敵の動きが変わった。刀を下ろし、遠巻きに歌仙達を見ている。
当然だ。極最高練度の打刀二振りに、無骨一片開放モードの鬼武蔵の槍。百鬼夜行の時だって前線をゴリゴリと攻めに行ったうちの本丸の主戦力だ。敵が少々の数を揃えて来たところで残骸の山を築くだけ。眼の前で及び腰の敵がざんざか斬られていく光景を、俺は脱力とともに眺めていた。
そういえばうちの本丸は、一振りたりとも折れたことがないと聞く。
…
こういうことだったんだな。
『加勢は要りますか?』
「いらねぇなァ、十分だ!」
主の問いかけに揚々と答えたのは和泉守だが、歌仙も無骨も同じ顔をしていた。整った貌に凄絶な笑みを乗せている。刀の最も美しい表情だ。思わず見惚れる。血が滾る。顕現したばかりの俺は、これを見るたび彼等と共に戦えて良かったと思ったものだ。
「うちの孫六をこてんぱんにしてくれた礼はしないとね」
「うム!」
こてんぱんとは何だ、否定できんが!
文句を言おうとしたが、声にならなかった。血が足りなすぎていよいよ呼吸が苦しい。岩壁に背を預けたまま、がくりと膝が折れた。
孫六!と歌仙の声が俺を呼んだ。
***
「きみ、諦めかけただろう」
本丸に担ぎ込まれて手入れを施された俺を待っていたのは、歌仙の激怒顔だった。
手入完了前で逃げ場のない状態の俺のもとにやってきた歌仙は、開口一番にそう言った。
同じ手入部屋でも、心配して様子を見に来てくれた最初のあの時とは随分な違いだ。
あれから歌仙は俺に慣れてくれて、衒いなく話ができるようになり、料理を作れば褒められたり、つまみ食いをすれば叱られたり、いろんな表情を見せてくれるのが本当に嬉しかった。あんたが欲しいとはまだ言っていないが、花を贈ったり櫛を贈ったり晩酌に誘ったりとあの手この手で誘いをかけているので好意は伝わっている筈だ。歌仙の満更ではなさそうな反応を見ると、多分
…
おそらくは両思いなんじゃないかと踏んでいる。なぜか無骨と和泉守も応援してくれているようだし、もう一押しだと思うんだがね。
なんて言っている場合じゃないな。
歌仙が怒ったら物凄く怖いんだよ
……
。
「だ、だってさ
……
あの歪みまくった時空に助けが来るとも思えないだろ」
俺だってそうしたくて諦めかけた訳ではないのだ。状況を考えれば妥当な判断だろう。しどろもどろな俺の答えに、歌仙は溜息をつくと、袂から何かを取り出した。
それは綺麗に磨き直された、秋の野辺の栞だった。
「これに、血のついた手で触っただろう?」
「うっ
……
汚してすまない」
そうじゃない、と歌仙は首を横に振った。僅かに表情が和らいでいる。
「君の血が触れると、主がかけた術式が発動するようになっていた」
「術式」
歌仙は頷くと、大切そうに栞を見詰めて語り始めた。
「こういった意匠の栞を取り扱っている店がないかと主に相談したら、職人を紹介してくれてね。その人に素晴らしい栞を作って頂いたので主にお礼を言ってこれを見せたんだ。
――
そのときに、主はこの栞に術を仕込んでくれた。持ち主を守るお守りだと言って」
そこで、む
…
と歌仙は眉間に皺を寄せる。なんだろう、可愛い。
「草葉に蟷螂の意匠が何なのか、主は知っていた。だからこれを贈る相手も、僕の気持ちも承知の上で、尚且つ君もこれを肌身離さず持ち歩くと読んでいたのだろうね」
ちょっと待て。
今、僕の気持ちって言ったか?なあ?
物凄く聞きたいんだが!?
「良かったよ、きみがこれを携えて戦に出てくれて」
「俺の方こそ、主人と歌仙に助けられた、礼を言うよ。
――
ところで、なぁ」
「きみが帰還を諦めかけたことを、僕はまだ許していないのだけど」
あんたの気持ちを確かめたいんだが、という言葉は、キッと上目に睨む視線に阻まれた。こわい。だが上目遣いが可愛いので参ってしまう。
「
……
怒らないでくれよ
…
」
「怒るよ
……
皆でどれほど心配したか」
「ごめん」
暫し俺を睨んだあと、瞼を伏せて俯いてしまった歌仙。膝の上で握り締めた白い拳が震えていた。戦場ではあれほど猛々しく舞う歌仙が、今は雨に濡れてしゅんと萎れた牡丹のようだった。
「
……
ごめん、歌仙」
いつ折れてもいいと思っていた。『命』への執着なんてない筈だった。
元主達の真似事のように刀を握ったとき、斬る感覚とはこんなものかと少し落胆した。それでも十分に愉しめたし、主や仲間を大事だとも思ったが、それでも折れる時が来たらそれまでと、この身にしがみつこうとは思わなかった。
歌仙を愛しいと思い始めてからは永く一緒にいたいと思ったが、いざ折れそうになったときには下手に契りを成す前で良かったとすら思っていた。
歌仙兼定。
この本丸の、始まりの刀。誰よりも長く、誰より優しく本丸を見守ってきた刀。挫折も苦難も味わいながら数え切れないほどの戦を経験してきたのに、どうしてこれほどまでに折れず、曲がらず、真っ直ぐに誰かを想うことができるのだろう。
ゆっくりと腕を伸ばし、歌仙の肩を抱き寄せる。そうされるのを待っていたかのように寄り掛かって来た身体はひたりと胸の中に収まったので、そのまま力を込めて抱き締めた。
頬に触れる柔らかい髪からは秋の花の匂いがした。
顕現から約10ヶ月。庭で鈴虫が鳴き始める、晩夏のことだった。
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