eclipsis
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rossignol

スリラーバークの過去話。悪夢を見るモリア様の心が少し軽くなる話



 ここは、いつでも白色の空間だ。気づいたら周りには何も無い。誰の影もかたちも見えず、視界に入る己の身体もミルクを掛けたように滲んでいる。何もかもその白で包まれていて終着が見えない。こうなると前方だと思う方角へ手を伸ばしながら歩くだけだ。当てどなく歩いても足元を見てはいけない。いつの間にか乳白色に赤が混ざり黒が混ざり、足の裏には何かがまとわりつく。
 遠くから何やら音が聞こえてくる。砲撃のような音。だが実際は違うものかもしれない。近くで誰かが叫んでいる声だ。『キャプテン』『船長』と。
 叫びが悲痛なものへと変わる前に走る。前を見たままでも足元がどうなっているのかが分かった。血で濡れ広がって誰かの、大勢の、身体が転がっている。周りの空間がどんどん赤黒く染まっていく。走って荒くなる呼吸音に砲撃と叫びが混じり、凄まじい耳鳴りのように轟いた。脳天をつんざくその刺激に堪らず目を閉じる。

 暗闇の中で意識が落ちて遠くなっていく。その瞬間、小さな音が流れ始めた。ひっそりと湧く清水に似た音が流れた。か弱く無でるその音は、全てを優しく掬い上げていく。




 ブツリと糸がほぐれて切れるような感覚で、モリアはゆっくりと目を覚ました。起きぬけの世界は、モリアだけの寝室は、薄闇で囲まれて黒色を帯びていた。
 モリアが目覚めるときは、不快感がいつも寄り添う。砂を噛んだような免れない悪寒が身の内を満たしていて、目覚めても心はドス黒く腹が重い。起き上がる気など一向に湧かない。しかし、ここ最近はその砂が少なくなっていた。今、目覚めたばかりのモリアもそう感じて細く息を吐いた。見上げた先の天井が変わらずあるという事でさえ妙に安心できる。
 モリアはゆらりと動き寝床から起き上がると、先程の悪夢を少し思い返した。普段ならすぐさま脳内から追い出してしまうが、目覚める前に現れた小さな音を辿ってみる。いつからそれが聞こえて来たのかは分からない。だが、あの音がすると悪夢は終わってくれる。頭で反芻してみると弱い風のような、拙い旋律にも感じた。
 モリアの悪夢は昔から濃く強い。しかしその旋律をフゥと吹きかけられると、一時だけ脆い砂へと変わり消えてくれた。

「キシシ」

 吉兆だと思いモリアは一笑した。大してまじない等を信じている訳ではないが、とある事を後押しされる気分になったのだ。おもむろにモリアの影法師が現れ、寝室の灯りを点した。
 スリラーバークの理想が叶う、素晴らしいドクターを勧誘しに行く日はもう近くなっている。

 寝床で薄く思考を重ねていたモリアは、ふと扉の方を見た。続いて影法師が動き出し、主の視線に従い扉を開ける。そこには丁度廊下を歩く青年がいた。

「! ご主人様! おはようございます。もう起きてたんですか?」

 少し驚いた顔をして青年――アブサロムがモリアへ声をかけた。そして開かれた扉から中へ入り、扉横に佇む巨大な影にペコリと頭を下げた。両手で書類を持っているせいで、細い肩が知らずに強調されている。とても彼だけでは扉は開けられないだろう。

「あぁ、最高の悪夢を見て目覚めが良いんだ。お前が持ってんのは、この間の買い出しの帳簿だろ。丁度良い、おれが寝てる間何か変わったことは無かったか言ってくれ」

 モリアはヒラヒラと手をかざしてアブサロムを促した。軽い仕草だが従順な青年は手元の書類を物色し始める。すると細い指から紙が溢れそうになり、アブサロムが慌てた表情をした。買い出しにしても現状のスリラーバークは人手が足りない。モリアは華奢な部下を見つめながら自分専用の小間使いが要るなと心に留めた。

「あぁ、すいません。もたついちまって……えぇっとですね、買い出しは予定通り、無事に達成してます。ただペローナが急に追加の注文をしました」
「ふぅん、どんな注文だ?」

 伏し目がちにモリアは質問した。ペローナの気まぐれなわがままは今に始まった事でもないので、物のついでに訊いただけである。アブサロムも特に気にせず手中の書類を捲った。

「ハーブですね。ローズマリー、セージ……マ、マグワート? って読むのかコレ? あとはラベンダー……
「オイオイ、なんか地味なもん注文してるな。ついこの間アイツの庭に薔薇を植えてやったのに」

 ぼぅっと聞いていたモリアは一転して片眉を上げ、怪訝そうな顔をして尋ねた。真っ赤な薔薇に喜んでいた先日の娘とはチグハグに感じる。不可解なことはアブサロムも全く一緒で、口をへの字にして主張した。

「アイツ最近だと書庫で熱心に魔術の本を読んでましたけど……なんか呪い? とかやりたいんですかね。おいらそういうのは全然わかんないけど」
「魔術か……まぁアイツらしいっちゃ、らしいがな……

 ゴーストプリンセスと自称するペローナは、その名から外れず怪奇な事が好きだ。加えて少女らしい素直な好奇心も持っている。モリアがドクターを勧誘すると知らせたときには、小さな頭を傾げて真ん丸の目で聴いていた。つまり、娘の好奇心が聞き慣れないドクターというので刺激され、医術が転じて新しい学問の魔術に興味が湧いたのかもしれない。モリアも昔に少しだけ魔術をかじった事がある。書庫の本たちはその名残だ。
 わずかな合間にモリアの脳内では安直な考えが繰り出された。それでいて中々的を射ているように感じ、モリアはその他愛なさに脱力しながら笑った。昔の彼がそうだったように、今熱を上げているペローナもすぐに魔術は無意味だと思うに違いないとも察した。眼下にいるアブサロムは吊られて訳も知らずに笑う。

 まだ見ぬドクターとお勉強に夢中な娘と魔術のハーブ。これらがモリアの頭の中で不思議に回り出す。取り留めのない思考で始まる一日も悪くない。緩く起きた頭でそう思えば、モリアは段々と穏やかな気持ちになっていく気がした。


 ※


 霧の濃さで日の光が少ないスリラーバークにも夜は訪れる。モリアともなると、外を見ずに体感で何となく分かる。日常を終えて寝室で寝転がっていると、夜の静けさがしっとりと部屋中に降りてくる気配があった。モリアはそれらに身を任せるままにして目を閉じた。いつも通りの就寝だ。
 眠りに入ろうとするとモリアの身体はわずかに強ばった。悪夢を反射的に拒む意識がそうさせる。すると、その瞬間にあの音が頭に流れた。小さなか弱い音が、強ばる神経を無でていく。身体からは自然と力が抜けていった。心地の良い微睡まどろみに包まれ始め、モリアの意識は宙に抜けていくようだった。

 ゆっくりと意識が揺蕩たゆたい閉じられた瞼の裏で、ぼんやりした暗闇が映る。次第にそれはスクリーンになってモリアの寝室が映し出された。オブジェや人形で飾られて、色んな影が落ちて満たされた部屋。そこへ小さな音が歌のように流れる。音はいつもの夢の終わりで聞くよりも鮮明に感じた。微睡みから本当の眠りに入る境目で、モリアは無意識に音を辿っていった。

 清水に似た音。鮮明な今だと小鳥のような、小さな子どもの歌声のように聞こえる。歌は柔らかく影を溶かして滑っていき、床の隅まで広がっていく。モリアの意識は歌と一緒に寝室を追う。家具をすり抜けて、じんわりと照らされた先に、何かがある。寝室の隅に褐色のものが落ちている。小さな子どもの歌う歌が、小さな娘の歌う歌が、それを見つけた。それは、朽ちた魔除けのハーブだ。

 静かに眠りゆく筈だったモリアが瞬時に跳ね起きた。夢うつつの意識が浚ってきたハーブ。それを見た途端に、頭が雷に打たれたような衝撃で覚醒した。心臓がトクトクと鳴り響き、モリアの見開かれた両目は部屋の一角を見つめた。ガラクタが置かれて隠れた隅に、それがある。モリアはふらりと立ち上がるとそこへ近づいた。カサついて全て褐色になったハーブは数種類を束ねて出来ている。ローズマリー、セージ、マグワート、ラベンダー。全て、魔除けのハーブ。モリアが集めたものだ。

 巨大で強い悪夢はモリアだけのもので、モリアの矜恃を反映する。エゴが過ぎるそれを誰かに告げる気は一切しない。だが悪夢というのは姿かたちが無いのに、モリアの事を確実に襲う。様々な隙間から悪夢が這い寄ってくる錯覚の起きる時もあった。その度に、モリアは寝室を飾りで満たした。悪夢が来ないように、空虚な心を癒すために。
 人形を作って機械を作ってオブジェを作って、天井や床を埋めつくす。その甲斐もなく悪夢はいつでも気まぐれにやって来た。藁にも縋る思いで魔術の本も読んだ。しかしその結果は、床で枯れ棄てられたハーブが全てである。

 呆然としながらも頭の冴えきったモリアは寝室をぐるりと見回した。記憶の底で埋葬された魔除けのハーブを目の当たりにして、それを掬い上げた歌の正体が分かりだす。ゴーストのしっぽが見えないかと思ったが辺りに姿は無い。モリアは歩き寝室から出た。歩調は確信を持った大股で、ペローナの庭へ向かった。


 霧と夜の闇に包まれたペローナの庭は、辺りの輪郭がぼやけて全てが霞みの中にあった。モリアが足を踏み入れると、小さな歌が聞こえてきた。娘が歌うその声を頼りにモリアは進んだ。程なくすると、庭の片隅に小さな桃色の頭を見つけた。ペローナは背後から来たモリアに気づかず歌い続けている。娘の弱い喉からはたどたどしい旋律が生まれて、手にはハーブを持って庭の土へ植えている。モリアは静かに一歩近づいた。

……ゴーストプリンセスが魔除けのハーブとは、可笑しい取り合わせだな?」

 モリアの声を聞いたペローナの身体は一瞬大きくビクつき、歌声はブツ切りに終わった。次いで肩をすくめて恐る恐る後ろを振り返り、丸い瞳で巨大な主人をじっと見た。叱られるのを待つ子犬みたいな表情で、口元を気まずそうに噤んでいる。
 モリアは何も弁明しない娘を見て、自分の確信を更に濃くした。そして探りを入れたくなった。ペローナは、いつから悪夢にうなされるモリアに気づいたのだろうか。

「お前、おれの部屋に……
「い、行ってないよ!」
そうか? 嘘っぽく聞こえるが」
……行ってないもん。私、なんにも知らない」

 モリアは喋りながらペローナに近づき、傍へ座った。それでも娘の顔は小石くらいにしか見えない。モリアを見上げる目が泳いでいたが、口元は曲げない意志を表して少し尖っていた。
 あからさまな潔白を主張する態度。それが確信を裏打ちする。あの音は、最初からペローナが歌っていた歌なのだとモリアは理解した。彼の寝室の下にはペローナの部屋がある。そのせいで度々ペローナは能力を使いモリアの元へ甘えに来る事があった。
 寝室には来るなと、主人として、親として、色んな意味を込めて忠告していた。けれど幼いペローナは躊躇いなくゴーストになり、部屋をすり抜け悪夢を見るモリアを間近で知ったのだ。

 いつもおしゃべりで明るいペローナが今はむっつりと沈黙を保つ。見上げていた顔を少し伏せて、手元のハーブをじっと見ている。単に忠告を破った罪悪感だけでここまで頑なにはならない。ペローナは素直な少女だ。モリアはよく知っている。重く引き結んだ口元には却って複雑な表情があり、一種の強さが宿っていた。何かを守ろうとする、娘が見たモリアの孤独を守ろうとする強い意志に見えた。
 モリアは自然と眉尻を下げた。思いがけない娘の気遣いに頭がぼぅっと痺れる。そして長い腕が徐に娘へと動き、指が柔らかい頬へ触れた。ペローナが仄かに瞳を揺らしてモリアを見上げた。モリアは指の背でゆっくり娘の頬を撫でる。そうすると強ばっていたペローナの表情が徐々にほぐれていく。撫でているモリアも似たような心地を覚えた。
 寝室で苦しむモリアを見たペローナも、こういう感情の元で歌わずにはいられなかったのだろう。モリアは自分の指から伝わる温かくて脆い感情を、頭の片隅で捉えた。

……もうじきに夜も深くなる。ここらへんで土いじるのはお終いだ。ほら、部屋に戻るぞ」
「うん……

 モリアは努めて冷静な声色でペローナへ言葉を投げた。ペローナはハーブをそっと地面に置いた。娘を撫でていたモリアの指は静かに掴む動作に移る。小さな体を慎重に掴んで自分の肩へ乗せた。ペローナはずっと大人しく運ばれるままで、モリアの肩へ座ると彼の襟元をギュッと掴んだ。

「ごめんなさい、モリア様」

 ペローナがぽつりと呟いた。庭を離れようと歩き出したモリアは、視線をさり気なく肩の娘へ向けた。歩調がなるべく振動が起きないようにと、緩やかになる。

……おれの部屋で、アレは見たか?」
「? なに? アレって」

 ペローナはモリアの問いかけに素直な声で答えた。重みがすっかり消えた少女の高い声色は、透き通るような真実味で響いた。それを聞いてモリアはまた理解した。ペローナはたった一人で魔除けのハーブに行き着いたのだ。きっと、何度もモリアの悪夢について悩んで考えながら。
 モリアは胸の内へ知らずに溜まる感慨を、ふぅ、とため息にして散らせた。肩ではペローナが不思議そうに見上げている。血は繋がっていないのに、同じような事をする娘にモリアの胸は何かで満ちていく。『繊細になった』と、自分に向けてなのかペローナに向けてなのか、よく分からない気持ちが湧いた。

……あぁ。そういやァ、アレも魔除けになるのは知ってたか?」
「え、アレって……あのお花?」
「そうだ。あのちっせぇ、ピンクの花」

 二人が通りかかった隅に項垂れた花弁を持つ花が咲いていた。モリアはそれを指さし、はっきりとデタラメを告げた。ペローナは鵜呑みにして信じたらしく、へぇと関心した相づちを打った。
 丸みをもった小さなピンクの花。何となく、ペローナに似ていると思ったらモリアはくだらない嘘を吐いていた。先程から湧く妙な気持ちが口を緩ませて溢れたみたいだった。そんな男の肩にいる娘はいずれにせよ無邪気だ。いつの間にか眠くなったらしく、頭がコクリ、コクリと揺れ始めている。
 モリアは落ちそうな娘をそっと手で支えると歩みを進めた。夜はまだ明けそうにない。庭とスリラーバークを包む白い霧がほんの少し晴れ始めて、青く暗い夜空と掛け合いにじむ。モリアは柔らかく霞んだその闇に溶けながら、自分たちの部屋へ帰っていった。




 ――その後のスリラーバークは、モリアの思案通りに待望のドクターを迎え入れる事が出来た。そしてゾンビを造る事が始まり、少し足早に過ぎていく日常が多くなった。モリアは死者の王になって、他の皆は怪人の称号を貰って夜討ちも始まり、スリラーバークは理想の地になった。

 ペローナのあの歌はいつの間にか消えた。けれど、モリアの寝室には新しいものがひっそりと増えた。隅の目立たない場所で、魔除けのハーブと小さなピンクの花がある。それらはいつでも瑞々しくて、時々摘みたての土が残っていたり、束ねるリボンの色が変わっていたりもする。

 モリアは今もこれからもずっと一人で眠りに落ちて行く。ただ、悪夢を見る頻度は以前よりも格段に減っていた。