朝ぼらけの光が差し込んでいる。人々が目覚め、起き出し、タソガレドキ城下には一日を始めた朝の気配が満ちていた。
一方で、タソガレドキ忍軍詰所においては、ようやく仕事がひと段落した空気が漂っていた。他領に潜入していたくノ一が、情報を持って帰参したのだ。
組頭雑渡昆奈門に報告をしているのは、最近実務に投入されるようになったばかりの若いくノ一である。今回が実質的な初任務とあって、彼女の背後には先達である壮年のくノ一と、直属の上司である小頭の押都が控えていた。
「───以上が、ご報告となります」
「うん。ご苦労さま。初任務、よく頑張ったね」
「はい! ありがとうございます!」
雑渡の労いに、若い娘の顔が安堵に綻び、ホッと肩から力が抜ける。忍であれば秘さねばならぬところだが、初陣を無事に終えた彼女にそこまで求めるのは酷であろうと、皆が優しく口を噤んだ。娘は、眦に睡魔と疲労を滲ませながら、傍らに控えてくれていた先達に膝を向けた。
「でも、こうして無事に戻ってこれたのは、先輩のおかげです。本当にありがとうございました」
「任務成功のためだけど、どういたしまして。次はこうと限らないから、気を引き締めなさいね」
「はいっ」
穏やかに窘められて、娘はしっかりと背筋を正す。
「ま、今日ばかりはしっかり休め」
「はい!」
押都に促されて、娘は失礼します、と丁寧に礼をし、雑渡達の前を辞した。雑渡の耳元に口を寄せた押都がひそひそと何事かを伝え、雑渡が二言三言、押都に言づける。軽く首肯するように一礼してさっと消えた押都の姿を追うようにして、雑渡もよっこいせと腰を上げた。
「殿のところですか」
「うん。ちょっと遅くなるかもしれない」
くノ一に訊ねられて、雑渡が答える。雑渡の纏う空気は変わらなかったが、尊奈門は、あ、と目を瞬かせた。普段は上司と部下という関係性の二人も、ごくたまに、こういうときに、この二人は家族なのだなと感じ取れることがある。言葉の端々に労いの雰囲気があるというか、二人にだけしか伝わらない、不可侵ものがあるというか。尊奈門が珍しがっていると、彼女はジト目で雑渡を見遣った。
「また余計な道草を食って、山本殿に御迷惑をおかけしてはなりませんよ」
「ええ? でも、この間の花は、それはもうお前によく似合っていて」
「どこにつけて行けと仰るんですか」
彼女は黒鷲隊に属する忍だ。必要以上に聞かざることは、相手へに己の印象を植え付けることにも繋がる。避けなくてはならないそれらを雑渡が分かっていないはずがない。口をへの字にする彼女に、雑渡はいけしゃあしゃあと言った。
「どこにつけて行かなくてもいいじゃない。私の前で飾ってくれていたら」
「呆れた。手土産など結構ですからね」
「分かってるよ。分かってるけど、お前に似合うと思ったものが、気付けば懐に入っているというか」
「言い訳無用でございます。そら、さっさとお行きなさいませ」
しっしっと手で追い払われて、雑渡は「は~い」と間延びした返事をした。直後、声音とは裏腹に、瞬きひとつで長身体躯の姿が消える。彼女が、まったく、と半眼で嘆息する。
「貢癖は昔っから治らないんだから。尊奈門、そして高坂殿。二人とも、似たようなことがあったら、即座に止めてくださいましね」
「え、あ、はあ」
「
……善処いたします」
曖昧に濁した尊奈門とは対照的に、高坂はどこか複雑そうにむつかしい顔をした。何かに気が付いた尊奈門が、はた、と瞬く。
「そういえば。組頭がお土産など見繕われるのは、昔からなのですか?」
尊奈門は、火傷を負ってから後の雑渡しか、まともに知らない。というより、あんまりよく覚えていない。自分の父が雑渡に助けてもらわなかったら、そして雑渡が当時齢いくばくかの尊奈門の看病に何も感じない性質であれば、こうして側近に取り立てられることもなかっただろうと、心のどこかで思っている。
尊奈門の知る雑渡は、火傷に苦しみながらも尊奈門の前で一切弱音を吐かず、一方で己の見目に足を引きずられながらも彼女のことを想って心を砕く、そんな人だった。折に触れて土産を調達し、お前にはまだ早いかなと揶揄うようにしながら、「これは私の良いひとへの贈り物だよ」と教えてくれた雑渡のことを、尊奈門はよく覚えている。
火傷を負う前からそんな感じだったのかという尊奈門の疑問に、そうだ、と高坂が頷いた。
「雑渡さまは、かねてより一途なお方だからな」
自信満々に言い切る高坂に、「ええ?」と彼女が胡乱気に片眉を寄せる。
「一途ぅ? そうでしたっけ」
「えっ」
違うんですか、と高坂が彼女のことを二度見する。
「
……手土産の菓子や髪飾り、使い勝手の良い反物など、逐一丁寧に吟味しておられましたが
……」
「べつにそれは私だけに限ったことでは
……あぁ、そうか。そうですね、高坂殿が狼隊に入隊されてからは、確かに。大分落ち着いておられましたね」
尊奈門と高坂は、思わず互いの顔を見合わせた。
「ええと。大分落ち着いた、とは
……?」
おそるおそる訊ねる高坂に、彼女はあっけらかんとして言った。
「あのひと、若い頃はそりゃあもう、忍の癖に流した浮名は数知れずでね」
「ええ!?」
彼女の言がまったくもって信じられず、尊奈門は素っ頓狂な声を上げた。高坂は声こそ上げなかったが、片眉をひくりとそよがせた。
「終いには女同士で揉めたこともあったのよ。そりゃあもう大変だったんだから。アレ結局どこまで話が上がったんだったかしら
……当時の小頭が出張ってきたらしいのは聞いたけど」
小頭に怒られるほどって。ごく、と二人の喉が生唾を飲み込み、眉が潜められる。
尊奈門と高坂は、火傷を負った後にようやく嫁ぐことになった彼女に対して、できるだけ誠実であろうと努力する雑渡の姿しか知らないのだ。そんな雑渡が、小頭に叱られるほどに遊び人だったのも信じられないが、だとすると、彼女が雑渡に嫁いだことが、到底信じられなくなってくる。だって。
「
……あの。奥方さまは確か、浮気などは言語道断と」
「そうですよ」
しっかりと頷く彼女。尊奈門と高坂の脳裏には、「浮気しないって証文書かされてるからね、私」などと飄々と嘯いて、潜入任務を他の忍に回す雑渡の姿があった。
尊奈門は、怪訝そうな顔を隠しもしなかった。
「なんで組頭に嫁ごうと思ったんですか?」
「こら!」
明け透けに聞く尊奈門を高坂が叱る。いいんですよと高坂を宥めて、はて、と彼女は頬に指を添えた。
「私が嫁ごうと決めた理由
……、なんだったかしら」
「え、ええ
……」
記憶をさらう素振りをする彼女に、尊奈門を叱った高坂さえも、戸惑いの方が勝ってしまう。彼女は、うーん、と眉間に皺を寄せた。
「確か
……そうねえ
……最初は、全然そんな感じじゃなかったというか
……寧ろ嫌いだったというか
……、
……」
ふと、彼女の瞳が、どこか遠くを見晴かす。
◇
タソガレドキ忍軍の詰所は、タソガレドキ城の裏側に仕掛けられた絡繰り仕掛けの向こうに設えられている。
基本的には籠城戦を想定した作りになっているが、簡易的な修練ができるように、こぢんまりとした稽古場なども用意されている。彼女は常日頃から暇を見つけては稽古場に顔を出し、忍軍きっての武闘派とも謳われる月輪にさえ見落とりしない修練を積んでいた。
本来、黒鷲隊に所属するくノ一は、過度な修練によって肉体を強化することを推奨されない。それなりに俊敏な移動ができればよい、とされている。幾ら鍛えたところで男の膂力にかなうはずもなく、また下手に肉を固くしてしまうと色の任務に影響が出てしまうからである。
女の細腕では、いくら食べても男ほどの筋肉はつかない。一度に斬ることのできる藁の数も、一度に突き刺さる手裏剣の深さも、距離も、男には及ばない。
できなかったことができるようになる度に得られる達成感は、同時に、薄らと感じる透明な天井が、胸底に虚脱の穴を開けるような心地を連れてくる。
それでも、彼女は女だてらに刀を奮い、男どもと同じような任務に出ることが許されている。この事実をよすがに、彼女は日々鍛錬に励んでいた。
嘆息ひとつで気持ちを切り替え、胸中に凪を置こうとする彼女の耳が、ふと、きゃいきゃいと賑やかな声を捉える。
他のくノ一たちの声だ。稽古場にまで響くほど騒いでしまえば、また先輩方から小言を喰らうことだろう。
巻き込まれるのは面倒だな、と彼女は素直に眉を顰めた。
それに、くノ一たちがこれだけ騒いでいるとなれば、きっとその中心には、例のあの人もいるのだろうし。
素早く判断を下した彼女は、逃げるように踵を返した。
「精が出るねえ。ご苦労さま」
だが、あと一歩遅かった。彼女は溜息を吐きたいのをぐっと堪えて、声のした方を少しだけ顧みた。
「
……どうも」
眇めた視線の先には、時期組頭の呼び声高い、狼隊小頭の雑渡昆奈門が立っていた。
「一人で自主練とは。相手がいた方が張り合いあるんじゃない?」
「はあ」
生返事にもめげる様子を見せず、に、と笑った雑渡が木刀を持つ。彼女は白けた雰囲気で、精悍な顔立ちからあからさまに視線を逸らした。上役に対して礼を失した態度だが、彼女に改めるつもりもなく、また咎める者もいなかった。
「
……おなごの細腕では、男の膂力には敵いませぬゆえ。わざわざ小頭のお手を煩わせるわけには参りませぬ」
「またまたあ。聞いたよ、この間、月輪の若いのを吹っ飛ばしたって」
「入隊したばかりの新人でしたから」
場数を踏めば、いずれ敵いますまい。彼女の声はどこまでも淡々としていて、早くここから離れたがっているのが言葉の端々に表れていた。
「
……陣内から聞いたよ。火器にも手を出そうとしているとか」
「手数はあるに越したことはございませぬ。腕力での勝負より、よほど利があります」
「陣内の教え方は癖があって苦労するだろう。手伝ってやろうか」
「結構です」
ぴしゃり、と音がしたようだった。
仮にも上役に向かって突き放すような言葉を発した本人は、どこまでも澄ましたものである。
「
……汗かいてるね。手拭使う?」
「御前失礼いたします。では」
彼女は軽く会釈をして、今度こそ踵を返し、さっさとその場を後にした。取り付く島もないその様子に、雑渡がひとりぽつねんと稽古場に取り残されることとなったのだった。
くノ一に宛がわれている部屋でてきとうに汗を拭った彼女は、食堂に移動した。日が少し傾きかけている時分のせいか、食堂にいる人影はまばらだった。
彼女には、今晩から任務が申し渡されている。胃に何か物を入れたら水か湯を浴び、少し寝て、夕暮れに備えた方がいいだろう。夕飯代わりの兵糧丸も幾らか出してもらって、彼女は遅めの昼食を手に、空いている席についた。いただきます、と手を合わせて箸を持ったところで、聞き慣れた声に名を呼ばれる。
反射的に顔を上げれば、そこに立っていたのは湯気の立つ皿を乗せた盆を持っている山本陣内だった。
「これは、山本さま」
「隣、いいか?」
「はい、勿論です。どうぞ」
彼女は箸で大きめに掬おうとしていた米を、幾らか小さくして摘まみ、小さく開けた口でそれを受け止めた。
「最近どうだ。夜の任務が増えているだろう」
「押都小頭にお気遣い頂いて、なんとかやっております」
「そうか。それは良かった」
「この後も、先輩の護衛です」
言って、彼女は少しだけ頬を緩めた。
「女だてらにある程度の腕が立って、いざというときに侍たちに隙を作れるのはなかなかに有用と、お褒め頂きました」
嬉しそうにする様は、そこらの年頃の娘と、何ら大差ない。そうかそうかと、山本も目尻の皺を深めた。
「
……小頭や、山本さまなどには、頭が上がりません。くノ一のくせに、色の任務ができない私を、なんとか使ってくださって」
どうしても、彼女の脳裏には、己にのしかかる生々しい男の吐息が嫌に刻まれている。心臓が氷塊に撫でられて、己の腕が細枝か何かになったかのような、糸の切れた人形にでもなったかのような、そんな心地さえ覚える。こどもの頃の、最早朧気になった記憶でさえ、彼女の四肢を見えぬ鎖で堰き止めてしまうのだ。
山本は、大したことはないという風情で言った。
「それこそ、おまえが気に病むことではない」
穏やかな声に、彼女は箸を止めて顔を上げた。
「おまえたちをどう活かすか。それを考えるのが、私達のような先達や上役の役目だ」
「
……有難うございます」
「ま、とはいえ」
山本が声を潜め、彼女の方に少しだけ身を寄せる。合わせて、彼女も山本の方に耳を寄せた。
「できるだけ、傷を負ってくれるなとは、思っているんだぞ。お前には、嫁入りする道もある」
彼女は瞬いて、口の中にものがたくさん詰まっているふりをした。しかし山本の視線はそう簡単に外れなかったので、彼女は漸う口の中を空にして、「そうですかねえ」と曖昧に言った。迷い箸になりそうなのをごまかして、汁物を啜る。彼女の胸中を知ってか知らずか、山本は「そりゃあそうだろう」と明るく言った。
「おまえは笑うと可愛いし、腕が立つばかりではなく手先も器用だ。色の関わらぬ潜入任務でも、毎度の如く潜入先から惜しまれているではないか」
「そうですかあ?」
にやりと笑って満更でもなさそうに片眉を持ち上げた彼女に、山本は大真面目に「そうだとも」と頷き返す。
彼女は内心苦笑した。分かりやすい喜車の術だ。しかし、ここまでおだてられたら、乗りたくなくても乗ってしまうというか。乗ったところで山本さまだし、まあ別にいいか、と思ってしまう。こういうところに、山本の人徳が感じられる。
「どうだ。いいやつとか、いないのか」
急に俗めいて、ずい、と身を乗り出す山本。それでも相手に嫌悪を抱かせない、この人のこういう優しいところが、好ましいなあと思う。できるだけ余人に踏み込ませないようにしているところでも、ついつい、いろいろと緩んでしまうというか。彼女はごまかすようにして小さく首を横に振った。
「背の君なんていませんよ」
「好みくらいあるだろう」
「そうですねえ。
……一途な人とか」
「ほう」
「山本さまみたいな」
ちょっとだけ肩を持ち上げ、顎を引き、上目で壮年の男を見つめる。小さく丸くなった目と視線が合って、山本がはくりと口を閉じた。とは言え、瞬きひとつのその間さえ保たず、彼女は静かに吹き出して、肩を揺らして笑った。山本は複雑そうな声音で、おまえなあ、と力なく彼女を窘める。
「分かってますよ。冗談です」
「
……」
「でも、山本さまの奥方さまのことがちょっと羨ましいのは本当ですよ」
山本と彼女の皿は、もうほとんど空になっている。
「あんなふうに笑えるようになるのなら、嫁入りも捨てたものではありますまい」
「
……そうか」
彼女は笑みを深めた。噛みしめるようにして再度「そうか」と相槌を打った山本が、ほんの少し思案する素振りを見せる。
「
……しかし、少々意外ではあったな。おまえのような年の頃であれば、昆奈門が槍玉に上がるものと思っていたが」
「あの人のいいところは忍としての実力だけでしょ」
「そんなことはなかろう」
途端に冷徹になった声音に、山本は思わず身を引いてまじまじと彼女の方を見遣った。
「任務成功にはツラの良さもあるに越したことはないですしねえ」
いけしゃあしゃあと食後の茶を啜る彼女を見て、山本はうっかり反論の言葉を失った。
雑渡が彼女にちょっかいを出して、彼女がそれを蛇蝎の如くとまではいかずとも厭うているのは周知の事実だったが、ここまでとは。山本はちらりと天井裏を見遣って、内心、呆れ果てた。どれだけ付き纏っとるんだ、あの男は。溜息を堪えた山本の意識を、「あ、そうだ」という彼女の声が引き戻す。
「山本さまからあの人に一言お伝えいただいたおかげで、もう色の稽古がどうのといろいろ持ち出されることはなくなりました。お手数おかけしまして、ありがとうございました」
「ン、ああ、いや。うん、構わんとも。大したことではなし、あれは昆奈門が悪いからな。
……それに、お前の振った袖が、だいぶ効いていたし
……」
色事が苦手なら、自分が面倒を見てやろうかと揶揄った昆奈門を、彼女はどこを見ているか分からない顔で「あ、間に合ってまーす」とバッサリ斬り捨てたのだった。まさか彼女を動揺さえさせられないとは思わなかったのか、雑渡が珍しく目を丸くして固まっていたのを、山本は今でも鮮やかに思い出せる。
「
……ま、なんだ。あんまり邪険にしないでやってくれ」
「そうやって山本さまが甘やかすから、組頭などにお小言を頂戴することになってるんでしょ」
「む、」
「失礼、口が過ぎました。お許しください」
「いや、まあ
……事実ではあるからな
……そんなに甘やかしてるつもりはないんだがなあ
……」
本気の声音だ。彼女は嘆息を堪え、それ以上の言及を避けることにした。これがこの歳まで続いているのなら、死ぬまで治るまい。
「それじゃ、私、夜に備えて湯を浴びて、仮眠を取りますね。失礼します」
「うん。任務、気をつけてな」
「はい。ありがとうございます」
颯爽と、彼女が食堂を後にする。
「こりゃあ、苦労するなあ」
山本がぽつりと独り言ちたのを、天井裏で聞き拾ったものがいるとか、いないとか。
◇
「その後、私の任務が伸びに伸びてね。しばらくタソガレドキに帰ってこれなくて。人伝に、情勢がきな臭くなっているとか、当時狼隊小頭だった雑渡さまが大火傷を負ったとか聞いたわね」
「そうだったんですか
……」
雑渡が半身に火傷を負うことになったあの頃は、忍軍をして上へ下への大騒ぎで、いつまでも何かしら慌ただしく、誰もが常に心のどこかで雑渡の容態を気にかけていた。雑渡に近い尊奈門と高坂は、当時、タソガレドキ領外に忍がいたという事実が抜け落ちていたことに遅ればせながら気付き、己の視野の狭かったことを、少しだけ反省した。
「まー、流石に死んだなと思ったわね!」
あっけらかんとした言葉に、ずこ、と姿勢を崩す尊奈門と高坂。
「復帰してからのお姿を拝見したのが任務の定常報告のときで、あんまりにも外身が変わっているのに中身が全く変わってなかったんだもの、驚いたわねえ」
あくまでもカラカラと笑う彼女に、二人は顔をもにょりとさせた。ほんのすこし選択を過てば地獄の加速するような、常に死神の指先が首元に引っかかっているような日々を直接肌で感じてきた二人にとっては、彼女の態度はどこか救われるような、とは言え同じように笑い飛ばせるかと言われると、少々異なるような気もする。
「そしたらあのひと、報告を聞かなきゃいけないとかなんとか言って、私の任務先にまで足繁く通ってね。道中で何かしら手土産を見繕って、こっちは仕事中なのにあからさまに口説くもんだから、ちょっと困ったわねえ」
潜入中に、説明のできない荷物があからさまに増えるのは、じゅうぶん痛手足り得る。
「私の実力を試すつもりで他にもこんなことしてるんでしょって言ったら妙に焦っていたかしらね。懐かしいわねえ
……」
昔を懐かしむ彼女の肌が、あのとき己の体躯を包み込んだぬくもりを思い出す。
───私にはもう、おまえだけなのに。それだけでも、信じてはくれないの。
いつになく、情けなく弱って、震えた声音だった。
「
……それで、組頭に根負けしたってことですか?」
無邪気な尊奈門の声に、彼女が瞬いて意識を現実に引き戻す。
「尊奈門、おまえ、他に言い方はなかったのか」
「ええ? 他に言い様がありますか?」
窘められても簡単には折れない尊奈門に、彼女は思わず頬を緩めた。
「いいのよ。ま、それであながち間違いじゃないしね」
「いや、まったく」
どこからともなく降ってきた声音に、尊奈門と高坂が小さく瞠目する。
「山本小頭!」
「いらっしゃったんですか」
「ちょっと前からな」
言って、姿を見せた山本がどっこらせと腰を下ろす。
「お前がついに折れたと聞いた時は、さしもの私も耳を疑ったぞ。夢でも見ているのかと思ってな。押都など、明日は槍の雨かと本気で案じていた」
「そ、そんなにですか
……」
困惑を隠せずに身を引く尊奈門。彼女は淡く苦笑した。己の生意気な態度を、小頭たちに許容してもらっていた自覚はある。
「その節は、いろいろとご迷惑をおかけしました」
「なに、構わんさ。こちらとしても、まあ、それなりに愉しませてもらったからな」
事実、山本が彼女から男の好みを聞きだしたその日から人の変わった雑渡に、大人たちは皆揃ってにやにやと笑って、ここぞとばかりに雑渡に遅れてやってきた青い春を揶揄った。若者の恋路はいつだって、大人たちにとっての良い酒の肴になる。
同時に、山本は、彼が二人を見守ることに決めた日のことを思い出していた。
何故ああも彼女にこだわって空回りをしているのか、雑渡に訊ねたことがある。おまえほどの偉丈夫なら他にも縁はあるし、四苦八苦する必要のない気楽な相手ならそれこそ両の手では足りぬほどで、そういうものは必要であればいつだって継ぎ足せた。組頭を輩出したことがある雑渡家嫡子であれば、時期組頭の立場が回ってくる可能性も高く、多少の家格の差であれば良家から姫を娶ることだってできただろう。
しかし、雑渡は彼女がいいという。どうしても、と。
───あのこの笑った顔は、いちばん近くで見ていたいから
忍ではない、ただこの世に生を受けた、どこにでもいるような男の顔をして、雑渡はそう言った。
だから、山本は分かりやすくもこっそりと、二人に幸あれかしと、心底から祈っている。
「
……ま、何事も、素直が一番だということだ。お前達はこの話を反面教師に、好いたおなごには、素直に優しくするんだぞ」
「はい!」
元気に返事をする尊奈門。
「
……おもしろい話をしているようだね」
ぎく、と全身を強張らせる尊奈門と高坂。
「おや、組頭。お戻りでしたか」
山本は飄々としたものだ。お戻りですよ、という雑渡はじと目で山本を睨めつけた。
「よくもまあ、人の立ち入った話をぺらぺらと。どうして止めないの」
水を向けられた彼女も、澄ました顔で肩を竦めるだけである。
「さて、私もそろそろお暇させて頂きます」
「あ
……お疲れのところ、お引止めして申し訳ございませんでした」
「いいのよ、気にしないでね」
「ゆっくり休んでおいで」
雑渡の穏やかな声音に、彼女が笑みを深める。今度こそ部屋を出た彼女の気配が遠くなってから、二人のやりとりを見つめていた尊奈門が、しみじみ言った。
「組頭でも、惚れたおなごには敵わないんですねえ」
「
……」
尊奈門は、雑渡にいつもよりちょっときつめに口元の覆いを巻かれて、しばらくは口を開かさせてもらえなかった。
おわり