香ばしくて、甘くて、とにかくこの世のものとは思えないほどのいい匂いがした。たまらず目を開け、空腹を訴える腹をさすりながら起き上がる。
「さあ荒船。食べよう」
テーブルの向かいには鋼が座っていた。俺が食卓につくとニコリと微笑んで、小さく両手を広げた。そこには俺の好物が……。なんだっただろうか、料理の名前がどれも思い出せないけれど、俺の好きな食べものをたくさん用意してくれていた。嬉しくなって「ありがとう」と言うと、鋼は得意げな表情でもっと大きく手を広げた。食べてくれ、ということらしい。俺は頷き、箸をとる。鋼が笑みを深くした。
「いただきます」
豪奢な皿に盛りつけられたそれに箸をつける寸前で、俺はとまった。食材の飾り切りや、たくさんの花で彩られたこの料理の名前がわからない。絵画のように美しく盛られた料理。俺はたしかにこれが好きだったような気がするが、果たして本当にそうだっただろうか。ふと違和感に襲われ、おそるおそる箸でそれをつつく。見た目はいいのにグニグニとした変な感触だった。ちらりとテーブルに目をやると、他にもたくさんの皿が並んでいた。
「荒船、食べて」
俺のために用意された料理は、俺に食べられるのを待っている。鋼もそれを望んでいる。でも俺は、
「なあ、これってなんて名前の料理だっけ?」いったん箸を置いた。
鋼がピクッと片眉を上げる。
「荒船」
「うまそうなんだけどよ、せっかく作ってくれたんだから料理の説明が聞きたいっつうか、」
「荒船。そんなことはいいからはやく食べてくれ」
ぴしゃりと鋼が言い放った。
俺は閉口した。テーブルを挟んだそちらにいる鋼のことが、なんだか怖かった。だってこんなふうに、俺の意見を黙らせるみたいに強制してくることなんて今まで一度だって無かった。せっかく作った料理を俺が食べるのを躊躇しているから怒っているだけかもしれないが、鋼の態度に戸惑いが隠せなかった。
「——が来るまえに。食べて、荒船」
(誰が来るってんだ)
そう聞き返すまえに「お願い」と猫撫で声で甘ったるく囁かれ、俺は操られるようにして皿からひと切れそれをつまむ。箸を目の高さまでのろのろと持ち上げ、ごくん、と空唾を飲んだ。俺がそれを食べるために小さく口を開けたら、鋼がとても嬉しそうに唇を歪めた。
そのとき空気がピリッと震えた。まるで見えない雷が落ちたみたいに世界が振動していた。視界がぶれてめまいに襲われ、箸を床に落としてしまう。俺は額を押さえ、「う……」と呻いた。脳みそに何かが直接干渉してくる感覚にしばらくそうしていたら、鋼が音もなく俺のそばに立ち尽くしていた。
鋼は床に落ちてしまった料理を凝視していたかと思うと、虚ろな眼差しで俺のほうを見た。
「はやく食べて、食べて荒船。——が来てしまう」
「だから、さっきからなに言ってんだよ……っ、うわ!」
背中が固い床にぶつかり、一瞬息ができなくなった。
「くそ! なにしやがる!」
床に押し倒された俺はのしかかってくる鋼を在らん限りの力で跳ね除けようとした。いつの間にか素っ裸になっていたのにも驚いたし、なによりうっすら感じていた恐怖が確実なものになっていたから、必死でもがいた。しかしびくともしない。いくつもの見えない手が俺の体の自由を奪っているかのようだった。同じように一糸纏わぬ姿の鋼に頬を撫でられ、顎を掴まれる。わずかに開いた唇の隙間から指が侵入してきて、強引に口をこじ開けられた。
「あ、ぇ」
頬の内側に触れてくる指の冷たさに、ゾッと鳥肌が立った。夜の墓場のように冷たい手だった。鋼——いや、そいつはもう片方の手をテーブルへ伸ばし、料理をぐちゃりと掴んだかと思うと俺に差し出してきた。
「おれ、荒船とひとつになりたい。だから食べて」
「いや、だ……!」
そいつのことを睨みつける。皿に盛られていたときにはうまそうに感じたそれが、今は恐ろしくてたまらない。絶対に食べたくない。拒絶されたそいつは小首を傾げると、俺の目を覗き込んで、残忍に笑った。
「きれいな目」
おぞましいくらいの執着を孕んだ瞳に射竦められて、全身が震えだす。
「あ、ぐ……! いっ……ッ」
口から手が離れていき安堵としたのも束の間、ズブズブとそいつの指先が腹のなかに入ってきた。物理的に腹を破られたわけではないのに、そいつの指が皮膚を透過して腹部に沈んでいた。
「あ、あ、」
痛みはなかった。けれど臓器を直にまさぐられているような気持ち悪さと、ほんの少しの気持ちよさに俺は喘いだ。変だ、おかしい、このままじゃダメになってしまう。初めての感覚に涙をこぼせば、そいつはやっぱり青白い顔のまま口の端をつりあげ、「食べて」と呪いみたいに囁いた。苦しさに開きっぱなしになった俺の口へ、あの料理が運ばれてくる。俺は鋼のガワをかぶったそいつを、滲む視界で精一杯睨んだ。
鋼は、こんなことしない。強くて、たまに抜けてて、俺を見つけると心底嬉しそうに駆け寄ってくるようなやつなのに、その鋼の見た目でひどいことをしてくるのに腹が立っていた。今すぐ優しいあいつに会いたかった。
「こ、う」
『荒船』
俺の名前を力強く呼ぶ声が聴こえて、意識が空に向かってグイッと引っ張られた。
「荒船。起きてくれ」
まぶたを開けると、俺は鋼に見下ろされていた。
「大丈夫か」
と続けて訊かれ、何も考えずに頷く。鋼が俺の上からどくと部屋の明かりが目に入って眩しかった。わずかに濡れた目元を拭い、仰向けに寝たまま大きく息を吸った。すると食欲をそそる香りが鼻をくすぐったので、匂いの出どころを探す。鋼の部屋の中心にある折りたたみの小さなテーブルには、宅配ピザの箱が乗っていた。
鈴鳴支部に遊びにきて、腹が減ったからとピザを注文したところまでは覚えているが、時間が一瞬で飛んでしまったかのようにそこからの記憶がない。
「わりぃ。本気で寝るつもりじゃなかったんだが」
「いいんだ」
状況から判断するに、俺はピザが届くまでのあいだに寝てしまっていたらしい。部屋の主人のベッドで寝落ちしていたことを詫び、ゆっくり上体を起こす。すると、つきん、とこめかみに痛みが走った。寝起きで体温が低くなっていたせいか寒気にも襲われ、服のうえから腕をさすってみる。頭も肩も重く、風邪のひきはじめのような症状に思わず眉根が寄った。
鋼が、俺の肩にそっと触れてくる。鋼の手は服越しなのに熱いくらい温かかった。カイロを押し当てられているような不思議な心地よさに浸っていると、手が差し伸べられた。
「オレこそ、遅くなってすまなかった」
なぜか謝ってくる鋼の手を掴み、立ち上がった。少し低い位置にある鋼の目が心配げに俺を見ていて、なんとなく見つめ返しているうちにさっきまでの悪寒や肩こりが嘘のように消えていることに気づく。
嫌な夢をみたせいで調子が悪かったのかもしれない。内容ははっきり思い出せないが、それでも夢が現実に追いついてくるような不気味な夢だったことだけは覚えている。起こしてもらえなかったら夢のなかの俺はどんな結末を迎えていただろう。本気でそう思うくらいには夢見が悪かった。だけど鋼の顔を見たら、ほっとした。ほっとしたら腹が減った。はやく鋼とちゃんとしたメシが食いたかった。
「ピザの配達、そんなに遅かったのか? つかそれは鋼のせいじゃねーだろ」
「そうなんだけど……そっちじゃないっていうか……」
喋りながら、ふたりでテーブルを囲んで座る。水蒸気で濡れるビニール袋から取り出したピザの箱は充分に熱かった。何時に注文したかは覚えていないが、まだ夕飯時といっていい時間だし、鋼がピザを作っていたわけでもないのだから遅くなって悪いと謝罪される理由がない。それなのに鋼は浮かない顔のままだった。変なやつ、と思いながら平べったい箱の蓋を開ける。チーズや肉のジャンクな香りが部屋いっぱいに充満した。腹が減っていた俺は、付属のお手拭きでサッと手を拭き、照り焼きチキンが乗ったピザにかぶりついた。
「うっまい」
もぐもぐと口を動かす俺を見て、鋼もサイドメニューの箱を開けた。
「うまいな」
鋼がようやく顔を綻ばせた。
「荒船、これも食うだろ?」
「おう。何味だ?」
「チーズ味。……ほら」
そう言って、ほどよくケチャップをつけたナゲットを差し出してくれる。俺は食べかけのピザを持っていたので、そのまま鋼の指ギリギリのところに食いつくことにした。
「うまい」
ぴく、と驚いたように揺れた指からナゲットを無理やり貰う。いつものハンバーガーショップで食べるのもいいけど、ピザ屋のも衣がサクッとしていておいしかった。俺は唇についたケチャップを舌でぺろりと舐めとり、一緒に注文していたウーロン茶で流し込んだ。
「…………荒船って、やっぱりすごくモテるよな」
鋼が深々とため息をついた。
「……なんだよ急に。耳がはえーじゃねえか」
唐突な話題に面を食らう。モテる、というのは同意しかねるが一昨日の放課後に隣のクラスの女子に告白されたのは事実だ。好きになってくれたのはありがたかったが、その子と付き合うつもりはなかったのでその場で断った。それだけの話だ。穂刈にも話していないのにもう鋼にまで話がまわっているのかと心の中でため息をつく。まあ、どうせ情報源は犬飼だろう。あとでシメよう、と考えていると、察したのか鋼が慌てたように言った。
「鋼くんだけに教えちゃう、って言ってたから、言いふらしてはないと思う。安心してくれ」
「むしろなんでおまえだけに言うんだよ」
「さあ……?」
微妙にフォローになっていないフォローをした鋼も、犬飼の謎の報告に首をかしげた。
「とにかく、そうじゃなくても荒船は女とか男とか関係なく色々とモテるから……心配になるって話だ」
「はあ?」
鋼は再びナゲットをひとつ取った。そしてケチャップをたっぷりつけたそれを俺の口に突きつけた。
「荒船。お菓子とか貰っても絶対についていっちゃダメだからな」
「馬鹿にしてんのか? ガキじゃねえんだぞ」
ハロウィンに浮かれる幼稚園児でも、簡単に連れ去られるようなか弱い女子でもない俺にその心配は無用だろう。
最近のこいつは妙に心配性だ。暗がりで独りになるなだとか、体調は悪くないかとすぐに聞いてくる。たしかに近頃は疲れやすいが、鋼といるとそれが癒やされる気がするので問題はないというのに。
そういえばあの夢のなかで鋼に助けられた気がして、つい「おまえ、俺の夢に出てきたか?」と口に出してしまいそうになった。どうせなら助けてくれたのが鋼だったらいいなんて、非現実的な発想だ。そのメルヘンな発想を誤魔化すように、俺はまた鋼の指から直接口を使ってナゲットを奪ってやった。なんとも言えない表情の鋼は真っ赤なケチャップが付着した指先を見つめたあと、「心配だ……」と大きくため息をついた。
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