どう声をかけたものかと逡巡している間に、彼は車へ乗り込んでしまった。だが、声をかけたところで、相手は覚えているわけがないだろう。何年か前に電車の中で一度会ったきりだ。それにあの時、眼鏡にマスクを付けていたのだから、水木の顔だってろくに見えていなかったはずだ。
彼は祖父の客人だろう。それなら祖父が知っているはずだ。
水木は祖父の部屋へ向かった。
「失礼します、おじいさま」
声をかけると、部屋の中から返事が聞こえてきた。
「おお、入れ」
部屋に入ると、祖父はお茶を飲みながら新聞を読んでいた。水木に気付くと、祖父は「どうしたか?」と顔を上げた。
「さっき、おじいさまの客らしき方とすれ違ったのですが……」
そう尋ねると、祖父はああ、と頷いた。
「幽霊か」
「幽霊?」
「幽霊会の会長じゃよ。見た目も幽霊そっくりじゃろう。あやつがどうかしたか?」
「あ、いえ。初めてお見かけしたので」
なんと答えればいいかわからずに、水木はとっさに誤魔化した。祖父はいぶかしげな顔をしていたが、深く追及することはなかった。
「幽霊会というのは、今時珍しく祭りの的屋なんかを仕切っておる、昔ながらの小さい組織でな。あの男が入り婿として入ってからはどうなることかと思ったが、あやつはなかなかのやり手じゃ。先代は見る目があった」
やり手というなら、関東一とうたわれる龍賀会を仕切っている祖父もそうだ。その祖父がこうして手放しで褒めるということは、よほどの人物なのだろう。
「入り婿なのですか」
「ああ。先代の一人娘と結婚してな。その娘というのがまた大層な美形じゃったが、出産のおりに亡くなってのう。あやつもずいぶんと気落ちしたようじゃ」
空洞のような目をして泣いていた横顔を思い出す。つらく、さびしく、この世はまさに地獄だと言っていた。
しかし、先ほどの様子を見ると、彼は妻を失った悲しみから随分立ち直っているように見えた。
「余もあの当時はずいぶん心配したが……杞憂じゃったようじゃのう」
しみじみと、祖父は言った。よほど彼を案じていたのだろう。祖父が彼を心から信頼しているのがわかる。それほどの人望がある人物らしい。
「やり手というのは、具体的にどのような手腕をお持ちなのでしょう」
祖父はきょとんとした顔をしたあと、にやにやと人の悪い笑みを浮かべた。
「珍しいのう、こんなに同業者のことを聞きまわるなんて。まさか、あやつに惚れたか?」
「惚れ……!?」
揶揄われているだけだとわかっているが、思わず顔が熱くなる。そんなはずはない。ただ、あの男が今は穏やかな心境でいられるのか、日々どのように暮らしているのかが気になるだけだ。
「そんなんじゃ……」
そんなんじゃない。たった一度会っただけの男に恋をするなんて、そんなことありえない。ありえないのに、否定の言葉が出てこない。頬が熱い。ぐっと拳を握りしめ、うつむいてしまった水木に、祖父は愉快そうに笑って言った。
「これは驚きじゃ。まさかお前があの男に……いやいや、よい。実によい。よし水木、わしがあの男との見合いの席をもうけてやる。ちょうどあやつには、後添えをすすめてやろうと思っておったところじゃ」
「見合い!?」
どこをどうしたら見合いなんて話になるのか。慌てて首を横に振る水木に、祖父は「遠慮はいらん」と鷹揚に言った。
「なんたってわしが後押しするんじゃ。心配は要らんぞ。お前たちはわしが世話する百組目の縁組じゃ」
「いえ、そういうことではなく!」
恋かどうかは分からないが、あの男のことが気になるのは確かだ。しかし、見合いというのは未婚の男女が結婚を前提におこなうものである。あの男とどうにかなろう気持ちは水木にはなかったし、そもそも男同士だ。それに、こちらはまだ学生で勉強が本分であるし、向こうだってまだ死んだ奥さんのことを忘れてはいないだろう。
「お前はあの男のことが気になるんじゃろう?なら、見合いでもなんでもしてみればよかろう」
祖父は完全に面白がっている。本気で「嫌です」と断れば、無理強いはしないだろう。だが、水木はそう言えなかった。
(あの人に会える)
たとえ見合いでもなんでも、再び言葉をかわすことができるなら、――――会いたいと、思ってしまったのだ。
見合いの日、緊張しながら仕立てたばかりのスーツに腕を通した。ひげもきれいに剃ったし、髪のセットもしてもらった。担当してくれた美容師は「男前が二割増し」と太鼓判を押してくれたし、我ながらなかなかの出来栄えだ。あとは見合いの相手が来るだけである。水木は落ち着かない気持ちで、そわそわと部屋の入り口を窺っていた。
「失礼します」
ふいに声が聞こえて慌てて居住まいを正した。襖を開けたのは彼だった。数年前と少しも変わっていない。男は水木と祖父の顔を交互に見て、不思議そうな顔をした。
「おお、幽霊の。よう来てくれたな」
祖父に促され、男は水木の前に座った。それを合図に頭を下げる。
「こんにちは。龍賀水木です」
もしかしたら、自分のことを覚えてくれていないだろうか。内心ドキドキしながら男の顔を見つめていたが、彼は訝し気な顔をするばかりだ。
「……初めまして。幽霊会の田中じゃ」
しばらくして、彼はようやくそう言った。初めまして、ということは、覚えてはいないようだ。少しがっかりしたが、眼鏡にマスクをつけていたのだし、たった一度会ったきりの自分のことなど覚えていなくて当たり前だ。
祖父がいろいろと話しているが、水木の耳には全く入ってこなかった。幽霊のようなたたずまいは変わりないが、それでもやつれて今にも死んでしまいそうだったあの時より、ずっと元気そうだ。感慨深くなって、ついじっと見つめていたことに気づいたのか、男は水木に顔を向けた。
――――生きていてくれて、よかった。
そう思うと、つい頬が緩んでしまいそうになり、慌てて表情を引き締めた。
しばらくして「あとは若い者で」と祖父が部屋から出て行ってしまった。
何から話せばいいだろう。話したいことはいろいろあった。だが、何を言えばいいのか分からなくて黙り込んでしまった。そんな自分を気遣ってくれたのだろう、男が口を開いた。
「すまんのう。……時貞翁は言い出したら聞かんお人じゃから……」
「いえ」
しまった、と水木は内心焦った。せっかく話を振ってくれたのに、そっけない返事になってしまった。また二人の間に沈黙が落ちる。静かな部屋に響くのは、窓の外から雨が降るかすかな音だけだ。
「わしは、再婚するつもりはないんじゃ。おぬしが嫌だとかそういう訳ではなく、亡き妻のことがまだ忘れられんのじゃ。だから、水木殿からも時貞翁によう言うてくれんか」
そう言って、男は微笑んだ。目じりに笑い皺が寄る。こんな風に穏やかに笑える強さがまぶしかった。水木はまだ、こんな風には笑えない。悲しみも苦しみも呑み込んで、それでも、彼はこうして前を向いて歩いている。
「……奥様を、愛しているんですね」
「ああ。今でも変わらず、この世で一番愛しておる」
迷いのない答えだった。
なんて深く強い愛なのだろう。彼にここまで愛される妻は幸せだと思った。たとえ死んでも、二人の心はずっと結びついているのだ。
「うらやましいです」
思わずつぶやいた言葉に、男は少し目を見開いた。
「おぬしにも、いつか自分より大事なものが現れるじゃろう。その時が来たらきっとわかる」
もしかしたら、ほんの慰めのつもりだったのかもしれない。だが、その言葉は水木の胸に静かに染み渡った。いつか巡り合える、運命だと思える人――――その人が目の前の男であればどんなにいいだろう。
ぎゅうっと胸が苦しくなって、それきりほとんど話せなかった。
ああ、そうだ。自分はこの男に、ゲゲ郎に惚れている。だが彼は今でも妻を深く思っていて、決して水木を愛することはない。恋に気が付いた瞬間に失恋するなんて、なんてひどい話だろう。
「どうじゃった、水木」
ゲゲ郎が帰ったあと、祖父がそう聞いてきた。見合いのことを言っているのだろう。
「……話を進めてもらえませんか」
「おお、そうか! あやつが気に入ったか!」
祖父は上機嫌で言った。
龍賀の家は、ゲゲ郎が長を務める幽霊会よりもずっと格上だ。祖父が話を進めるといえば、ゲゲ郎は決して断れない。立場を利用するようで気が引けるが、水木はどうしても彼をあきらめられなかった。そばにいるだけでいい、結婚してしまえば、いずれは情がわいて愛してくれる日が来るかもしれない。そんなずるい期待をしてしまった。
「あんな年上の男やもめと結婚なんて、お姉さまが生きていればなんと言うか……」
「水木くん、考え直す気はないのかね」
「そうよ。お兄さまが家のために犠牲になるなんて、おかしいですわ」
従兄妹の沙代や、叔母たちは口々に結婚はやめろ、そんな相手と幸せになれるはずがないと反対した。そう言われるたび、水木の心はぐらついたが、祖父の時貞だけは、「水木が決めたことじゃ」と肯定してくれた。
「それに、水木と幽霊は絶対にうまくいく。長年仲人をしてきた余の勘がそう言っておる!」
「お父様は、またそんなでたらめばかりおっしゃって!」
叔母は祖父にかみついていたが、水木は嬉しかった。「絶対にうまくいく」という言葉に背中を押され、結婚式の日を迎えたのだ。
「それなのに、お前は俺に『指一本触れない』なんて言うから。おじいさまに言われて、嫌々俺のことを引き受けたのかと思った」
ゲゲ郎に気に入られたくて、幽霊会の皆とも打ち解けようと必死だった。砂かけ婆の手伝いをして、鬼太郎と遊んで、屋敷の人々に愛想よくふるまった。幽霊会の人々は気のいい人ばかりで、水木は彼らと過ごす時間が次第に楽しくなっていった。特に、母を亡くした鬼太郎は、つい境遇を自分と重ねてしまい、この子には幸せになってほしいと心から思えた。
「でも、お前とだけは、いつまでたっても仲良くなれなくて。おまけに変な勘違いはしてるし」
これまでの苦労や、空回りしてきた努力を思い返して、つい愚痴がこぼれた。いつの間にかゲゲ郎の相槌がなくなっていることに気付き、水木はハッと我に返った。
「すまないな、こんなこと言われても困るよな」
そう言ってゲゲ郎の方を見ると、彼は手で顔を覆っていた。
「ゲゲ郎?」
水木が声をかけると、ゲゲ郎は顔を覆っていた手をどけた。頬がわずかに赤い。
「いや、その……なんとも熱烈で……」
照れているらしいと分かり、恥ずかしさがこみあげてきた。自分は今、とんでもなく恥ずかしいことを口走っていたのかもしれない。
「わ、忘れてくれ!」
水木はあわてて叫んだ。ゲゲ郎は「それは無理じゃ」と首を振った。
「忘れられるものか。……おぬしが、そこまでわしを好いてくれておったなんて……」
しみじみと言われて、水木は顔から火が出るかと思った。だが、もうここまで言ってしまったら同じだ。
「……そうだ。俺はお前に惚れてる。お前が死んだ奥さんのことを今でも深く愛していることだって知ってる。でも、俺はどうしてもお前がいい。お前のそばにいたい」
水木は、ゲゲ郎の目をまっすぐに見ながら言った。ゲゲ郎はしばらく黙っていたが、おもむろに立ち上がった。何をするのかと見ていると、彼は箪笥の引き出しから何かを持ってきた。
「これを」
差し出されたのは、白いハンカチだった。だが、見覚えがある。水木がゲゲ郎に貸したハンカチだ。
「忘れておらんよ。あの学生さんは水木だったのか。いや、驚いた」
そう言って、ゲゲ郎は笑った。
「あの時、声をかけてくれたのはおぬしだけじゃった。話を聞いてくれて嬉しかった。息子のために立ち直れというのでも、励ますでもなく……妻を忘れず、ずっと愛していていいと言われた気がした。それでやっと、妻を探すのではなく、この胸の中にある思い出を大切にしようと思えるようになった」
まさかあの時の自分の言葉を、それほど深く受け止めてくれていたとは。嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ちだ。
「……そのハンカチ、ずっと持っていてくれたのか」
「ああ。やっと返せる」
ゲゲ郎はハンカチを水木の手に握らせた。
「母が亡くなって、わしは老夫婦に引き取られた。学校に通い始めて、その電車の中で妻を初めて見かけて一目惚れしてのう。母が妻に引き合わせてくれたんじゃと、その時は思うておった。そして妻は死んだが、妻を探しておる中でおぬしに出会えた。縁というのは不思議なものじゃ。あの電車のように、くるくる回って繋がっておる」
水木はハンカチを握りしめた。その縁が、とても愛おしいものに思えた。
「おぬしに出会わなかったら、わしはずっと妻を探しながら死んだ妻の思い出にしがみついていたじゃろう。だが、おぬしと出会えたおかげで……今はこうして心穏やかに生きていられる。本当にありがとう」
ゲゲ郎の手が頬に触れる。やわらかく唇が重なる感触に、水木は目を閉じた。
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