モリンは紅梅御殿のある部屋を尋ねていた。もうすぐ夜9時になろうかという時分で、外はとっぷり暮れて、提灯の明かりが遠くに見える。手には菓子処しののめの本煉羊羹。尋ねた部屋主への手土産だ。
普通ならば尋ねるには遅い時刻も手土産も、部屋主は昼夜逆転した生活をしており、甘いものが好きらしい、とシュガから聞きだしたからだった。芸者などをやっていれば、昼夜逆転はむしろありがたく、クガネの著名な菓子処はまず知っている。これは幸いと常連でもなければ手に入りにくい逸品を仕入れてやってきたのだ。何せ今回の用事は謝礼+αである。失礼があってはいけないし、物に不足があってはいけない。
「御免くださーい」
「……はい?」
とんとん、扉を控えめに叩けば、ややして中から部屋の主が顔を出した。いつか遠目に見た通り、優しげな顔のエレゼンだ。
「夜遅くに悪いね。ナイトくんのことでちょっと話したくてさ。時間くれない?」
分かりやすいよう礼の品を掲げると、エレゼンは少し目線を下げ考え込むようにし、すぐにああ、と納得したように頷いた。彼の手によって、ぎいと扉が大きく開かれる。
「狭い部屋ですが、よければどうぞ」
さて、今回の真の用事は謝礼以外にある。先だってのシュガの早寝騒動は、モリンにとって愉快な出来事ではあった(久しぶりに声も出ないほどになった相手を散々に弄ぶことができたので)。しかし、ただそれだけで処方したという相手にお礼をするほどのことではない。ただの口実だ。
しかし、シュガが頼り、あっさり眠りに落ちてしまえるような薬を処方したという人間には興味がわいた。何せ薬と芸者は切っても切り離せない。滑りを良くする通和散などはその最たるものである。性欲の亢進剤も、肌つやを良くする化粧品も、また薬だ。そういった物を知り、処方できる知り合いはいればいるほど越したことはない。何せ順番にツケて回れる。最近金欠気味なのでちょうどいい。
そこでナイトの青年に寝屋で聞いてみれば、いつだったか街で見た二人組の片割れだという。さらに、自分たちの関係を知っていて興味を抱いているときた。おやおや、これは重畳だ、とモリンは思った。好色ならばきっと『仲良く』できるだろう。その代わりに薬をもらえれば御の字、そうでなくとも物わかりの良い知り合いが増えるのはよいことだ。
お礼の品を受け取ったエレゼンは、それをキッチンにしまうと言って持っていき、代わりにティーポットとカップを持ってきた。照明の抑えられた部屋の中、丁寧な所作で茶が注がれ、よい香りがふわりと広がる。
「……あなたとお話するのは初めてですね。はじめまして、俺はアラン。しがない冒険者ですが、まあ、医者の真似事のようなものもしています」
あなたは、と手で示されて自己紹介をする。名前、芸事をして生きていること、シュガの『お友達』であること。その他、適当な最近の世間話。テーブルの向こう側のアランは微笑みながら、折り目正しい返答を返す。なるほど、少なくともまともそうな人間ではあるらしいと遊び人は思った。だがそういう人間こそ、抑圧された諸々があることを、職業柄よく知っている。
あざ笑いを浮かべたいのを必死に堪える。すました顔をして、けれど爛れた関係に興味津々なのでしょう? それを早くさらけ出してしまえ。
しばしの会話の後、アランは一つ頷いた。
「……私たちは友人の友人だ。よければざっくばらんにお話ししましょう。――今日は何のご用事で?」
来た、とモリンは思った。外行きのコミュニケーションはもうお望みでないらしい。そうして、それはこちらにも好都合だ。
ティーカップを置き、遊び人はそっと目を伏せる。客に最も美しいと褒めそやされる角度で微笑む。
「んー? あんたは俺ちゃんとナイト君の関係が気になってるって聞いてさ」
立ち上がり、座るアランの肩を借りるようにしな垂れかかり、彼の投げ出された左手にそっと同じものを重ねる。手袋ごしの体温がじわりと手に伝わる。そうして耳元で囁く。
「よかったら教えてやろうかと思って、」
来たんだ、とひそやかに耳に吹き込む。
好色な男であれば、間違いなく意図を汲める。分かるように吊るされた餌に、しかし抵抗できる人間はさほど多くない。遊び人には、それほど多くの人間を落としてきた自負があった。
だが、医者もどきの彼は微笑んだまま、翠色の視線を僅かばかりも揺るがすことなく、静かに遊び人を見つめた。
そこには予想したような欲の紅潮も、ナイトの青年がよく見せるような驚きも、ましてこういった相手を見下す侮蔑や怒りもない。強いて言えば興味や好奇心。だがそれらというにはあまりに薄い平たく凪いだ目に、遊び人は内心たじろいだ。
モリンは自他ともに認めるプロの芸者だ。だからこそ、これまでそんな表情をされたことはないし、手練手管で相手の余裕を崩すことには自信があった。
怒れば揶揄い、驚けば擦り寄り、欲を見せれば許容し、興味や好奇心があればもっと餌をチラつかせる。目線、表情、指や脚の紅潮、僅かな体の震えさえ、芸者の手の内。こちらは服を一枚も脱がずとも、相手の心も体も丸裸にできた。
だがこの相手は何だ。何を考えているのかも分からない。よくよく顔を横から見れば、上がっていると思っていた口角の角度さえも怪しく思えてくる。
笑っている? 無表情? それとも…
そうしてしばしの沈黙の後、ようやくアランは明らかに顔を緩ませ、ふふ、と笑った。
「ふ、あはは……いやすまない、これがシュガを落とした人物のやり口か、と思って、あはは」
アランはツボに入ったのか、くつくつと手で口を隠して笑う。その笑い声に我に返り、モリンは弾かれたように彼から離れた。
今更分かった。この人物は今の今まで一度たりとも笑っていなかった。これまでのそれはただ、そう思わせていただけ。
「……いや、勘違いをさせてしまったようで申し訳ない。まず、俺は確かにシュガと君の関係に興味はあるが、別に同じような関係を結びたいわけでもないし、出歯亀したいわけでもない。応援する気もないが、止める気もない。まあ、何かあった時それを教えてくれるならとても嬉しいが、それくらいだ」
今回のことは、と彼は指を顔の前で合わせる。ただシュガがとても困っているようだったから、相談に乗っただけだよ。
「君が何を考えてここに来て、何を求めて先ほどのような接触をしたのかは分からないが、何か要求があるのならまず言ってくれ。ある程度の対価と、こちらのリスクとリターンを考えた上で引き受けよう」
冒険者だから無料ではダメだ、と医師もどきでもある彼は言いながら、人差し指を立てる。
「ああ、それからもう一つ。俺は肉体的にも精神的にも不能だ。だから、そういったアプローチは別の人にするといい」
ではそういうことで。その言葉を最後に、モリンはぎいばたんと閉まる扉を背にした。そうしてげんなりした。
どう考えても、ここに来るべきではなかった。あれはとても、相性の悪い人間だ。
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