「偶然聞いてしまったんだ。教令院に仕事絡みの申請書を取りに行っていて、そしたら職員の人も使うトイレでアルハイゼンと付き合ってる人がいるみたいだって言っている人がいて。あいつにそんな甲斐性があるのかってびっくりしたんだけと、すぐそれどころじゃなくなってしまったね。だって僕はそいつの家の居候なんだから! 相手がどんな人か知らないけど、血も繋がってないし親戚筋でない異性が事情があっても一緒に暮らしてるなんて面白くないどころの話じゃない。詐欺みたいなもんだ。僕ならそんな男慰謝料を取ってさっさと別れろって言うね! でも今の僕はアルハイゼンの恋人の友達じゃなくて、アルハイゼンの家の同居人だ。だったら僕がやるべき事はすぐさまあの家を出ることだと思わないか? まあ、色々残しては来てしまったけど、それはおいおい回収するとして、その時は君かセノに同伴してもらってやり取りがしたいんだ。だから今日は泊めてもらうと言うよりも、そのお願いをしに来たという方が適切かな。とはいえ野宿の用意もしていないし、できればその辺りのソファでも貸してもらえると助かる。そうだ! 食べ物は色々買い込んで来たからコレイと一緒に食べてくれ。――とまあ、最初はそういう予定だったんだけど、メラックと歩いているうちに冷静になってきてさ。話していた人達は相手が誰かも分かっていなかったらしくて、もちろん名前も挙がっていなかったんだ。それで、最近僕も気が緩んできていたなと思って、その……二人で酒場に行ったり、重い物を買う時にアルハイゼンを引っ張って行ったりしてたんだよ。街中で姿を見かけたら挨拶くらいはしに行ってしまうし、あいつからも話しかけてくるし……つまり、彼女達が見たのはアルハイゼンと僕の姿で、その……ひょっとして『アルハイゼンの恋人』って僕なんじゃないか……?」
「そうだろうね」
何をつらつらと言っているのだかと溜め息交じりに同意すれば、カーヴェがわっと声を上げてテーブルに突っ伏した。
なんだか深刻な顔をして、それも日が落ちる頃になって大荷物でやってきたものだから、ティナリも警戒してコレイを他所の部屋にやったと言うのに。
「コレイ! コレイ、ちょっと来てくれる?」
「もういいのか?」
「うん、カーヴェが勝手に自己解決したよ」
隣の部屋からぴょこりと顔を出したコレイが不思議そうに首を傾げてから、テーブルに散らばっているカーヴェの髪と本人に気がついたらしくその有様に肩が跳ねる。
それでもティナリが手招きをすると、怖々の様子でこちらに寄ってきた。
「今日の夕飯はまだ準備してなかったよね? カーヴェが持ってきてくれたこれを食べよう。それで悪いんだけど、空いた時間でレンジャー用の仮眠室の用意をお願い」
「分かった! ありがとう、カーヴェさん」
「いや、とんでもない。僕の方が突然お邪魔してしまってるんだから。仮眠室も布団を放り込んでくれるだけで大丈夫だ。メラック、手伝ってきてくれ」
子供の前ではちゃんとしなくてはと思ったのか、テーブルから顔を上げたカーヴェが横でふわふわとしていたメラックに声をかける。
ピッポ、と軽妙に返事をしたメラックが隣に来るのを待ってから、コレイは早速踵を返して客人の寝室の用意に向かう。
さっきあれこれ言いながらテーブルに載せられた惣菜を見る限り、三人では一度に食べきれないだろう。
元々明日に持ち越すのを想定しているのか、健啖家の傾向にある同居人に一食分の基準がおかしくされたのかはちょっとはっきりしない。
「本当は帰った方が良さそうだけど、さすがにこの時間から一人で森を抜けさせられないからね。今日は早く寝て、朝一番に帰って二人で作戦会議でもしなよ」
「ああ……」
コレイの姿がなくなって再びしおしおとテーブルに伏したカーヴェのくるっとしたつむじを見ながら、ティナリは今度は小さく溜め息を吐いた。
カーヴェは初めて会った時からずっと、嵐のようにこの家にやって来る。
* * * *
昨夜はコレイと話し込んでいる最中に、明日すぐに帰ると言っただろうとティナリに指摘されてすごすごとレンジャーが臨時で使うベッドに潜り込んだ。
慣れない寝具であったものの、昼間からのドタバタで体は十分疲れていたようで朝までぐっすり寝入る事が出来た。
朝食を食べさせてもらって、今度はゆっくり訪ねたいと約束してから昨日辿った道をカーヴェは逆戻りした。
自分が勝手に思い違いをして手紙の一つも書かずに飛び出してしまったので、さすがのアルハイゼンも不審には思っているだろう。
家に着く頃には教令院の始業時間は過ぎるため急いだところで意味はないのは分かっているが、息が弾む程度の勢いで歩みを進めてしまっていた。
シティに辿り着いて背中に背負う荷物の重さを痛感しながら最後の長い坂を登り切り、カーヴェはようやく家に辿り着く。
思った通り始業時間は過ぎていたので、息を切らしながら坂を足早に登るカーヴェを邪魔に思うほどの人通りはなかった。
「ただいま」
やれやれと溜め息交じりで誰もいない家の玄関をくぐって、居間でどさりと荷物を下ろした。
工具や衣服を元の場所に戻さなければならないのだけれど、先に疲労感が追い付いてきてしまい、カーヴェは堪らずカウチを目指す。
そうすればもそりと何かが動く気配がして、ひ、と掠れた声が喉を突きかかった。
「あ、アルハイゼン……?」
本来であればいるはずのない人物の名を呼ぶと、寝起き特有の小さな声で彼がカーヴェの名を呼んだ。
どうやら、カウチで眠り込んでしまっていたらしい。
完全に寝坊と遅刻のコンボではなかろうか。
「熱とかじゃないよな? 教令院に休みの連絡は?」
じっとカーヴェを見つめているアルハイゼンに尋ねても、有用な返事どころか朝の挨拶すら返ってこない。
まるで幽霊を見るようなまなざしに不安になってきて、彼の前で腰を落として視線を合わせる。
じっと視線を合わせているうちに、昨日と今日で重い荷物を支えていた腰が悲鳴を上げ始めた。
辛抱堪らず腰を伸ばすために姿勢を戻そうとすると、ぱしりと腕を掴まれて微かに声を上げてしまう。
「――昨日は」
「ええと、端的に言うと多分僕の早とちりで……」
責めるように響いた声に、罪悪感を覚えながらカーヴェはティナリにしたような話を繰り返した。
井戸端会議を立ち聞きしてアルハイゼンに恋人ができたと思い込んだと告げた辺りで事の次第を理解したのか、彼の視線が一気に緩んだのが分かる。
その眼差しに居た堪れなさを感じながらもさすがに自分で気がついたと説明したが、多分アルハイゼンからすればどうでもいい話だろう。
「おおよそ君の結論の通りだろう」
「ということは、君に」
「俺に恋人はいない」
わざわざ訊くことでもあるまいとでも言いたげにアルハイゼンがカーヴェの問いに肯定して、ようやく心の底から安堵が漏れ出した。
ほとんど確信ではあったけれど、万が一というものもこの世にはあるのだ。
「良かった……これで妥協した家に無理して引っ越さずに済む」
やれやれと息を吐いてアルハイゼンのいるカウチに腰を下ろすと、自分がしなければならなかったかもしれない徒労を思ってぞっとする。
その怖気を振り払おうと頭を振ると、アルハイゼンがカーヴェの名を呼んだ。
「いつか君が納得してここを出て行くなら止める権利もないが、その時は事前に理由を教えてほしい」
「いや、僕は」
咄嗟に声を上げてしまってから、自分でも少し驚いた。
そりゃあ、帰宅したら夕飯を用意する担当だったはずのカーヴェがいなくて、共有スペースのカーヴェの私物がいくらかなくなっていたら仰天するだろう。
事情を告げる物は一つもなく、もちろん事前に教えられてもいない。
そんな彼への同情心で片付けるには逸脱した反応だと、カーヴェにだって分かっていた。
けれど、それ以外に言葉が見つからない。
「こんな事でもない限り、出て行こうとは思わない、と思う」
誰かの迷惑や不誠実に繋がらないのであれば、自分がここから離れる必要なんてない。
心の内に芽生えたそれを言葉にしながら、そうなのかと自分でも思ってしまう。
カーヴェはきっと、できればずっとここにいたいのだ。
「……分かった」
アルハイゼンが返事をするまで、少しばかり時間がかかった。
その間に瞬きが二、三あって、それから平坦でありながらほどけるような発声がある。
「わ」
カーヴェが誘われるようにほうけた相槌を打った瞬間、微かな声音をかき消すように玄関の呼び鈴が鳴った。
思わず肩を跳ねさせると、アルハイゼンが音がした方に視線を投げかけた。
「君は出ない方が良い」
「なんで……あっ」
慌てて来客を迎えようと立ち上がろうとすると、カーヴェの腕を握ったままだったアルハイゼンの指の力が強まった。
その上言葉でも制止されて来訪者を待たせるとは何事かと眉を顰めようとして、自分のやろうとしている事のまずさに遅れて思い至った。
「噂の内容が『恋人』から『同棲相手』になって問題がないなら君が出ても構わないよ」
ぴたりと体の動きが止まったところに追い打ちをかけられて、カーヴェはうぐ、と声を漏らす。
タイミングを考えると、無断欠勤をしたアルハイゼンの安否を確認しに来た教令院の者なのだろう。
いや、噂の渦中になっているのはカーヴェではなくアルハイゼンの方なのだが、どうしてこんなに他人事なのだ。
カーヴェの反応を見たアルハイゼンがほんの少し口元を緩めたようだった。
おおよそカーヴェがしどろもどろになっているのを愉快に思っているのだろうと恨めしげに睨む間にアルハイゼンはカーヴェの腕を支えにしてカウチから立ち上がる。
そうして、呼び鈴から戸を叩く音に代わり、しまいにはアルハイゼンさん、と家主を呼ぶ相手に応じるため玄関に続く廊下に消えて行った。
それからしばらくもしないうちに、話し込んでいるような声が切れ切れに伝わってくる。
一人になったカウチの上で、カーヴェはアルハイゼンに握られていた腕を自身の手のひらで擦った。
男性らしく筋張った大きな指先や温かい手のひらの感触は、なかなか消えてくれそうになかった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.