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ORANGE*AXE/小野美歓
2025-10-25 22:10:10
13409文字
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風花無双
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手紙と遠乗り【ディミメル】
無双/青燐√クリア後。弟との再会を果たし、母への手紙を届けに出かけるメルセデスの話。「こい、ねがう」収録。
帝国暦一一八二年。その一年は、フォドラの歴史の大きな転換点でもあった。
王国軍と同盟軍がそれぞれ、帝国との国境を越えて侵攻し、東西の二正面作戦を強いた天馬の節から一転。孤月の節に入る頃には秘密裏に精鋭を北へと送り、アリルを経由したガルグ=マク大修道院奪還を決行した。
王国、同盟、中央教会の動きに対し、帝国は皇帝直属軍を主とする大部隊を配備。無傷での通過はならず、煉獄の谷での戦闘を余儀なくされた。
アリルでの戦闘は連合軍が勝利し、帝国軍の指揮を執っていた皇帝エーデルガルトと摂政エーギル公は撤退。直に見えたこの機を逃すなと、クロードはディミトリに追撃するように言い、王国軍は後背を同盟軍に任せて南下した。
アリルで殿軍を務めたベルグリーズ伯、遅れて戦列に加わったヘヴリング伯に阻まれ、逃避行の最中での皇帝の捕縛、討伐とはならず、決着はガルグ=マク大修道院での戦に持ち越された。
孤月の節の末近く、外郭の街を包囲した王国軍は、同盟軍の到着を待たずに大修道院奪還のため攻略を開始する。王国、同盟とは別の経路を用いて大修道院に向かった教会勢が、所属不明の魔道士の集団の襲撃に遭い、窮地に立たされていると報告があり、急ぎ救援する必要があったからだ。
戦端が開かれたのは空が夜の色に染まる頃で、過去の因縁の決着を目指し進む王国軍が、激しい戦いを繰り広げながら外郭を抜けて大修道院に至り、大聖堂で敵の首魁たる闇の魔道士を降した時には、世界は黎明を迎えていた。
ガルグ=マク大修道院が中央教会の手に戻り、暦は新たな年に変わる。一一八三年の大樹の節の初旬は、誰もが先の戦の後始末に追われ、慌ただしく過ぎていった。
対帝国戦線の要衝である大修道院の奪還は成った。アリルから撤退した皇帝は、大聖堂でタレスを討った際に捕縛、今は中央教会に身柄を拘束されている。
エーデルガルトはアリアンロッドで対した時とはまるで様相が違い、振る舞いや尋問の際の受け答えは幼い少女のようだった。しかし、皇帝として玉座に座する身に違いはなく、フォドラ全土を巻き込んだ戦争に対する責を、彼女は遠からず負うこととなるだろう。
大修道院奪還の戦は苛烈で、兵も将も、誰もが無傷では済まなかった。戦闘を終えても、白魔法の使い手は挙って、味方の治療のために戦場を駆け回る。また、残敵掃討の後に負傷者が大修道院の建物に収容されると、交代で看護に当たった。
総出で回復魔法で負傷者を癒し続け、看護する日々だったが、十日ほどが経つと状況は落ち着いてくる。当初は寝台の数が足りず、床の敷布に寝かせざるを得ないほどだったものが、全ての負傷者に寝台を宛がえるようになり、今はいくらかの空きができている。
負傷者が回復すれば、治療する側の人員にも余裕が生じ、交代で休暇を取れるようになる。一日の自由時間を得たメルセデスは、この機にと馬を借り出し、一人でガルグ=マクの外に出た。目指す先は、母が身を寄せる東部の教会である。
持参した荷物の中に入れた一通の手紙を、母に届けるのが今回の目的である。アリルでの戦闘の際に弟との再会が叶い、彼も今は王国軍に所属する将の一人となった。大修道院奪還の後に、手が空いたら母に便りを出すように促したところ、二日後に弟は一通の手紙を持ってきた。
書いたはいいが、届けるあてがないという。手紙を預かったメルセデスは、普段自分がしているように、出入りの行商人に送達を依頼しようとした。が、仕事が落ち着き始めていることから、今回は母の元に出向き、直接手渡そうと考えたのだ。
王国軍の全体を見れば、本当に休む間もない者もいる。そんな中での外出は少し気が咎めるが、これから戦線が南下するにつれ、母に会いに行くのは難しくなるからと思い切った。
念のために外出先と目的を門番に告げて大修道院を出、麗らかな春の日差しを浴びながら馬の背に揺られて、外郭の街を通過する。整備された石畳の道が途切れ、周囲の風景から建物が減ってきた頃になって、メルセデスは背後から近づく、些か騒々しい馬蹄の音に気づいた。
自分の繰る馬のそれとは違って随分と速いようで、大修道院からの急使かと思って軽くそちらを振り返り
――
鞍上の人物に驚き、目が丸くなった。
「メルセデス!」
見えた姿は戦装束とほぼ変わりない武装状態のディミトリだったのだが、一体何があったのか、疾駆する彼は単騎だった。
名を呼ばわれたこともあり、メルセデスはその場に留まる。メルセデスの馬の足が止まったのを見るや、ディミトリもまた速度を落とさせ、側まで近づいて停止した。
何か重大事が起こり、急ぎ戻るように伝えに来た
……
にしても、おかしい。そんな連絡程度なら、よりにもよって指揮官であるディミトリが動くはずがない。かといって、武装状態であることから、緊急の討伐要請が入ったと考えても、他の兵の姿が見えないのは不自然だ。
早々に自分で正答を導き出すことを諦め、メルセデスはディミトリに問うた。
「どうしたの、ディミトリ。何か大変なことでも起きたのかしら~?」
すると、ディミトリは軽く眉根を寄せ、唸るように低い声を漏らした後、質問に答えて曰く。
「気晴らしに少し遠乗りに出ようと思ったんだが、お前が一人で出かけていったと門番から聞いて、追ってきたんだ」
「あらあら~。じゃあ、偶然同じ頃に外に出たってだけなのね~」
彼が武装状態だったのは一人だからこそで、大修道院に呼び戻されるような急報ではなかった。何事もないと知らされ、安堵したメルセデスが笑みを浮かべるも、しかしディミトリの表情は渋いままで、彼は思いがけないことを言い出した。
「いや。俺も一緒に行くつもりで、予定の変更は伝えてきた。母御に会いに行くのだろう?」
「えっ?」
またしても驚き、瞠目してしまう。ディミトリは門番から話を聞いたというから、目的や場所が伝わっていても不思議はない。メルセデスが驚いたのは、彼が行き先を知っていたからではなく、その上で同行すると言い出したことに対してである。
他方、言い出した側のディミトリは不満顔だ。
「そんなに驚くことか? いつか時間を作って、一緒に行こうと話したはずだが」
普段の王としての厳しさなどその面には一欠片もなく、まるで約束を反故にされて拗ねる幼子のように見えて、メルセデスの驚きはいや増す。
「勿論、その話は覚えてるわ~。でも、今のあなたに一日時間を空けさせるなんて、それこそ無理な話だもの。あなたと一緒に行くなら、落ち着いた頃に誘う方が良いと思ったのよ~」
忘れるはずなどないし、互いに社交辞令の類で口にしたことでもないと、メルセデスも理解している。ただ単に、ディミトリを誘うには、今は状況が良くなかっただけだ。
二日前に手紙を受け取り、自分で届けようと思い立った時、真っ先に脳裏に浮かんだのはディミトリの顔で、机仕事中の彼の元に紅茶の差し入れに出向いた際にも、話をすべきか悩んだものだ。
悩んだ末に、伝えなかった。彼の周りには常に多くの人がいて、処理すべき案件は山積しているのが見えていては、口を噤むしかない。到底、私事を優先できる状況ではなく、話して彼の心を乱すのも躊躇われた。
メルセデスの判断は当然のもので、今なら誰でも同様に考えるだろうし、ディミトリもその点には反論しなかった。が、しかし。
「そもそも、だ。この時勢で、女一人での遠出は危険だと思わなかったのか」
ディミトリの眉間に深い皺ができ、空色の双眸に強い光が灯る。多忙を極める身の彼が後のことを放り出してまで追ってきたのは、一人での道行きに不安を感じたからで、見過ごせなかったのが最大の動機であるらしかった。
「みんなも忙しくしているのに、私がお母様に会うためだけに誰かに来て貰うのも気が引けちゃって。何度も行ってる場所だから道に迷ったりしないし、危なそうなところは避けていけるわ。いざとなっても、昔とは違って戦う心得もあるもの」
心配させてしまって素直に申し訳ないと思いながら、メルセデスは笑顔で「大丈夫」だと説く。ディミトリは頭を振り、聞き入れなかったが。
「
……
とにかく、今日は俺も付いていく。後事は任せてきたから、一人で戻る気はないぞ」
彼がいつになく強引なのは、友人の身を案じてのことだ。その発言からは、母の元へ行くも、大修道院に戻るにしても、いずれを選んでも別行動はない、という意志が窺える。
自分もそう何度も時間を作れる身ではないから、ここで戻る選択をし、後日に改めて出るのも難しい。彼を翻意させる言葉を持たないメルセデスは、大修道院の方に向けて心の中で謝りながら、同行の申し出を承諾したのだった。
常歩
なみあし
で進む二頭の蹄音は律動的で、その響きは軽快な鼓を思わせる。シェズに誘われて時折遠乗りに出るようになって、メルセデスも馬を御することにもいくらかは慣れたが、隣のディミトリには遠く及ばない。今も寸分違わず、二頭が同じ調子で進んでいるのは、彼が合わせてくれているからだ。
開けていた風景に木々の姿が増え、やがて緩やかに下る山道に変わっていく。蹄音に葉擦れや鳥の囀りが加わって、宛ら自然の楽のようだとメルセデスは思った。その暢気さに呆れて
……
ではなかろうが、ディミトリは小さく息を吐いて、怪訝そうに問うてくる。
「誰かに同行を頼める状況ではないと分かっていて、一人ででもと思ったのは何故だ? 母御から、急を要するような連絡でもあったのか」
「ううん、そういうわけじゃないわ~。エミールがお母様に手紙を書いたから、届けに行こうと思ってね。これから戦線は南下していくから、直接会うなら今しかないでしょうし」
「確かに、帝国領に移動してからでは、簡単には会えなくなるな」
提示された理由に一旦は同意するも、完全に納得はできていない様子で、ディミトリの唇から小さな唸り声が漏れる。
「しかし、それこそ先生を連れ出せば良いのでは、と俺は思うが。手紙を書いた本人が出向くというのは変な話だが、その方が母御も喜ばれるだろう」
ディミトリの疑問は尤もであるし、メルセデスも以前に同じことを弟に言ったのだ。だが、弟は首を縦には振らなかった。
「私もそう言ったのだけれど、あの子ったら
……
今はまだ、お母様には会えないって」
「何か事情がありそうだが
……
聞いてもいいか?」
メルセデスは頷いた。ディミトリは興味本位で他人の事情に深入りする性質ではない。そして、出生は些か複雑ではあるものの、自身がバルテルス家の出だということは既に話している。生家に関しては記録が残されており、調査は可能な話だから、殊更に隠したところで不審を煽るだけだ。
どこから話せば理解が早いかと思案し、ややあって尋ねる。
「ねえ、ディミトリ。
……
あなた、バルテルス家の事件は知っているかしら?」
「何年か前に一族の殆どが不審な死を遂げた、という程度の話なら聞いた。嫡男の犯行だと言われているらしいが、当人は行方不明で真偽は定かではない、と」
質問に答える内に、ディミトリの表情が変わった。自ら口にした「嫡男」が誰のことを指すか、思い当たったのだろう。本当なのか、と問いたげな彼の眼差しに、メルセデスは同じく目配せで肯定し、続ける。
「私は嘘だと思いたかったけれど、エミールは認めていたわ。だから、その罪を償ってからじゃないと、お母様には会えない、って」
詳細な動機までは、エミールは語らなかった。だからメルセデスも、それを語る言葉を持たない。ただ、具体的な切欠はさておいても、バルテルス家の内情を知っていればおよそ見当はつくし、致し方ないこととも思う。当人は決して、情状で自らを赦しはしないが。
「それでは、無理に連れ出すこともできないか」
エミールが同行しない事情としては十分、と判断してか。呟くようなディミトリの声には不快や嫌悪の感情はなく、得た情報に基づく現状を淡々と導き出すだけで、彼は小さく頷き、それ以上は問うてこなかった。
話の流れで必要だったとはいえ、互いの間に流れる空気が少し重苦しくなる。耳に届くのは蹄音ばかりの森の中、話題を探してみるも、現状も今後の展望も慌ただしいばかりで、明るい話など一つとして見つからない。
空気を変えることは諦め、メルセデスはディミトリがそうしたように、素直に疑問を投げかける。彼には耳が痛い話かもしれないが、二人きりのこの場は好機だと思えた。
「あなたの方こそ、急に抜け出してきちゃって大丈夫なの? お仕事もだけれど
……
エーデルガルトのこととか、色々とあるでしょう」
すると、ディミトリは軽く瞬きをし、数秒ほどの沈黙の後に、困ったように眉尻を下げた。先の大修道院奪還戦の際に捕縛、収監されているエーデルガルトについては、安易に口にできない機密を含んでいるとしてもおかしくない。
「あ。言っちゃいけないことなら、答えなくても構わないのよ~?」
返答に窮する様を見、無理に聞き出すつもりはないメルセデスは、苦笑いで付け加えた。しかし、ディミトリは「そうではないんだ」と返してきて。
「
……
察しが悪くてすまない。エーデルガルトのこととは、どういう意味だ?」
機密云々以前の問題だったらしい。言われてみれば、色々と、という表現は曖昧で、公私の両面で多くの情報を抱えているディミトリには、判断の難しいところであっただろう。反省しつつ、メルセデスは質問を足した。
「あの様子だと無理かもしれないけれど、それでも
……
あなたが納得できるだけの話ができたのかしら、って」
今度は問題なく飲み込めたようで、ディミトリの双眸が柔らかく眇められる。彼は正面に視線をやり、暫し記憶を探る素振りを見せた後、考え考えといった様子で話し始めた。
「ザラスの闇とやらに閉ざされた時、エーデルガルトとは少しだけだが話はできたんだ。シェズの中にいたとかいう人格の発言から推測するに、人の精神に影響を及ぼす空間だったらしくてな、あの時だけはエーデルガルトは正気だったよ」
彼が語るのは、アリルの谷から撤退する帝国軍を追って、オグマ山脈沿いを急ぎ南下していた際のことだ。バーガンディ領北部で帝国軍の本隊を捉えた王国軍は、ベルグリーズ伯らを退け、エーギル公を討ったが、エーデルガルトはその戦場にはいなかった。
捜索のために散開したところで、シェズが唐突に変貌、同行していたベレスに襲いかかった。加えて、謎の魔道士の集団が付近で待ち構えており、これを退けながら二人の元へ向かった末に、ディミトリはシェズが発動させた闇の魔道で、奇妙な空間に転移させられたというのだ。
「ザラスの闇」と称された魔道に巻き込まれたのはディミトリだけではなく、クロードとエーデルガルトも闇の中にいたという。戻ってきた時にはエーデルガルトは近くにはいなかったが、残る三人が見聞きしたものは同一で、夢や幻の類ではなく、現実に起こったことなのだろう。実際、魔道の発動から彼らが闇に呑まれて消えるまでの様子は、遠目ながら何人かに目撃されていたし、彼らが皆の元に戻ってきたのは、それから一昼夜の後だった。
彼らの帰還以降、大修道院の奪還から敵の首魁の討伐、エーデルガルトの捕縛と、事態は目まぐるしく動いたものだから、メルセデスは件の魔道に関する話は最低限の内容しか知らなかった。ディミトリに近しいドゥドゥーやフェリクス辺りは兎も角、負傷者の治療に奔走していたメルセデスにまでは届かなかっただけだろうが。
「全てに納得しているとは言えないし、明らかになっていないこともある。だが、タレスがエーデルガルトに施したと思われる何らかの術が解けるかは分からないし、この戦争の早期終結のためには、待つこともできない。彼女が正気に戻ったとして、ベルグリーズ伯やヘヴリング伯が奪還に動き出されても困る」
ディミトリは紡ぐ言葉が淡々としているのは、彼自身の感情より公を優先しているからだ。エーデルガルトの現状は、目の前の負傷者にかかりきりのメルセデスには殆ど伝わっていなかったが、彼の語る通りであるなら、早い時期での尋問の打ち切りも視野に入ってくる。それは即ち
――
。
士官学校に同じ年に入学した同級生、とはいえ、期間はほんの二節と短すぎて、エーデルガルトとは殆ど関わる機会はなかった。フォドラに戦乱を齎したのは間違いなく彼女の決断で、数多を奪われた人々を思えば同情の余地はないが、しかし、現実に敗者となった彼女の行く末に、思うところがないとは言えない。正確には、メルセデス自身の感慨からではなく、ディミトリの心中を推し量るに、である。
問うて良いものかと逡巡するも、それが一番の気がかりであれば避けては通れない。メルセデスは意を決し、迷いを振り切った。
「
……
シルヴァンから聞いたのだけれど
……
エーデルガルトは義理のお姉さんで、あなたの初恋の人、だったのよね?」
ディミトリとエーデルガルトが幼い頃の友人同士であり、義理の姉弟という些か複雑な関係にあることは、級友の面前で明かされた話であったから、メルセデスが口にしたとて動揺はなかっただろうが、ごく個人的な感情まで知れているとは思わなかったのか、ディミトリは一瞬の驚きの様相の後に、苦々しげに顔を顰めた。
「シルヴァンめ、余計なことを
……
」
馬蹄の音に紛れながらも聞こえる程の舌打ちは、彼にとっては不本意だったことの表れだろう。その話を一部の級友に明かしたシルヴァンに悪意はなく、少年の頃の淡い恋心がどれほどの影響を及ぼすか、ディミトリの不器用で生真面目な気質を心配していたからで、聞かされた側のメルセデスも、重い決断をせざるを得ないディミトリを、できる限り支えなければと思ったものだ。
「あのね、ディミトリ。シルヴァンにはあなたをからかうつもりはなくてね、ただ
――
」
大修道院に戻るなり、シルヴァンに詰め寄り締め上げやしないかと不安に駆られ、メルセデスは慌てて弁解する。その様が可笑しかったのか、ディミトリの表情が和らいで。
「ああ、分かっている。俺が過去の思い出に囚われて選択を誤らないか、心配したんだろうな」
頷いたディミトリは視線を道の先にやり、深く息を吐く。一つ呼吸する間に、彼の顔からは笑みが消えていた。
「そういう意味での情も全て、大修道院に置いていく。王として、自分の心を殺して決めたのではなく、今の彼女と言葉を交わして、導き出した結論だ」
正面に向けた彼の眼差しはどこか遠く、その碧眼にはエーデルガルトと話した時の情景を映しているのかもしれないと、メルセデスは思った。
「ここに至るまでに重ねた選択の末に、俺と彼女とは相容れない存在になった。それはもう、どうしたって変わらないし、あの闇の中で話したエーデルガルトも同じ認識だった。
例えこの先、互いの理想を理解し受け入れることができたとしても、戦争を起こした責は必ずどちらかが負わなければならない。結局、俺と彼女とが手を取り合う未来は、存在しないんだ」
口調は穏やかに凪いでいて、言葉にも淀みはない。彼はもう、煩悶の時は越えているようだった。
「
……
そう。あなたはもう、覚悟はできているのね。だったらいいのだけれど、もし
……
辛くなったら、いつでも言ってね?」
元より、エーデルガルトの処遇はディミトリ一人の選択で決まるものではなく、故にある意味では諦めもつく。だが、今は割り切れていても、時間が経てばどうなるかは分からない。彼の意志の強さを見縊るつもりはないが、ふと過去を顧みて、苦しくなることもあろう。彼女が大切な思い出を共有する相手であれば、尚更だ。
「話す相手は、私じゃなくてもいいの。フェリクスやドゥドゥー、他のみんなもきっと、あなたには独りで辛いことを抱えてほしくないって思ってるはずだから」
この戦争が始まってから、何かある度に皆がそう言い続けてきた。聞き飽きた小言だろうに、けれどディミトリは、面に喜びの色を滲ませて。
「ありがとう、メルセデス。いつかその時が来たら、甘えさせてもらうよ」
以前とは違って、彼が素直に「頼る」と言ってくれるのが、メルセデスには殊に嬉しく思えた。
各方面に迷惑を掛けただろう予定外の小旅行の後は、暫く平穏な日々が続いた。今後、戦線を南下させるにあたって、調整や進軍準備などを、腰を据えて行う段階に入ったためだ。
メルセデスが母の元へ直接持参したエミールの手紙は、後に返事が届けられた。以前から王国軍の前哨基地に出入りしていた行商人が訪ねてきて、母の名が記された手紙が差し出されたが、封を切るまでもなく弟に宛てた返事だとメルセデスは察した。というのも、母には予め、自分宛に出すようにと話してあったからだ。
姉弟で共に王国軍に所属しているが、今のエミールは表向きは別人として生きている。とはいえ、バルテルス家の事件に関して逃げるつもりがない彼には、素性が知れることは今更だった。かつて士官学校で教職に就いていたから、イエリッツァとして認識している者の方が多く、面倒を避けるため、が本当のところかもしれない。
彼に関する経緯は、手紙を渡した際に概ね伝えた。しかし、メルセデスの認識がそうであるように、母にとっても自身の子の名はエミールである。会えるものならと願い続ける母に、手紙の表だけとはいえ別人の名を書くように、とは言いたくなくて、メルセデスは自ら仲介を買って出たのだ。共に同じ軍にいるから、渡す手間は然して掛からない。
そうして届けられた手紙を携え、少し浮かれた心持ちで、メルセデスは弟の元へと向かう。昼間は兵の調練を受け持っている
――
かつての武術師範としての経験を買われ、ディミトリから依頼された、とエミールは言っていた
――
ので、訓練場か騎士の間のどちらかにいるだろう。
時刻はもうすぐ食事時のことで、訓練場の近くまで来ると、調練を終えたらしい兵が次々と訓練場から出てくる様が見えた。流れに逆らって進みながら、人波の中にエミールの姿がないことを確かめ、メルセデスは訓練場に入る。
兵が出て行ったことによって外は賑わっていた分、訓練場の中は人気も少なく静かだった。居残っているのは向上心が旺盛な者か、或いは、人の多い食堂を嫌って時間を外そうと図る者か。奥の方に佇むエミールは後者だろうと、メルセデスは確信しているが。
「エミール、お母様から返事が届いたわ~」
手紙を軽く掲げ上げながら、メルセデスは弟の名を呼ばわった。王国軍に与するようになった当初は、人前ではあまりその名で呼ぶな、と眉根を寄せたエミールも、姉がまるで言うことを聞かないので、今は完全に諦め顔だ。
調練が終わっているなら、殊更遠慮する必要はない。居残って剣を振る者の邪魔とならないことだけ留意しつつ、エミールに近づいていく。溜息を吐く弟に、「何て書かれていたか、後で教えてね」と言い添えて手紙を渡した。
「ねえ、お昼は一緒に食べましょうよ~」
折角会ったのだからと、メルセデスが提案するも、エミールの顔は渋い。
「
……
人の気配は好かん」
「ここで少しお話でもして、時間を潰してからなら、大丈夫よね?」
素気ない反応は予測済みだったから、メルセデスも譲歩はする。長い間会えなかった分、話したいことならいくらでもあるし、潰す時間も無駄にはならない。
エミールは困ったような色を表情に乗せたが、それは僅かな間で消えた。
「お前には聞いておかねばならんことがあるから、私としても都合がいい」
珍しいことに、エミールの方にも話したいことがあると言う。耳目から離れるべく、訓練場の更に奥へと連れて行かれ、彼が足を止めたところでメルセデスは問うた。
「それで、聞きたいことって何かしら~?」
すると、エミールは母からの手紙に一度視線を投げかけ、溜息を吐き。
「まさか、お前が直接届けに出向くとは思わなかった。それも一人で行こうとしていたなどと
……
無茶にも程があるだろう、メルセデス」
長身の弟が睨み据える目つきで見下ろしてきて、流石のメルセデスも怯んだ。物理的な危機を感じたのではなく、叱責の気配を察したからである。原因は全て自分にあると理解しているし、いつか問われると思っていたが、こうなると事前の覚悟など砂の城に等しく脆い。
「だって、あなたがお母様には会えないって言うんだもの。これまで何度も一人で出かけてる場所だし、問題はないと思って」
既視感を覚えつつ事情を説明したメルセデスにエミールが返したのは、一層厳しい視線だった。
「母上がいる教会よりも、今はこの大修道院の近辺の方が危ない。
……
だから、聞き及んだディミトリの咄嗟の判断に助けられた、とも言えるが」
舌打ちでもしそうな苦い顔は、姉の身を案ずるが故だ。立場が逆なら同じことを思うし、ならば過ぎたことと流せるはずもない。
「ごめんなさい、エミール。あなたにも心配させちゃったわね」
「今後、軽々しい行動を控えてくれれば、私には何も言うことはない」
「そうね~。これからはあなたやお友達に、先に相談するようにするわ~」
迷惑をかけられないと思っての単独行動が、結果として多くの人の手を煩わせ、気を揉ませてしまった。メルセデスもそれは素直に認め、反省している。以前とは違い、戦う術を身に着けたとはいえ、白兵戦となると些か心許ないのも事実だ。
姉の反省が上辺だけではないと伝わったのか、エミールは静かに頷いて唇を引き結ぶ。この件に関しては、彼に他に言うことはなさそうな気配だが、しかし。
「
…………
」
再会してからの彼は、他人との接触を可能な限り避けている感がある。今は仮面を着けていないから表情も視認できるが、変化がなさ過ぎる上に寡黙も相俟って、相変わらず他人からは「何を考えているか分からなくて怖い」と思われているらしい。メルセデスは、エミールの裡にある事情を概ね知っていて、彼が何を疎み、避けているのかを理解しているので、無理に交友関係を広げるべきだとは思わない。
そして、姉弟だからこそ、分かることもある。
「浮かない顔だけれど
……
まだ何か、心配事があるのかしら~?」
他人には普段通りの無表情に見えるかもしれないが、メルセデスの目は微細な変化を捉えていた。先の苦言に繋がるかは分からないが、何か物言いたげな、そんな顔だと思ったのだ。
「心配
……
。ある意味ではそうだな。一つ、気になっていることがある」
「それは、私のことで?」
エミールは頷いた。ごく僅かながら視線が泳ぎ、言葉を選ぶ素振りを見せた後、双眸に探る様な色が差し。
「この手の話は本来なら詮索すべきではないが、肉親のことであれば私も無関係ではないから、敢えて問う。ディミトリとは、恋仲なのか?」
真っ直ぐに見据えてくる弟からの質問に対し、メルセデスは咄嗟に何も返せなかった。耳から入ってきたはずの言葉が何を示しているか、その理解には暫しの時間を要した。驚きで我知らず目が瞬き、それから考え、意味を飲み込んでやっと、という有様で。
ディミトリと自分は友人だ。誰が何と言おうと、当人同士がそう認識している。そも、互いへの恋心を伝え合っていないから、事実として恋仲にはあたらない。
「もう。エミールったら、いきなり何を言い出すの。そんなわけないでしょう~?」
軽く笑って否定しても、エミールの表情から怪訝な色は消えない。
「
……
違うのか」
「違うわよ~。あなたが私たちの担任の先生だった頃から、何も変わっていないわ。私とディミトリとは同級生。他のみんなと同じ、お友達よ」
「友人
……
? 以前にも、二人で母上に会いに行った、と聞いているが」
エミールの眼光が鋭くなった、気がした。実際には別の目的で出かけたついでに母に会ったのだが、事実だけを並べれば確かに誤解を招くには十分な行動だ。メルセデスが弟の疑問に成程と頷く一方で、半年以上も前の些細な話を、この子は一体どこで耳にしたのやら、とも思う。
「ええっと。それはね、恋人として紹介するためとかじゃなくて、ディミトリが戦争のことで悩んでいたのを聞いていたから、その答えとして連れて行ったのよ~。あの頃のディミトリには、気晴らしも必要だったしね」
王国が戦禍に晒されることとなったのは己の決断の故で、それが本当に正しかったのかとディミトリは悩んでいた。彼が弱音を吐露した時、メルセデスには彼の心の靄を晴らせるような言葉は返せず、歯痒い思いをしたものだ。
常に前線にあったから見えていないだけで、彼の決断が守ったものは確かにある。それを示したいと思い、辿りついたのが、かつて自身が暮らしていた村の風景だった。疲弊した彼の心を安らげるために訪れたのであって、他に意図はない。
「今回のことは、ディミトリには困っている人を見過ごせなかっただけだと思うわ~。あの時の私は別に困っていたわけじゃないのだけれど、あなたの心配と同じことを考えたんでしょうね」
あの日、追いついてきたディミトリが言うには、彼も空いた時間に遠乗りに出ようとした際に、門番から話を聞いて急遽予定を変更した、とのことで、偶々(たまたま)近い時間の外出となった結果だ。軽率な行動で心配させ、迷惑を掛けたことは詫びる他はないが。
そもそも、だ。アリルでの戦いの後に王国軍に参入したエミールは謂わば新参で、故に知らないのだ。実はディミトリはこの手の話に事欠かず、級友という気安さから少人数で外出し、身を案じたドゥドゥーに何度も叱られている。
「ディミトリって、結構気軽に出かけちゃうのよ。女の子と二人きりで、って状況は傍目にはそういう意味に見えるかもしれないけれど、シェズとは何度も遠乗りに出かけてるし、イングリットと街の宿場に行ったりもしてるわ。
でもね、所謂『不実な人』なんじゃなくて、誰に対してもその気がないから、誰とでも気軽に出かけられるのかしら。私だけが特別ってことはないと思うわ~」
あの日私を助けてくれたのも、彼にとってはただ
――
脳裏を過る光景が、胸に小さな痛みをもたらす。それを奥底に押し込めて、察してくれるなと願いながら、メルセデスは微笑んで結んだ。
ややあって、エミールは息を吐いた。表情には特段の感慨は見えない。
「
……
お前が否定するのなら、私の勘違いなのだろう。それならそれで構わない」
その後、エミールは再度、陣地の外に出る際の注意を述べ、頷いたメルセデスは食堂への移動を提案した。あまり遅くなると、厨房にいる人たちの手間が増えてしまうから、と。
食堂への移動で合意した姉弟は、一度そこで別れた。エミールは調練で使用した道具を片付けてから行くと言い、ならば先に行って支度をして待っているとメルセデスは返し、食堂に向かって一人で歩いている。先の会話を思い返し、内心でぼやきながら。
本当にあの子ったら、何を心配しているのかしらね。そんなこと、あるわけがないのに
――
声に出さずに零せば心だけに落ちて、少しずつ嵩を増していく。ディミトリとの関係を思い、メルセデスが裡に向けてそう呟くのは、今に始まったことではなかった。
切欠は、戦闘中に足を踏み外して道から転落し、所在不明となっていたところを、彼が助けてくれたことだ。それまでにも何度か、ただの友人とするには少し近いような、と感じることはあったが、他の級友との距離感を見れば同じようなもので、納得はしていた。なのに、あの一件はあまりに鮮烈すぎて、勘違いを引き起こすには十分で。
制止を振り切り、不確かな情報と知りながら、危険を顧みずに
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端で聞けば、友情を越えたものを持っているから、と思うだろう。他の誰かの話であれば、根底にある淡い恋心を連想して、胸をときめかせていたはずだ。
けれど。ディミトリに限っては、違うと断言できる。窮地に陥ったのが他の誰かでも彼は行動しただろうし、彼にとって最も効率が良い方法をとっただけだ。彼は以前からそうだった。王という替えの利かない身にありながら、自分の命を一番軽く見ている。
誠実で、真面目で、だから一人の身には余る困難も全て自分で抱え込んでしまって、苦しい思いを吐き出せない、優しくて不器用な人。とても強くて、そしてどこか脆い。側にいて支えて、包んで、癒してあげたいと思う人
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けれど、それはあくまでも一方的な、自分だけの感情であって、ディミトリのそれとは違う。
そこに身分の違いが加わるのだ。想えば報われると期待するには、幾ら何でも相手が悪すぎる。
ふと空を見上げれば、広がるのは爽やかな蒼穹だ。昼の太陽は眩しく、少し目に痛いくらいで。直視しづらい辺りがディミトリに似ているように思えて、メルセデスはそんな想像をする自分を密やかに嗤った。
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