ORANGE*AXE/小野美歓
2025-10-25 22:04:20
6032文字
Public 風花
 

ひとひらの光【ディミメル】

青√白雲の章、ルミール村の事件の後の話。「ヒカリノキセキ キセキノヒカリ」収録。

 つくづく、未熟だと思い知らされる――普段ならば、槍を振るえば心から雑念を取り払えるというのに、今も胸に残る感情は平静を食い破っていくようで、全く集中できない。
 ディミトリは手足を止め、大きな溜息を吐いて天を仰いだ。冬の空気は澄んでいて、夜の闇に散らばる星がよく見える。
 訓練場に来たのが夕食後だったから、今の時刻が既に夜になっているのはわかっていたが、月の高さを見る限り、普段ほど遅い時間でもなさそうだ。
 随所に点された灯りのお陰で然したる不自由もなく、訓練を続けることはできる。しかし、この分ではいくら槍を振るっても一つとして身につくものはないし、こんな精神状態ではドゥドゥーの小言を聞くのも堪えそうだ。
 辺りをぐるりと見渡し、他に誰もいないことを確認すると、ディミトリは道具を片付け、手荷物を持ち、柱の灯りを消して回る。予想外の人物と遭遇したのは、そうして後始末を終えてから訓練場を出た直後だった。
「やっぱりあなただったのね~、ディミトリ」
「メルセデス……?」
 扉近くの外壁に凭れたメルセデスが、穏やかな笑みを浮かべて声を掛けてくる。
「もう遅い時間なのに、まだ訓練場に灯りが点いていたから、多分あなただろうな、って思ったのよ~」
「俺だからって……それで、こんなところで待っていたのか? お前こそ、こんな時間に何をしていたんだ」
「さっきまで、大聖堂でお祈りをしていたの。少し……心を落ち着かせたくて」
 そう答えたメルセデスの容が影を帯びる。ディミトリは肚裡で、ああ、と呟いた。彼女も、自分と同じなのだ。
 今節の課題として青獅子の学級ルーヴェンクラッセに課せられたルミール村の異変の調査は、確たるものが得られないまま惨劇を引き起こすに至り、それを治めるために騎士団と共に出撃したのが一昨日の話だ。
 狂乱状態の村を目の当たりにした級友たちは、それぞれが穏やかならぬ感情を覚え、今なお晴れないままでいる。メルセデスも帯同した内の一人であったから、ざわつく心を抱えて、何もせずにはいられなかったのか。
 自分も同じだから、彼女を咎めることはできない。けれど、あと数日で星辰の節に入る時期だから、フェルディアほどではないにしろ、夜の冷え込みは相当なものだ。こんなところで無為に時間を潰していれば、いずれ風邪を引く。
 早く部屋に戻れ。ディミトリがそう言おうとして、口を開きかけた刹那だった。メルセデスはふるりと身を震わせ、次いで小さなくしゃみをした。――案の定、と言う他ない。
「身体を冷やしたんだな。俺ももう引き上げるところだし、部屋まで送っていこう」
 夜のことではあるが、訓練場から学生寮までは一本道で、ましてや大修道院の内部であるから、然して危険はない。メルセデスにしてもそういう認識だから、こんな時間にも拘わらず、一人で大聖堂まで出かけていたのだ。
 だからといって、ここで会ってしまった以上、女性を一人で部屋に帰すのは気が引ける。それに、寒い中を待っていたのだから、何かしらの用があってのことかもしれない。ならば、共に寮に向かいがてら話せば効率が良い、と思ったのだ。
「う~ん……でも……
「何か、不都合でもあるか?」
 彼女が待っていたのは、もしや自分ではなかったのか? 他の誰かとの待ち合わせ場所が偶々そこで、自分が訓練場にいたこととは実は無関係で――その可能性に気づいたものの、だとするなら声を掛けてくる必要は無いだろう、と思い至り、ディミトリは浮かんだ疑問は敢えて口に出さずに、裡に止めて反応を待った。
「このまま部屋に戻っても、身体が冷えすぎてしまって眠れないかもしれないから、温かいお茶で一息つきたいな、って思って~」
 他の誰かを待っていたのではなく、単に寄り道をしたいだけらしい。とはいえ、夕食が供される時間は随分前に終わっている。食堂に出向いたところで、誰もいないに違いない。
「今の時間だと、厨房の火も落とされているだろう」
「少しお湯を沸かすくらいなら、大丈夫よ」
 菓子作りが趣味であるからか、メルセデスはよく厨房に出入りしていて、勝手も知っている。温かい茶の用意をするだけなら、本人が言う通り何ら問題はないのだろう。
 メルセデスの部屋と食堂は目と鼻の先だから、送っていくのは食堂までにして、自分は部屋に戻るか。それとも、彼女が茶の支度を調えるのを待って、自室に戻るのを見届けるべきか――ディミトリが悩んだのも束の間で。
「ねえ、ディミトリ。折角だから、あなたも一緒にどうかしら?」
「いや、俺は……
 不意の誘いに戸惑い、ディミトリは返答を濁した。先程まで訓練で身体を動かしていたから、殊更温める必要は無いし、そんな気分でもない。
 しかし、はっきりと断らなかったせいか、メルセデスは容易には退かなかった。
「眠い、って顔はしていないわよ。それとも、この後何か約束でもあるの?」
「そんなものはないと、分かった上で言っているのだろう?」
「あら、鋭いわね~」
 悪戯めいた笑みを浮かべたメルセデスの手が伸びてきて、有無を言わさず腕を取られた。明確に了承したわけでもないのに、彼女の中では二人で夜の茶会を催すのは決定事項で、つまりこれは、逃がさない、という意思の表れか。
「じゃあ、行きましょう。あなたの好きなカミツレの花茶を淹れるわね」
「それは有難いが……まあ、良いか」
 メルセデスの態度がいつになく強引で、その珍しさに意識が向いて失念しかけていたが、元より寒い中を待っていた理由を聞くつもりでいたし、少しくらい時間を取られても困ることはない。
 ディミトリが受け入れたと理解してか、捕まえていた腕を解放すると、先程までの憂い含みの顔はどこへやら、鼻歌でも歌い出しそうな調子で、メルセデスは先に歩き出す。やれやれ、と思いながら、ディミトリもまた、その背を追った。


 訓練場から学生寮に向かって歩き、途中で折れて食堂に入る。予想していた通り、そこは既に無人で灯火はなく、しんと静まりかえっていた。
 迷いなく厨房へと向かっていたメルセデスが不意に立ち止まり、一歩分後ろに付いていたディミトリを振り返る。
「遅い時間だし、後片付けのためにまた来るのも大変だから、ここで済ませてしまいましょ。お茶の支度は私がするから、あなたは近くの灯りを点けて、待っていて頂戴」
「分かった。点けるのは、一つだけで良いか?」
「ええ。ここにいるのはあなたと私だけだし、お互いの顔と手元が分かれば、それで十分だわ」
 分担が決まり、メルセデスはそのまま厨房に入っていく。その背を見送ったディミトリは、食卓の傍らに荷物を置いて、手近な場所の蝋燭に火を点した。そして、指示通りに座って、彼女が戻ってくるのを待つ。
 支度を手伝うべきかで悩んだのは、ほんの僅かな間だけだった。不慣れな自分が視界の悪い厨房に入っていったところで、何ができるかと思い直したのだ。メルセデスの手伝いどころか、その辺のものを壊して彼女の仕事を増やしてしまっては、本末転倒である。
 壁を隔てた向こうの厨房から聞こえていた物音が止んでから暫し経って、茶器を載せた盆を持ったメルセデスが姿を見せた。
「お待たせ~」
 盆の上の二客の茶碗には既に花茶が注がれていて、やわらかな香りを纏った湯気が立ち上っている。
「ありがとう、メルセデス」
「いいのよ~。無理に付き合わせたんだもの、これくらいはね」
 やはりと言うべきか。随分と強引だったが、無自覚ではなく意図があってのことだったのだ。供された花茶に口をつける前に、ディミトリはやれやれとばかりに溜息を吐く。
「ということは、寒い中、俺を待っていたのにも、理由があるんだな?」
 茶碗の持ち手に指を掛けつつディミトリが問うと、メルセデスは穏やかな笑みを浮かべて。
「そんなに大層なものはないわよ~? ただ、あなたがとても疲れているように見えたから、気になっただけ」
 普段と変わらない微笑みなのに、気遣いに長けた彼女のことだから、その言葉も相俟って、何もかもを見通されているような気分になる。
「さっきまで訓練場にいたんだから、疲労はあって当然だと思うが」
「あなたがそういうことにしたいなら、それでも構わないの。これから休むために、気分が落ち着くお茶を飲んで、ついでに他愛ない話をするだけよ」
 ――ルミール村では、失態を演じた。戦闘に影響が出るようなものではなかったが、己を御することができなかったのは、偏に未熟ゆえだ。
 担任教師には必要なこととして話したものの、事情は気楽に語れるような内容ではないし、なればこそ、他人に悟られないようにしなければならなかった。でなければ、今の彼女のように、要らぬ心配をさせてしまう。無論、この件に関しては、既に手遅れなのだが。
 ディミトリが何も言えずにいるからなのか、メルセデスは両手で包むように持っていた茶碗の水面に視線を落としながら、ぽつりと呟くように語り出した。
「あのね、これはあなたからしたら、余計なお世話かもしれないのだけれど……くれぐれも、無理はしないでね」
「無理を……しているように見えているのか、お前の目には」
「今もそうだけれど、どちらかというと、これからの話よ。あなたはどうしても、独りで抱え込んでしまう性質だから」
 今も、というメルセデスの言葉が何を指しているのか、察するのは容易だ。彼女もまた、同じ惨劇を目にして、波立つ心を持て余しているのだから。
「つくづく、情けないな。こういう時にこそ、動じずに皆の支えになるべきなのに」
「それは、級長、というより、ファーガスの王子としての心構えかしら?」
 問われ、ディミトリは首肯する。
「卒業して国に戻れば、そう遠くない内に戴冠することになる。責は重いが、逃げるつもりはない。だが、今のままでは――
 駄目だ。そう続けるはずの言葉は、不意に目の前に突き付けられた白い指先に遮られた。
「そうやって誰の前でも張り詰めているのが、あなたの良くないところだと思うのよね~」
 引きつけられた意識を広げ、指先から辿るようにメルセデスを見遣る。彼女の容を彩るのは、苦笑だった。
「あなたがみんなの期待に完璧に応える努力をしているのは知っているし、実際にできていると思うわ。でも……王子様だって言っても、やっぱり同じ『人』よ。偶には弱気になることもあるし、苦手なこともあって当然じゃないかしら。
 表向きには完璧でいなきゃいけないなら、せめて私の前でくらいは、少しくらい気を抜いていてもいいのよ?」
 じわり、と。言葉はひとひらの小さな光となって、胸の奥に熱を熾したしたようで、ディミトリは思わず目を瞬かせていた。気を抜いても良いなどと言われたのは、或いは初めてのことかもしれない。
 王宮を離れたこの士官学校にあってさえ、ブレーダッドの血統、ファーガス神聖王国の王子という身分は常について回る。同級の生徒は誰もが――ドゥドゥーでさえも――「殿下」と呼んで線を引き、上に立つ者として扱い、かくあれかしとの期待を滲ませる。
 それは持てる者の義務であり、様々な恩恵を享受する身分の代償であると理解していたから、重責ではあっても重圧だと思ったことはなかったが……
 ――ああ、そうか。ディミトリは納得して、肚裡に呟きを落とした。
 メルセデスは数少ない例外なのだ。士官学校に入学したばかりの頃、「王子としてではなく、級友の一人として接してほしい」と青獅子の学級の皆に告げたが、聞き入れてくれたのは彼女だけだった。
 完全に対等ではないにしろ、近い目線でものを見て、思うところを率直に伝えてくれるメルセデスとの交わりは、以前から心地良いものと認識していたが、それも当然なのだろう。
 明確な言葉にはせずとも、彼女は常に態度で示していた。王子としてではなく、ディミトリという名の一人の級友の姿をありのままに捉え、接して、受け入れてくれていたのだ。
 だから、疲れ、弱り、無理をしている級友に、立場など関係なく「気を抜いて良い」と言える。打算も柵も、悪意の類も一つとしてない温かな心遣いが、滲むように身に染みていくのを実感して、ディミトリの面は自然と緩んでいった。
 ルミール村の事件以降、どこかささくれ立っていたものが、ようやく落ち着いたような気がする。だから、彼女の厚意は有難く受け取る意味で、頷いて返した。
「まあ、どうしても堪えきれないようなことがあれば、頼らせてもらうよ」
 そして、今はまだ大丈夫だと、言外に含めて告げると、メルセデスの表情に悪戯めいた笑みが閃いた。
「お裁縫の時みたいに?」
「あれはどうしたって、俺一人では解決できないことだったからな」
 彼女の言葉で、心底から困り果てた過去の自分が記憶から舞い戻ってきて、ディミトリの喉がくつめいた。裁縫一つできない不器用な自分を恥じていたこともあったが、今は寧ろ、それで良かったのだと思える。
「お前も、あまり抱え込まないようにしてくれ」
「あら、私……そんな風に見えていた?」
「いや、今の話じゃないが、お前は他人の困りごとを助けるばかりで、自分のことは疎かにしがちだから、心配なんだ……剣術の試験の時のように」
 同じ言葉を返されるとは思っていなかったのか、メルセデスの双眸が数度瞬いた。暫しの沈黙の後、苦笑を浮かべながら小さな溜息を吐いて。
「いやね、私たち、お互いの心配ばっかりしてるみたい」
 正面から互いを見つめ、そしてどちらからともなく笑い合う。全く気負うもののない二人だけの空間が、今の自分を癒やしてくれる一番の薬なのだと素直に認め、ディミトリはメルセデスの思いに心から感謝した。


 夜の茶会は一杯だけで終えて、後始末を済ませてから、連れ立って食堂を出る。
 メルセデスの部屋も、ディミトリの部屋に至る階段もそこから程近く、途次では殆ど言葉を交わす間はない。彼女の部屋の前まで付き添ったディミトリは、別れる際になってようやく、裡にあったものを告げた。
「さっきの話だが、本当に……何かあったら、遠慮なく頼ってくれ。できる限り、助けになりたいと思っているから」
「そんなに心配そうな顔しなくても、私はあなたのこと、とても頼りにしているわ。ありがとう。何かあったら、その時はすぐに、あなたに相談するわね」
 礼を言うべきはこちらの方だ――そう口にしかけたけれど、敢えて止めた。夜の時分であるから、部屋の前であれこれと話し込むのは迷惑になろう。
 メルセデスの姿が扉の向こうに消えるのを確認してから、ディミトリは踵を返す。彼女と交わした言葉を思い返し、胸に温かい思いを抱きながら、自室への道を辿ったのだった。