堕落への招待

悪魔の契約をするエグシャリ。正義を悪に染めるのっていいよねって話。


誰も近寄らない倉庫棟の休憩室は、嗅ぎ慣れないコーヒーの匂いと、紙の匂いが混じっていた。蛍光灯の光は青白く、空気は少し埃っぽい。シャリアは整頓されたデスクに腰を下ろし、カップの縁を軽く指で撫でてからエグザベを見た。
彼の目元には疲労が滲んでいて、うっすらと隈が見える。
 
「はじめは小さいことです」
シャリアは肩をすくめ、声を低くした。
「誰も困らない。書類の数字をいくつか置き換えるだけ。監査の目を逸らすだけで、被害は目に見えません」
 
彼は即座に眉を寄せた。頭の奥で倫理の声が警鐘を鳴らす。だがシャリアは、まるで日常の家事を話すかのように続ける。
 
「覚えていますか? あの契約相手。表向きは取引先として扱われていますが、実際には監査を買収しているんです」
シャリアはまるで、天気の話でもするような声で言った。
「安全基準の報告書は全て書き換え済み。たとえ機械が故障したとしても〝操作ミス〟で片付けられる。監査員には現場を見せませんからね。もし見せるとしたら、整備済みの部屋と作られた笑顔だけ。死んだ作業員の記録は灰になって、代わりに支払証明だけが残る」
彼は視線をエグザベに合わせた。
「そう、つまり帳簿を操作して、都合の悪い事故記録は消されるんです。……君達がどれだけ損をしたか、記録に残らない」
エグザベの胸に、無駄にした時間や失った同僚の顔が浮かぶ。怒りが、理屈よりも先に熱を帯びた。
 
シャリアは鞄から小さな付箋を取り出し、書類の隅に貼り付ける。まだ何も書かれていない紙片が、これから罪を記すための余白のように思えた。行為そのものは何でもないように見える。だがその手つきが、エグザベには合図のように感じられた。
彼はその小さな付箋をじっと見つめた。
黄色い四角が、やけに鮮やかに見える。そこに書かれるべきは、数字ひとつと印ひとつ。それだけで、記録は〝存在しなかった〟ものになる。
エグザベは喉の奥で乾いた音を立て、言葉にならない問いを飲み込んだ。
 
「怖いですか?」
シャリアの声は穏やかだった。問いというよりも、確かめるような響きだ。
「安心して。誰も君を責めはしません。むしろ喜ぶと思います。上層部も、監査も、報告書も――全てが〝正しい結果〟を求めている。彼らの望みを叶えてあげるだけです」
 
シャリアの指先が、エグザベの手に軽く触れる。
「ねえ、エグザベくん。君はまだ信じているんですか? 正義が、真実を守ってくれると」
 その響きは、優しく、そして残酷だった。
 
エグザベは答えられなかった。脳裏に浮かぶのは、同僚と笑い合った記憶。けれど、その彼はもう戻らない。もし、あの事故が報告されていたら。もし、あの故障が知られていたら。
報告書に“故障”と書くべきだった。その思考は、すぐ別の声に上書きされる。
――でも今更報告書を変えたって、誰も救われない。
 
シャリアは彼の沈黙を肯定と見做したように微笑む。
「そう、誰も救われない。でも裁かれもしない。それなら、どちらに立っても同じでしょう?」
 
その瞬間、エグザベの中で最後の抵抗が音を立てて崩れた。彼は付箋の上に指を添え、ためらいのあと、強く押さえつけた。小さな紙片が書類に吸い付く音が、やけに大きく感じられる。
 
シャリアは満足げに頷き、囁いた。
「そう、それでいいんです。これが最初の一歩。境界線を越えたところにしか、真実は見えない」
そして唇の端を僅かに上げた。
「私が君の復讐に協力します。だから君も、私の復讐のために動いてくれませんか。――一緒に地獄へ落ちましょう」
 
胸の奥で、怒りと安堵が溶け合う。その熱は、正義よりもはるかに心地よかった。