いを
2025-10-16 17:33:44
3358文字
Public くらくら
 

お前は海と疑わない

マルタ
それぞれフォロワーさんのお子さんお借りしています。

 鮮烈で苛烈な青を見た。
 ここから約20時間以上かけて一度、足を踏み入れた島がある。母の故郷であった。地中海に面する国。白と青が共存する景色が、幼いマルタの目を焼いた。
 生涯、忘れられない青を、飛白マルタは見た。

 医師免許をとったのはなぜだったか、思い出せるような――掴もうとするとするりと抜けてしまうくらい、呆気なさもあるような。そんな考えの中、毎日を過ごしていた。
 それでもだれかを、だれかの命を救えるのではないかと思えていた。神様が与えてくださったんだよと両親はいっていた。命を。神ごときが、与えたといっていた。
 神ならばなぜ病気などというものを人類に与えたのだろう。平等不平等、なぜそんなものを人類が気付いてしまったのだろう。神が完璧な存在ならば、人類も完璧でなければならなかった。美しくあるべきだった。絵画の中の天使のように。男も女も、老いも若きもなく、ただ堕とされなかった楽園エデンで、憂き目にもなく、純粋に過ごしているはずだった。
 ――両親は言った。「悪魔がそそのかした結果、争いが生まれた」と。
 神は、神のみ、神であるべし。その考えには反吐が出る。自分は完璧である神なのだから、これ以上の完璧な存在はいらない――。それはある意味での妬み。完璧な存在は感情などない。憂き目、良き目もありはしない。
 飛白マルタは神を信じない。
 
 今まさに、呼吸が止まろうとする人間がひとり、いる。
 異常値を報せる音も、マルタの耳には聞こえない。手の施しようがない。まわりには家族がいる。骨と皮だけになった手を握りしめた女がいる。
 この人間の腹を切り開いたのはマルタだった。癌の転移が数カ所見受けられ、そのまま腹を閉じた。手の施しようがない。そう言わざるを得なかった。
 病院に入ると人間というものはあっという間に弱っていく。来院したときに「お世話になります」と笑っていた患者も、ひと月もたてば長い年月を過ごしたかのように老い、生気を失っていく。病魔はそれを待っていたかのようにからだじゅうに浸食していく。
 呼吸が止まり、心臓が止まり、瞳孔の対光反射もない。
 死んでいる、と思う。
 死、というものをなぜ神はつくったのだろうかと、その時、考えていた。
 あきらかに、現実から逃げている。理解はしていた。
 
「青」
「青? 空の、青?」
 戸叶那月が反芻した。
「そうです。空の青。青空の、海の、青」
 病院の屋上、今まさに日が昇ろうとしている。
「青を、また見たいと思ったんです。俺」
「朝になればまた、見られます。青」
――ええ。見られますよね。……また、きっと」
 あくる日、マルタは病院を去った。
 飛白マルタは医者であることで迷っていた。
 
 アンチドートの施設内部に白い紙飛行機が飛ぶ。
 青い空を飛ばない紙飛行機。不安定に飛ぶそれを受けとったのは齋穏寺慶だった。マルタよりも背の高い男である。
「飛白先輩が飛ばしたんですか? コレ」
「あ? ああ」
「珍しい折り方ですね」
「そうかもな。独学だから」
 白衣のポケットに手を突っ込んで、最初に指があたったものを摘まんで放り投げる。
「葡萄のサイダー味。当たりだ。いいことあるかもな、今日」
 弧を描いた飴玉は慶の手のひらにおさまった。睫毛がふちどった彼の目がまばたきをする。
「ハズレは?」
「わさび味」
 飛白マルタは青を、探している。

 たった半年のことであった。
「トリアージって、知ってるか?」
「災害時とかで、優先順位を決めること……?」
「そう。医者の人数は限られている。が、患者は待ってはくれない。時間が経てば経つほど命の選別は難しくなる」
「選別……辛いね。みんな同じ、たったひとつの命なのに」
「でもやらばくちゃいけない。医者だから」
 名を、迅瀬隆弘といった。
 やさしい男だ。――やさしい男、だった。
「どうして医者になったのか、思い出せない」
「思い出せるよ。だって先生、お医者さんなんだから」
 オレンジ色のまばゆい、なつこい笑顔を覚えている。
 男がサカナになったと聞かされたのは、そのあとのことだった。
 飛白マルタは意味を、思い出したいと考えている。

 傷跡を見る。
 義肢というものは慣れなければ切断面が痛むものだ。が、山城椿は使いこなしているようだった。
「俺は義肢装具士じゃねぇからよく分からないが、大したもんだ」
「なにがでしょう?」
「それつくったヤツも、それを使いこなしているお前も」
 外は雨が降っている。湿り気をおびた空間だけれど、空調がそれを緩和している。
 椅子にもたれかかり、「雨が降ってるみたいだな」と天井を眺めた。
「痛み止めと胃薬出しとくから、め。飯のあと、コップ一杯の水と一緒に。間違っても空っぽの胃に放り込むなよ」
……バレてましたか」
「患者の顔色窺うのが仕事なんでね。あいにく、ここは病院じゃねぇけど」
「飛白先生はいいお医者さんだったんですね」
 金色の目がまたたく。そうだったらいいが。いや――そうだったら、よかった。
 飛白マルタは来し方に、足を囚われている。

 机の上にリスがいる。
 紫色の目をしたリス――もとい、森野静。定規を取り出し、身長を測る。
……いつもどおり、リスらしい高さだな」
 パソコンに身長を打ち込んでから、引き出しに入れておいたルクミを取り出す。
「食いすぎるなよ」
 念を押し、ティッシュの上にルクミを一粒置いた。
「ていうかよ、人間に戻って食えばもっと食えるんじゃねぇのか」
 紫色の大きな目がぱちぱちと瞬きをする。
「けどまあ、その大きさのほうが省エネだわな。食費も。で、好物を少量でたくさん食えるわけだ」
 むっとした顔をしている。リスだが表情が豊かだと思った。
「お疲れ、とは思ってるよ。俺ら研究員はお前たちの援護しかできねぇからな。俺にできることはするさ」
 ずい、とルクミを食べ終わったその手で「もっと」と言っているようすだった。
「おい。食いすぎるなって言ってんだろ」
 アンチドートは戦っている。博打の楽々を取り込んでなお戦う。
 飛白マルタはいつまでもいつまでも、無力である。
 

 海を見つめた。
 空を見つめた。
 水平線を見つめた。
 濃い雨のにおいがする。
 眼鏡のレンズに数滴、雨粒が落ちていく。
 右浜区の、海に面した場所。
 海風が吹きすさび、長い髪を揺らす。砂浜には名も知らない海藻や流木が雨に濡れてつややかに、そして鈍く煌めいている。
 東々自体が狂っている。と、最近考えている。
 悪魔というものも神というものも飛白マルタは信じない。
 東々にも多数の新興宗教がある。それぞれにそれぞれの神を見いだしている。
 ――苦々に選ばれたもの、楽々に臨んだもの。
 どいつもこいつも狂っている。飛白マルタも、狂っている。
 狂気に飲まれてなお平気なふり、素知らぬふりをしているやつらもいる。そういうのが一番たちが悪いと思っている。
 地獄も極楽も信じない。
 死とは隣り合わせだ。医師にとっても、アンチドートにとっても。
 死んだら終わり。生きていても無力ならばいていい・・・・意味にはならない。
 生きていても死んでいてもそう変わらない。どちらが苦しいのか、どちらが楽しいのか。そう考えることも無意味である。
「俺が、この世界に生きている意味はない」
 飛白マルタの、生涯の持論である。
 他人が生きる意味を見いだしたとしても、反論はしないが。
 138億年のうちの1万年。人間が誕生してからたったの1万年だ。
 人間ひとり、長くて100年。ちっぽけなその年月に意味を見いだすこともない。そんなことを考えるのなら別のことを考えた方が結果、健康的だろう。
 砂浜に座る。
 この海はいつからあるのか。少なくともマルタより数百年――数千年、長く存在しているだろう。
「母なる海。よく言ったもんだ」
 マルタが望んだ青は、ここにはないようだ。
 空も鈍く、今にも落ちてきそうな色をしていた。

 いつかあそこに還れるのだろうか。
 飛白マルタは常に、考えている。恋うている。