きなこ湯
2025-10-24 19:35:14
18348文字
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Trockenblumen.


 カネブラ、2ndEwYトキシン本編後のトキシンとヒロインの話。
 時系列は2ndですが、書き手は3rdを視聴済みのため、3rd視聴を推奨します。が、この話を書き始めたのが3rd前のため、微妙に3rdの情報と食い違う部分もあります(無茶苦茶だよ)
 捏造と拡大解釈を多分に含むため、なんでも許せる人向けです。また、人が死にます。


「俺が、お前の王子様になってあげる」

 指の間にこびりついた泥を丁寧に拭いながら、そう囁いた。


   ✢


「おはよう……ってお前、なんだか顔色悪いよ。大丈夫?」

 当然のように隣に座りながら、トキシンは遠慮なくわたしの顔を覗き込んだ。朝からずいぶんしゃっきりしている憎らしい顔を見返しながら、とりあえず大丈夫と答える。

「大丈夫……なら、いいけど。でも、何かあったらすぐ俺に言ってね」

 トキシンは釈然としない表情のまま曖昧に頷いた。
 隣に置かれた朝食の皿へちらりと目線を向ける。厚切りのシュガートーストにスクランブルエッグ、マグカップにはカフェラテ。すでに淡いミルク色をしたカフェラテに卓上の砂糖を追加しながら、トキシンは「いただきます」と丁寧に手を合わせた。
 物心ついた時から味覚は鈍感で、甘味に価値を見出すことはできないが、匂いの甘さそのものならわかる。味わったことのない甘ったるさにその匂いだけで胸やけしそうな気持ちになりながら、わたしはコップの底に残った牛乳を飲み干した。この家の食卓を任されるヨル曰く、これは鉄分摂取に最適な乳飲料とやらで、正確には牛乳ではないらしいけれど、わたしには違いがよくわからなかった。見た目と匂いは普通の牛乳と何ら変わりない。

「お前、朝ごはんもう食べたの? じゃあちょっとだけ待って。一緒に学校行こう」

 自分の皿を片付けようと立ち上がると、トキシンがそう声をかけてきた。この家に拉致されてきた初日以降、なんとなくトキシンと一緒に登校するのがお決まりの流れになっている。今さら置いて行ったところですぐに追いつかれるとわかっているので、適当に返事をしながらソファに座った。
 点けっぱなしのテレビは味気ないニュースを流している。この時間だと今日の天気予報は見逃してしまったなと思いながら、無機質なテロップのゴシック体をぼんやりと眺めた。
――✕✕市神無町で、昨夜、60代の夫婦が重軽傷を負い――犯人とみられる男は現在も逃走中――警察は強盗殺人の容疑で身元を追うと共に、〉
 ブツン、とアナウンサーの滑らかな声が途切れる。

「そろそろ学校行こう。ぼーっとしてると遅刻しちゃうよ」

 顔を上げると、身支度を終えたらしいトキシンがテレビにリモコンを向けていた。役目を終えたそれをテーブルの上に置き、代わりにわたしの鞄を差し出す。勝手に部屋に入ったのと思わず半目で訊ねると、トキシンは悪びれる様子なく「荷物を取りに入っただけだよ」と肩をすくめた。
 この男がデリカシーに欠如していることは通常運転だ。文句を諦めて素直に鞄を受け取ろうとすると、トキシンはそれをひょいと持ち上げる。

「やっぱり鞄は俺が持つよ。お前、なんだか調子悪そうだし」

 そんなことは頼んでいない。けれど、なぜだかやる気に満ちているトキシンを説得する方が面倒に思えて、とりあえず好きにさせる。
 この家から学校へ向かう通学路にもすっかり慣れてしまったな、なんて嫌なことを思いながら、緩んでいたスニーカーの紐を結び直した。



 朝は適当に誤魔化したが、身体が本調子でないことは本当だった。偏頭痛がしつこく居座り、いつまでも耳鳴りがする。けれど起き上がれないほど酷いわけではなく、単純に季節の変わり目で体力が負けているのだろう。時折身に覚えのある不調だったので、わざわざ学校を休むほどではないと判断した。
 ただ、慢性的な不調は時間が経つにつれて確実に重荷となる。三限の数学Ⅱを終えた後、偏頭痛の波はピークに達していた。

 重い足取りで廊下を歩く。窓の外に見えるのは暗い曇天ばかりだ。気分が晴れないのはきっとこのせいでもあるに違いない。ほとんどやつ当たりも同然の思考に気を取られて、曲がり角から現れた人影に反応が遅れた。

「うわっ……って、あぁなんだ、君か」

 ダウナーぎみな掠れた声に顔を上げる。不注意でぶつかったのはクレハだった。反動で二、三歩後ろによろめいたわたしに対し、特に動じた素振りは見せない。人間ではないからこその体幹か、あるいはこちらが貧弱なだけなのか。どちらも原因であるような気がする。
 ぶつかってごめん、と急いで謝る。クレハは相変わらず感情の読めない平淡な眼差しでこちらを見下ろしていた。

「別に。いきなり触られるのは無理だけど、君なら平気」

 相変わらず返事に困る言葉だ。曖昧に笑って水に流す。露骨な下心でも嫌味を感じさせない声色で話すから、どんな風に対応すればいいのかわからなくなるのがクレハだ。
 口元の裂傷を隠すためだろう、今は黒いマスクをつけている。切れ長の目元だけの印象で向き合うと、クレハは普段よりもずいぶんと大人びて見えた。色素の薄い瞳がこちらをじっと見つめ、僅かに細められる。

……ンなぁ、トキシンどこにいるか知らない?」

 思わぬ名前に少しだけ考える。それから、わたしよりも同じクラスのクレハの方が知っているはずじゃないのかと訊ねると、クレハはうんざりと肩をすくめた。

「知らない。ていうか、ぜんぜん見つからないから困ってる。教室移動なのに、学校ですら迷子ってどうなの」

 まさかと思いつつ、あのトキシンなら迷いかねない、と若干の不安が過ぎる。
 念のためスマホでチャットを送ってみるが、案の定既読はつかない。トキシンはあまりチャットやSNSを見ない方だ。
 スマホの画面を覗き込んで、クレハが「電話してみてよ」と言う。

「トキシンは優しいから、君からの電話ならすぐ出るでしょ」

 何の疑いもない言葉に面食らう。確かに、トキシンと連絡を取ろうと思った時は電話をかけた方が早い。ただ、頭に「君からの」と追加された意図がよくわからなかった。クレハに「早くして」と急かされつつ、ひとまず違和感を吞み込んで通話ボタンを押す。
 想像通りと言うべきか、トキシンには三コールで繋がった。

――もしもし? お前から電話なんて珍しいね。もしかして、何かあった?』

 用事があるのはわたしではない。マイクをスピーカーに切り替えると、隣にいたクレハが背を屈んで答える。

「トキシン。今どこにいるの」
『えっ? この声、もしかしてクレハ? なんで彼女の番号から』
「俺がこの子にかけてもらった。ンなぁ、次教室移動なんだけど。迷子?」
『いや迷子なわけないだろ、ここ学校だぞ。ちょっと図書館に用事があって……べつに迷ったわけじゃないから、すぐに向かうよ』
「ならいいけど」

 クレハは納得したように呟き、スマホのマイクから顔を離した。話は済んだようなので、もう切るねとだけ言うと、トキシンは『ああうん、わかった』と答える。

『お前も、クレハが迷惑かけてごめんね。また何かあったら、いつでも連絡してくれていいから。それじゃあ』
……やっぱりトキシン、君には優しいンなぁ」

 通話を切ると、なぜかクレハがしみじみと呟いた。確かに言葉や態度は表面上優しいかもしれないけれど、と思わず苦言を挟むと、不思議そうに首を傾げる。

「それって、君はトキシンのこと優しくないと思ってるってこと?」

 そう訊ねられるとまた困る。トキシンの振る舞いが優しくない、というわけではないだろう。けれどほんとうに優しい人なら、きっとあれほど自分勝手な言動はしないだろうし、まして必要だからといってわたしに暴力を振るったりするはずがない。

「あー……でも、君を攫ってきた時と同じ状況なら、トキシンは誰が相手でも普通に殴ったと思うけど。自分より弱い相手を選んで暴力を振るったんじゃなくて、トキシンがそうするべきだと思ってやったんじゃないの、あれ」

 それはそれで、冷静な手段としての暴力であるぶん恐ろしいのではないか。やはりトキシンは〝優しい人〟のカテゴリに当てはまらないような気がしてならないけれど、少なくともクレハの中のトキシンは〝怒らせなければ優しい〟で一貫しているのだろう。わたしがそれを否定したところで何の意味もないので、とりあえず曖昧に頷く。
 ふと点けっぱなしだったスマホの画面を見ると、休み時間も終わりかけに差し掛かっていた。

「君も移動しなくていいの」

 そう訊ねたクレハの言葉に、調子が悪いから保健室に行くつもりだと言うと、色素の薄い瞳がまるく見開かれる。

「え……体調、悪いの?」

 頭痛が少し酷いとだけ答えると、クレハは「そうなんだ」と小さく呟いた。

……じゃあ、俺もう行くけど、気を付けてね」

 やはり平淡な眼差しから感情を読み取ることは難しいが、こちらを案じてくれる声色は伝わってくる。クレハも優しいよね、と思いついたままに言うと、クレハは吐息混じりの声で薄く笑った。

「トキシンほどじゃないよ」


   ✢


 窓を開けると雨のにおいがした。雨の日は決まって頭が痛くなる。それに、大人もすぐには往診に来てくれない。だから雨の降る日は好きじゃない。

 ベッドは窓際にあって、身体を起こせば自由に開け閉めできる。身体の怠さは変わらないのになかなか寝付けなくて、とりあえず窓を開けてみたけれど、雨が降るなら閉めるべきかもしれない。ただ、最近は昼間も薄暗い部屋で横になってばかりで不満だった。窓を開けたまま枕に頭を埋める。カーテンの隙間から、曇天の日差しと雨の匂いが降ってくる。しばらくウトウトとまどろんでから、ぽつぽつと木の葉にぶつかって弾ける雨音が聞こえてきて、ハッと目が覚めた。窓を開けたまま本降りになれば、ブランケットごとびしょ濡れになってしまう。
 まだ重い頭を何とか持ち上げて窓枠を掴む。見上げた曇天は薄ぼんやりとしているけれど、夜の暗闇には及ばない。夜は嫌いじゃない。みんなが寝ている時間だから、どんなに暗くて静かでも孤独にはならない。
 窓枠から身を乗り出したところで、低いところから自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

「あっ、ちょうどよかった! 体調は大丈夫?」

 窓の外にはなぜかトキシンがいた。
 ダークブラウンの髪の毛先がいつもよりあちこち跳ねているのは、雨の湿気のせいだろう。雨粒を弾く素材の薄手のコートを着ている。片手で抱きかかえたカバンはいつも見るそれよりも、大きく膨らんでいるように見えた。

 トキシンは同じ島の学校に通う幼なじみだ。ときどき自分勝手な振る舞いが目立つこともあるけれど、トキシンが大声で怒鳴ったりすることは少ないので、基本的にはやさしいなと思っている。話を聞くと、今日も学校を休んだわたしへ会うために、こんな森の奥まで遊びに来たのだと言う。授業の資料や手紙を渡しながら、トキシンはそう説明してくれた。

「うん。最近、お前は学校休んでばかりだっただろ? 気になって様子を見にきたんだ。先生はだめだって言うし、お前の家の場所は誰も教えてくれないけど……ほら、俺とヨルなら、お前がどこにいたってわかるからさ」

 だから俺が来たことは先生には内緒でねと白い歯を見せて笑った拍子に、ヒトよりも鋭い犬歯が見える。
 せっかく会いに来てくれたトキシンを雨曝しにするのも忍びなくて、窓から部屋に入っていいよと言ってみたけれど、トキシンは「ここで大丈夫」と首を横に振った。雨脚は少しずつ強くなっている。けれど、むしろトキシンは「お前が濡れて体調を崩したらよくない」と、わたしが窓から顔を出すことを嫌がった。
 申し訳なくて、ただごめんねと繰り返す。トキシンは大人の注意を無視してまで来てくれたのに。

「俺が会いたくて来てるんだから、そんなに気にしなくてもいいのに。でもじゃあ、その代わり約束してよ。元気になったら、また一緒に俺と遊ぼう。そうだ、今度はピアノを教えてあげるよ」

 ピアノ、と思わぬ言葉に鸚鵡返しでつぶやく。トキシンは大きく頷いて目を細めた。

「うん。お前、前にピアノを弾きたいって言ってただろ。だから、俺が教えてあげる。約束だからね」


   ✢


 突然、浅い眠りから目が覚めた。しばらく見慣れない天井を見つめる。消毒液の匂いがツンと鼻を刺激して、それからここは学校の保健室だと思い出した。昼の授業の後どうしても片頭痛が酷くて、それで。覚醒し始めた意識が自分の置かれた状況をゆるゆると思い起こしてゆく。横になったまま何気なく周囲へ視線を巡らせて、思わずぎょっと肩をすくめた。

 保健室のベッドは一台ごとにカーテンで仕切られている。淡い桃色の布を透けて、青白い蛍光灯の光がぼんやりと差し込んでいた。そのカーテンの内側、つまりベッドサイドのスツールに人が座っている。トキシンだった。
 座ったまま眠っていたのか、トキシンは目を閉じていた。しかしわたしが起きた気配を察してか、ハッと目を開ける。薄青色の瞳と視線が交わり、それから身を乗り出して「気が付いたんだ」と安堵のため息を吐いた。

「お前、昼休みになっても旧校舎に来ないから。連絡しても繋がらないし、探してたんだ。そうしたらクレハが『保健室に行った』って言うから、急いで様子を見に来たんだよ。やっぱり体調悪いんだよね? 大丈夫?」

 だいじょうぶ、と答える。一度横になったおかげか、頭痛の波はいくらか引いていた。トキシンはやはり納得いかない表情を浮かべたけれど、「そっか」と頷いて座り直す。
 ふと、保健室の外から予鈴が聞こえてきた。「今、ちょうど五限の授業が始まったところだよ」と、トキシンが先回りして答える。あまりにもさらりと差し出された言葉に一瞬出遅れてから、授業に出なくていいのと思わず訊ねた。

「お前が倒れたのに、授業なんて受けてる場合じゃないだろ」

 さも当然と大真面目な声で言う。こうも堂々と言われると呆れや文句を差し込む隙間すら見当たらない。一瞬ネィトの顰め面が脳裏を過ぎったけれど、トキシンの成績がどうなろうとわたしの知ったことではないので、ひとまず懸念は水に流す。

「今日はもう帰ろう。早退の話はネィトがなんとかしてくれるよ。お前、ひとりで歩ける? しんどかったら抱えていくから言ってね。ああ、もちろん荷物は俺が持つよ」

 お節介ぎみにまくし立てられる。慌ててひとりで歩けると肩を抱いた腕を押しのけた。荷物はわたしが持つよりも早くトキシンの手にあって、今更力づくで取り返すのも難しそうだ。
 そのまま人の気配のしない校門を出ると、相変わらず空は曇天だった。トキシンが「雨の匂いがするから早く帰ろう」と促す。

「練習? ……ああ、今日はスタジオ。ギター以外の荷物もあるから一度家に帰るよ。だから、このまま一緒に行こう。ほら、今日は傘も俺が持ってる一本しかないし」

 背中を押されるようにして歩く。少し進むたび「大丈夫?」と顔を覗き込んでくるのが鬱陶しくて隣を歩く間隔を空けると、曲がり角で車道側へ周るついでに離した距離を詰められた。いつにも増して過保護ぎみな振る舞いを見せられて、率直に気味が悪いとぼやくと、トキシンはムッとくちびるをへの字の形に曲げた。

「俺はお前の体調を心配しているだけだよ。島の学校にいた時から、お前は身体が弱かっただろ。あの頃は、もしお前の容態が悪くなってもなんとかなったけど、今は……

 ――今は、わたしの身体には替えがきかない。
 日頃は意識して考えないようにしている懸念を突き付けられて、思わず黙り込む。それはわたしにとって覆しようのない屈辱であり、明確な弱点だった。いくら今の身体が比較的健康体とはいえ、それが永続する根拠はどこにもない。

 自分の特異性は理解している。島の学校で過ごした記憶がわたしたちだけに共通する幻だとは思えない。だから、トキシンの抱く不安は正しいと思う。それでも、まるで壊れものに触れるような扱いを受けるのは居心地が悪かった。
 これまで何ともなかったのだから大丈夫だと強めに念押しする。トキシンはやはり納得いかない表情を浮かべていたけれど、わたしにこれ以上の譲歩の余地がないと諦めたのか、食い下がることはしなかった。それでもいつもよりゆったりとした足取りでゆく帰り道に、いつでもわたしに手が届く距離を保つところに、どんな言葉より雄弁な不安が滲み出ている。

……俺はただ、お前に傷ついてほしくないだけだ。お前のことをちゃんと守りたいと思ってる。それだけなんだよ」

 トキシンは静かにそうつぶやいて、それきり文句は口にしなかった。


   ✢


 雨が降っている。前が見えないくらいの大雨だ。頬の上で弾けた雨粒が目に入り、思わず立ち止まる。繋いだ手はそのままだったので、前を歩く背中がつんのめってから止まった。
 息の詰まる暗がりの中で、こちらを振り返った青い瞳が僅かに光っているように見えた。
 ざあざあと音を立てて降りしきる雨のせいで、くちびるが動いたことしかわからない。しばらくして、繋いでいない方の手がわたしのフードに触れた。外れかかったそれを深く被るように直してくれる。雨粒がレインコートを叩く音が、フードの中でくぐもって留まる。
 繋いだ手の温度は熱く、雨と汗に濡れてお互いの境界線がわからなくなりそうだった。ゆっくりと、左手が引かれる。さっきよりも近い距離で、わたしたちは夜の暗い森の中を進んでゆく。
 雨脚は強くなるばかりだ。わたしたちは、ぬかるみに足を取られながら、ただ歩き続けている。


   ✢


 冷蔵庫の中にあるのは相変わらず得体の知れない輸血パックばかりで、わたしが食べられそうなものはひとつも残っていなかった。冷凍庫を開けてみるもフライドポテトのストックは見当たらないし、野菜室に季節外れのイチゴがあるとも思えない。最近はヨルの試行錯誤のおかげで香りと塩味の強い料理なら少しは味わえるとわかってきたので、作り置きから拝借することもあったが、今日の夕食できっちり冷蔵庫の中身を整理したらしい。ヨルはただ料理が上手なだけでなく、家事スキルそのものが高い。

 うまく寝付けなくて気晴らしにキッチンへ来たけれど、冷蔵庫に何もないなら仕方がない。口の中が嫌に渇いていた。水でも飲もうと戸棚から自分のコップを取り出してシンクへ向かうと、廊下の影から思わぬ人物が現れてぎょっと肩をすくめた。

「びっ……くりした。ああ、お前か。こんな時間にどうしたの? もしかして、眠れない?」

 向こうにしても想定外だったらしい。トキシンこそこんな時間にどうして、と口ごもる。基本的に朝型のトキシンがこんな時間に起きていることの方が珍しい。ちらりとリビングの時計を見ると、短針は一と二の間を指している。

「ふふっ、ふたり揃って夜更かしだね」トキシンはわたしの手からコップをとりあげて、水を注ぐ。「俺もなんだか寝付けなくて、なんとなく起きてきたんだ。……そうだ。ねえ、よかったらコンビニでも行かない? たまには夜の散歩も悪くないと思うんだ」

 はい、と差し出されたコップとトキシンの顔とを見返す。少し考え、わたしは何も食べないけど、と答えてコップを受け取った。トキシンは不思議そうな顔で「べつにお前なら太るとか気にしなくていいと思うんだけど。きっとどんなお前でも可愛いから」と無神経なことをつぶやきながら、自分のコップにも水を注いだ。

「じゃあ玄関に集合ね。ヨルたちを起こさないように、こっそり行こう」

 一応外に出るのだからとパジャマからスウェットに着替える。トキシンも同じだったらしく、ラフなTシャツとジャージ姿だ。手軽さをとって裸足にスポサンを履くと、トキシンが「素足だと冷えるんじゃない?」と小言を挟んでくる。それにうるさいと言い返しながら、傘立てからビニール傘を引き抜いた。

「ああ、傘なら俺が持つよ……って、なんでそんなに睨むの? ……今日の帰り道のこと? 確かに夕立が降って一緒に入ったけど、帰りだったしちょっとくらい濡れたって大丈夫だっただろ。――えっ、俺と一緒の傘はもう嫌だって……ええ? そんなに言わなくてもよくない?」

 金輪際トキシンと同じ傘には入らないと決めている。首元に増えてしまった絆創膏を撫でながら、濡れたくなければトキシンも自分の傘を持って行ってと突き放した。トキシンは不満げに眉根を寄せながら、少しだけ玄関ドアを開けて「今は雨の匂いはしないから大丈夫そうだよ」と言う。
 結局わたしだけがビニール傘を片手に家を出る。なるべく静かに鍵を閉めてから、エレベーターで一階まで降りた。高層マンションの最上階なので、外に出るまでは少し時間を食う。時間帯もあって当然フロントは無人だったが、変わらず明かりはついていたのが奇妙な空白を感じさせた。

 帰り路に降られた雨は酷かったけれど、そのおかげで夜の気温は引いていた。確かに今は晴れて星の光が見えるが、足元はてらてらと濡れている。雨上がりのアスファルトから漂う匂いは、なぜか土にも似ているような気がした。柔らかくて頼りない、足元を捕らえる深いぬかるみの匂い。なんだか懐かしいような、酷く恐ろしいような――

――っと、危なかった。大丈夫? ちゃんと前見て歩かないと危ないよ」

 視界が傾いたと思った途端、トキシンがわたしの腕を掴んで引き留めていた。何が起こったのかわからず、思考が停止する。掴まれた自分の腕とトキシンの顔、それから足元に薄らと見える段差を見返して、これに躓いて転びかけたのだと遅れて理解した。
 止めてくれてありがとうと言うと、トキシンは微妙な顔で曖昧に頷く。

「どういたしまして。……やっぱり、お前って案外おっちょこちょいだよね。前も旧校舎で転んで、けっこう派手に膝を怪我してただろ」

 こんな形で頼られてもなんだかなあ、とトキシンはため息交じりにつぶやいた。この〝前〟はわたしにとっても苦い思い出なので、自戒を込めて気を付けると答える。

……じゃあ、俺と手を繋いでいこう。そうしたら、いつお前が転びそうになっても支えてあげられるから」

 ――それはトキシンが手に触りたいだけでしょ!
 隠されもしない下心に拒否すると、トキシンはムッとくちびるを尖らせた。

「お前の手に触れたい気持ちは嘘じゃないけど、それだけじゃないってば。俺はただ、お前のことが心配なんだよ。お前が痛い思いをしたり、苦しんだりするところが見たくないんだ。だから俺にできる最善を尽くそうと願っているだけなのに、そんなに酷いこと言わなくたっていいだろ」

 勢いよく言い返してきたわりに、トキシンの表情はすっかり曇っている。わたしが心配だという気持ちそのものは、きっと嘘ではないのだろう。そんなことはさすがにわたしだって理解している。けれど。
 下ろしていた髪を背中に払って、首筋に貼った新しい絆創膏を指さす。すると、トキシンはぎょっとしてあからさまに顔を顰めた。

「そ、それは……その」視線が右往左往と周囲をさ迷う。「お前と同じ傘に入って、すごく距離が近かったから……お前の肌からいい匂いがして、逃げ場もないし、どうしても我慢できなくて……

 逃げ場がなかったと言いたいのはわたしの方だ。一度スイッチの入ったトキシンはこちらの話をぜんぜん聞いてくれない。それに、家に帰ってからもソファに引きずられてまで散々血を吸われたせいで、夕方から気絶するように寝るはめになった。こんな中途半端な時間に起きてしまったのも、元を辿ればトキシンのせいではないか。

「うっ。そ、それについては……ごめん。本当に反省してる……

 トキシンは落ち着かない様子で自分の手を握った。力が入っているせいか、手袋をした左手からかすかに機械の軋むような音がする。
 足元にはコンクリートの上で行き場を失った水溜まりばかりが点々と落ちている。そのうちのひとつ、街灯の明かりを反射する水面越しに薄青の瞳と目が合った。気まずそうにうろうろとさ迷った末、もう一度「ごめん」と繰り返す。

 トキシンに悪気がないことはわかっている。我慢ができないのは本当に最悪だが、それに対して申し訳ないと思う気持ちも、トキシンの言う「心配」も、ただわたしの機嫌を直そうと口からでまかせを言ったわけではないのだろう。優しさは嘘ではないが、確かに歪な形をしているから、結局こちらが許すしかないのだ。

「うん……反省してる。本当だ。お前が嫌がってるのにやめなかったのは、俺が悪かったと思う。もうしない……ように、その、精一杯努力する」

 そう言ってトキシンは一歩踏み出した。だから、と片手を差し出される。

「今は、本当に何もしない。約束する。だから……俺と、手を繋いでほしいな」

 ここで断らないからこの男が調子に乗るのだ、と冷静な声がつめたく囁く。悪気がないのは事実だけど、悪びれないのはトキシンのよくないところだ。本当に迷惑だと思っているなら、何度だってきつく拒絶するべきだと、理屈の上ではわかっている。それでもなおトキシンの手をとってしまう理由だって、本当はわかっているのだけど。
 数時間前はわたしがもう嫌だと押し返してもやめなかったくせに、トキシンはまるで壊れ物にでも触れるような手つきでわたしの手を握る。それはわたしの手にしか興味がないからか、あるいはトキシンなりに詫びる気持ちの現れなのだろうか。

 誰もいない夜道を、手を繋いで歩く。濡れたアスファルトに靴裏が滑る音ばかりが響き、どうにも気が重くなる。何か話題をと焦った結果、昼間からずっと胸に引っかかっていた疑問を口にしていた。

……え? お前の事情について? ああ……うーん、どうなんだろう。俺は昔、ファーターから聞いたんだ。その時は他に誰もいなかったからな……いなかった、よな? うん、たぶんそのはずだ。だから、みんながどれくらい知っているのかはわからないんだよね」

 わたしの正体がホムンクルス――ファーターの造り出した人造人間であること。アーデルハイトを蘇らせるための人形であること。トキシンたちとは違った目的のために生み出された命であることを、一体どうしてだろうか、わたしたちは揃って忘れていた。つまり1stライブで訴えた「普通の女子高生だ」という主張は間違っていたわけだが、べつに嘘を吐こうと思ったわけではない。わたしは普通の人間だ――そう信じていた手触りは今も実感として残っている。
 本当なら忘れようのない出来事を忘れている以上、そこに何かしらの思惑があったことは想像に難くない。現状で最も疑わしいのはファーターだが、そうするとなぜわたしをトキシンたちに捜索させていたのか説明がつかない。何が起きているのかさっぱりわからないけれど、ただひとつ明確なのは、トキシンたちがファーターの命令通りに動いていれば、今頃わたしは都合の良い実験体として扱われていたに違いないということだ。
 愛を知る者の器。アーデルハイトを蘇らせるための人形。ファーターの目的を果たすために造り出された道具。大人しく島に戻って、人間らしい扱いがされるとは思えない。かと言って、何の情報もないままあの男と対峙して解決する問題ではないだろう。少なくとも、わたしはあれに抵抗するすべを持たない。であればせめて、一体どうしてこんなことになっているのか、その理由が気になるのは当然だ。

「へえ……ヨルはお前がホムンクルスだってこと、知ってたんだ。ビャクヤとクレハからは言われなかった? ああでも、ネィトなら知ってそうだな。うーん……たぶん思い出していないだけで、お前がホムンクルスだってことは、みんな知っていてもおかしくない気がするな。先生の娘は特別だって、あの島にいるみんなわかっていたから。それは……ああ。お前、覚えていないんだ。覚えてないっていうより、知らなかったのかな」

 あの夜以降――わたしの血を飲んで「全部思い出した」と打ち明けた真相以上の記憶を、トキシンが思い出すことはなかった。わたしも同じく、島での記憶も大部分が歯抜けのまま、すべてを思い出したとは言い難い。
 ただ、ふとした瞬間に「こうだった」と実感を伴う思い出が蘇ってくることはある。たとえばトキシンの仕草に妙な見覚えがあったり、まだ曲の形をしていない鼻歌のメロディーに聞き覚えがあったり、前にもこうやって優しくされたなと思ったり――知らないはずの記憶に確かな実感がある。浅い眠りの最中にみる悪夢のように、現実ではあり得ないはずの出来事には質感が伴っていた。きっと、断片的なこれが本当の記憶なのだろうと思う。

「それじゃあ、もしかすると、俺が一番お前のことを知っているのかな。みんな、ファーターのこと苦手みたいなんだよね。ネィトだって、あまり積極的には話さないだろうし」

 何気なくつぶやいたトキシンの言葉に、思わず立ち止める。
 繋いだ手はそのままだったので、少し前を歩いた背中がつんのめってからわたしを振り返った。怪訝そうな目がこちらを見下ろしている。夜の暗がりの中に青い瞳が光っていて――突然、胸の内に言い様のない不安が広がった。

「どうしたの?」

 トキシンが口を開く。こちらを訝しむ声がきちんと聞こえる。
 少し先にある街灯が人の気配を察知して点灯した。パッと一瞬で明るくなった視界に目が眩み、強く瞬きする。網膜に刺さるような眩しさに慣れた頃、正体のわからない不安は立ち消えていた。あれ、と無意識に声が溢れる。トキシンはじっとわたしの顔を見つめ、屈んで視線の高さを合わせた。

「お前、少し顔色が悪いよ。やっぱりまだ頭が痛い? あー、ごめん。こんな時に連れ出すべきじゃなかったな……

 頭痛は引いている。体調も悪くない。こんな時間に寝付けない不安こそあるが、明日は休日だ。大丈夫だと首を横に振るも、トキシンは難しそうな表情で口を結んでいる。なんだか今日はずっとこんな問答をしているなと思いながら、本当に大丈夫だと繰り返す。

「でも、そう言ってお昼に体調崩してたじゃないか。今は良くても、後からまたしんどくなるかもしれない」繋いでいた右手を一度離し、わたしの顔色を確認するように前髪を払う。「……うん。やっぱり今夜はもう帰ろう。お前に無理させたくないし。確か……雨の日は頭が痛くなるって、前に言ってたもんな。すっかり忘れてた……

 トキシンは申し訳なさそうに言って襟足を掻いた。最近入れ直したらしいインナーカラーの赤色が街灯の光を透かしてチラチラと明るく目立つ。

……え? いや、お前が言ったんだよ。雨の日が嫌だって。覚えてない? お前が学校休んだ日、俺、よく家まで遊びに行ってただろ。そりゃ、一時期バレてすごい怒られたこともあったけど……その後も、俺とヨルはちょくちょく顔出してたし。俺たちがお前の匂いを間違えるわけないんだからさ」

 噛み合わない会話に一瞬戸惑ってから、トキシンは島にいた昔の話をしているのだと気づいた。雨の日が嫌い、トキシンたちが遊びに来ていた、学校を休んだ日――すべて身に覚えのない出来事のはずなのに、どうしてか実際にあったことだと納得できる。理性的に考えるほど浮き彫りになる違和感と、この身体が確かに覚えている実感とが噛み合わず、うまく言葉が出てこない。
 わたしの記憶には欠落がある。むしろ覚えていないことの方が多い。トキシンに雨の日は頭痛がするなんて話をしたことはない。ないはずだ。けれど、この身体は覚えている。トキシンが心配そうにわたしを見上げる光景を、窓枠から身を乗り出して内緒話をしたことを。元気になったらまた遊ぼう、ピアノを教えてあげるから……あの日、確かにトキシンがそう言って。だから。わたしは。

――え⁉︎ きゅ、急に座り込んでどうしたの。大丈夫……⁉︎」

 思わず蹲って頭を抱える。視界が回って気持ちが悪い。目を閉じると広がるのは暗闇だけで、単調な一色に意識を集中しないと、この場で吐きそうだった。

「お前……手が、すごい冷たい。ちょ、ちょっとこっち向いて」促されるまま顔を上げる。頬に触れるトキシンの手が熱い。「……顔、真っ白だ。目の焦点も合ってないし……これ、熱、とかじゃないよね。頭が痛いわけでもないんだっけ。どうしよう……ひとまず、立てそうには……ないか。俺が抱えようか?」

 トキシンが肩をさすりながら訊ねる。その声がぐわんぐわんとくぐもって聞こえた。どうにかだいじょうぶ、気持ち悪いだけ、今は動きたくない、と訴える。その声すらねじ曲がって、自分がうまく話せているのかわからない。

「えっと、気持ち悪い……? たぶん、動きたくない、って言いたいんだよね。お前、全然呂律回ってなくて、ちゃんと聞き取れてるか自信ないんだけど……

 蹲ったまま動けないわたしを見下ろして、トキシンの困ったような声が遠くから降って来る。大きな手がわたしの肩を優しくさするたび、これが現実だと少しずつ身体の輪郭がはっきりしてきた。こちらが現実だ。トキシンの左手は義手で、ときどき酷く暴れまわる、災害のような癇癪もちのトキシンのいる世界が、今のわたしが置かれた現実。1stライブで再会した、キメラになったトキシンが本物。それ以外は過去の記憶で、今のわたしはそこにいない。
 振り子が収まるように、時間をかけて眩暈は落ち着いてゆく。顔を上げると、トキシンが心配そうな表情でわたしの顔を覗き込んでいた。

「落ち着いてきた……かな。俺の声、聞こえてる?」

 ようやく正しく聞こえてきた声に頷く。それがただの強がりでないことを察してか、トキシンもほっと息を吐いた。ちょっと触るねと言いながら、返事をする前にトキシンの右手が首元に触れる。少し遅れて、脈を測られているのだと理解した。

……うん。視線もちゃんと合うし……さっきよりは大丈夫かなとは思うけど、やっぱり顔色は悪いままだな。お前、歩けそう? ……まだ気持ち悪い、か。俺が抱っこするのも難しい? ほら、ちょっとだけでも」

 酷い眩暈は収まったが、胸に何か詰まるような気持ち悪さが居残っている。トキシンの問いかけに頷き、いまは水がほしいと訴えると、トキシンは困ったようにため息を吐いた。それから、道の少し先にあるコンビニの眩しい光をちらりと見て首を捻る。

……うーん、いやでも、さすがにお前をこのままにするわけにはいかないし……でも、お前歩けないんだもんな。やっぱり俺が抱えて……それじゃあ吐きそう? もうこの際、俺の上着に吐いたって構わないけど――ええ、それは絶対嫌だ……? もー、わがままだなあ」

 トキシンはしばらくううんと難しそうに唸っていたが、やがて「絶対にここから動かないでね」「何かあったらすぐ俺を呼ぶんだよ」としつこく言い含めてから、小走りでコンビニへ向かった。その背中を見送って、しゃがんだまま額を両腕に擦りつける。
 気持ちが悪い。吐き気がする。まるで、自分の中身が自分ではないような違和感だ。どうしてこんなことにと思いながら、しゃがみこむ自分を俯瞰で見下ろす視点が、確かにわたしの中にある。

 ――お前はファーターによって何度も生まれ、何度も死んだ。
 ――お前の身体が不安定で、すぐ死ぬから。そのたびに、新しい身体を用意する必要があったんだよ。記憶だけは受け継いで……

 わたしには神無町で育った記憶がある。しかし、トキシンの言うことが正しいならばそれは偽物だ。トキシンの思い出した真実が正しいならば、わたしの身体と記憶はすべて造り物で、偽物で、それでは一体何が真実なのだろう。これまでわたしが信じてきた現実、けれどトキシンたちと一緒にいて覚える懐かしさ、この身体が体験してきたもの、一体何を信じたらいいのだろう。
 くちびるの裏を噛む。痛い。きちんと痛覚がある。この実感は紛れもなく現実だ。それでは、見覚えのない暗い森を歩いたあの感覚は? 誰かに手を引かれて雨の降る森を歩いていた、冷えきった手を根気強く擦ってくれた、わたしの指の間にこびりついた泥を丁寧に拭ってくれた、あの日の出来事は。

 トキシンは同じ島の学校に通う幼なじみだった。ときどき自分勝手な振る舞いが目立つこともあるけれど、トキシンが大声で怒鳴ったりすることは少ないので、基本的にはやさしいなと思っている。わたしが学校を休んだ日には心配して遊びに来てくれるし、学校から離れたあの廃墟にたどり着いたのも、道に迷ったトキシンがずっとわたしの手を引いてくれていたから。何も知らないわたしに音楽を聞かせてくれた、いつまでたっても上達しないピアノを教えてくれた、そういう優しいところが好きだったと思う。
 島の学校には同じ教室で授業を受けるクラスメイトがいたけれど、その中でわたしが浮いていることはなんとなく知っていた。だから、わたしが話しかけてもあまり態度を変えないトキシンが嬉しくて、最初は嫌がられているのを知っていながら音楽を聴きに行った。
 あの雨の日、大人の注意を無視してでも会いに来てくれたことが本当に嬉しかった。だから、わたしも少しくらいは無茶をしてみようと思った。雨の日は検診がないから、目を盗んで家から抜け出すこともそれほど難しくなくて、それで……

 蹲ったまま視界が暗くなる。動かないわたしの存在を忘れた街灯が消えたのだろう。そうだ、あの日の夜も酷く暗かった。アスファルトから雨上がりの湿った匂いがする。雨の匂い。湿った土の匂いと、咄嗟に突き飛ばしたあれが崖下に転がり落ちる音。でもあれは崖の下でまだ生きていて、這い上がって来る音がした。岸壁を掴んで、小石が転がり落ちる音がする。わたしは自分が何かに暴力を振るった恐怖と、這い上がって来る得体のしれないそれが、わたしにどんな思いを向けているのか想像して、それが怖くて動けなくて。今ならわかる。あれはキメラの出来損ないだった。
 すぐ目の前で足音がした。一気に現実へと引き戻される。一瞬、トキシンがコンビニから戻ってきたのかと思ったが、どうやら違うらしい。街灯がパッと点灯した。目の前にある人影は全身黒い服を着て、フードを目深にかぶっている。人目を避けるような格好だ。裾の長い上着の影に細長い棒のようなシルエットが見える。
 ふと、今朝みた報道の音声が脳裏にひらめく。こういう時に限って嫌に頭の回転が速いのはなぜだろう。まるで空き巣にでも入ったような格好だ。報道では何と言われていたか。
 ――犯人とみられる男は現在も逃走中……
 ――警察は強盗殺人の容疑で身元を追うと共に、

 頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。
 目の前にある存在から明確な害意を感じ取り、背筋が凍った。
 黒い影は何も言わないが、これを前にして感じたのはどうしようもない恐怖だった。得体のしれないものだが、確かにこちらに危害を加える準備がある。それができる脅威だと、本能で察知する。ここにいてはいけない。

 咄嗟に逃げようと立ち上がって、凝り固まった関節が悲鳴を上げた。もつれそうになる足を何とか動かして走り出す。振り返り際、男のつま先がこちらに向くのが見えた。追いかけられる。男の立つ方角から逃げようとして、気が付けばコンビニからは反対方向に駆け出していた。
 アスファルトを蹴る足音が追いかけて来る。走り出した足は止まらない。逃げなければと焦る心に突き動かされて、遮蔽物の多い公園に踏み入る。遊具の影をくぐり、植樹された広葉樹の陰に転がり込んで、きつく身を屈める。
 怖い。
 どうしようもなく怖かった。どうしてあんなものがいるのかわからない。それを決死の抵抗で崖から突き落とした音が、それでもなお這い上がって来る音がする。危害を加えたわたしを決して許さない、本当なら死んでいるはずなのに死ななかった化け物の動く音が。怖くてこの足はもう動かない。動けない。だれか助けにきてほしい。
 願いは虚しく、草むらに足を踏み入れる音が聞こえてくる。
 しばらく周辺から聞こえていたその音は、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
 自然と呼吸が浅くなり、眩暈がする。祈るように身を縮め、しかし足音が目の前で立ち止まった瞬間、限界まで膨れ上がった恐怖がわたしの中でぷつんと弾けた。

 雨の音が聞こえる。化け物が、もう一度崖下に転がり落ちてゆく音と共に。
 いや、雨は降っていない。これは雨上がりのアスファルトの匂いだ。聞こえてくるのは、少し離れた道路を行き交う自動車の走行音。ここは神無町で、日本にある港町だ。
 だから、わたしの目の前に転がっているのは。

――ああ、ここにいたのか……! お前、動くなって言っただろ。もう、心配したんだから……

 トキシンの声が聞こえる。
 その声に顔を上げて、こちらへ駆け寄る姿にほっと安堵の息を吐いた。トキシンが来てくれたならもう大丈夫だ。トキシンならわたしのことを助けてくれる。守ってくれる。だってトキシンは、わたしの。

「大丈夫? お前、顔色が真っ青だよ。手も震えてる。一体何が……

 わたしの前に膝をついたトキシンは、顔にはりついた前髪を払いながらつぶやいた。青色の瞳がこちらをじっと見つめた後、周りを見渡す。そうだ、トキシンに伝えなければ。とても怖い思いをしたのだと。知らない男に追いかけられて、それから今朝聞いたニュースのことを……

……え?」

 ぽつりと、戸惑いの声が落ちる。
 暗がりの中で目を凝らし、目の前に転がるスーツ姿の男を見つけて、わたしは呆然とした。暗い色をした雨を弾く素材の上着を羽織っている、ごく普通の男性だ。四角い鞄と何の変哲もないビニール傘が近くに落ちて、それから――わたしの手にも同じビニール傘がある。骨の折れてひしゃげた、先端に何か粘ついた液体の付着した、わたしの長傘が。そういえば、倒れている男性の顔の半分、片方の目はどうなっていただろうか。
 嫌な時ばかり、わたしの頭は冷静に稼働する。ここは日本の神無町。殺しても死なない化け物なんているはずがない。まだ捕まっていない強盗犯の容疑者と偶然鉢合わせるなんて、そう起こり得ない。
 レインコートの内ポケットから何かが落ちる。男性のスマホだ。落下した拍子に電源ボタンが押されたのだろうか、ロック画面が眩しく点灯した。割れた液晶画面には、弾けるような笑顔を浮かべる知らない子どもの姿が表示されている。

 どうしよう、とつぶやいた声は情けなく震えていた。
 自分のしでかしたことの重大さがのしかかり、息が苦しくなる。もう覆しようのない、どうやっても取り返しのつかない現実だ。
 ふと、わたしの肩を掴む手に力が込もる。ハッとして顔を上げると、困惑を浮かべたトキシンと目線が交わった。青色の瞳は瞳孔が開いている。狼の目だ、と思う。

……お前、震えてる」ぎこちない手つきがわたしの肩をさする。まるで、慰めるように。「怖い思いをしたんだね。俺が一人にしたからだ。本当に……ごめん」

 それは違う。勝手に勘違いをして、こんな事態を引き起こしたのはわたしだ。すべてわたし一人がしでかしたことで、トキシンが悪かったことなんてひとつもない。だのに、否定する言葉が出てこない。
 しばらく肩をさすっていたトキシンの手が、恐るおそるわたしを抱き寄せる。左腕からは機械の軋むような音がした。震えているのはわたしだけじゃない。

「お前は……何も心配しなくていい。俺がそばにいる、なんとかする。だから、大丈夫。もう怖いことなんて何も起きない」

 強張った声が「大丈夫」だと繰り返す。まるで自分へ言い聞かせるように。だから、本当はトキシンもわかっているのだろう。間違っているのはわたしで、これから選ぶ未来はさらに取り返しのつかない方を向いていると。
 それでも、トキシンはわたしを助けてくれる。

……ふふ。なんでって、そんなの当然だろ。だって、前にも約束したじゃないか。ああうん、ちゃんと思い出した。俺、あの時、お前に約束したよね」

 暗い森で、恐怖に立ち上がれなかったわたしを助けてくれた。崖の下から這い上がってきたキメラの出来損ないを、自分も傷つきながらもう一度突き落としてくれた。冷たい夜の暗闇の中で、わたしの前に膝をついて手を握ってくれたことが嬉しかった。その姿はヒーローみたいに輝いていて、あの時のわたしはただ呆然と、その姿がかっこいいなと思った。トキシンは優しくて、強くて、かっこいい。まるで、物語に出てくる素敵な人みたいだった。
 そう言うと、トキシンは驚いたように目をまるくして、それからなぜか泣きそうな笑顔を見せてくれた。

「お前をひとりになんてしないよ。ずっと、何があってもお前のそばにいる。お前の味方でいる。寂しい思いはさせない。お前のこと、必ず守ってみせる」

 指の間にこびりついた泥を丁寧に拭いながら、優しい声が囁く。

――俺が、お前の王子様になってあげる」