それは、十七歳の夏の出来事であった。夏期講習から解放され、狭いビルから学生達が散り散りに帰っていく。俺は、一緒に講義を受けていた友人に別れを告げ、自転車に跨った。夜になっても然程涼しいわけではなく、じめりとした生ぬるい風が頰を撫ぜるだけだ。ただ、追い風なのは良い。自転車はペダルを軽く踏むと、そのままぎゅいんと前に進んだ。閑静な住宅街は、人通りは少ないが、窓の厚手のカーテンから溢れでた人工的な黄色っぽい光が人の営みを思わせた。
いつも通る道。変わらぬ景色だが、なんとなくその日は遠回りして帰ろうと思った。夜も更けた頃に近づいているが、気にすることはない。
長らくお世話になった養母の元を離れ、かれこれ二年ほどになる。自身の個が生まれた頃には、両親はいなかった。気がついた頃には、養母に引き取られていて、二人で暮らしをしていた。彼女は、随分と過保護であった。当たり前のように、高校生で一人暮らしは早すぎると反対された。けれど、彼女は、俺のことをペットか何かと思い違いしているのかというほど、甘やかすのだ。正直、思春期の男にはきつかった。どこの誰と遊んだだとか、門限がどうとか。このままでは駄目な気がして、どうにか説得し、月に一度は顔を見せる事を約束に叶ったのだ。生活面では、サポートしてもらっているが、念願の独り立ちであった。
遅く帰ったからって、注意してくる人は家にいないのだ。いつもは直進するが、車体を右に傾けた。
そこから平坦な道を辿っていくと、高架橋の下をくぐることになる。そして、ぐるりと迂回するような道を進めば我が家に着くのだ。生活の光から離れ、設置された防犯灯の青白い光が点々と続いている。自転車は相変わらずのスピードで走り抜けた。そして、ちょうど高架下に辿り着いた時であった。柱の影で何か白っぽいものが動いて見えた。こんな時間に誰かいるのか。それとも捨て猫か野良犬だろうか。なんとなく興味を惹かれ、自転車の速度が落ちる。そして、サドルから降りると、自転車を道の隅に止めた。じっと暗闇に目を凝らす。頭上で車が往来して、ガタガタと騒音を立て柱に振動を与えていた。
そこには、男がいた。真っ白な肌に薄茶色の毛髪で、全体的に色素が薄い。ボロボロの衣服を纏い、ぼんやりと表情が抜けた顔で棒立ちしていた。最初は浮浪者かと思ったが、どうやらそうでもないようだった。その"男"と認識したものがぐにゃりと腰から身体を九十度に横へ倒したからだ。
「ヒッ……」
喉から引き攣った声が漏れた。筋肉が緊張して、身体が金縛りになったみたいに動かない。しかし、その間にも、ソレはグニャグニャと身体を奇形させながら、こちらへと近づいているのだ。元は不定形であるかのように、骨や筋肉を無視した挙動である。
眼前に迫ってきたソレは、遠くで見た印象より随分と綺麗に見えた。香色の短髪は吹き抜ける風にふわりと揺れた。キラキラとした琥珀の瞳は、夜空の星のように輝き、その中に俺の姿が映ってみえる。気味の悪い動きをしているのに、何故か不快感はなかった。むしろ、どこか懐かしいような、そんな気さえした。
ソレがこちらに手を伸ばした。びくりと肩を震わせ、身を後退させる。指先はこちらに触れる前にドロドロと溶け、形を失っていった。そして、ソレは何か言いたげな瞳でこちらを見下ろすと、口であろう箇所の開閉を繰り返す。それでも、うまく音にならないようで、母音を漏らすだけであった。全く理解のできない状況である。しかし、話そうとするのに躍起になっている今がこの場を逃げる好機ではないだろうか。俺は、悟られないように、走る準備を整える。地面を蹴るために、片足に力を入れた。家へ向かう方向と、相手の隙を視線で探す。……今だ!そう思った時であった。
「……ぁかうぅ……かうるぅ……かぶぅるぅ……」
名前を呼ばれたのだ。カブルー。確かに俺の名前であった。逃げるのも忘れ、ソレを見てしまった。ソレは、上手く発音できたか、俺がそちらを見たのが嬉しかったのか、満足気に微笑むと、ゆっくりと顔が近づいてきた。ただでさえ近かった距離がさらに縮まる。そして、唖然とする俺の口に柔らかな感触を押し付けたのだ。
これが、俺とソレ──ライオスとの出会いであったのだ。
※ ※ ※
あれから、俺は、ライオス(名前を聞いたらそう答えた。妙にしっくりとくる)と暮らし始めた。置いて逃げようと思いもしたのだが、かなり足が速く、自転車に並走してきたが故、諦めた。そして、家に着くと、中に入れるまで、扉の前で立ちすくんでいた。彼は人間ではないが、自分しか見えていない存在ではないようで、玄関前に男が立ちすくんでいるという異様な光景が出来上がってしまった訳である。ちょうど帰ってきたお隣さんが、いつも挨拶をくれるのに、こちらを見て凄い勢いで扉を閉めた。下手したら警察を呼ばれかねない。こんなこと養母に連絡が行けば、一人暮らしは台無しだ。そう思考をめぐらし、結局、中に入れざる終えなくなったのだ。
彼は、大人しかった。時たま喋るが、基本的に言語を発生する機能が発達していないのか、赤ん坊のように拙い。ニコニコと笑って、カブルーの名前を呼ぶくらいだ。基本的に、ぼんやりと立っていて、時折、形が保てず、グニャグニャと溶けていく。彼に害されることはなく、次第に存在に慣れ、日常へと馴染んでいったのだ。
そして、一つ彼が来て起こり始めた事象がある。それは、夢だ。今までは、どちらかと言えば不眠気味で、いつも夜は寝れずに時計の針が頂上を指すのが常であった。しかし、彼が来てからというもの、布団の中で横になれば、自然と瞼が重くなり、ものの数分で眠りに落ちるようになった。そして、夢を見るのだ。内容は毎度違うが、舞台は同じである。中世ヨーロッパの城のような場所。そして、必ずそこにはライオスがいた。二人で、窓の外の稲穂畑を見ているだとか。庭に迷い込んだ野良犬と戯れたりだとか。夢のライオスは、普通の人間だった。突然溶け出すこともなければ、しっかりと言葉を話していた。触れた体温は温かく、鼓動がしっかりとあった。それでも、ライオスはライオスであった。彼は夢の中でも心底、嬉しそうに俺の名を呼ぶのだ。
俺は、段々と夢を見るのが楽しくなっていった。その頃には、あれだけ不気味であった彼のことを愛おしく思ってしまっていたのだ。現実の彼は、触れたら溶けてしまうし、会話さえままならない。果たして本当は何を考えているのかも読み取れはしなかった。けれど、夢の中では、確かに彼と通じ合っているように思えた。
「俺が死んだら、骨をこの国に蒔いてくれ」
ある日の夢でライオスがそう言った。ベッドに横になり、身じろぎもせず、虚空を見つめていた。ひどく痩せ細っていて、青白い肌に生気はない。
「……もしかしたら、かつて死を許さなかったこの土地なら、俺の精神だけでも縛り付けられないものかと思うんだ」
「俺の肉体は、あと数日で死ぬ。 けれど、精神はきっとこの国と共に夢を見る。迷宮での出来事も、仲間達のことも、君との幸せも──」
目が覚めた。まだ、あたりは暗く、早朝というには夜であった。
俺は、暗闇の中で懸命に手を伸ばした。
ひやりとした物にぶつかった。ライオスは、俺の枕元に立っていた。苦しいくらい荒くなっていた呼吸が落ち着いていく。ライオスにしがみつくように抱きついた。彼は、ピクリとも動かず、こちらを見下ろしていた。
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