宮腰
2025-10-18 15:42:38
23671文字
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ソーマセーマ【1】

ヌヴィリオ/執行官if
法無き自治区ナド・クライ。
そこで互いに『裏の顔』のまま出会い、初めての恋とセックスと真実を知るお話。



 灯りのない宿へと戻り扉を開くと、蝶番の軋む音がやたらと大きく響く。真冬ではないとはいえ、夜は流石に冷え込んでいた。暑さよりかは寒い方が耐えられるが、いま感じている寒さは気温そのものよりも、人の気配も火の気もない街の喧騒を遠くに聞くうら寂しい環境のせいかもしれない。
 二階にある部屋へと到着しランプへオイルを継ぎ足して火を点けると、ジジッ……と芯が焦げる音と共にオレンジ色の光が室内へ広がって行く。
 不思議なものだ。水の上へやって来る前は灯りなんて必要のない、アルケーの輝きだけが自分を照らしてくれていた。だが今は、夜になれば灯りを点し、水平線から太陽が顔を出しキラキラと黄金色に輝く海を見ては、一日の始まりだと実感する。
 灯りも月日も、人間ならではの感覚だ。いつの間にか自分も随分と人間臭くなったものだと噛み締めつつ、ヌヴィレットは部屋の窓を開いた。最高級品だと言う売り文句は本当だったのか、香油か何かを混ぜてあるのだろう。ランプを点灯させると同時に甘い匂いが部屋へと漂い始めたのだ。婦人の白粉みたいな甘い香りがとても不快で、明日は普通のオイルを購入しようとヌヴィレットは眉を顰めつつ、窓の外へと顔を出した。
 暗い海、ゆらゆらと動く淡い灯りは月霊か、夜釣りの船だろうか。水平線へ何気なく視線を向けると、輪郭こそ曖昧だが夜のフォンテーヌがぼんやりと浮かんでいるのが見えた。こうして俯瞰的な視点でフォンテーヌを眺める機会はとても貴重で、窓枠へ肘を付きただぼんやりと夜景を眺め続けた。
「──あれは、ロマリタイム・ハーバー。水の国フォンテーヌの玄関口さ」
 不意に。そう、不意に聞こえてきたその声にヌヴィレットは目を丸くし、ゆっくりと声の聞こえた方へと顔を向ける。人の気配はなかった筈なのに、いつの間にか隣室の窓が開きそこから住民が顔を出していたのだ。ヌヴィレットと同じく窓枠へ肘をつきこちらを見ているのは、例の人物。フラッグ・シップで声を掛けられ歌を聴かせてくれた、バーテンダーの男だった。謎の男はヌヴィレットの表情を見て悪戯成功と言わんばかりの笑顔を見せ、肘を突いたまま小首を傾げる。
「──って、あんたはあそこからやって来たんだっけ?」
……君、は……
「ナド・クライの観光案内兼、バーテンダー」
「歌手も兼ねた、かね?」
「ハハッ! あれは趣味みたいなものさ。チップをどうもありがとう、気前の良いフォンテーヌの旦那」
 ホットドッグの代金と一緒に添えたチップは、どうやら無事に彼の手へ渡ったらしい。法律や規則は存在しない街だが仁義には厚いようだ。信頼できる人物のひとりとして、フラッグ・シップ店主の顔は覚えておこう。
「あんたは随分と羽振りの良い御仁だとお見受けするが……まさかこんな安宿に泊まっているとはね」
「それは君もだろう。ここに住んでいるのかね?」
「俺かい? ああ、ナド・クライへ来た時の定宿はここだな。とても落ち着く」
……ふむ、それには同感だ」
 頭上を通り過ぎるゴンドラのモーター音。喧噪は遠く、耳を澄ませば優しいさざ波も聞こえてくる。一人になって何か考え事をしたい時や逆に何も考えたくない時には、逆にこの寂れた雰囲気が最適なのだろう。ヌヴィレットの返答に男はフッと表情を緩め、視線を遠くへと戻した。フラッグ・シップで出逢った時にも気が付いていたが、腕や首、右目の下など。男の身体には無数の古傷が残されており、彼が歩んできた道筋はとても困難が多かったのだろうと察せられる。
 だが、とても綺麗な横顔だ。数百年の龍生で出逢ったどの人間よりも綺麗で、目が離せなくて。このような衝動を覚えたのは初めてだ。
 そんな事を無意識に考えていたせいなのか、夜空で淡く輝く白い月に背を押されたのか。
「──……君は、どこから来た?」
 小さな問い掛けに、彼が僅かに顔を上げる。
 どうしてそんな事を聞いてしまったのかは分からないし、見ず知らずの人間のことを知りたいと思ったのも、初めて。何処からやって来たのか──それはヌヴィレットも同じ。自分は何処からやって来て、何処へ行こうとしているのだろう。
 ヌヴィレットの戸惑いや迷いを見抜いているのか、夜でも青く光る瞳がフッとまろやかさを帯び、彼は静かに口を開いた。
「月から、って適当な答えが聞きたい訳じゃあないよな?」
……フォンテーヌにそのような地名は存在していないが?」
「おっ? 覚えていてくれたのかい。これは脈ありだな」
 男の顔がニヤッと悪戯な笑みを浮かべたのを見て、数秒。ようやく自分が揶揄われたのだと気が付き、ヌヴィレットは咳払いをした。
「話したくないのならば結構。失礼する」
「ハハッ! すまんすまん。あんたが可愛い反応をしてくれるもんだから、つい」
 可愛い。メリュジーヌ達には時々「ヌヴィレット様は可愛いところがありますよね」なんて言われるが、若い女性特有の敬愛表現だとばかり思っていたのだが。まさか壮齢の男性に、しかも知り合ったばかりの人間にそう言われるとは夢にも思わなかった。どう反応すべきかと思案に暮れていると、男は再び夜空へ視線を向けた。
「──もっと北。ノヴォキッチェヴって知っているかい?」
「ノヴォ……ああ、スネージナヤの」
「そう。鉱業と酒造業で有名な、寒い町さ」
 雪と氷に包まれた北国、スネージナヤ。ここナド・クライはその南端に位置する自治区だが、ノヴォキッチェヴは更に北へ向かった所にある町だ。男はそこからやって来たのだと言う。成る程、確かに彼からは玉雪と氷の薫りがする。
「俺はしがない機械職人なんだが、今度ナド・クライへ大きな研究機関が造られると聞いてさ。仕事を求めてここへ来た」
「ほう? 研究機関……
「ああ、クーヴァキに関する施設だとか。求人票にはそう書いてあった」
 ヌヴィレットが探しているエレッサが調査していたのは、科学院から流出している機密情報に関して。ファデュイも何やら不可解な動きをしているとの報告もあったので、その新しく造られる研究機関が関係しているのかもしれない。
「そこへの勤務はいつからかね?」
「まだまださ。これから施設を建設するとか、なんとか」
 エントリーは済ませてあるんだが。と男は苦笑する。そこまで話したところで、ヌヴィレットはふとフラッグ・シップにあったファデュイのリクルートカウンターを思い出した。
 ああ、成る程。彼はあそこで仕事を見付けたのか。
 そしてヌヴィレットの予想通り、仕事が始まるまでの期間はフラッグ・シップでバーテンのバイトをしているのだと男は話してくれた。
「すまん、俺ばかり話してしまったな」
「構わない。有意義な時を過ごせた」
「ふふ……面白い人だな、あんた。人捜しには進展があったかい?」
……いや、まだ」
 行方をくらましてしまったエレッサの気配は、まだ消えていない。セディルからも報告はなく捜査はやや行き詰まっている。すると、話を聞いた男はふむと小さく唸り考え込むようなポーズをしていた。
「なあ、よければ俺にも手伝わせてくれないか?」
「君に?」
「ああ。そこそこ顔は広いし情報屋にもある程度ツテを持つ。力になれるかもしれないぞ」
……ふむ」
 何かの縁なのか、仄白い月の光に惑わされてしまったのか──いや、月の光に照らし出された彼の横顔が美しかったからだろう。月光に惑わされた魔物のように気が付けば心を吐露してしまいそうになったところで、ヌヴィレットはふと我に返る。開きかけていた口をきつく引き結び、首を横へ振る。
「心遣い感謝する。だが、こちらの問題だ」
「おや? フラれてしまったか」
 男はそうわざとらしく肩を竦め、空気を変えるよう明るく笑い飛ばした。窓から顔を出したまま話す体勢で肩が凝ったのだろう。男はウンと両手を挙げて背伸びをしながら「さて、」とヌヴィレットへ声をかけた。
「そろそろ日付が変わりそうだ。遅くまで引き止めてすまないね」
……いや、」
「また飯がてらフラッグ・シップに寄ってくれ。俺も何か情報がないか気にしておくよ」
 夜の再会に幕が下りようとしている。窓を閉めようとしている彼の動きでそんな空気を悟ってしまい、ヌヴィレットは気が付けば声が出てしまっていた。
…………名前」
「ん?」
「君の名を、教えて貰えないだろうか」
 ──被告人は、名前を。
 もう何百、何千と歌劇場の舞台では口にしてきたお決まりの人定質問。だが、今ここは歌劇場ではなく、自分も最高審判官ではない。ただのヌヴィレット自身が口にしてしまった、小さな望み。
 君の名前を教えてほしい。君の歌声を、もう一度聴かせてほしい。
…………
…………
 すると、唐突に距離を詰めてきたヌヴィレットに驚いたのか男は目を丸くして動きを止め、そしてフッと目元だけで甘く微笑んでくれた。
「──リオセスリ」
 長くて、覚えにくい。一度聞いたら忘れられない、その名前。
「俺の名はリオセスリさ。あんたは?」
……ヌヴィレット」
 そして自分の名も、長くて覚えにくい。響きを確かめる様にリオセスリの唇が「ぬびれっと」と動き、フッと微笑みの形へと変わる。
「ハハ、良い名前だ。じゃあおやすみ、ヌヴィレットさん」
……ああ、おやすみ」
 キ……、と今にも壊れそうな窓枠が軋み彼の姿が室内へと消える。
 リオセスリ。もう一度そう呟いてみるとなんだか身体中が満たされる気がしてくるのだから、心とは不思議なものだ。