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もち粉
2025-10-25 13:28:52
2857文字
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トマト煮込みにできること
カブミス
ふたりの食卓
1. 君に栄養をとらすこと
「ミスルンさん、少し痩せましたね」
夕暮れの玄関先、迷宮から戻った彼の姿を見た瞬間、カブルーの口から「おかえり」よりも先にこぼれた言葉だった。
「ちゃんと食べて寝てくださいって、いつも言ってるはずなんですが」
軽くため息をつき、片手で荷物をひょいと取り上げる。もう片方の手で、そっとミスルンの腕を引いた。
「
……
ちゃんと食べてた」
言い張りながらも、台所から漂う香りに気づいたのか、足が止まる。
「お前が作ったのか?」
「温めるだけでしたけど、こぼさないように運ぶのは頑張りました」
カブルーは楽しそうに笑い、鍋のふちから立ちのぼる湯気をよけながら、ワタリガニのトマト煮込みを皿に注いだ。
「お昼に市場で食べたら、すごく美味しくて。今日帰ってくるあなたにも絶対食べさせたいと思って
――
家まで走って鍋を持って買いに行きました」
ふたりは向かい合って座り、皿にそっと匙を入れる。
「
……
カニ味だな。前にもあった」
ひと口食べ、懐かしむようにミスルンが目を細めた。
「迷宮の中で、ね。あのときは
――
」
「バロメッツだな」
ふたりは同時にそう言って、顔を見合わせて笑う。羊のようなあの奇妙な植物(カブルーの中では植物である)でシチューを作ったら、なぜかカニの味がしたのだ。
「あの時は驚いた。知識は経験にしかずだな」
「俺もです。子供の頃の記憶だよりで作ったんですが
……
まさかのカニ味でしたね」
あの時、迷宮をエルフの手に渡さぬよう、彼を道連れに深層へと落ちた。
命を懸けた選択の先にあったのは、奇妙で、忘れがたい六日間の共同生活だった。
今は、こんなにも穏やかに迷宮帰りの彼を迎え、食卓を共に囲んでいる。
あの時は、ただ生き延びるためだけに
――
それでも彼に少しでもうまいものを食べてほしくて作った鍋だった。
今はただ、同じ家に帰れることが嬉しくて、同じ鍋を囲んでいる。
「おかえりなさい」
---
2. 君のごきげんを取ること
カブルーは、帰ってくるなり椅子に深く腰を下ろしてため息をついた。眉間の皺は固く、声もない。
どうやら今日も遅くまで、例の騒動の後始末に追われていたらしい。
同じ派閥の大臣が記者会見でオークを侮辱する発言をし、世間からの激しい非難を浴びている。
大臣の自業自得とはいえ、家に帰ってまで、ピリピリと緊張の抜けないカブルーを見るたび、ミスルンは言いようのないもどかしさを覚えた。
ミスルンは静かに台所に立つと、つやつやと輝く真っ赤なトマトに、ストンと包丁を落とした。
やがて、ふわりと漂ってきたさわやかな香りに顔を上げたカブルーの前に、コトリと温かいトマトリゾットが置かれた。
「
……
これ、今作ったんですか?」
お互い料理は得意ではないから、食事はもっぱら外食だ。ミスルンがたまに蕎麦を打つくらいで、この家の台所が使われるのは、まれなことだった。
「うん。先日センシに会ったので、深夜でも食べやすいものはないかと聞いてきた」
一匙すくって口に運ぶと、爽やかなトマトの酸味と、チーズのまろやかなコクが、舌の上にじんわりと広がった。こくりと飲み下すと、温もりが喉を滑り落ち、胃の腑に染み込んでいく。体の芯が温まるにつれて、強張っていた気持ちが少しずつ解けていった。
「これが食べられたんだから、今日も悪い日じゃなかった気がします」
赤いリゾットから立ちのぼる湯気の向こうで、カブルーの顔に少しだけ柔らかな色が戻る。ミスルンは黙って手を伸ばすと、くしゃりと彼の髪をなでてやった。
「おつかれさま」
---
3. 君の記憶を呼び覚ますこと
その日は、カブルーの誕生日だった。
朝一番にお祝いの言葉をもらって、夕飯を楽しみにしておけと予告されていた。
期待を胸にドアを開けると、香りが出迎えた。
トマトリゾットを作ってくれた日以来、ミスルンはちょくちょくと蕎麦以外の料理にも挑戦するようになっていた。
その様子に感化されたカブルーは、半月前のミスルンの誕生日にケーキを焼こうとしたが、結果は散々だった。だが、ミスルンは生焼けのケーキを顔色ひとつ変えずに完食し、「来年も作ってくれ」と言ったのだった。
そのミスルンが、今、台所にこもっている。ふつふつと鍋の煮える音が、部屋の奥から伝わってくる。
部屋に広がる香りを嗅いだ瞬間、カブルーの胸の奥がざわめいた。ラム肉とトマト、そして独特の香草の匂い。
「
……
これ、ウタヤの
……
」
喉の奥が熱くなり、言葉がそこで止まった。
香りに導かれるように、母の歌声や夕暮れの食卓、湯気越しの笑顔が、鮮やかに胸の中へ押し寄せた。
――
失われた故郷の記憶だった。
「よく
……
調べましたね、どうやって
……
」
「この香草、取り寄せるのに少し苦労した。だが
……
お前のその顔を見れば甲斐はあったな」
言葉は出なかった。ただ、最後の一匙まで、丁寧に、ゆっくりと味わった。
母と暮らしたあの家はもうない。
けれど、この台所と、向かいに座る彼は、確かにここにある。
今はただ、それが嬉しかった。
「おめでとう」
---
4. 君と思い出を作ること
穏やかな午後、窓から差し込む光の中、ふたりは並んで台所に立ち、一つの鍋に向かっていた。
「野菜は、ごろっと大きめに?」
まな板の上をにらみながら尋ねたカブルーに、ミスルンがジャガイモを剥きながら答える。
「いや、玉ねぎとセロリは小さく均一に。鶏肉は大きめに
――
いや、もう少し小さく」
あまりにも大きく鶏肉を切ったカブルーに、ミスルンが手を止めず、軽く肩をぶつけてくる。
「この少しだけ残ってるワイン、入れますか?」
カブルーが瓶を傾けながら尋ねる。
「隣の奥方に聞いたのだが、はちみつを入れてもいいらしい」
ミスルンが、鍋でカブルーの切った大きめの鶏肉を炒めながら、ふと笑う。
鍋から立ちのぼる香りは、毎回ほんの少しずつ違う。
けれど、それはたしかに、ふたりで作る「わが家の味」だった。
「あなたとこうして並んで料理をするのも、何度目でしょうね」
「まだ足りないな。何度でも、いつまでも作りたい
――
塩を取ってくれ」
「はい。
……
あ、黒胡椒も足していいですか?」
「いいが、入れすぎるなよ」
ミスルンが小皿に取ったトマト煮込みをひと口味見し、静かに頷く。
その仕草を見て、カブルーの口元がわずかに緩んだ。
自分にも差し出された小皿を味見する。
湯気の向こうで、窓からの光がミスルンの横顔をやわらかく照らしていた。
鍋がことことと軽やかに鳴っている。
その湯気に包まれながら、ふたりは穏やかに微笑みあった。
「いただきます」
この香りを、いつまでもふたりで囲めますように。
そして、自分がもういなくなった遠い未来にも、この温もりがミスルンの心をあたため続けてくれますように
――
カブルーは、密かにそう願った。
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