半年前の自分には想像もできなかったが、紆余曲折がありながらも王国軍は着実に戦線を南下させており、先日にはメリセウス要塞を陥落させた。帝都を守る最大かつ最後の難関を下したからには、もはや道を遮る障害はない。
だからなのか。差し向かいの席で紅茶を飲んでいたメルセデスが、茶碗を置いて一つ息を吐いたその後に、気負いのない微笑みを湛えて問うてくる。
「戦争が終わってしばらくして、身の回りが落ち着いてきたら、してみたいことってある?」
憤怒に駆られ、唯々怨敵の首を求めて彷徨っていた頃ならば、目的を果たした先の未来など考えもしなかった。復讐を遂げた後に命があったとしても、刑死を公布された身に帰る場所はない。それまでと同様にフォドラを当て所なく漂い、人知れず朽ちていくのだと漠然と思っていた。
しかし、今は違う。かつてを知る仲間たちの導きと献身とが、昏い情念に支配された心を引き上げてくれた。王都を奪還し、圧政に苦しむ民を救うことができ、王として求められているとも知った。これまで目を背け続けた罪を贖うためにも、望まれたものならばその責は果たそうと、戦争終結への決意を新たにした。
次の帝都での戦闘は、これまでの比ではない苛烈なものになるだろうとの予測は容易い。犠牲を避けることは不可能で、だからこそ、敢えて彼女は問うのだ。必ず生きて帰る――その思いを確かに心に刻むために。
「前に聞いた時は『考えたことがない』って言っていたけれど……そうね~、フォドラ全体に関わるような大きな話じゃなくて、これから先の生き方みたいなことでもなくてね、日常的な小さなことで構わないの。例えば、好きな時に遠乗りに行くとか、新しく何かを学んでみたいとか……」
メルセデスが語るのはいつも、身近で些細な日常だ。普段は更に大きな、国の行く末を左右するような判断を担っていると知っているためか、彼女は敢えて政治的な話題は避けている節がある。元来の気性からして穏やかで争いを好まず、彼女自身が政に関わる身分ではないことも要因としてはあるかもしれない。
「そうだな……叶うかどうかは分からないが、あるにはある、かな」
春の終わりの頃に夜の大聖堂で二人きりで話した際、同じ質問を受けた。その時はまだ戦後は明確には見えておらず、己の未来は過去の行いへの贖罪のためにあると思っていたから、個人としての望みは問われても浮かばなかったが。
あれから二節が経った。帝都攻略が目前ともなれば、君主に望まれた者として、戦後を視界から外すわけにはいかないし、皆の支えのお陰でそこに光を見出せるようにもなった。そして、彼女が聞きたがる小さな望みも、今は確かに胸の内にある。
意識の変化を返答から感じ取ってか、メルセデスは数度目を瞬かせた後、満面を喜色で染め上げた。軽く手を打つと同時に、「まあ!」と嬉しそうに弾んだ声を上げて。
「望みを持つのは良いことよ。差し支えなければ、聞いてもいいかしら~?」
関心しきりといった様子で僅かに卓から身を乗り出すようにして更に問うてくる彼女に、頷いてみせてから、思考に浮上してきた望みを明かした。
「一度でいいから、仕事や役目から離れて、観光でデアドラに行ってみたい。花冠の節に救援のために出向いたが、あの時は街を見て回る余裕はなかったからな。
ただ、叶ったとしても、数年は先の話になるだろうが」
「ふふっ、そうね~。フェルディアからデアドラはちょっと遠いし、そうなると何日もお休みが必要になるものね~。
何年かして落ち着いた頃になったら、あの街も賑やかになって、きっと楽しいでしょうね。あなたにはいい骨休めになると思うわ~」
王とは大きな権能を持つ代わりに、個人としての自由はあまり望めない窮屈な身の上だ。しかし、メルセデスは否定しなかった。無理な話だと言わないのは、自身が平民故に想像が及ばないからではないだろう。願えば叶うと純粋に信じているからか、或いは「叶えてみせろ」と言っているのか。
彼女の真意がいずれであれ、叶うくらいには仕事に励むつもりでいる。フォドラの情勢の安定は、国王となる自分が生涯守らねばならない最大の責務だからだ。
そしてその上で、敢えて望みたいことがある。――否、寧ろそれこそが、最も重要で。
「なあ、メルセデス。もし良ければ……その時はお前も一緒に、どうだろうか?」
今ではない、数年後の未来の話だ。その時の互いの関係はかつての同級生のままか、それとも別のものになっているかは分からない。だとしても、王の身分での巡察ではなく、一個人であるディミトリとして訪れるなら尚更、気の置けない同伴者がいてほしい。風光明媚と名高い場所だから、一人で巡っても得るものは多かろうが……。
同行を求められるとは予想していなかったのか、丸くなったメルセデスの目は驚きの色で満ち、ややあって苦笑いを容に浮かべると。
「あらあら~。あなたまでそんな、シルヴァンと同じことを言うの?」
今度はこちらが目を瞬かせる番だった。メルセデスの唇が紡いだ固有名詞が何を意味するか、それを数拍遅れで理解して、思わず舌打ちしたい気分になる。
どういう経緯があってかは知らないが、メルセデスの口ぶりから察するに、自分より先にシルヴァンが彼女を旅行に誘っていたらしい。
ただ、あの男のことだから、恐らくは具体的な話ではなく――彼女が誘いに乗っていれば、実現に向けて動くかもしれないが――社交辞令の一つに過ぎないだろうし、彼女の反応はだからこそとも言える。つまり、彼女はその場限りの冗談だと受け取ったのだ。
先にシルヴァンとの遣り取りを詳細に尋ねるべきか、それとも、自分は本気で望んでいると重ねるべきか。返す言葉に迷う内に、メルセデスは小首を傾げながら考え考えといった様子で先に口を開いた。
「そうねえ……誘い文句としては十分ときめくけれど~、でも誤解されちゃうから、そういうことは迂闊に言っちゃ駄目よ。何年も先の話なら、その頃にはきっと、あなたにはお妃様がいるでしょう?」
挙げ句、彼女はまるで他人事のように言うものだから、落胆の溜息がついて出るのも無理からぬことだろう。独白めいた嘆きが漏れてしまうのも、また。
「……そのつもりで言ったんだが、通じないか……」
否。そも、通じてくれと期待するのが間違っている。この身の裡に息づく熱を帯びた感情を、確かな言葉で伝えもせずに察してほしいと望むのは、虫が良すぎるというものだ。
「え? 何か言った?」
「いや、何でもない」
この場の流れを借りて告げてしまえるものなら、とは思う。しかしやはり、己の窮屈な身分を自覚すればこそ、二の足を踏んでしまう。
メルセデスは誰に対しても優しく、分け隔てなく接するから、こうして二人きりで卓を囲む時間を持っていても、そこに特別な何かがあるのではとの自惚れも湧かない。彼女の裡の自分への感情が友人の域を出ないものなら、こちらの態勢が整わない内に告げたところで、まともに取り合ってくれないだろう。
今はまだ、その時機ではない。間近に迫る帝都での決戦を無事に越えなければ、語った望みは見果てぬ夢となってしまう。すべきことを一つずつ、着実に熟してここまできた。戦争終結という大きな区切りまで、あと少しなのだ。だから。
「まあ、全てが思い通りにはならなくとも、その内のいくつかでも叶えばいい……とは思うな」
逸る心を抑えて慎重に、言葉を選んで笑ってみせると、メルセデスの容にもいつもの微笑が戻った。
「きっと大丈夫よ~。少しくらい欲張ってみても、あなたならきっと叶えられるわ。だから、諦めないで頑張って~」
純粋な厚意からの応援に小さなもどかしさを覚えるが、それも今だけだと肚裡で言い聞かせ。
「ありがとう、メルセデス。望みを叶えるには一筋縄ではいかない難関が多そうだが、いつか叶えてみせるよ」
眼前の道が開けたその時は、遠慮はしない――音にしなかったその独白は、察する気配のない彼女への挑戦であると同時に、色恋に疎く考え込みすぎる己に覚悟を促すものでもあった。
Digression...
用意していた紅茶と焼き菓子がなくなったのを機に、茶会はお開きになった。仕事に戻るディミトリを先に送り出したメルセデスは、一人残って卓上に広げた茶器を片付けていた。
その最中に、ふと手が止まる。先の彼との会話を脳裏にとりとめなく浮かべていたのだが、あることに気づいたのだ。
「あれって、もしかして……」
彼が語った戦後に叶えたい望みは、役目から離れての観光旅行だった。世情が安定する頃になっての話になるが、生真面目で責任感が強い彼が「仕事を抜きにして」と言えるようになっただけでも随分な進歩ではないか。
ファーガスの王となる人が本当に自由な旅に出るのは難しかろうが、どうにか叶ってほしいとメルセデスは素直にそう思う。
が、たった今メルセデスの裡に起こった小さな引っかかりは、彼のデアドラへの観光旅行そのものについてではなかった。それに付随して問われた、同行の誘いの方だ。
役目を負わずに王宮を離れることが難しい身分にあると、彼はきちんと自覚している。だから、望みが叶うとしてもそれは時勢が落ち着くであろう数年は先の話、とも言っていた。その頃には彼自身も三十路が近く、世継ぎを儲けるために妃を迎えていよう。
求められる身だと知っているから、彼にとっては結婚も規定事項であるはずだ。それを承知の上で、異性の友人である自分に同行を求めたのだとすれば、その真意は――。
「……まさか、ね……」
呟き、メルセデスは頭を振る。
彼はあまり器用な方ではないし、その場限りの出任せで物を言うことはない。だとしても――不意に浮上した可能性を、メルセデスは面に自嘲を浮かべつつ振り払った。そんな都合の良いこと、あるわけがないわ、と。
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