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沙里
2025-10-23 21:41:26
2654文字
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ドクターくんと秘書ヴィジェルのとある一日
「
……
俺も、他人のことをとやかく言えた義理はないが、さすがにこれは駄目だろう」
ループスの青年は、開口一番、冷たい感想を口にした。
山と積まれた書類。書きかけのサイン。充電の切れた端末。おそらく今朝出されたであろうパンは乾燥し、コーヒーはすっかり冷めているようだ。
山のような書類の合間に、何とか生息しているらしい部屋の主は、その通りだよ、とため息を天井に向けた。
「どうしてこんなことになるんだ、ドクター?」
青年は床に散らばった書類を拾い上げ、もともと置いてあったであろう机の上に戻しながら、死んだような目をした部屋の主に尋ねた。
「そういう日もあるんだ、ヴィジェル」
などと、言い訳にすらならない台詞を吐いた相手に、ヴィジェルと呼ばれた彼もまたため息を吐いた。
「そんな書類はどうでもいい、と言いたいところだが、そうも言ってられないんだろう?」
常ならば、切り捨てるヴィジェルだったが、目の前の状況を見てそこまで言えるほど、冷たいわけではなかったらしい。彼は机の上に散らかる書類をざっと視界に入れると、いまにも崩れそうな山に手を伸ばした。
「優先するべきものかどうかで分けておく。とにかく、今日中に片さなければならないものだけでも何とかしておけ」
わかったな、と圧を掛けられ、ドクターは素直に頷いた。室内でもコートのフードを被ったままの相手に、相も変わらず変なやつだという感想を抱きつつ、ヴィジェルは書類に目を通す。秘書としてある程度の権限はあるが、他人あての文面をじっくり読むほどに暇ではない。記された日付や時間を頼りに手際よく分別していく。合間に端末を充電器に差し、硬くなったパンは申し訳ないと思いつつも処分した。
「秘書殿が優秀で助かる」
「いいからさっさと手を動かせ」
「ハイ」
さながら漫才のようなやり取りを間に挟みつつ、あまりの事務仕事の多さにヴィジェルは舌打ちを隠せない。
新都市においても事務仕事は発生するし、かつて秘書の真似事をしていたこともある。それなりに忙しい毎日だったと記憶しているが、いわゆる都市規模の事務仕事よりも、移動艦の事務仕事のほうが忙しいなどと思うはずもなく、まぁいいだろうと渋々ながら秘書の仕事を受けたことを、些か後悔し始めていた。
それから一刻ほどは会話もなく、紙が擦れる音と、ペンが紙の上を走る音。ただそれだけの時間が過ぎた。充電の終了を端末が小さな機械音で知らせてくるのを聞き、ヴィジェルはふと時計を見た。
(
……
昼が過ぎたのか)
彼がドクターの部屋に来た時は、まだ昼前と言って差し支えの無い時間帯であったが、作業をしているうちにいわゆる昼飯時を過ぎてしまったらしい。そうと気づけば、腹のあたりが空腹を主張をし始める。書類の山はだいぶおとなしくはなったものの、ドクターの仕事は、未だ終わりが見えてこない。
ヴィジェルは仕方がないと「少し席を外す」と口にして、部屋を出て行く。何か用事だろうか、とドクターは一瞬思ったが、すぐにまた書類に視線を落とし、サインを書きこんだ。
そうしていくばくかの時間が過ぎ、戻ってきたヴィジェルは「机を空けろ」と横柄に言った。圧にも近い台詞に、手元にあった書類とペンを一緒に持ち上げ、目の前の机に空白を用意すると、そこにドンと皿が置かれた。
「朝も食べていないんだろう」
飾り気のないミートソースのパスタが盛られており、湯気と匂いがドクターの空腹を盛大に刺激する。ぐぅ、と遠慮なく声を上げた腹を押さえ、書類とペンが机の下に落ちた。羞恥心に赤くした顔を、ヴィジェルはくつくつと珍しく笑って指摘する。ああだこうだと言いたそうなそれを制止するようにフォークの柄の部分を向けて差し出した。
「とりあえず、腹に入れておけ。空腹は頭の回転を鈍くする」
フォークを受け取り、ドクターはフードのバイザー部分を開いて「いただきます」とパスタを口にする。
「ヴィジェルって、いい子だよね」
美味いと満足げに顔を綻ばせながらそう言うと、
「子ども扱いするな」
と凄まれた。
「私からすれば、充分子どもさ」
「年寄りみたいなことを」
ドクターの言葉に、そういえばドクターと呼ばれるこの人物のことを、年齢はおろか、詳細を知らない、とヴィジェルは思った。
彼がロドスに来て、まだ日が浅いというのもあるが、誰もが口を閉ざしているような、もしくは何も知らないような、ふわふわとした雲のように、まるで掴みどころがなかった。
(
……
ひとを見る目は、それなりにあると思っているが)
それでも、目の前でパスタを頬張る人物が「何」であるのか、ヴィジェルには掴めない。己よりもずっと年上に見えるが、時折ひどく幼くもある。彼の卓越した技術で、ドクターを殺せるかと問われれば、簡単にできるとも、遂行できないとも言える。
(敵でなくて良かったと言うべきなのだろうな)
ふと、己が背を向けて、かつての居場所に置いてきたものが脳裏を過り、目を閉じた。
「大丈夫だよ」
優しい声音に、瞼を押し上げる。
一瞬だけ絡んだ視線は、何かを労わるようで、優しいものだった。
「ヴィジェルの作る料理はおいしいね」
いのちが助かる、と満足げに完食したドクターは、指先についたソースをぺろりと舐めた。
何がなのか、気休めなのか、それとも理解っているのか。
ドクターは相変わらず掴みどころがなく、ヴィジェルにとっては何もわからぬままだった。だが、その距離感を、居心地が良いものだと感じてはいる。あの事件以降、どこか落ち着かなく、焦ってばかりの日々ではあったが、ロドスに足を運んだことは、間違いではなかったと、ヴィジェルはそう思った。
「いやぁ、シラクーザ料理って、シラクーザの憤怒とか言う料理しか見たこと無かったからねぇ」
食べたことはないけど、と笑うドクターに、ヴィジェルは穏やかになりかけていた顔をこれ以上ないくらいに顰めた。
「忘れろ。あんなもの、この世に存在していること自体がおぞましい」
二度とその名を口にするなと言わんばかりの声音で告げられ、ドクターは
「そこまで言うんだ
……
」
と呆れたような苦笑で「今度食べてみようかな」という言葉を口に残ったミートソースと一緒に飲み込んだ。
後日、ロドスの食堂で発見されたやたらと甘いシラクーザ料理の存在が公になり、ヴィジェルによる強制捜査が入ったが、公式による記録は残されていない。
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