もち屋
2025-10-23 05:19:28
8870文字
Public ファイモス
 

たとえ、その道行きが苦難に溢れていようとも

ファイモス(カスメデ)
腰まであったモーディスの髪の手入れが好きだったファイノンの話。
いつかあった輪廻の話と、お風呂でのいちゃいちゃ。
あらゆるものが捏造と妄想。

 乾ききった大地の上で、黄金の獅子が吠えている。金色のたてがみは腰まであり、彼が腕を振るう度に宙空を鮮やかに舞っていた。
 暗黒の潮に侵された造物を薙ぎ倒す男の邪魔をしないように、ファイノンはそっと離れたところで大剣を構える。戦場で意識を逸らすなんて、あってはならないことだと分かってはいるけれど。モーディスの方を盗み見た時に、視界に入った姿があまりにも美しかったものだから。自身の胸の奥深くに、その勇姿はずっと刻まれていた。
 長い髪は強い戦士の証だ。その長さを保つことができるほど、敵によって害されたことがないという証左であり、戦において邪魔にしかならないそれを、そのまま残しておけるだけの余裕があるということでもある。
 特に、モーディスのように拳を振るう戦士はなおのこと。リーチが短く、敵の間合いに入って戦うことが多い。だというのに、黄金のたてがみは少しも損なうことなく、そこにあり続けるのだ。
 ファイノンは、腰まで届く美しいたてがみが戦場でなびいているのを、後ろから眺めるのがいっとう好きだった。モーディスも、自分の視線に気づいてはいると思う。それに対して彼がどう思っているのかを聞いたことはない。きっと、そんなことを口にすれば、戦いに集中しろと怒られるのは目に見えていたから、わざわざ口にすることもなかった。
 モーディスの死角から飛びかかろうとする造物を斬り捨てて、剣についた砂を払う。今日の討伐対象は、精鋭兵と呼べるほど歯ごたえがある敵はいないものの、とにかく数が多かった。気を緩めていたら数で圧倒されてしまうかもしれない。息を吸い込んで剣の柄を握り直す。
 こちらの動向など一切気にせず、淡々と敵を薙ぎ払うモーディスを横目に、もう一度大剣を造物に向かって振るった。

 ◆
 
 離愁の刻から隠匿の刻へと差し掛かろうという頃になって、ようやくオクヘイマに戻ることができた。その日の討伐はさほど遠くまで出たわけではなかったけれど、どうにも敵の数が多かったのだ。終末が着実に近づいているからなのか、あちこちで獣が造物へと変化したり、堕ちた眷属が市民を襲う事件が増えている。まだ今回は未然に防ぐことができたけれど、それも運が良かっただけに過ぎない。今後、二人が呼び出される事も増えていくのだろう。
 モーディスと自分の二人が出なければならないほどの事態が起きてほしくない反面、彼と共に戦場を駆けることができるのを純粋に嬉しく思う自分もいる。クレムノスの伝統を体現した戦士であり、孤高の王子。彼の戦いぶりは勇ましく、一人の戦士として尊敬しているし、肩を並べられることを誉だとも思っている。黄金裔という立場がなければ、こうして並び立つことなどできなかったのだろうな、とも思うのだけれど。だからこそ、こうして今彼の隣に立てていることを幸運だと感じていた。

 腰まで届く黄金のたてがみが、血と泥に塗れて固まっている。ファイノンは少しだけ眉根を寄せた後、触ってもいいか、と問いかけてから桶を手に取った。無言の首肯を認めると、桶で湯をすくって、彼の髪をそっと流していく。湯はすぐに赤く染まり、泥と共に排水口へと流れていった。
 暗黒の潮の造物は、基本的に血液がその身体に通っているわけではない。完全に変異しきっているものであれば、斬り捨てたところで砂塵と化すだけだ。それは眷属も同様に。けれど、獣が侵蝕された程度の状態のものであれば話は変わってくる。変化する途中のそれらの身体は元の獣と同じく、赤い血が通っている。今日の討伐で襲いかかってきた一団には、まだ侵蝕されてきっていない獣が多く混ざっていたから、モーディスの身体に傷一つない代わりにその身体は倒した敵の返り血で染まっていた。
 黄金裔専用のピュエロスといえど、流石にこの状態で湯船に入るわけにはいかないから、モーディスはいつも湯に浸かる前に髪の血を洗い流している。むしろ、全身に返り血を浴びている状態の時は、身体を清めても湯船に浸からないことさえある。不死といえどそれはよくないのではないか、と口を挟んでからは、彼が湯船に浸かっている間にファイノンが髪の手入れをすることになって。自身としては彼の髪に触れる権利を得られたのは良かったけれど、それを簡単に任せてくる姿勢に釈然としない気持ちもある。口にしたら、二度とやらせてくれなくなる気がするから、言う気はないけど。
 湯船に浸かり、頭をファイノンの膝に預けているモーディスは、髪を流れる湯の感触に緩く目を細めた。顔に貼りついた髪を避けて、手でゆっくりとすいていくと、地肌を引っ張る感触が心地よいのだろう。すり、と頬を膝に擦りつけられて、くすぐったいよ、と笑った。
「君、僕の邪魔をする気か?」
「お前がもったいぶるからだろう」
 このペースではのぼせるほうが先だ、と続けられた言葉に混ざった自身への労いに苦笑しつつ、そっと額に口づけを落とす。もう少しだけ待ってくれ、と言葉を落としてから、再び桶を手に取った。
 
 こんな風に徐々に色を取り戻していく黄金のたてがみの毛並みを整える作業は好きだった。彼専用の洗髪剤で髪を洗い上げ、丁寧に油を塗り込んで仕上げていく。彼の人の美しいたてがみに触れられるのも、それを整えられるのも、幸せなことだった。
「そんなに俺の髪が好きなのか?」
「ああ。以前、戦士の誉だと言っていただろう? クレムノスにおいて、髪が長いことはそれだけ優秀な戦士の証だ、と」
「そうだな。固執するほどのものではないが」
 目を閉じて、モーディスはゆっくりと頷く。その声音は、どこかその考えそのものを否定するようでもあった。
「でも、君は伝統を体現する王子だ。でなければ、こんな風に伸ばすことはないだろう?」
……好きに捉えろ」
「ああ、好きに捉えさせてもらうよ。だから、これは君にとって、大切なものの一つだと思っている」
 以前、君から伝統を取り上げたら何が残るのか、と問いかけたことがある。モーディスはそれに対して何も返しはしなかったけれど。彼にとってのアイデンティティのようなものであることは、自分も理解しているつもりだ。クレムノスの王子、メデイモス。彼は紛争を信仰する国の王位継承者でありながら、その信仰の在り方に疑念を抱いている。民の行く先も、その未来も。伝統の中ではなく、地に足をつけてその道行きを歩むべきである、と。
 けれど、同時に聡い人でもあるから、真正面からその言葉を投げかけたとて民衆の心を動かすことができないことも分かっている。だからこそ、本人が伝統を体現するような行動をしているのだ。守るべきものは守り、受け継ぐ。その上で、不要なものは変えるべきである、と。そこに彼個人の人生は含まれていないようにも見える。為政者として取るべき行動は、只々、民衆の幸福のためにある。どこまでも真っ直ぐで誠実なその思想は、きっと民草に理解されることはないだろう。その上で、彼は彼の理想とする未来を残そうとしている。孤高で、高潔な男だ。
「だから――その伝統に触れることを許されているのが、とても嬉しいんだ。君の一部を、許されたような気がしてね」
「はっ、閨でさんざん好き勝手にしておいて、今さら髪一つ整える程度で一部を許される気になる、だと?」
 理解できんな、とモーディスが軽く手を振る。そんな風に僕たちの関係をまとめられると、たしかに今さら髪に触れる程度のことで、と思うのだろう。けれど、自分にとってはそう切り捨てるようなものではない。それこそ、こうして懐に入ることを許される前から、風に揺れる黄金の麦穂のような彼の髪に焦がれていたのだから。
「君の中の価値観ではそうなのかもしれないけどね、僕としては、本当に大切なものなんだよ。メデイモス――君とこうなるよりも前から、この黄金に惹かれていたんだから」
 整えた髪を一房すくって口づけを落とす。丹念に汚れを落とし、香油で整えた髪は指の通りがとても良い。ファイノンの行動を受けて僅かに眉根を寄せたモーディスは、結局まぶたを閉じて「そうか」と諦めたように肩を小さく竦めた。それ以上何か追及する気もないのだろう。
……済んだのなら、早く湯に浸かれ」
 もういい、とばかりに顔を逸らされ、はいはい、と仕上げに彼の髪を軽く絞って、ゆっくりと手ですいた。そうして湯に浸かろう、と桶を手にとって、指先の感覚が少しばかり浮いているなと実感する。モーディスの髪を整えるのに苦心していたからか、普段は剣を握りすぎて分厚くなった皮膚はふやけきっていた。
 湯を軽く身体にかけ、促されるままに彼の隣に座れば、「近い」と半ば文句のような甘い笑い声が落ちてくる。隣にいてほしいんじゃないのか、と笑いかければ「それはお前が隣にいたいだけだろう」と呆れたような声が返ってきて、次いで、先程までファイノンの手にあった黄金がゆっくりと体重を預けてきた。君もくっついていたいんじゃないか、と苦笑しながら、ファイノンはそっと頬に当たる湯気を感じるように瞼を閉じた。

 終末へと向かっている世界で、きっとこんなことを感じるのは間違っているのだろうけれど。この瞬間は本当に、穏やかで、温かくて――幸福に満ちている。僅かに揺れる水面の反射を、閉じた視界の中で感じながら、ファイノンはぼんやりとそう思った。

 ◆
 
 雷鳴が轟いている。紛争の半神の権能であるそれは、大地に絶え間なく降り注いでいた。本来であれば侵入者を駆逐するために使われるその権能が、今や視界に入るもの全てにその矛先を向けている。
 狂王ニカドリー、またの名を最後のクレムノス王メデイモス。黎明の差さない大地の果てで、その男は一人、静かに狂っていった。

 朽ち果てたクレムノスの玉座に、一人の獅子が立っている。暗黒の潮に浸されたからか、その身体の半分以上は人ならざるものへと成り果てたようにどす黒く変色していた。
 美しくなびいていた黄金のたてがみも、見る影もなく黒く染まり、固まっている。獣のような警戒心を隠さないまま、鈍く光る眼がこちらを静かに見据えていた。
「メデイモス……君は、」
 男の返答はない。ただ、肌を刺すような殺気だけが、ファイノン――永劫回帰の輪廻を繰り返すカスライナへと向けられている。

 あれは何回目の輪廻の出来事だっただろうか。モーディスの腰まで伸びる髪を自分が洗うと言い出して、彼がそれを承諾して。
 穏やかで、幸福な時間だった。ファイノンはあの美しいたてがみを預けられることが嬉しかったし、モーディスはその時間を共有できることを喜んでもいたから。
 そうして甘やかな時間を過ごした後は、どちらかの部屋で睦み合うのが常だった。
 体温を分け合うことで、人が死んでいく世界を、取りこぼした命を、戦場を忘れようとした。熱と欲で脳を灼いて、何も考えられなくなって。いま思い返しても、ひどい逃避行為だと思う。
 それでも、モーディスはそれに付き合ってくれた。戦場において生存本能からそうなるのはよくあることだ、と。
 最初に行為を承諾してくれた時のモーディスは、ファイノンの申し出を鼻で笑うことなく、穏やかな瞳でそう言った。そうやって、受け入れてくれる彼の優しさに甘えていた。自分たちの使命をこそ思えば、感情を告げる必要はない。ただ、熱を分け合って、一時の安寧を共有できれば、それで良いと思っていた。だから彼に想いを告げることも、縛りつけることもしなかった。あくまで身体を重ねるだけの戦友である、と。再創世が果たされ、再会できた時にはこの気持ちを伝えようと、そう心に決めて。世界の果てで暗黒の潮を止める責務を負った彼を見送った。
 そうして、処刑人から真実を聞いた自分は彼と統合して、彼らの記憶も全て引き継いで――こうして、紛争の半神と相対している。
 腰まで伸びた黄金の麦穂。それを清めていたのは今の輪廻ではない。けれど、どの輪廻だろうと。あの美しい金色がなびくのを眺めるのは好きだった。それは、今でも変わらない。
 たとえそれが――暗黒の潮に汚染されきって、見る影もなくなってしまったとしても。
 
 狂王が咆哮を上げ、共鳴するように大きく開いた翼の下で、天罰の矛が振りかざされる。雷を纏ったそれをヘリオスで受け止めて、カスライナは小さく息を吐いた。
 もう、あまり時間は残されていない。じきに火種が揃い、この輪廻のファイノンが再創世を実行しようとするだろう。
「すまない、メデイモス」
 きっと、言葉はもう届いていないのだろうけれど。
 紛争を継ぎ、自立防衛機構と成り果てたメデイモスが理性を残していることはほとんどない。暗黒の潮に侵されても防衛を続けるために、彼は自らの理性を切り離して、ただのシステムへと変化した。彼の唯一の弱点を歳月の剣で貫いて、動かなくなったその身体をそっと抱える。
 吐き出された黄金の血がマントにかかり、ひどい喘鳴が耳朶を打つ。弱点を刺し抜いたとはいえ、すぐに絶命するわけではない。無駄に痛みを与えてしまっただろうか、と彼の身体を抱え直すと、強く胸を叩かれた。
「きゅう……せい、しゅ」
 血と泡を吐いて、もうろくに呼吸だってできないだろうに、男は腕を伸ばして唇を動かす。
「おまえ、はいつ、も……そんな、かおを、している、な」
 もしかしたら自分のことを、ファイノンと混同しているのかもしれない。穏やかに細められた瞳は、仇敵に対するものには到底思えなかった。
「おまえのみちを、すすめ」
 困惑している自身に対して僅かに口端を上げて笑いかけると、意思の強かった瞳から急速に色が失われていく。
 結局、その言葉が誰に向けられたものだったのかを問いかけることもできないままに、モーディスは旅立っていった。そっと開いたままのまぶたを閉じてやって、その頬に手を当てる。まだ温もりが残っていて、それがなんだか余計に辛かった。
 動かなくなった彼の身体を抱えなおし、変色しきった部分に触れる。自身のうちにあるケファレの火種。その加護の力を呼び起こし、そっと侵蝕された表面を撫でた。
 パリ、パリ、と欠片が剥がれ落ちるように変色した箇所が色を取り戻していく。そのうちに、自身の記憶する通りのモーディスの姿へと復元されていった。
 そうすることに意味なんてない。ただ、自分が彼の汚染されきった姿を見続けることに耐えられないだけだ。ケファレの権能は記憶の上書きであり、取り戻されたモーディスの姿だって、この輪廻の本当の彼の姿ではきっとないのだろう。幾万回も輪廻を繰り返したから、なおのこと。彼の姿はいつだって高潔で、穢れのないものだった。敵の返り血を浴びたとしても、その姿は恐ろしいほどに美しかった。
 彼の身体から火種を取り出し、自身の胸に受け入れる。役割を終えた亡骸を見下ろして、不意に腰まで届く黄金の髪で視線を止める。編み込んだ毛先を留めていた金具が壊れたのだろう。全ての髪がなだらかに流れる姿は、ピュエロスでしか見かけることのないものだった。
 そういえば、この輪廻のモーディスも髪を伸ばしていた。多くの旅路の中で、彼はたいてい途中から髪を肩口くらいまで残して切り落としてしまうのだけれども。この回では、そうではなかったのだろう。
 どの輪廻のファイノンも、腰まで届くモーディスの髪の手入れをするのが好きだった。血と泥に塗れたそれを丁寧に洗い流し、櫛を通して香油を塗って。髪を編み込むのはいつまでも上達しなかったけれど、モーディスはその行為を咎めることはなかった。むしろ、ファイノンが結った不格好な編み込みをそのままにするものだから、結い直せばいいのに、と指摘したこともある。そのままでいい、とモーディスが笑うものだから、何度も練習を重ねたっけ。
 横たわるモーディスの髪を一房手に取る。何年も世界の果てで防衛を続けていた王の髪は、乾燥しきっていた。ケファレの権能で復元してやれば、記憶の中の彼の一番美しかった頃に戻してやれるのだろうか。そんな行為に意味などないのに。こうして、彼の身体を復元したところで、それを目にする者も、弔う者も自分しかいないのだから。
 時間はもうあまり残されてはいない。そんなことは誰よりも自分が理解していて。こんなところで足を止めることも、こんな一欠片の記憶に感情を寄せることも、無意味だと理解しているのに。それでも、残された人間性の部分が、自身の手を動かした。
 もう何年も、そんな繊細な行為をしていない指先はあまり器用に動かなかったけれど。少しだけ不格好に編み込まれた毛先を留め具でまとめてやって、カスライナは動かなくなった紛争の半神の身体をそっと抱え直した。
 
 ◆

「起きたか」
 人肌よりもやや高い熱が、自身の表皮に触れて目を覚ます。どうやら、少しばかり眠ってしまっていたようだ。いまだ意識が覚醒しきらない中で、水が滴り落ちる音が鼓膜をやさしく打った。ほかほかとした温かな湯気が身体を包んでいて、腰の辺りまで湯に浸かっている。ここはピュエロスだろうか。
「モーディス、あれ、僕……
「まだ寝ぼけているのか。お前がバニオをしたい、と言い出したのに」
「あ、ああ……そういえば、そうだった、かも」
 もう大分身体が快復してきたから、そろそろバニオをしても大丈夫、と身体を重ねた後の彼に伝えたのだ。だからこうして、黄金裔のためのピュエロスに二人でやってきて、モーディスが身体を流してくれて。別に病人というわけじゃないし、全然動けるのだからそれくらい自分でできるのに、と思ったけれど、モーディスがなんだか無言でこちらを見つめるものだから。彼の好きなようにさせてやろう、とファイノンは体の力を抜いた。
 そうして、身体を清めて、湯に浸かりながら彼に髪の毛を洗ってもらっていたんだっけか。彼の指先があまりにも優しくて、温かいものだから、そのまま意識を手放してしまっていた。
 どのくらい眠っていたのかは判然としないけれど、モーディスが洗髪剤を流しているところを見るに、そこまで長い間意識を失っていたわけではないのだろう。
 ざぶ、と温かな湯が髪を通っていく感覚に身を委ねながら、ゆっくりとファイノンは目を閉じる。
「夢を、見たんだ。永劫回帰の中で、君とこうしてピュエロスで髪を洗う夢。君は髪が長くて、僕はその髪を洗うのが好きだった」
……記憶にある。お前はいつも手入れをしたがって、何が楽しいのかは知らんが血と泥に塗れた俺の髪を丹念に洗っていた」
「そっか……君も覚えているんだ」
「ああ、朧げだがな」
 モーディスの指先がファイノンの地肌に触れる。鼻先を柑橘の甘い香りがくすぐって、彼がいつも使っている香油を塗り込まれているのだと気がついた。
 マッサージをするように、香油をまとった指先がファイノンの髪を揉んでいく。こめかみの辺りを強く押されれば、圧迫感に小さく声が漏れた。
「お前もよく、こうするのが好きだった」
「なんだ、仕返しか? 君はマッサージをされるといつもくすぐったがっていたね」
「慣れていなかっただけだ。特段、嫌だったわけではない」
 むしろ、心地よかった。と続けられて、返す言葉を飲み込んでしまう。きっと、モーディスはファイノンが慈しんだあの時間を自分に与えようとしてくれているのだ。もしかしたらずっと、彼はそうしようとしてくれていたのかもしれない。ただ、僕達の立場や関係は、今のように自由なものではなかったから。
 ファイノンがモーディスにしていたことを、統合されても記憶の欠片として持っていたことが嬉しくてたまらない。それを、彼が自分に返してくれようとすることも。ごく当たり前のように、そうやって慈しまれることにまだ慣れなくて、誤魔化すようにファイノンは笑った。
「やっぱり、君には敵わないな」
 身体を起こして、彼の唇にそっと自身のそれを重ねる。いくらピュエロスの中とはいえ、湯に浸からずにファイノンの髪を洗っていたモーディスの身体は、少しだけ冷えていた。
「もう僕は十分だから、さ」
 久々に君の髪を手入れさせてほしい、と続けて鼻先を擦り寄せれば、モーディスは仕方ないとばかりに肩を竦めた。

 ◆

 背中から第十胸椎を刺し貫いた男は、さっさと火種を持っていけばいいのに何故かこちらを見下ろして苦しそうな表情を浮かべていた。
 昔からそうだ、この男はいつだって、果たすべき使命のために必要な行為だと分かっているのに、全てを取りこぼさないようにと尽力する。
 それはきっと、奴の生来の気質なのだろう。純粋で、まっすぐで。この男にしか持ち得ないガラスのように脆い心。
 弱点を明確に刺し貫かれた時点で、切り離した理性が戻ってきて、この男が唯一であることを教えてくれる。
 紛争の半神、不死なるメデイモスが死へと至る場所を知る男は、この世界にただ一人しか存在しないのだから。
 仮に、救世主と敵対することがあるのなら――それはきっと、奴にとってどうしようもない事態であることの証左に他ならない。
 故に、正確に自身の弱点を貫けるのなら、戦士としての切っ先を鈍らせることなく通せるのなら。
 それが、どのような状態のファイノンであろうと、その道の行く先が照らされることを祈ろう。

「たとえ、その道行きが苦難に溢れていようとも――我は、汝の辛苦を払う矛となろう」
 
 だから、そんな顔は似合わない。小さく開いた唇は、正しく音を発音できたのかさえもわからないまま。
 その思考を最後に、メデイモスの意識は急速に闇に落ちていく。
 それは、記録の端に残された、幾万回もの輪廻のうちの小さな一つの思い出だった。
 


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