来羅
2025-10-25 23:06:18
2174文字
Public トワウォ
 

おめかし(風信)

ワンドロライ第15回。




「失礼」
 背中からかけられた声に、信一はまたかと顔を顰めた。
 英国風の古い洋館。庭までシンメトリーの薔薇園をバルコニーからシャンパン片手にぼうっと眺めている信一へ、こうした声がかけられるのはもう五度目だ。
 間接照明に淡く光る気泡を軽く振り、勿体をつけてゆっくり振り返る。唇に乗せた笑みはあくまで柔らかく、苛立ちの欠片すら押し込めた完璧な出で立ちは慣れたものだった。
「なにか?」
 今度の呼びかけは、一応は紳士に見える男だった。
 年の頃は三十後半、甘いマスクに清潔感のあるドレススーツは自分の見目の良さを自覚した装いだ。けれども信一にとっては及第点にすら達しない、その辺りの通行人と同じでしかなかった。
「ずっとおひとりのようなので、つい声をかけてしまいました」
……人を待ってますので」
「あなたのような人を放っておくとは、酷い人だ」
「そう思われますか?」
 くすりと笑う信一に、男は頬を染める。
 今日の信一はいつもとは服装も雰囲気も違った。
 会場であるこの屋敷の雰囲気に合わせたスリーピースは光沢のある黒で、シャツの色だけは良く見ると青味がかった艶が見える。信一が動くたびに揺れるネクタイも細かな刺繍を施した黒。緩くパーマのかかる髪はポマードで少しだけ後ろに流して固めてあった。そんな全身をほぼ黒一色に揃えた格好の中で、ただひとつネクタイのウィンザーノットに通した太い指輪の銀色だけが異彩を放っている。
 龍捲風の供として訪れているためにへんに目立つ格好は避けたつもりだったが、信一のその存在だけで人目は引いた。よってバルコニーに避難していたというのに、今度はそれが声をかける絶好のチャンスとなってしまったのは誤算だ。
「良ければ話でも?」
 申し訳ないが、と続けようとして、けれども信一は開きかけた口を閉じた。
 ちらりと視線を流し、シャンパンを一口煽る。その仰のいた首筋に視線が吸い寄せられるのを感じて、嫣然と笑った。
「話だけ?」
 男がごくりと唾を呑み込むのが見えた。
 近づかれる分だけ後ろに下がり、バルコニーのフェンスに背が当たる。その手のフルートグラスを男に奪われて、間合いを詰められた。
「あなたが良ければ、その先も」
 男はあくまで紳士的だ。これが力業でなんとかしようとする輩であれば、叩きのめしてストレス発散もできようものなのに。
…………残念」
 思わず呟けば、男の顔が近づき、その手がネクタイの指輪にかかった。
 それをさりげなく避けて、半歩横にずれる。
「時間切れ」
 笑う信一に、男が目を瞬いた。その後ろ、ゆっくりと歩み寄る第三の男の存在にようやく気づいたようで、男がびくりとして信一から距離を取る。
 気配を絶って近づくなんて性質が悪い。それでも信一の目は誤魔化せない。龍捲風がバルコニーに出てきたのは、男が信一に声をかけた直後だ。信一の戯れを見ていたのはわかっている。
「終わった?」
「まだだ」
 龍捲風は呆れた様子で肩を竦めた。
 来賓客に囲まれて身動きが取れなかったはずの龍捲風がここにいるのは、撒いてきたらしい。疲れた顔ひとつ見せないくせに、不機嫌そうに紫煙を吐く顔は僅かに苛立っている。
 では、次々と声をかけられる信一を心配して出てきたのか。もしくは、嫉妬した、とか。
 どちらであっても万々歳だ。にんまりと笑った信一に、龍捲風が片眉を上げて決まり悪そうに煙草を咥える。
「行くぞ」
「はぁい」
 ひらりと裾を翻して、男の横を通り過ぎた。
 男は事態が飲み込めていないようで、呆気に取られている。
 遊びが過ぎたようだった。紳士的な男だったのに、可哀想なことをしたかもしれない。
「ごめんな」
 振り返って、信一は今度こそいつもの顔で笑う。
「指輪を外して俺のタイを解けるのは、これの持ち主だけなんだ」
 悪戯めいた笑みは、装いには不釣り合いだっただろう。けれども、誠実そうだった男を揶揄ったせめてもの詫びだ。
 見上げた龍捲風が咎めるように目を細めるので、素知らぬ顔で隣に並ぶ。その瞬間、もう男の存在は信一の中からは掻き消えていた。
「おいたがすぎるな」
「大佬が俺を放っておくから」
 会場に戻れば、またすぐに龍捲風も、また信一も囲まれてしまうに違いない。思わず溜め息をつけば、ふいに足を止めた龍捲風が信一の手を引いた。
「それは本当に持ち主だけに外させるのか? ん?」
 威圧するような眼差しは、けれども内心楽しんでいる。それがわかるのはおそらく信一だけなのだ。優越感をくすぐられるのは、こんなときだから度し難い。
「そ。外したい?」
「帰ってからの楽しみにしておこう」
「じゃあ、それまで死守しないとな」
「そうしてくれ。それまでは」
 ぐいっと腰を抱かれて端麗な顔が近づく。低く忍び笑った唇は、信一の首筋へと落とされた。
「っ」
 シャツに隠れるか隠れないかのギリギリのところを強く吸われて肩が跳ねる。虫除け、にしてはそれは少しばかり煽情的だ。
……これ逆効果じゃない?」
「せいぜい頑張って死守してくれ」
 細められた眼差しは愉悦と苛立ちと嫉妬と、あとはなんだっただろう。
「大佬、大人げないよ」
 唇を尖らせた信一に、龍捲風が声を上げて笑った。