沙里
2025-10-23 22:00:56
3364文字
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花の香

ヴィジェルとパフューマーさんの話

 花の香り。
 具体的な花の名前はわからない。そう言ったものの知識には疎い。見た目がわかれば調べようもあるだろうが。
 ただ、見栄の為に飾られる虚飾の生け花よりも、優しく、綺麗な匂いがした。
『ヴィジェル、三時の方向。距離――
 インカムからの指示より数瞬早く、狼の群れを向かわせる。遅れて向けた銃口の先に躊躇いなくトリガーを引く。弾丸は狼たちを通り越し着弾する。揺らいだ標的は狼に引き裂かれ、食いちぎられた。
 己の手に馴染む銃は、サンクタの扱う銃火器に比べると、威力は低く、造りも粗雑なのだろう。実弾ではないのでジャムることはないにしても、速射は出来ない。それでも。
「いくらでも、やりようはある」
 機械音声が告げる作戦終了に、銃を下ろす。戻ってきた狼たちの頭を撫でて、名も知らぬ花の香りに空を見上げた。
 シラクーザのように血を洗い流す雨が降ることもない。
 いつまでも消えない鉄錆のような血の臭い。焼き尽くしただけでは飽き足りない焦げた臭い。そしてどこの戦場でも漂う、死の香り。
 それらすべてを無かったことはできなくても、澄んだ花の香りは、少しだけ、和らげてくれるような気がした。




 ベッドが変わると眠れない。
 そんな神経質めいたことを言うつもりはないのだが、機械音が移動都市よりも身近に感じられるロドスの宿舎は、あまり好きではなかった。
 もとより規則正しい生活をしているでもないのもあるのだろうが……ともかく、ベッドで不機嫌に転がっているのもあまり健康的とは言えない、はずだ。
 戦闘での疲労は多少はあったが、気にせずベッドを降りた。コートを肩に掛け、部屋の外に出る。空気が美味いわけではないが、機械の中に放り込まれたような圧迫感よりは心地良い。特に目的地もないままに、ふらりと足の向かうまま、歩き始めた。
 昼間であろうが夜間であろうが、ロドスは眠らない。
 何度目かの訪問になるが、その姿勢が変わることはなさそうだ。まぁ、食堂は眠っているが。
(シラクーザの夜も騒がしかったが、ここはああいう騒がしさとは無縁だな)
 あくび混じりに宿舎の部屋へ消えていく者、目をこすりながら出てくる者、通路の片隅で談笑するグループ、工具を抱えメンテナンスに勤しむ作業員たち、通信インカムで交代の確認をしている見張り番、エトセトラ。
『停滞するシラクーザと違って、ロドスは希望の匂いがするわね』
 ラヴィニア――ペナンスの言葉通り、ここには活気がある。何も見えない未来へ向かうことを恐れないこの場所は、呼吸がしやすかった。
……花の香り?)
 機械のオイルや錆、ひとの匂いに混じる、澄んだ花の香り。
 誘われるように足が向く。昼間よりも、ブーツの踵が床を蹴る音が響いて、不思議な世界に迷い込むような錯覚を見た気がした。
 療養庭園と記されたプレートに、艦内図の記憶を引っ張り出しながら、ドアという境界線を越えた。
 その先は、一面の緑。少し後ろを振り返れば機械ばかりで、やはり異世界にでも迷い込んだかのようだった。カツンと音を立てていたブーツの踵も些か静かで、こつ、こつ、と敷石の上を歩く。機械の匂いなどほとんどしない。花の香り、土の匂い。爽やかな緑の香りが通り過ぎていく。
 いつかの昔、マフィアの抗争も、獣たちのゲームも、何も知らなかったあの頃。シラクーザには珍しい、雲一つない青空の日に訪れた公園が頭に浮かんだ。母が亡くなり、いつの間にか足が遠のいた場所。忙しなく過ぎていく毎日に、思い出さないようにしていた過去の思い出たち。……いや、思い出す資格など、ないのだが。
……甘い香り)
 ふと、熟れた果実のような香りがして立ち止まる。背の高い樹木もあるが、果実がぶら下がっているわけではなさそうで、首を傾げた。
「あら、珍しい来客ね」
 ふわりと香るのは、いつかの戦場で嗅いだ香り。声と香りに誘われるように視線を向ければ、ヴァルポの女性が微笑んでいた。コードネームは、パフューマー……だったはずだ。直接のやり取りはあまりないが、作戦で何度か一緒になったことがある。それと……予算の申請書で名前を見かけた記憶もあった。
「ドクターくんの秘書をやってる子よね?」
……その認識は……いや、いい。確かにそうだ」
 否定はしたかったが、否定する要素が少なすぎた。
 実際、ロドスに出向すれば決まって秘書業務を押し付けられる。普段からロドスに在籍しているオペレーターがいるだろうとクレームを申し立てたことはあったが、ああだこうだと言い包められた。そうしているうちに、定位置と言わんばかりに秘書業務が当たり前になりつつある。俺は戦闘オペレーターでの契約をしたはずだったんだが。
「ふふ。こんな夜更けにどうしたの?」
……散歩をしていたら、花の香りがした、ので」
 つい足が向いただけなのだと言えば、彼女は「いい香りでしょう」と朗らかに笑った。それを否定するわけではなかったが、ただ素直に良い香りだと言うには憚られた。
……戦場で、良く嗅ぐ香りだと思った」
 嘘をつくほど、器用なほうでもない。だから、正直な話をした。
 すると彼女は「そうね」とやはり笑顔で答えた。
「嫌だったかしら?」
 彼女の問いに、しばし考えてから首を横に振る。少なくとも、胸糞の悪い空気がいくらかは緩和されていた。だからこそ、こうしてつられて足を向けてしまったのだが。
……それと、リンゴの香りが」
 どこにも見当たらないのにほのかに香る甘い果実。
 生鮮食品も、ロドス艦内では珍しくはないが、食堂でも倉庫でもない場所から香るのは、不自然さを感じてしまう。彼女は「リンゴ……?」と首を傾けたが、ぽん、と手を打った。
「アップルミントかしらね。ちょうど摘んでみたところなの」
 リンゴは好き? と問われる。
 何とも言えないでいると、彼女は「少し待っていてね」と微笑んで、庭園の奥へと駆けて行った。置いて行かれて、どうしたものかと頭を掻く。
 シラクーザは自然豊かな街だとは言えなかった。せいぜいが公園か、墓地か。それでもどこか懐かしく思うのは、不思議な感覚だった。花と緑の匂い、それと微かに葉がざわめくような音に耳を澄ます。そうしてしばらくすると、ぱたぱたと足音がした。
「お待たせ。はい、これをどうぞ」
 差し出された小さな袋のようなものを、なんだろうか、と目を瞬かせていると、強引に手を取られて手のひらに乗せられた。さしたる重量はなく、リボンで留められた薄いピンク色のそれは、少なくとも俺に似合うようなものではないと思った。
「この庭園で採れた植物で出来たポプリよ」
 おそるおそる匂いを嗅いでみると、爽やかな、どこか甘いような香りがする。リンゴのような、少し違うような。
「眠れないみたいだったから、ハーブを入れてあるの」
 彼女は優しく微笑む。
「効能は、少し弱いかもしれないわ。アップルミントを混ぜたから」
 リンゴ、好きなんでしょう? と、柔らかいのに、何かを見透かすような視線で見上げられた。
 少しばかり複雑な気持ちにはなったが、嫌いではないので頷いた。
「睡眠促進に効果のある植物もあるけれど、難しいことを言うよりも、好きな香りのほうが落ち着くこともあるわ」
……確かに、そうかもしれない」
 どこか懐かしく思うのは、この香りのせいかもしれない。
 いつも、私室のテーブルの上には新鮮なリンゴが置いてあった。いつかの遠い思い出だ。いまは新鮮な果物を置いたところで新鮮なうちに食えるとは限らないし、綺麗な赤い玉を見ていると、少し、憂鬱とした気持ちになるのもまた、購入する手を遠ざからせた。
「もし気に入ったのなら、いつでも注文してね」
 次はお金をもらうけれど、と彼女は言う。
「効果が期待できるなら、交易も吝かではないさ」
 少しだけ軽くなった口で返すと、ころころと鈴の音のような声で笑った。
「その時は、少しばかりお安くしておくわ」
 礼を述べて彼女の前を、庭園を後にする。
 手のひらの小さなそれがもたらす、少しばかり優しく懐かしい香りに、くあ、とあくびを噛み殺した。
 いい夢が見られそうだ。そう思った。