期待なんてしない方がいい。もしかしたら、なんて自分の都合のいいことを想像したって、現実はそんなに甘くない。期待をして、裏切られて、傷付くのが耐えられなかった。勝手に期待したくせに相手に傷付けられたと考える自分に心底ムカついた。
だからもう、最初から誰にも、何にも、期待なんてしない。
そうしてずっと生きてきたのに、突然関わることになった男は、オレの今までの人生をひっくり返すくらいにめちゃくちゃなやつで。
「麗、お疲れ様! あのさ、今日ってもう寝るだけ?」
店の掃除を終えて寮に帰ったのは夜も更けた一時四十分。階段に座り込んでいた神家はオレを見つけるとパッと立ち上がって手を振った。無視して踵を返したところでコイツが追いかけてくることは容易に想像できたし、わざわざ遠回りしてもう一つの階段を使うのも馬鹿らしい。
深夜の住宅街で大きな声を出すことは憚られたから、オレは神家のことを強く睨みつけるだけにとどめて低い声を返した。
「……なんでこんなとこいんだよ」
「麗のこと待ってたんだよ。メール送っても返してくれないから」
「メール? ……ああ、夕方に来てたやつ」
「見たなら返してよー。でさ、このあと、一緒に映画見ない?」
「は? 映画って、今から?」
「そう。あ、映画館はさすがにもうやってないから、俺の部屋か麗の部屋でなんだけど」
「なんで」
「なんで……? 明日が休みで、麗と一緒にいたいなって思ったから?」
どうしてそんなこと聞くの?と言うように、キョトンとした顔で首を傾げて神家はそう言った。言葉に詰まったオレはわずかに身を引き、神家から視線を逸らしてライトに照らされる植木を見た。
綺麗な緑を見て小さく息を吐き、気が付かれないように深呼吸してからもう一度神家を見る。オレのことを見つめる瞳は目が合うとそれだけで嬉しそうにやわらいだ。
「……何見んだよ」
「! 恐竜のやつ、この前映画館で新作観てきて、また最初っから観たいなーって思ったんだけど、麗は見たことある?」
「……一番最初のだけ、なんとなく見た気がする。あんま覚えてねーけど」
「じゃあ一緒に見よ! 俺の部屋でいい?」
「着替えてから行く。準備しとけ」
「おっけ!」
ニコニコと笑う神家を押し除けて階段を上り、鍵を開けて自分の部屋に入る。暗いそこで崩れ落ちるようにしゃがんで大きく息を吐き出した。
「……くそ」
ドキドキとうるさい心臓を黙らせたい。握った拳を強く胸に当て、じわりと滲む視界は瞼を閉じることで見なかったことにした。
神家がオレのことを好きだと言って、そのしつこさに付き合うことを了承してしまってからひと月ほどが経っていた。出会った時から変なヤツだとは思っていたけれど、まさかオレのことを好きだなんて、相当なバカだ。それかアホ。もちろんただしつこいだけのヤツなら無視し続けて、嘘でも付き合うなんて言わないけれど、これまでの関わりの中で神家の諦めの悪さは知っていたし、それに他のヤツよりほんの少しだけ、神家と話すのが楽だったから。神家はいつもオレが頭の中で考えるより早く次の言葉を重ねて、自分が考えていることを恥ずかしげもなく全て教えてくる。言われたことが全てだとは思わないけれど、それでも神家の前であれこれ考えるのがバカらしくなるくらい、全部言葉にしてくれるから。
一人で仕事を終えて暗い夜道を帰ってきた後に、月よりも明るい笑顔が出迎えてくれたこと。ただ一緒にいたいからという理由で誘ってくれること。オレの何倍もおしゃべりなくせに、オレが返すたった一言で嬉しくてたまらないって顔をすること。
ぜんぶが、とてつもなく、いとしくて。
誰にも期待しない。深く関わり合わない。そうやって生きてきたからか、今まで誰かを好きになったことなんて一度もなかった。こんな気持ちは、知らなかった。オレのことなんかを好きだと言う変わり者のせいで、心臓も脳も頭のてっぺんから爪先まで、今までのオレとはまるっきり違うオレになってしまった気分だった。
深く息を吸って吐いて、ようやく落ち着いてきた心臓にほっとして体から力を抜く。あまり遅くなると神家が来てしまうかもしれない。麗、どうかした? 大丈夫?、と言って扉をノックする神家を想像して、慌てて頭を左右に振った。余計なこと考えんな。アイツはどうせのんきに自分の部屋で待っている。わざわざ外で待ってまで誘ってきたってことは、菓子やら飲み物やらを用意しているかもしれない。……ああ、くそ、また無駄なことを考えてる。
こんなのただの予想で、期待でもなんでもない。自分に言い聞かせるように頭の中で呟き、ようやく靴を脱いで部屋の中に入った。荷物を置いて、部屋着に着替え、スマホと鍵だけを持って部屋を出る。
鍵をかけたところで「あ、よかった」と聞こえてバッと振り向くと、ちょうど階段を上ってきた神家がそこにいた。
「は。なにしてんだ」
「ちょっと遅いからお迎えにって思ったんだけど、ちょうど出てきたところだったね。もうちょっと我慢してればよかった」
「……わざわざ来んな。大人しく待ってろ」
「うん、ごめんな。もし寝ちゃってたらどうしようって不安になっちゃって」
「は? 行くって言っただろ」
「……うん、言ってたかも。ふふ、ごめん。ありがと。大好きだよ」
「っ!? ……くだらねえこと言ってんな」
ふにゃふにゃの気の抜けた笑みを直視して、ようやく落ち着いたはずの心臓がまた騒がしくなる。オレは顔を背けて神家の横を通り抜け、素早く階段を駆け降りた。
神家は鍵をかけていなかったようで、ドアノブを回すと簡単に玄関の扉は開いた。明るい部屋の中に入ってつっかけてきただけのサンダルを脱いだところで、ようやく神家が追いついてきた。にこっと笑って「ただいまー」と言う神家に違和感を覚えてジッと睨みつける。数秒もかからずに、玄関の段差の分、視線の高さがいつもより近いんだと気がついた。いつもはムカつくことに見上げることが多いのに、今はほとんど同じどころかオレの方が高いくらいだ。癖のついた黒髪はよく見れば風呂上がりなのかいつもよりしっとりしている。
「麗? どうかした?」
「……なんでもねえ。いつまでそんなとこ突っ立ってんだ」
「おかえりって言ってくれるかなって待ってたんだけど」
「誰が言うかバカ」
「あはは、残念。麗、お茶でいい?」
「あったかいの」
「やった、予想的中。淹れてあるから向こうの部屋にどうぞ」
「……チッ」
テレビのある部屋に入るとテーブルの上にお茶やお菓子、つまみが広げられていた。オレが好きなやつも当然のようにそこに並んでいて思わず足を止める。後ろをついてきていた神家が背中にぶつかりうわっと声を上げた。
「急に立ち止まらないで……。ごめんね、大丈夫だった?」
「……」
「え。え? う、うらら?」
神家の焦った声が右から左へとただ通り過ぎていく。熱を持っているのは頭か、顔か。視界が滲むのと同時にボタッと涙が溢れ、オレは驚いて目を丸くした。
「……ぁ」
「ごめん、どこかぶつけた? 痛いところは?」
真剣な顔をした神家がオレの顔を覗き込み、濡れた頬に手を当てた。自分がなんで泣いているのか分からなくて、混乱したまま首を振ってどこかをぶつけたわけじゃないと伝える。きちんと伝わっただろうか。神家は心配そうな顔のままだ。
「いっかい座ろ。動ける?」
優しく肩を抱かれ、高い体温に寄り添われたまま移動してソファーへ座った。神家は隣に座るのではなくオレの正面にしゃがみ込んで、オレの手を握っていた。
「落ち着くまで一緒にいたいんだけど、一人の方がいい?」
自分の希望を伝えた上で、オレのしたいことを聞いてくれる。わざわざ思い返さなくても神家はいつもそうだった。どうしたい?ってオレに聞くくせに、俺はこうしたい!と真正面から言ってくれる。それにオレが、どれだけ救われているか。
神家と一緒にいたい、なんて、オレは素直に言えない。神家のことが好きだから余計に言えなかった。この手を振り払わないことしかできないけれど、神家はそれだけで勝手に解釈して、ここから立ち去ることなくオレの手を優しく握りしめてくれる。
「話したくなかったら話さなくていいよ。俺が喋るのも嫌だったら教えてね。涙は止まったかな? あ。……ごめん、俺が思い出させたからまた出ちゃった? 泣いてるの、俺のせいだよな」
「ちがう……」
「……そう? じゃあどうして、って、聞いてもいい?」
「……わかんねえ、けど」
「うん」
「……そのうち、バチが当たる……」
「……うん?」
好きな人が、オレのことだけを見つめて、オレのことだけを考えている。来てくれたらいいのになんて考えていたら本当に現れて、こうだったらいいなという想像まで現実になる。こんなの、ありえないはずだ。期待したことはたいてい叶わないし、夢みたいなこと考えたって傷付くだけだ。
それなのに神家は、いつも、オレの頭の中を読んだみたいに期待通りのことをして、自分がそうしたいからだと笑って言う。人の考えなんて分かるはずがない。神家がオレの考えることを予想して先回りしているのか、本当に偶然同じことを考えていてそうしているのか。どっちにしろ、オレに都合が良すぎる。オレが、こんな幸せになれるわけない。
「麗、考えてることそのまま教えて。お願い」
「……いやだ……」
「もー……。どうして泣いちゃったのかも言いたくない?」
「知らねえ……勝手に出てきた」
「じゃあやっぱり考えてること教えてほしいよ。泣いちゃうようなこと考えてたの? 何か嫌なことあった? 俺には言いたくないなら、有さんとかに相談する?」
「やめろ。……いい、なんもない。……ただ、おまえがいるから」
「……俺がいるから、なに? やっぱり俺が原因ってこと?」
「ちげえ、ばか、……かみや」
「うん」
「……かみや」
手を握るだけじゃなく、抱きしめてほしい。それをどうやって伝えればいいんだろう。そのまま言葉にすればいいだけだけど、そんなこと一番できなかった。誰にも期待しないで一人きりで立ってきたから、他人に何かをしてほしいと要求することを脳が拒む。
「麗、あとでちゃんと怒られるから、今だけ許してね」
神家はそう言うと握っていた手を離して、オレがそれに喪失感を覚えるより先に腕を伸ばしてオレのことを抱きしめた。目を丸くするしかできないオレの背中を大きな手のひらが優しく撫でている。温かい体温といつのまにか嗅ぎ慣れた神家の匂いに、否応なく鼓動が早まった。
いつまで経っても落ち着くことのない心臓の音が耳元で騒がしくて、熱がある時のように頭がぼうっとしてきた。ゆっくり動かした手で神家の胸を押すと神家はすぐに背中を撫でる手を止め、だけどオレのことを抱きしめたままほんの少しだけ体を引いた。見たことないくらい近くで視線がぶつかり、神家がふわりと表情を緩める。
「よかった、泣き止んだ」
「……ガキじゃねえんだよ」
「わかってるって。麗だからこうしたんだよ」
「……」
「麗、手伸ばせる?」
「は?」
「俺の背中に両手をこーやって……つまり、麗からもぎゅーってしてほしいんだけど」
「は……」
「だめ? ちょっとだけ」
神家はオレのことをじっと見つめて、内緒話のような囁き声でそう言った。手を伸ばす、だけなら簡単なことだが、こいつを抱き締めるなんて。
「一分だけ……三十秒! じゃあ十五秒、……十四秒は?」
「……ふ、刻むな、バカ」
「! お願い。わかった、十秒、十秒だけ!」
これ以上粘られても面倒だ。そう言い訳を用意して、オレは神家の背中に両手を伸ばした。いち、と呟くと同時に神家がさっきよりも強くオレのことを抱き締める。に、と同時に耳元で呼吸音が聞こえ首を竦めた。ごめんと呟く神家の声の熱に体温が上がる。
カウントする声が震えないよう体に力を入れれば、自然と神家を抱き締める腕にも力が入った。はち、まで数えて、深呼吸。明らかに一秒じゃない間を空けてきゅうと呟き、そこで言葉を止めた。まだ、このままでいたかった。
「……うらら」
名前を呼ばれて、咄嗟に「じゅう」と数えてしまう。すぐに腕を離して身を捩った。だけど神家は、まだオレのことを抱き締めていた。
「っ、おい、もう」
「やっぱり十秒じゃ足りない」
「は?!」
押しても引いても神家はオレから剥がれず、叩いたりつねったりしているとそのうちあははっと笑い声を上げてオレの顔を覗き込んできた。ニコニコと機嫌の良い笑みでオレを見つめて、蜂蜜を煮詰めたような甘ったるさで「だいすき」と囁く。本物のバカだ。たったそれだけで、神家にだけは本音を溢してもいいかもなんて、思ってしまう。
「……なんで笑ってんだよ、バカ」
「え? 麗のこと大好きだから?」
「ちげーよ、叩かれて笑ってんなよっつってんだ」
「麗が構ってくれて嬉しいもん。それに本気で殴られたらさすがに俺も抵抗するって。痛くないからいいよ、麗が好きなようにして」
「……バカ」
「うん、そうかも」
「……映画、いいのかよ」
「あ、忘れてた。見たい?」
「は? 映画見たくて誘ってきたんだろ」
「それはそうなんだけど、それだけじゃなくて、ただ麗と一緒にいたかったから。なんか理由があれば来てくれるかなって考えた結果の、映画です。だから俺の本命は麗だよ」
「……神家」
「うん。どうしたい?」
「……、……まだ……」
「…………いいよ、言って。教えて、麗の考えてること」
「……ぎゅって、して」
「うん、する。……麗は? ぎゅってしてくれないの?」
当たり前みたいにオレのことを強く抱き締めて、オレが言葉にできないことまでついでのように拾い上げていく。からかったり、笑ったり、バカにしたりしないって、できないって言ったり、突き放したり、離れて行ったりしないって、コイツはオレのことを傷付けないって信じたくなる。
再び伸ばした腕で神家のことを抱き締めて、オレはキツく目を瞑った。神家のせいで涙腺がぶっ壊れてる。どこも痛くないのにどうして涙が出るんだ。
「ねえ麗、俺、麗のこと幸せにしたいんだ」
「は……?」
「だからさ、麗も幸せになりたいって思ってくれない? 不安にさせないように頑張るから、麗は俺のこと信じて、幸せにしろって怒るくらいでいて。なんでも言っていいし、俺にだけはなんでも言ってほしい」
「……どうして」
「どうしてって、……ええ? うそ、麗、俺の話聞いてた?」
「……」
「……ああ、なるほど。……もー、俺だってちょっとは照れるんだけどな。ていうかそういうことを言ってほしいって話なんだけど」
「ごちゃごちゃうるせえ」
「ふふ、はーい。……麗のこと、大好きだからだよ。大好きだから一緒にいて、俺と一緒に幸せになって。おねがい」
「……好きにしろ」
「……それっていいよってこと?」
「オレはオレのしたいようにするし、お前はお前のやりたいようにやればいいだろ」
「じゃあちゅーしていい?」
「は!?」
「俺のしたいこと。麗とキスしたい」
心臓が跳ねるのと同時にオレは自分でも驚くくらいに素早い動きで神家の腕の中から抜け出して、部屋の隅へと飛び退いた。目を丸くした神家がオレを見つめ、それからふっと甘く笑う。
「わかった、今はしない。我慢するからそんな逃げないでよ。ふふ、もう、びっくりした」
「そっ、っ……はぁ!?」
「しーっ。もう夜だから大きい声はダメだって」
「……! 帰る!」
「だーめ。もう何にもしないから、映画見よ。まだ麗と一緒にいたい」
「むり」
「なんで?」
「しんぞう、こわれる……」
「……可愛すぎ。やっぱり絶対帰さない。おいで、麗」
「やだ」
「今日はもう麗のしたいことだけ、なんでもするから。ぎゅーってするの、もういっかいどう?」
「……むり」
「じゃあ手繋ぐのは? 隣座って、一緒にお菓子食べながら映画見ようよ」
「……」
「ね。きまり。お茶冷めちゃったから淹れ直してくるね。麗はお菓子食べて待ってて」
「……もう、冷たいのでいい」
はぁとため息を吐いて、オレはソファーまで戻った。神家からめいっぱい距離を取って端に座り肘掛けに体を寄せる。手は、座面に置いて。
「……俺、本当にすっごい、言葉にできないくらいに、麗のこと大好き」
「……うっせ、バーカ」
繋がれた手をぎゅっと握り、神家の手に爪を立てる。ふふっと楽しそうに笑うバカのことが、俺だって、言葉にできないくらいに。
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