本当にごく稀にだが、老けたヒノミヤは僕を抱き締めてしばらく動かないことがあった。
決まって寝入るときか、起きたとき。僕の身を肌寒さが包んだ朝や、ものすごく体を貪り合う直前の夜とか。抱き締められている時間がどのくらいかは数えたことはないけれど、五分か十分か、どちらにせよ僕にとっては非常に長い時間だ。特に睦言を囁いたり、泣き言を喚く訳でもないので好きなようにさせている。決まって僕が抱き締め返すと気がつくようで、目元に皺を寄せて笑って離れていくのだ。だから最近の僕は両腕をだらりと下げて、抱き締められるがままにしている。
僕もこうして、夢だけを掻き抱いていたいときがあった。覚えがあるのだ、このヒノミヤの奇行には。
だから今朝も、背中から抱き着いてきてしばらく動かなくなってしまったヒノミヤを放っておいていた。こうして数年、数万年過ぎてふたりで岩になってしまいそうなくらい動かない体だったが、肌や気配が色濃い生命を帯びている。熱い、暑苦しい、うっとうしい。それでも好きなようにさせている僕は、大概ほだされまくっているのだと思う。
(僕がこうして動きたくないときは、決まって女王のことを考えてたときだ)
彼女に会いたいから、あのとき視た風景を繰り返し、繰り返し思い描いてきた。生き残ってしまった自分ができることをしながらも、挫けそうになったときには彼女が傍にいた。あの思い出を抱き締めていなければ辿り着けなかった景色が、今はある。
世界の終わりを待つヒノミヤにも、膝を折りそうな瞬間があって、きっとそれは今なのだ。そして自分にとっての女王が、この世界の僕だった。ヒノミヤの幸福であったところは、僕という実体があることだろうか。
両腕を拘束するような形で抱き締められ、単調な呼吸が聞こえる。首筋に埋まるヒノミヤの髪がくすぐったかったが、目を閉じてやり過ごした。やがて耳の裏あたりに唇を寄せられて、音を立てて口付けられる。
「しばらくさ」
「うん?」
「ここで過ごさないか? 丁度いいなと思ってて」
ただ硬く抱き締めていただけの腕がゆるまって、学生服のボタンを上から下へとなぞっていく。ここで、と僕は先ほど抜け出した寝床と、宿泊に決め込んだ空き家を見渡した。ジープを走らせて夜中、辿り着いた放棄地区は戦闘の痕跡が比較的少ない場所だったらしい。とにかく夜を安全に過ごせればと屋根と扉のある家に転がり込んで、木組みだけになったベッドに使い古した寝袋を広げ、疲れた体を横たえたのだ。
日が昇り明るくなった屋内は、埃っぽさはあったが男二人が暮らすには十分すぎる物件だ。窓ガラスはヒビが入っていたが割れてはいないし、気になる隙間風も布で塞げばいい程度。ヒビ割れの外を見てみると、人の気配こそなかったが、文明の形はまだそこに残されていた。戦闘の予想がされて避難指示は出たものの、実際に戦闘区域にはならず放置されたのだろうということが伺える。先に起きていたらしいヒノミヤは、この辺りを散策していたに違いない。寄せられた肌から、なんとなく土埃っぽさも感じたことだし。
「しばらく移動旅だったからな。構わないよ、糧食もまだ余裕はあるし
……ここなら缶詰もまだ残っていそうだ」
「あとで探検しに行こうぜ!」
「探検ってなあ
……」
掠れていた声が段々と調子を取り戻していって、ヒノミヤは僕の肩に顎を乗せてくる。無邪気そうに笑うヒノミヤの頬を、気まぐれにつねった。
「丁度いいや、僕こないだ拾った本読みたいんだよね。探検は君ひとりで行ってこい」
「えーっ!?」
退化甚だしいこの世界において、娯楽は数限りあるばかりだ。健全なアクティビティも不健全なギャンブルも衰えて、今は芸術と称されるものが埃をかむってこの世を偲んでいる。そのなかでも書物というのは変わらない価値を保ち、僕からすれば未来のものであるそれを、僕はたびたび情報として読み集めていた。無人となった民家の本棚から数冊、拝借し、読み終わった地点に置いていく。あるいはそこに本棚があればそこに入れて、代わりに数冊また持っていくという次第だ。
ただし、ひとつ難儀なことがある。ジープに乗りながらではうかつに読書ができないという点だった。
「読んでない本が溜まりに溜まって、物理的にじゃないが気持ちが重いんだ。積ん読は柄じゃないんでな」
「
……わかりましたよ、じゃあ俺が先遣隊になりますよ
……」
ヒノミヤはリュックサックから荷物を取り出して部屋の隅にまとめると、その中からロープやナイフだけを選り分けて腰に装備する。からっぽになったリュックサックを見つけた荷物入れ用に背負って立ち上がった。
「この家がある通りだけさらってくるわ。良い子で待ってろよな」
「要らぬ世話だ。しっしっ」
「少佐はつれねーでやんの
……」
しょんぼり、という言葉を背負って出ていく姿は、成長したとて在りし日のヒノミヤのようだった。下がる耳と尻尾を幻視しながら、僕は外に停めてあるジープの荷台から一冊の本を取り寄せた。アポートで手に収まったそれは、本
――というより、人の日記だ。DIARYと金字が捺されている背表紙に惹かれ、さわりを精神感応で読んでみて、思春期の、それも超能力者の少年がつけたものだとわかって持ち出した。彼は今、一体どこで何をしているのだろうか。不幸な目に遭っていなければいいがと、気掛かりで持ってきてしまったのだ。
(まあ、心配もあったが興味も普通にあるしな。僕、人の日記とか見ても気が咎めないキャラだし)
むしろ、ショートケーキのイチゴのように楽しみにしていた部類の本なのだ。ぐっすり寝てコンディションもいいから、今日はこれを読み切ることを目標としよう。
そう思って一ページ目を捲ったのだが、背にしていた窓が強風に大きく揺れた。その風が入り込んだのだろう、隙間風が口笛のように部屋を奏でて、聞き慣れない音がした。カサカサと、乾いた紙が擦れる音だ。
ゴミでも転がったのだろうと思ったが、すぐにその音の元に気付いた。ヒノミヤがリュックを空にするために出していった荷物の山のなかに、白い紙切れのようなものが挟まっている。
「なんだあれ。レシート?」
楽しみにしていた本を一旦は寝袋の上に置いて、小山のようになった荷物から切れ端をつまむ。山を崩さないように慎重に引っ張ると、それが折りたたまれた一枚の便箋であることが分かった。しかし長い間リュックの中でもみくちゃになっていたのだろう、皺だらけで汚らしい。所々に土汚れもあるし、放置されて忘れられた紙ゴミと一緒のように見えた。ただ、折りたたまれていたところを見ると、中になにかが書かれてあることは明白である。
「
……ふぅん
……」
見知らぬ少年の日記よりも、これは大層おもしろそうだ。単なるなにかのメモだろうか。好物のレシピを書き留めているとか? それとも、こんなになるまで取っておいているのだから、誰かから貰った恋文とか? その場合、恐らくその誰かはこの世界の僕になる可能性が高いが
――なんにせよ、超能力で読み取るなんて勿体ない。どうせ紙切れ一枚だ、内容はすぐ黙読できてしまうだろう。悪いなヒノミヤ、こうしてリュックの中を整理しないのが悪いんだぜ。僕はにやけ笑いが隠せずに、折りたたまれた便箋を意気揚々と開いた。
「
――、」
開いて、身を強張らせるだなんて、あってはならないことだった。
そこに書かれていたのはたった三行。折り目と皺がいっぱいに刻まれ、柔らかくなってしまった紙の上に、ペンで走り書きされていたのは遺書だった。
丸く見開いていた目でいくつか瞬きし、戦時中のことを思い出す。早乙女隊長に言われて全員で遺書を書かされた日があり、あのときの感情はうまく思い出せないが、内容はまだ記憶のなかに刻まれていた。確か、父や母のことを書いて、これからの夢や展望について書いて、最後は「こんな良い仲間に巡り合えて幸せです」とか、そんな風に締めたのだ。
この薄っぺらい一枚の紙に書かれた内容は、あのとき読ませてもらった仲間たちのどれとも似つかないものだった。それなのに、僕はこれを遺書だとすぐに理解してしまった。
「あとはもう、自然に流れていくだけ
……か」
ヒノミヤと出会ったときに、彼がそんなことを教えてくれた。この世界は折り返しで、あとは戻っていくだけなのだと。
だからこそ、ヒノミヤも理解してしまっているのだ。いつか自分の身が、世界より先に果てることを。それは事故かもしれないし、病かもしれないし、自らの手によるものなのかもしれなかった。この字が走り書きであることや、後生大事に取っておかれていることに、僕はうかつなことに嫉妬した。あろうことか、いずれこの遺書を手にする人間がいることが許せなくなってしまったのだ。
衝動的に便箋を握り潰したくなったが、すんでで堪える。いいや、もっといい方法があるじゃないか。僕は口角を歪めた。
「ひと足さきに葬ってやるか」
空間視野を広げ、あたりをつけてテレポートを実行する。風景が歪み、僕の姿は瞬く間にその部屋から消え去った。
誰の目にも触れさせなければいいのだ。こんな手紙、僕だけに届けば十分だろうが。
■
――しばらくして空き家へ戻ってくると、リュックを膨らまして帰ってきたヒノミヤと鉢合わせるところだった。
「
……あ!? お前、本読んでるんじゃなかったのかよ!?」
どこ行ってたんだよ、とテレポートしたての僕へと詰め寄ってくる。重たげなリュックを床に降ろしてから、宙に浮かんだままだった僕を埃っぽいカーペットへ引きずりおろした。
「飽きたんだよ」
「じゃあ俺のこと探してくれてもいーじゃん!?」
「うるせーな! 僕は行きたいとこに行くんだよ!」
「お前なー、俺は一応心配して
……あれ、」
すん、と鼻を鳴らす。
「なんか、海っぽい匂いする
……? 海まで行ってきたのか?」
まあまあ遠いはずだけど、と怪訝そうに首筋に鼻を近付けるヒノミヤの額を掴んで突き返す。
「さあね。どうだろう」
「さあねって
……おい、手も濡れてるし!」
僕の右手を引き剥がすと、濡れた顔や手が海水であることに気付いたらしい。くく、と耐えられず喉から笑いがまろび出る。
確かに僕は海に行ったし、手を海に浸けた。けれどそれは磯遊びなんかじゃないってことに、ヒノミヤはいつ気付くだろうか。少なくとも、この様子じゃあ今すぐには思い当たりそうにもない。荷物の中で皺まみれになるまで忘れ去られていた遺書がなくなったことに、いつ気付くだろう。
(いや、)
(そもそも、置き忘れるくらいに僕といるのが楽しいのか)
記憶にある海で鳶が鳴く。波打つ紺碧色に沈んでいく白を思い出しては、ちょっとした優越感に浸っていた。
僕がそうして機嫌を良くしているのにも気付かず、目の前の男は小言を喚き散らかしている。僕がそんな奴のうなじに両手を伸ばしていくと、小言も徐々に小さくなっていった。
「
……とにかく、どっか行くなら一言くれよな。慌てるだろ」
「わかったわかった。キスしてやる」
「なんでそうなるんだよ!」
「したくないのか?」
「
……ごまかされないからな
……」
じゃあ、ごまかされるまでしてやろう。少しだけ背伸びをして、僕はヒノミヤに口付けた。
あの遺書も今頃は本懐を遂げていることだろう。だからこの男が生きている限りは、僕が独り占めしてやったっていいだろうさ。
■
見つけてくれた人へ。
海に放り投げておいてくれ。
底のほうに会いたい奴がいるから。
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