ちよど
2025-11-01 23:50:00
7136文字
Public アシュヨダ
 

アシュヨダが逃避行する話

生前アシュヨダ。ヨダナさんが死ななかったif。

 ──この人を連れて、どこまでも逃げる。そう選んだのだ。


 長年放置されていた土地に伸びていた雑草は戦車の轍と血泥に倒れて姿を隠せるところが少ない。
 戦の後の喧騒に紛れて。出来るだけ音を立てないように夜の底を這うように進んでいると背中に括り付けた大切な人が呻いた。傷が痛むのだろう。
 顔と下半身の傷は季節外れの薬草をかき集めてなんとか覆ったが、あの程度の枚数で足りるような傷ではない。その証拠に流れ出た血が俺の背中を温めていた。
 血のぬくもりは体から流れ出た熱だ。この熱が無くなる前に対処しなければ。
 闇に沈んだ草の間を獣のように進み南を目指す。
 東のハスティナープラには勝利したパーンダヴァ軍が続々とそちらに向かっているだろう。
 だが、ビーマとの戦いに敗れたこの人を放置した五王子達はすぐに俺達を探しにくる。死体がないということは生きている可能性があるということだ。こんな凄惨な戦を起こした人だがクル国の王子である事は揺るがない。生きている限りユディシュティラの王位の脅威となるだろう。
 父が死んだ時の事を思い出す。
 むせ返るような草と血と泥の匂いの中で。
 厳格すぎる人だったが俺には優しい父だった。俺と旦那が仲良くすることを快く思っていなかった父が、瀕死の旦那を背中に乗せて地べたを這いずり回っている俺を見たら叱るだろうか。──助けてくれるだろうか。
 カウラヴァ軍が敗走しても最後までいてくれた他のふたりには陽動をお願いした。西のガンダーラ、旦那の叔父の国の方面に逃げた跡をつけて欲しいと。
 っ! 手のひらに痛み。泥に埋まっていた石に2人分の重みを乗せてしまったらしい。泥は傷口を腐らせる。旦那がこの状態な今、俺が動けなくなれば終わる。
 傷口を洗うことは出来ない。予備の薬草を1枚だけ手に巻いて痛み止めの真言を小さく唱える。背中で旦那がまた呻いた。
が、したの、か」
 怪我をしたのか。
 聞き取れた言葉に俺は目頭が熱くなる。
「大した事ねぇよ」
 ぎゅっと一度目を目をつぶって。俺は移動を再開する。今度は泥の中を手探りで確認しながら。速度は遅くなるが仕方がない。
 浅い泥の中と草むらにはいろんなものが転がっていた。石、武器。戦車の残骸。そして死体。どれもこれもこの人が起こした戦の結果だ。その間をかき分けて進む。
 獣の遠吠えが聞こえた。戦場に転がる死体を漁りに森から出てきたのだろう。増え続ける獣の気配を避けて進む。急がなくては。
 はっ、と息をつく。暗闇に水の匂いがしてきた。
 ヒマラヤから流れるヤムナー川だ。
 夏の暑さにも干上がることがないこの川は今の穏やかな秋には舟で行き来する者もいる。
 俺はその舟を奪うつもりだ。
 動けない旦那をすぐに出来るだけこの戦場から遠ざけるには、人に見られるいや、無関係な人を殺してでも舟が必要だった。
 庶民が使うような舟が集まるようなひらけた場所ではなく昔旦那がこっそり教えてくれた穴場を目指す。下層階級がよく使うというその場所を何故知っているのか、と旦那を問い詰めた頃が懐かしい。
 腕がしびれてきた。大柄な旦那の重みと不自然な姿勢で長い距離を這い回ったせいだ。
 闇夜のせいで正確な時間が分からないが、夜明けは遠くないだろう。
 旦那に聞こえないように口の中でそっと身体強化の真言を唱える。あと少しだ。
 そして。たどり着いた場所には、何故か大勢の下層民の男達が集まっていた。
 丸太をくり抜いただけの簡素な舟もいくつかある。
 俺は旦那を草むらの中に降ろした。剣の位置を確かめる。
「旦那、ちょっと待っていてくれ」

「待てっ!!」

 突然の大声に下層民達が一斉に振り返った。殺気立ったその様子に構わず、旦那は俺に手を伸ばす。
「たてくれ」
 立たせてくれ。
 俺は旦那の左腕を肩にまわしてゆっくりと立ち上がる。無防備な状況に心臓が止まりそうだが旦那には考えがあるのだろう。
 果たして、血に汚れた旦那を見た下層民達は悲鳴を上げた。
「ドゥリーヨダナさまっ!」
 貴人の名を呼んで駆け寄ってきた男達に旦那は鷹揚に頷いた。
 血だらけのその様子に何人かの男が舟に駆け戻り腕いっぱいに服を抱えて戻って来る。遠慮のない手が何枚もの服で震える旦那を包みこんだ。
 その服は血に汚れた戦士のものばかりだ。
 ──死体を漁るのは獣ばかりではない。
 剥ぎ取った衣類で旦那を覆った男達は顔を見合わせると頷いた。
「こちらへ」
 案内されるままに、歩けない旦那を引きずるように向かった先は比較的しっかりとした作りの舟だった。
 男達がそっと旦那を持ち上げる。一瞬抵抗しようかと思ったが旦那の目線で制された。
 汚れた服をそれでも精一杯広げたのであろう舟の一番深いところに旦那の体がゆっくりと横たえられる。その両脇に奪ってきたのだろう首輪や腕輪、金貨などが乗せられた。
 男達のひとりが俺に振り返る。
「あいつらはオレ達に話を聞こうなどとは思わない」
 確かにそうだ。
 清廉なパーンダヴァが自ら進んで下層民に問う事などないだろう。だが。
「信じて欲しい。オレ達を、オレの妻と子を救ってくれたのはドゥリーヨダナ様だけだった」
「法も何も知らないオレ達でも、恩を返すぐらいは知っている」
 まっすぐな目で男達は俺を見て、それから驚いたように目を見張った。男達のひとりが頭に巻いていた布を外す。
「これを」
 俺は目立つ宝珠に手をやった。
 

 ボロボロの布を額に巻いて、俺は男達から教わった舟の櫂の動かし方をなんとか繰り返す。おぼつかない動きで舟がふらふら揺れる度に、足元で服に包まった旦那が笑う気配がした。
 川はゆっくりと流れ、日が昇ろうとしていた。




 ドシン!
 また舟が大きく揺れ、俺は櫂を強く握りしめた。
 俺達の乗るみすぼらしい丸太舟にぶつかって行った大きな舟は笑い声を上げて遠ざかっていく。
 日が昇り川を舟が行き来するようになった。
 男達からもらった汚れた服を来て宝珠を隠した俺に行き交う舟からは侮蔑の視線が向けられている。中にはさっきのように俺の操船が未熟だと見抜いてわざと舟をぶつけてくる者までいた。
 昨日までのバラモンの俺には向けられなかった悪意に憤るが、船底で荷物のように隠れている旦那を思えば卑小に頭を下げてやり過ごすことなどなんでもない。
 下流を目指す。
 このまま国外に出てもいいが、それより先に旦那の体力が尽きるだろう。
 血で張り付いた薬草を剥がして傷口を洗いたいが、この薬草は夏までしか生えていない。旦那が倒れていた森に生えていた分はかき集めたが、それでももう一度旦那の傷口を覆える枚数はなかった。
 この薬草の名はブラフミー。神の名を持つこの葉よりも強い効能を持つものを俺は知らない。
 だが、神よりも力をもつ存在を俺は知っている。
 その居場所を親父が生前教えてくれた。縁の薄い人ではあるが困った時に助けてくれるかもしれないと。
 父の愛情に感謝する。


 日は中天に昇り、傾いてきた。すこしはコツを掴んできた操船で先を急ぐ。
 川は小高い丘の横を流れ、振り返ればハスティナープラの王宮が遠くに見える。船底で横になっている旦那の目線の位置からは見えないだろう。確認すれば旦那は目を閉じて眠っていた。
 被せられた布と日差しで体が温まったのか。ろくでもない事しかしない人だが、だからこそ助かったのだ。
 旦那のおかげでこの舟を手に入れられた。
 次は俺が旦那の命を救い取る。


 日が沈んだ頃に俺は舟を岸辺につけた。
 流れていかないように岸に舟を押し上げる。そうして服に包んだ旦那をまた背負い森の中のゆるやかな坂を登る。途中で草を踏み均した細い道を見つけて辿っていく。
 虫の声がした。葉擦れの音が優しく夜を彩っている。昨日までいたはずの戦場とはまったく違う世界に俺は無言で足を進める。
 そうして木々の間に小さな庵を見つけた。
 立ち止まる。
 どう、訪ねればいいのだろう。
 これがただの孫としての訪問ならどうとでもなるが、背中にいる旦那の命がかかっている。失敗は出来ない。
 背中の重みと熱。
 それが俺を立ち尽くさせていた。
 耳元でため息がした。
おまえは、あまえだな」
 おまえは甘えるのが下手だなぁ。
 旦那はよく笑い混じりにそう言って俺の頬を撫でた。
 ──あの時、俺の頬を撫でた旦那もそう思っていたのかもしれない。
 俺は息を吐いた。
 ゆっくりと歩き出し、庵の入り口から中を覗き込む。
 中で待ち構えるようにこちらを見ていた老人が眉を寄せた。

「こんばんは。──そしてはじめまして。お祖父様」

 老人。──父を生み出した聖仙バラドヴァージャが顔をしかめた。
 パラドヴァージャ仙は尊き家系の一員であり本人も比類なきバラモンである。戒律に反しクシャトリヤのように戦っている俺や父をよく思っているはずがない。それでも。
「おまえは聖仙の庵を血で汚しに来たのか」
 非難に俺は項垂れた。
 血は汚れだ。高位の者ほどそれを厭う。
 背中の旦那は黙っている。起きているのはかすかな呼吸音で分かる。──俺を見守っているのだ。
 この交渉は俺が行わなくては意味がない。
「まずは非礼を詫びます。お祖父様」
「顔も見たことがない者を祖父と呼ぶか」
 確認するような口調に俺は答える。
「あなたが父を生んでくださった事に感謝しています」
 パラドヴァージャ仙本人は多分望んで父を生み出したわけではなかっただろうが、父がいなかれば俺もおらず。旦那とも出会えなかった。
 そんな俺にパラドヴァージャ仙は行儀悪く鼻を鳴らす。
「望みはなんだ?」
「この人を助けてください」
 パラドヴァージャ仙は初めて目に入ったかのように俺の背中を見た。まるで興味のない視線に俺は思わず叫んだ。
「なんでもする! 俺が払えるものならばなんでも贖う! だから!」
 父によく似た顔が俺を見た。
「おまえの命でもか」
「ああ」

 当然だ。

「待て!!」
 そう即答した途端に、背中で暴れ出した旦那を黙殺する。
 悪いが、この交渉は俺だけのものだ。
 それに。
「俺が選んだんだ」
 あの時の言葉を繰り返すと旦那は黙りこくった。選ばせたのは旦那だ。だから旦那は俺の選択を拒否出来ない。
 俺達のやり取りを見てパラドヴァージャ仙は目を眇めた。
「クル国の騒ぎは私も聞いている。──その男を生かしても誰も喜ばん」
「俺が喜ぶ」
 断言にパラドヴァージャ仙はまた鼻を鳴らした。
「おまえは命を差し出すと言ったな。それがどれほどの苦悩に満ちていてもか」
「ああ」
 当然だ。
 変わりなく頷いた俺にパラドヴァージャ仙は背中を向けた。
「こちらに来い。まずは手当をせねば救命の儀式に耐えられん」


 パラドヴァージャ仙の庵には乾燥したブラフミーが山のように蓄えられていた。俺が川から何度も汲んできた水で旦那の傷口を洗い、パラドヴァージャ仙に教えられた真言と手法でブラフミーを貼り直す。
 元々ブラフミーは止血の他に強壮剤としての効果もある。それをこれほど使えば旦那の体調が良くなるのは当然だった。
 一ヶ月程、パラドヴァージャ仙の庵で俺が小間使いのような事をしている間に、旦那は体を起こせるようになった。
 冬が近づいて来ている。冬の前にここを出ていくか、冬の間も食料を分け合って滞在させてもらうか。決めなければならない。
 質素な昼食の後にそう尋ねると意外と人使いの荒いパラドヴァージャ仙は顎に手をやった。
「では、今から儀式を行おう」
「今から?」
 準備が出来ていたのに小間使い欲しさに黙っていたのではないだろうか? 一瞬そんな考えが浮かぶ。旦那ではあるまいし、そんな事はないだろう。
「あの男を連れてこい」
 指定されたのは庵の横だった。この前言われて雑草を抜いた所だ。そこに旦那を横たえる。
 パラドヴァージャ仙が真言を唱えながら、旦那を囲むように小石を複雑な形に並べていく。簡単そうに行っているが、その術式を読み解くと震えがした。
 これは世界と交信する儀式だ。
 旦那を生かすためにはここまでの儀式が必要なのか?
 だが今更止めるわけにもいかない。俺は旦那の手を握った。
 顔が潰れた旦那が俺を見る。
 ちゃんと笑えただろうか。
 パラドヴァージャ仙が立ち止まった途端、虫の鳴き声が止んだ。静まり返った空気に彼は高らかに真言を唱えあげる。
 それに合わせて旦那に見えない力が集中していく。
 光がぐるりと旦那の周りに円を描く。その四隅には短剣のような形。中央には大きさの違う2つの円。その円を囲むように角に円をつけた歪んだ四角が更に2つ。
 見たこともない陣の中央で旦那の体が跳ねた。
「旦那っ!!」
 かはり、とその口から血が吐き出される。
 大きく見開かれた潰れた目はどこも見ていない。
 その光がゆっくりと沈んでいく。
「旦那ぁああ!!」
 かき抱いた体はだんだん熱を失っていって。俺はあの時の事を思い出す。


 ──湖の岸辺で血だらけになって倒れていた旦那を見つけた時、血が凍るかと思った。
 真っ当な決闘ではありえない下半身の傷。尊厳を踏みにじる潰れた顔。
 あり得なかった。あり得なかった。
 夕暮れに湖に声を掛けた時はこの人はまだ無事だったのだ。
 王子ともあろうものがこのような形で敗れるはずがないのだ。
 言葉にならず旦那の体をかき抱いた俺に、潰れた目で旦那は手を伸ばし。俺の頬に触れた。
シュか?」
 アシュヴァッターマンか?
 問いかけに俺は頷く。
 旦那はそんな俺に口を開いた。

「おえを、カウしれ
 お前をカウラヴァの司令官に。
 それは俺に旦那の後を任したということだ。最後のカウラヴァとしてパーンダヴァを倒せと。
 力強く頷くと、旦那は息を吐いた。潰れた目が一瞬閉じる。
「──やた」
 やめた。
「はぁ!?」
 旦那の気まぐれにはなれているけど、今そういう場合じゃねぇだろ!!
 思わず大声を上げた俺に旦那は潰れた顔で笑って言葉を紡いだ。

 お前は好きなように生きろ。

 それだけ言って満足げな旦那に俺は、俺は、──いつもと同じ言葉を返した。

「俺は旦那を生かすために生きる」

 俺は選んだ。旦那のために。旦那を生かすために。
 以前この首を賭けて旦那に和平を望んだ時のように。
 そうだ。俺は。

 
 ──この人を連れて、どこまでも逃げる。そう選んだのだ。


「旦那ぁ!!!」
 儀式の中、失われていく呼吸をせめて補おうと唇をあわせる。
 息を吹き込んで、吹き込んで、吹き込んで。
 ああ、命を注げるならば!
 
 ──ごほっ!

 旦那が咳き込んだ。俺の腕の中で。
 潰れた瞳が俺を見る。
「旦那ぁああ!!」
 すがりついた俺の頬に手が添えられる。
 はぁ、と旦那が息を吐く。その仕草に泣きたいほどに安堵する。
「──夢をみた。おまえがひとり森の中を彷徨っている夢だ」
「その夢はもう無い」
 遮るようなパラドヴァージャ仙の断言に旦那は首を巡らせた。
「御身は分かっていたのだな」
 確かめるような旦那にパラドヴァージャ仙の言葉が降ってくる。
「本来の道筋から違えたのならば、選ばせたものが責任を取るべきだ」
「肝に銘じよう」
 旦那のその返答の意味を俺は生涯知ることはなかった。





 旦那を連れて庵を出る時、パラドヴァージャ仙は俺に言った。
「アシュヴァッターマン。おまえの命は私に支払われた。この先どれほどの苦悩が待ち受けていようともお前が生きているのは私に対価を支払ったからだ。くれぐれも忘れぬように」
 その意味が分かっていないのは俺だけのようで、旦那は答えに詰まっている俺に潰れた顔で目配せをした。
「分かったと言っておけ。なんならわし様に言わされたと思っておけ」
「? わかりました」
 そう答えた俺に旦那は嬉しそうに笑う。
「ついでだ。わし様とも約束しようではないか。──もしわし様が死んだとしても森を彷徨ったりせず人と関わって生きていくように」
 そこに幸せに、という単語があれば俺は頷かなかっただろう。
 多分、旦那は不死者である俺より早く死ぬ。それはどうしようもない未来だ。だからこそ、そんな願いぐらいは叶えてやりたかった。
「わかったぜ、旦那」
 そう答えると旦那とパラドヴァージャ仙は顔を視線を交わした。旦那が大きく腕を広げる。
「せっかく本来の道筋と違えたのだ。このまま上手いこと逃げ切りたいものだ」
「そうだな」
 肯定するパラドヴァージャ仙は俺が見たことのない表情をしていた。そんなお祖父様に旦那はにやにやと笑う。
「まあ、世話になった。その事にも礼は言っておこう」
「もう対価は支払われている」
「ありがとうございます」
 頭を下げると旦那がくすくすと笑った。
「お前は本当に甘えるのが下手だなぁ!」


 晴れやかな気持ちで庵を後にする。ふたりで坂道を降りて舟に向かう。
 旦那はまだ上手く歩けないが、俺が支えればいいだけだ。
 一ヶ月の間、旦那と再び乗ることを考えて手入れをしていたみすぼらしい舟は俺達を待っていたかのように川へと滑り出した。
 俺が操船するのを眺めて旦那が鼻歌を歌う。
 さあ、逃避行を続けよう。


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