来羅
2025-10-18 23:04:34
1969文字
Public トワウォ
 

食欲(風信)

ワンドロライ第14回。




 食べるということは生きることだ。
 最近の信一は食が細くなった、と洛軍は思う。
 本人に言えば、そんなことはないと笑うか、ちょっと疲れてんだよなと頭を掻くか、ともかくなんでもないことのように流してしまうのだろう。
 全く食べないわけではない。
 出されたものはしっかり食べるし、その食べ方は利き手ではないはずなのに相変わらず綺麗だった。洛軍が知る限り、信一はちゃんと三食摂っている。それでも食が細くなった、と思う。
 たとえば好きなものを前にしてもはしゃがなくなった。
 そもそもが今まで食べていた量の半分ほどしか頼まない。自炊はできないという話だから、冰室で見かける姿がおそらく全てだろう。
 デザートは別腹、などとニタリと笑って彼の最愛を窺っていた信一は二度と見ることは叶わない。
 今日もまた昼食は量少なめの雲吞麺をその薄い腹に収めて箸を置いた信一は、久しぶりにできた空白の時間を部屋の片付けに当てていた。手伝いを買って出たのは、その目の下のクマと顔色の悪さが気になったからだ。けれども、それすら口にすれば手伝いなどいらないと言われてしまうだろうから、洛軍はたまたま自分も時間が空いたのだと押しかける。
 あの日から、ひと月あまり。
 整頓された室内はまだ温かさに満ちている。今にもその扉の向こうから部屋の持ち主がひょっこり顔を出すのではないかと錯覚させるほどに、そこは何ひとつ変わらない。
 信一は入口で立ち止まり、ひとつ大きく深呼吸した。
「よし、やるか」
 使えるものは住人たちに配り、要らないものは捨てる。
 いっそ潔いまでに分別していく信一に躊躇いはない。
 どのみち、あと数年で取り壊される建物だ。何から何まで取って置けるものでもなく、信一の判断は正しい。
 正しい、けれども。
「──────っ」
 信一が小さく息を呑んだ。
 震える呼気を吐き出して、二本しかない指で口元を覆う。
「どうした、信一?」
 本棚を整理していたはずの信一はしばらく呆然とそれを凝視したあと、古びたノートを無言で差し出した。



『一九六八年、三月十日
 ・西芹炒雞柳
 ・夜香花冬瓜粒湯
 セロリを残す』

『一九六八年、四月二十日
 ・蛋白蒸蟹
 ・豉油皇炒麵
 花蟹を気に入る、二杯食べる』

『一九六八年、六月三日』
 ・老火湯
 喉の痛みに梨が良いらしい』



 端の黄ばんだノートをめくる。
 どのページもびっしりと書き込まれたそれは、毎日の食事の記録だ。信一が何を好んで、何を残したか。どうすれば食べられるようになるのか。小さく刻むか、形がわからなくなるまで煮込むか、香ばしく焼くか。
 食べられるようになったときの字は、少しだけ筆跡が荒い。そのときの龍捲風の感情がそこから手に取るように伝わってきて、思わず喉の奥が詰まる。
 その最後のページ。空いたスペースにその走り書きはあった。



『大きくなれ、信一。強くなれ』



…………意外と、マメなところも、あったんだ」
 途切れ途切れの涙声で、余所を向いた信一が鼻を啜る。
…………そうか」
「こんなの書いてたなんて、知らなかった……っ」
「そうか」
 俯く青年の髪を撫でてやる手はもうない。
 抱き寄せてやる腕もない。
 洛軍にできることは、信一が落ち着くまでそばにいてやることくらいだ。そうして小さく笑った信一がノートの表紙をそっと撫でるのを、気づかなかった振りで『取っておく用』の箱を押しやる。
 サンキュ、と目を赤くして言った信一は、箱には入れずに大事そうにノートの束を抱えて自室へと消えた。





「よし、今夜は食うぞ!」
「どうした?」
 上機嫌でメニューを見上げる信一に、十二と四仔が顔を見合わせ、それから洛軍へと視線を寄越した。けれども肩を竦めただけの洛軍に対し、信一は今さらメニューなど見ずともわかるそれを、次々と読み上げる。
「鯪魚と、蠔油冬菇炆豬肉と、鹹鮮と、生滾魚片粥と、あとは」
「おいおい、いきなり食いすぎだろ」
 洛軍は止めようとする十二を遮って、小さく首を振った。
 顔を顰める十二には何が何だかわからなかっただろう。それでも何かを察してか黙る男に、親友とは面映ゆいものだと洛軍は笑う。
 食べきれなければ自分たちが食べればいい。
 食べてやれることができる。それが嬉しいと思う。
「信一」
 探る視線の四仔もまた何か思ったに違いない。
「胃薬だ」
「いや、なんで持ってんの、お前」
「用意周到と言ってくれ」
「いや、怖ぇよ」
 茶化して笑って食べて呑んで、食べて、また食べて。
 美味い美味いと涙声で笑う信一に、洛軍は胸を撫で下ろす。
 食べるということは生きることだ。
 生きる、ということなのだ。