高尾
2024-08-17 20:02:22
1815文字
Public
 

孫さに

真夜中のコンビニに審神者を迎えに来た孫六さん

 真夜中のコンビニは、暗闇にぽかりと浮かぶ水槽のようだ。
 白々と明るい店内を、凶暴な肉食の魚たちが回遊している。さっき夜道で、帰宅途中のわたしを捕食しようと纏わり付いて来た魚たち。慌ててこのコンビニに逃げ込んだのだけど、彼等はまだわたしが店の外に出るのを待っている。カウンターの中にひとりだけいる学生っぽい店員さんは素知らぬ振りだ。
 窓際のイートインスペースで身を縮めながら、握り締めたスマートフォンだけが頼りだった。本丸の近侍宛に迎えに来てと連絡したのは2分ほど前だ。『わかった まってて そこをうごかないで』。変換すら惜しんだ文面に清光の動揺が滲んでいる。きっと誰かがすぐ来てくれる。でもこの2分すら永遠のように永い。背後の陳列棚の向こう側から男達がじわじわと圧をかけてくる。こわい。誰か。誰かはやく来て。
 一振りの男士の顔が脳裏に浮かんだその瞬間、コンビニ前の駐車場で桜吹雪が弾けた。

「主人!」
 入店音と共にガラス戸を潜ってきた孫六さんは、すぐに右手奥にいるわたしを見付けた。内番着のままで駆け寄ってきた孫六さんに抱き留められたとき、ああもう大丈夫なのだと圧倒的な安堵がわたしを満たした。浅葱色の綺麗な瞳が焦燥を映して揺れていた。主人、靴は?と尋ねられ、そう言えば逃げて来る途中で脱げちゃったとさらりと答えた。足の裏の擦過傷に気付いてしまうと途端にそれが痛み始めて、そこに気を取られたわたしは孫六さんがそのときどんな顔をしたのか気付かなかった。
 突然、コンビニの中の空気がドッと冷たい質量を持った。ビリビリと肌に伝わるこの感覚は殺気なのだとわたしはもう知っていた。鍔鳴りの音と、翻る着流しの袖。
「待って孫六さん!! 駄目です!!」
 私が孫六さんの袖を掴んだときには、彼の足はコンビニから出て行こうとするヤカラ達の方へ向いていた。自分でも驚くような大声が、孫六さんの足をぴたりと止めた。止まってくれるとは思わなかった。それほどの殺気だった。カタカタ震える指先に力を込めて孫六さんの袖を握り直す。わたしたちが固まっている隙にヤカラ達はそそくさと逃げ出して、店内にはわたしと孫六さんと店員だけが立っていた。

「ひとを斬っては、だめです」
……知ってるよ」
 ちいさくそう呟いた彼の、大きな背中から力が抜けてゆく。ゆっくりと振り向いた孫六さんは、少し疲れたような表情をしてわたしを見た。
「知ってる、筈なのにな」
 主人が止めてくれてよかったよ。そう言って孫六さんは少し微笑った。イートインスペースの丸椅子に裸足のわたしを座らせると、私の前にしゃがんで視線を合わせてくる。自分の背が高いことを知っているひとの仕草だ。袖を掴んだままのわたしの冷たい手を、孫六さんの大きな手がそっと包んだ。
「主人が傷つけられたと思ったら、カッとなった。怖い思いをさせてすまない」
 孫六さんがこわかった訳じゃない。わたしを襲おうとした人間の方がずっと怖かった。来てくれて嬉しかった。孫六さんで尚更に嬉しかった。こうしてあなたがここにいて手を握ってくれていることがどれほど嬉しいか。そう言いたいのに素直に言葉にできず、ただ首を横に振った。
「迎えに来てくれて、助かりました。ありがとうございます」
 結局出てきたのは他人行儀で味気ないお礼だけ。孫六さんは「用心棒失格だけどね」と肩を竦めた。なんだかやっぱりしょんぼりしている。
「孫六さん」
「主人……俺はさ、人を想えば想うほど、人に寄り添おうとすればするほど、ひどく凶暴な得体の知れないモノになっていく気がするんだよ」
 だから、また俺を止めてくれないか。
 わたしの手を両手で包んでそこに頬を寄せる仕草は、祈りのようにも見えた。敬虔な瞳の奥に、まだ焔が燻っている。
 きれいだった。泣きたくなるくらいに。

 孫六さん。あなたはどこまでも純粋な刀だから知らないかも知れないけれど、それは人です。
 愛とか嫉妬とか執着とか憎しみとか、いろんな感情を拗らせて得体の知れない化け物になる。それはまさに人という生き物そのもの。
 どうか愛も執着も知らないままの美しい刀でいてください。あったかくて大きくてやさしくて、ふかふかの毛皮の下に鋭い牙と人斬りの本能を秘めた無垢な狼のままで。
 そう願いながらも、わたしはこの狼の鎖を握っていることに、漣のような愉悦を覚え始めていた。