ひさね
2025-10-15 22:43:51
11853文字
Public
 

再会を踏みしめて

ロイ視点。ロイ誕生日短編。
悪魔みたいな馬の話。

 名前を呼ばれる。ぴるりと耳を翻して、ブラシで身体を撫でられながら、声を待つ。

「お前は強くて速くて、何より気高い僕の馬だよ」

 少年はくすりと笑って、それから「悪魔みたいな、僕の自慢の馬」ともう一度、小さく、まるで壊れ物にそっと触れるように、小さく呟いた。毛並みを撫でられるのは心地よい。うとうと瞼を閉じる。
 あるいは。
 しとしと小雨が降ってきて、おじさんに綱を繋がれて、引かれるのに合わせて、ぱかぱかゆっくりと地面を蹴って小屋に戻る。

「坊ちゃんと約束したんで無事育ってくださいよ」

 馬の知識には誰にも負けない自信があるおじさんが珍しくぼそぼそ言って、小屋に渋々入った私の身体を拭く。約束という言葉も苦々しそうに、それでも大切そうに口にする。
 どちらも昔の話。もう会わない家族の顔を見て、ぱさり、と尻尾を振った。

 ***

 ぱちりと瞼を上げる。すぐ隣の窓からは日が直接差してきて、寝起きの瞳には眩しかった。んん、と唸ってベッドから降りる気にもならなくて、足をもたもた動かす。

「おはよう。ロイ?」
「んー。……にあ、ですか」
「大正解。良く寝てたね」

 自分の腕を持ち上げて顔から太陽を遮って、顔を覗き込んでけらけら笑うニアを見る。それから、ここはニアの部屋だったのだな、とまだまだ回りにくい頭で考える。
 シオンはなくなった旅のことを書いている。今日は見せられるものは多分ないとか言っていたし、誰とも話す予定もなかったようだから、私一人部屋を出て、側の適当な部屋に入った。一応ちゃんと仲間達の部屋であることは確認してから入った。そもそも鍵がかかっていないのも半分変な話ではあったけれど。
 よいしょと勢いをつけて起き上がると、彼女はタイミングよくひょいと首を引っ込めて、「面白いもの貰って来たんだけど」と背中に隠していた手を差し出した。
 彼女が黒い手袋越しに持っていたのは一枚の紙だった。くわ、とあくびをしながら、それを貰う。反射的に出た涙をこすって、紙面にピントが合った時。
 一番に目が入ったのは、自分の姿だった。今の姿ではなく、本来の馬の姿だった。そのすぐ上に「探しています」と太くてやたら目立つ色の文字で書かれている。間を読み飛ばして、連絡先を見れば十分に知っている名前、牧場の住所と名前が刷られていた。

「おお。わたしだ。ちゃんとうまのすがたの」
「でしょ? びっくりしちゃった」
「ですね」

 牧場の柵を飛び越えてから二年以上になる。今年で三年目。それこそ出て行ってすぐの時は何回か、このチラシを見た。

「まさか、いまもさがしているとは」

 時間もお金もかかるでしょうに、と呟く。
 ニアはちょっとツインテールを揺らして、すぐに、躊躇う様子もなく私に尋ねた。

「戻らなくって良いの? 旅もとっくに終わっていたんだし。勝手に就職しているのは一旦置いてとして」
「いまさらもどれないですよ」

 旅が終わった時点で一年も経っていた。それから神様の所でも色々やることがある。指をひとつ、ふたつと立てて話す。
 それになにより。

「いまのすがたじゃ、さすがにむずかしいですよ」

 みっつ、と指を伸ばす。前足ではなく、ちゃんとした人間らしい腕だ。指も器用で、ケガをしても命取りにはならない。

「どうぶつと、いまのどうぶつっぽいそんざいは、まったくちがいますし」

 ここら辺の話は神様がとても詳しかったな、と思い出して、それをそのままニアに言う。
 曰く、構造が違うらしい。例えば直立二足歩行が人間と人間に準じた種にしかできないように、もっと身近に言えば、馬と驢馬の間の子がどれだけ頑張っても子供ができないように。
 動物が人間に似たような亜人とか、獣人になることは仕組みと構造ごと変えないといけなくて、つまりほとんどおとぎ話の中だけの話。

「そんなおとぎばなしがじつげんしてるって、たちのわるいじょうだんですよ」

 我ながら神様には結構なことを願ったのだな、と言いながら一人考える。こんなおとぎ話は家族はあまり好きではなさそうだったこと。特に、一番の友人でもあった少年は、特に。動物を相手にしているから、というには潔癖すぎるぐらい遠ざけていたけれど。

「そういうわけで、いかないようにしています。このすがたになれるようになってからは、いしきして」
「成る程ね」

 一音一音に短く間を空けて、歌うように囁いたニアは、私の隣に座った。それから私の顔をまた覗き込んでぱちぱちと二回、三回瞬く。
 鳥の声が間を通った後に、彼女はゆるりと目を細めて、それは珍しく優しく、楽しいだけではない微笑を浮かべた。

「実際行く行かないは置いておいて。群れの仲間とか、牧場にいる家族とか。特に母親には会いたくないの?」
「あー。はは、もういないんですよね」
「おや」
「そだててくれたははならいるんですけど」

 おじさんから聞いた話を思い出す。

「ほんとうのははおやはわたしがうまれたときにいなくなった。いや、わたしがうまれたかわりにいなくなった、ですね」

 立派な逆子だったらしいです。
 淡々と続ければ、ニアも「そう」と良くある話のように淡々と相槌を打つ。聞く時は躊躇わずに聞くから心地が良い。実際、良くある話だ。私の場合、珍しい部分も確かにあるけれど。
 紙の上で、真っ黒な毛並みの私を見つめる。つやつや毛が輝いていて、とても良く世話されているのが分かった。くすり、とつい笑って、話を続ける。

「ここのぼくじょう、ちいさくて。うまはいちばまで、にもつをひいてもどってくるためのあしなんですよ」

 街からはすっかり外れて、森の側にあるかつての住処を思い出す。小さいとは言ったけれど、当然、街の中のせせこましい道路や路地裏よりずっとずっと広くて、人も車もないからずっと柵の中を、時折少年を乗せて駆けずりまわっていた。少年がいないならいないで、きょうだいや育ての母の尻を追いかけまわしていた。

「こうまより、おとなのうまがひつようで、でもおかねはあんまりない」

 少年のブラッシングを思い出してはゆらゆら首を揺らしてしまう。そのまま話を続けていく。

「そんななかでははよりわたしがゆうせん、じゃなくて、わたしがえらばれたわけなんですけど。どうしてだとおもいます?」
……さあ、どうして?」
「やくそくしたんですって」

 私を母から取り上げたおじさんが良く口にしていた言葉を声にする。

「じょん――わたしをせわしていたこどもが、わたしをちゃんととりあげるようにって」

 全く合理的じゃない。牧場の持ち主、ジョンの父ならそう言いかねない。くすくす、声を潜めて笑う。でも、本当にその通りだ。育てるのには時間も、お金も、手間もかかる。特に母親がいない子馬は。また今度でも良かった、むしろ今度の方が良かったとも、我ながら思う。
 それでも私が選ばれた。大事な家族に選ばれて、私はここにいる。
 首が疲れてきて、顔を上げてニアを見つめ返す。

「まあ、うまのすがたにももどれますけど。でも、きゅうにぬっとあらわれても、かいきすぎるし。おおきさもぜんぜんちがいますし。なによりここにもどってこれないですし」

 今はシオンの原稿を読まないといけない、と続ければ、ニアはにこっと、次はいつも通りの楽しそうな笑顔で指を立てる。

「つまり、ロイは今生の別れをしたつもりでいる訳だ」
「そうですね。でていくつもりででてきたので」

 柵を飛び越えたあの時に、もう二度と戻る気はなかった。だから、ニアの言う通り、家族が本当にいなくなったって会わない予定だけれど、「つもり」をわざわざ強調されたのが引っかった。むうっと唸り、耳を絞る。

「とはいえ」

 話を変えようと、ついでに返そうとニアにチラシを差し出す。

「まさか、いまもさがしているとはおもわなかった。……もうさんねんめですよ」
「まだ三年目とも言うけど。約束は人を捕らえるものでもあるし?」
「けいやくじゅうしの、あくまっぽいこといいますね」
「それは光栄、ロイにそう言ってもらえるなんて」

 ニアはけらけら声を上げて、そして私の手を押し返した。

「持っておきなよ。あたしが持っててもしょうがないし」
「ええ」

 困惑する私をよそに、「それに」とニアは続ける。

「お互い本当に会えないわけじゃあないし? ちゃんと別れる時に必要かもしれないでしょ」

 歌うように捉えどころのない、とは言い過ぎだけれど、ありそうもないことを話すニアの横顔を見つめる。目を瞑って、にこにこいつも通りに笑っていて、結局何を考えているのか分からない。
 はて、と首を傾げ、自分に渡されたままのチラシに視線を落とす。
 それにしても、この馬の姿の私と良く目が合う。

 ***

 そんな事をニアと話したのが昨日のこと。
 街を抜けて、森を抜けて少し進んだ先で馬車が止まる。座席から飛び降りて、車からも跳ねるように下りたら、澄んだ青空と、そして古くて、そして懐かしいアーチが私を迎えた。
 とてもよく知っている場所。アーチの先、何もない道と草原と白い柵。牛や鶏、そして馬の臭いに鳴き声のする場所。全部変わりがない。わざわざ案内されなくてもどこに何があって、何がいるのか良く分かる。
 でも、駆け出す訳にもいかない。くるりと馬車を振り返る。顔が白くて、肩が張ったおばさんが下りて来るのを待つ。ここ、かつて暮らしていた牧場に連れて来た張本人で、私は客だったから。
 ここに戻ってきた経緯は単純で、ポケットから落としたハンカチを拾っただけだった。声を掛けたら知っている顔だったから随分驚いた。
 先を行くおばさんの後について行って、アーチを抜ける。牧場の中に入れば、尚更自分の記憶と変わりがない。道をまっすぐ行けば白い壁の小さい家が建っている。その裏の奥にはスギが生えている。

「急にこんな所に連れてきちゃってごめんね、お嬢さん」
「だいじょうぶです。ちょうど、うまとか、みたかったので」

 こっちに伸びて来るおばさんの影をたまに踏みながら、道なりに歩いて行く。

「お嬢さんみたいな、何と言うか、馬の耳とか尻尾とかある子は初めて見るもんだから」
「いるっていうけど、いがいにいないですからね~」
「はは。……それに、よく似ていたから」

 何にとはわざわざ聞かない。おしゃべりなおばさんは振り返らずに呟く。

「息子が探している馬に。たかたか跳ねて先に行くのに、振り返ってこっちを待つところ」

 息子という単語に耳がぴくぴく動く。名前を聞きそうになって、でも不自然だろうから飲み込んだ。

「そうなんですね」

 代わりに相槌だけ打つ。おばさんは一つ、はあと息を吐いて続けた。

「ずっと気に病んでいてね、今日なんかは特に。いなくなった馬が産まれた日なもんで。最近はお父さんとも上手くやっていたんだけどこの時期はどうにもね。……客人がいれば、多少はあの子の気も紛れるんじゃないかと思って」

 今日は私の誕生日だったらしい。いや、それはともかくあのジョンが父親と上手くやっているのが意外だった。素知らぬ顔で「なるほど」と頷くけれど、あっちこっちに耳が回るのは止められなかったから、おばさんがこっちを見ないでさっさと進んでいくのに助かった。

「でも、ひにあぶらでは? にているならとくに」

 あはは、と声を立てて笑ったら、側の鶏小屋の中からばたばた跳ねる足音が響いた。目もくれずに咳払いする。

「たしかにちょっとはうまっぽいですけど。でも、おとぎばなしじゃあるまいし。へんにしげきしないで、やすんでいればたちなおりますよ。たぶん」

 おばさんは良くも悪くも大雑把なところがあるから、らしいけれど。しかし、そっとしておいてやれば良いと思ったのも確かだった。記憶の中のジョンは意外に繊細な部分もあって、特に好きなものに関しては細かいところもあったから。度々ジョンが夜中に小屋に入り込んでは、ぽつぽつ不満を零しながら抱き着いてきたな、と尻尾をぱさりと、でも目立たないように小さく振る。
 おばさんははっと息を呑んで、何歩も歩いてから「そうだね」と小さく、ちょっと風が吹いたら紛れてしまうような声で呟いた。

「賢いお嬢さんだ」

 とはいえ、おばさんの勘が正しくて、そんなおとぎ話が事実なんだからややこしい。シオンもこんな気持ちだったのだろうか。

「あ、うま!」

 見えて来た見覚えのある影が見えて、白い柵に駆け寄る。背伸びをして、首を伸ばして柵の先を見渡す。青い原っぱが広がって、光を浴びて光っている。遠くで赤毛の馬も、黒い馬も、真っ白な馬も草を食んだり歩き回ったり方々に散っている。

「ありがとうございます」

 尻尾を立てて、振り返るとおばさんはちょっと眉を下げて、歯を見せて笑った。来た道を戻って、馬車なり荷物なりを持って行って、そのまま家事に家畜の世話をするのだろう。
 小さくなって最後消えた背中を見ていたら、背後から草の上だけれど微かにぱかぱかと蹄の音が近づいてくる。ぬっと影が伸びて振り返れば、真っ白な馬が一頭。私を見下ろしていた。眠そうにゆっくりと瞬きする瞼。

「ろぶだー! げんきしてます?」

 ふす、と鼻を鳴らしたのを確認して、体を揺らす。久しぶりに見た兄弟はすっかり大きくなっていた。やっぱり成長の仕方も違う、と頭の裏っかわで考えたけれどどうでも良くて。周りに誰もいないのを確認して、柵にぎりぎりまで張り付いて、こそこそ囁いた。

「おおきくなりましたね~。いちば、いってます?」

「そうなんですね。いちばだと、めだたないですか。からだまっしろだから」

「やっぱり。あ、ははのちょうしどうですか。げんきそう?」

 ロブの話を聞いて、くすりくすりと笑って、それから母の事を聞いた時。右耳をぐいっと引っ張られた。視野が狭いのも忘れてロブばっかり見ていたものだから、思わず頭を振る。同時に離されて、妙にスースーする。軽く噛まれた。そんなことをするのは誰か分かっている。
 右を向けば、これもまた真っ白な馬がいる。私の育ての母だった。

「いっしゅんだけ、きましたよ。げんきそうでなにより」

 にこりと笑いかければ、母はツンとそっぽを向く。気が乗らない時は顔だけ見せてさっさとどこかに行くけれど、そのままじっと立ち止まっている。

「ひさしぶりだから、ここ、というか。じょんのこと、ききたいんですけど」

 素直でないというよりは気分屋な母が側に留まっているだけでかなり面白い。

「いまはしごと、さぼったりとかしてないですか?」

「へえ。……ちょっとぐらいわるいことしてるとおもってたんですけど。ねっこはけっこう、いたずらずきっていうか。かわるんですねえ」
 
「ずっとさがしてるんですか。ひをかかさず。そんなに」

「しんいりはいない、ですよね。これ、つくるのにも、おかねがかかるから」

 スカートのポケットをまさぐる。小さく折りたたんだチラシを開いた。
 母とロブ曰く、ジョンは私をずっと探しているらしい。二年も過ぎているのに。戻ってくる気のない私の事を。
 あいかわらず馬の姿の自分と目が合う。
 これからもずっと探し続けるのだろうか。ふと疑問が湧いた。
 紙上の自分の鼻先を見つめていたら、「小さなお客さんだ」と頭上から声が降って来た。低いけれど、微かに聞き覚えがある。
 声のした方を見上げると、金髪で少し袖がだぶついたシャツを着ている少年が柔らかく笑っていた。背が頭一つと半分ぐらい大きくて、目を合わせるのにも首の長さが足りないなんて思ってしまった。

「君、お父さんやお母さんは?」
……いや、ひとりです。おばさんにあんないしてもらって、うまをみていました」

 柔らかい口調がいやにひっかかる。まさか、というか十中八九、そうだろうと頭では理解しているけれど。

「それって母さんのことかな。それにしても……君はいくつ?」

 あのおばさんを母さんと呼んだから、勘違いじゃないと確信する。が、それにしたって丁寧な口調で、なんだかまるで優等生みたいで。よくよく頭も回らないまま、答える。

「だいたい、じゅうから、じゅうろくぐらいです。ひとりで、がいしゅつできるとしでは、あります」

 曖昧な回答に少年はさらに眉を下げて怪訝そうに眉を潜める。首を傾げて、小さく唸って、でもそれから目を細めた。

「僕はジョン。君の名前は?」

 予測通りの名前を名乗られて、でも悪戯小僧でもなくしっかりと家の手伝いをしている少年が記憶のどれとも結びつかなかった。
 けれど声も、暗い緑色の瞳も、ちゃんと覚えている。
 あっけにとられて、我に返って、内心慌てて、ロイと短く答えた。
 ジョンは一瞬目を見張って、私が持っていたチラシを見る。

「おなじなまえですね。おどろいていますか?」

 チラシを見えるように差し出しながら、固まっているジョンに声を掛ける。彼はぱち、と瞬きをして、それから小さく頷いた。

「偶然もあるものだね」

 ジョンはおとなしそうに静かに笑った。ネズミ退治で英雄ごっこをやろうとしていた少年とは思えない。大人になったのだろうか。でも、なんだか胸の辺りが妙に変な感じがして落ち着かない。

……このしゃしん、すごくめがあうの、きのせいですか?」
「分かる? わざとそういうのを選んだんだ。印象に残るから」
「なるほど。たしかに、そうですね」

 頷くと、ジョンは人差し指を自分の口に押し当てて、少しだけ楽しそうに口角を上げた。

「父さんや母さんには、そこらへん内緒で選んだやつなんだけどね。あんまり言うと生意気とか言われるから」

 確かに、想像に難くない。あのリビングではとても現実的な父親が一番空気を握っているから。でも、強かにやっていると知って少し安心する。

「そんなことまでするんですね」
……だって僕の馬だからね。悪魔みたいな馬」

 少年は目を伏せて、壊れ物に触れるように優しい声で囁いた。
 悪魔なんて呼ばれるのもいつ振りだろう。ずっとジョンから、ブラッシングの時も、走り方のしつけの時も、餌をもらう時も、延々聞いていた。

「とてもつよそうですね」

 ジョンはぱちくり瞬いて、頬を掻く。恥ずかしいのか、伏し目のままだった。

「初めて言われたかもな。あんまり良い例えじゃないから」
「でも、かっこいいっておもったんでしょう?」

 んー、と一瞬空の方を見て。ロブと母が見ていて。二頭の間から眩しい青空が差し込んだから。

「つよくてはやくて、なによりけだかいってかんじ」

 にぱりと笑顔でジョンに向き直ると、鳩が豆鉄砲を食ったようにあんぐりと口を開けていた。すっかり言葉を忘れさせてしまったせいか、私とジョンの間に微かな風が通り抜けていく。

「ずっと、にねんいじょうさがしてるって、きいています。おばさんから」

 ほんの少しだけ嘘を混ぜる。せっかく話せるのに変に正直になって、ここで終わりじゃもったいない。

「母さんが? ……困ったな、何なんだろう」
「どうしてですか?」
「正直なところ、父さんにも母さんにも、あんまり歓迎されていないからさ。最近は、特に」
「じゃあ、はんこうしてでもさがしたいってことですよね。とってもすきなんですね、そのうまのこと」

 ジョンはまたちょっと眉を下げる。その顔はさっきのおばさんの顔と似ているな、と思った。だぶついた袖をそわそわとまくりながら、周りに誰もいないのを確認するみたいに瞳を少し泳がせて、地面を見つめる。ゆっくりと言葉を紡ぎだす。

……特別だったんだ。産まれてくる子供を僕の馬にするって、間違いないようにって叔父さんと約束をして、初めてお産を見届けて。……それが、とても……あんまり、惨かったから。……それでも産まれてきたから。きっと大事にしようと決めて」

 潜められた声と、微かな震えを感じ取る。お産を見ていたのは、今初めて知った。おじさんが良く口にした約束がそれなのは知っていたけれど。
 振り返れば、外でどやどや走っていると、ジョンが何かと足や蹄の調子を気にしたり、突然の小雨を恐れるように、天気予報を食い入るように聞いていたり、降る可能性があるだけで外に出さないようにしようとしたり。何かと甲斐甲斐しかった理由が少し見えた、かもしれない。
 ジョンはわたしがうまれるところ、つまり母が死ぬところを見ていた。生の現実を見ていたからか、と納得する。
 同時に確信した。
 この人は、きっと、ずっと探すんだろう。私を。見つからない馬を、ずっと。
 ニアが言っていたのはこういう事だったのかもしれない。今生の別れをしていたつもりでは、多分ちゃんと別れられない。
 深く、息を吸う。頭は下げない。まっすぐジョンを見据える。はしゃいで顔に引っ掛かった髪を払う。

「でも、にねんもいない」

 行儀は悪いだろうけれど、柵に寄り掛かる。両隣に熱を感じる。人間より熱くて、懐かしい干し草のにおいがして、何もかもが懐かしい。
 少年はやっと顔を上げて、自分の腕をぎゅっと掴む。暗い瞳はゆらゆらちょっと揺れる。事実を言われて、決まりの悪い時の目だ。
 ジョンの父が言わない訳がない。でも、私が繰り返している。あの人は現実的すぎることが多いけれど、今回ばかりは正しいだろうから。

「そのじかんとおかねで、べつのうまをそだてればいい」

 私が生まれて、その私も居なくなって、結局全体じゃ一頭減っている。戻ってこない馬一頭にかけるお金も時間も本当はいらないのだ。
 少年はぐっと握りこぶしを作る。それは微かに震えていて、ジョンが怒るのも無理はないな、と思う。何と言ったって、おじさんが取り上げてくれたとっても大事でとっても特別な馬だから。約束までして、それで現実より約束を選んだんだから。
 とても、納得がいかないのだろうけれど。探されている身でも、生きている以上思う事はある。
 だから、話さないといけない。
 兄弟を見上げる。ロブはちょっと頭を下ろしてわたしの頬にすり寄る。

「わかいのはこの、ろぶしかいないでしょう。さんさいになったんですっけ」
「そうだけど……名前、教えたっけ」
「しってました」
「母さんが教えてたんだ?」

 ジョンの言葉に今度はうなずかないで、ロブの顔に下から腕を回して、ゆっくりと撫でる。毛はさらさらと指の間を通り抜けて行く。

「ろぶとろいをくっつけると、おとぎばなしのえいゆうになるのもしっています」

 大体私と同じぐらいに産まれて、紆余曲折ありつつ、結局どっちも少年の馬になって名付けられた。二頭揃って一つの名前になる。だから私達は、相性も悪くはなかったから兄弟馬として一緒にされていた。血のつながりは全くないけれど、そうなっていた。
 英雄ロブロイの不思議な話は何度も聞いた。こういう日差しが気持ち良い日に、家の裏のヨモギの原を歩き回ってから木陰に座った時、ジョンは私の頭や体を撫でながら話してくれた。
 その少年は警戒心を滲ませて、私に穴を開けるように凝視している。

「おとぎ話、か。良く知っているね」

 穏やかな言葉にふんわりと棘が包まっている。ようやく記憶通りの、意地が悪い部分が見えて、ふふんと鼻をちょっとだけ鳴らして、尻尾をぱさぱさ揺らす。
 この少年は悪魔とか不可思議なものに夢を見たり、こういう名前の仕組みを作る割に、同じぐらい不思議なおとぎ話は質の悪い出鱈目とか言って一切を遠ざけていた。それは今も変わりがないようで、眉間にうっすらと力が入って、皺ができている。

「じゃあ、それがどんな話かも知っているのかな」

 声は穏やかで、小さい子を相手にしているようだけれど、目つきは父親の背中でも見るみたいに険しい。焚きつけたのは自分なので、あわてず騒がず、口を開く。

「やまをこえてきたまものや、どうぶつとたたかっていました」

 その中で山の先にも世界があることに、見たことがないものがあることに気が付いて。馬一頭連れて山を越えていく話。
 ロブロイが弓が得意なのか槍が得意なのか、はたまた臨機応変な策略家なのか。ユーモアがあるか、喧嘩っ早いか、情に脆いのか。ロブロイの輪郭はぶれることが多かったけれど、でも山の先を目指すのはずっと同じだった。

「さいごは、あたらしいせかいをみつけておしまい」

 そこが良い場所か、悪い場所かはわからない。家に戻ったのかもわからない。全部、おしまいの沈黙の先にある。
 一回、言葉を切る。ひゅるひゅる風が吹いて来て、ジョンの髪をさらさら撫でていく。太陽が照らして、やわらかく金色に輝いた。暗かった瞳も微かに光が差し込んで、森のような澄んだ色が見えた。
 耳を捻って、頬を撫でる風を感じながら、ゆっくり目を細める。
 この人はつくづくアンバランスだ。今みたいにおとなしく丁寧かと思えば、感情は出やすかったり。記憶の中でも、子供っぽいかと思えば甲斐甲斐しくて、おとぎ話を出鱈目というのに、名前はそんな出鱈目から付けていた。

「としょかんにはないんですね、このはなし」

 別のロブロイはいたんですけど、と付け加えたら、ジョンは開けたり閉じたり唇をもごもごと動かして、結局黙ったまま、でも今度は地面に帰っていかないで私を見つめている。
 はて、これから何を話そうか。私とジョンしか知らないことは他に何があっただろう。まだまだ話さないと悪戯で片付けられてしまいそうで、首を傾げると。
 もしゃっと耳を噛まれた。今度は左耳。きゃあっと声も尻尾も上げて、頭を揺する。
 またもや、ぱっと離した母に抗議の視線を向けると、母はぷいっとそっぽを向く。思いきり尻尾の毛が柵にぶつかった。鶏がまた遠くで鳴いて、耳がくるくる動く。
 気分屋も困ったものだ。むうっと頬を膨らせて、母の頭をのぞき込むように体を横に曲げて追いかける。そこそこ可動域限界まで曲がった所で、しつこく母を見ていると、くっと噴き出す声。えいっと勢い良くまっすぐに戻ると、ジョンのくぐもった声は段々はっきりと輪郭を持ってくる。

「はは。そっか、そういう事。シルウィがずっといるのは、そう。……ふふ、あはは」

 母の名前を呟きながら、口元を隠して笑っている。

「久しぶり……で良いのかな。ロイ」

 名前を呼ばれて、胸からわっと温かくなって。懐かしい気持ちと、それがまた現実になった喜びが溢れてしまって、ふわりと尻尾が立つ。

「そうですね。ひさしぶり、です」
「良かった。生きてて」
……よくしんじましたね?」

 首を今度は右側、ロブの方に傾げて尋ねると、ジョンは今度は穏やかに、弾むように答えた。

「シルウィは、ロイの事も、ずっと見てたなって思って。いつもはすぐどっかに行って、動いたり動かなかったりで大変なのに」
「わたしがいてもかわらないとおもいますけど」
「いいや、全然違うよ」

 ジョンは首を横に振って聞かないので、むん、と黙って腕を組む。でも、母がいて、こんな出鱈目みたいな事実が伝わったのなら、と思おうとしたけれど、やっぱり半分納得がいかない。
 母を見上げれば、こちらを見下ろしているばかりだ。言葉は、人間に分かるような言葉は勿論ない。でも、だからこそ、伝わったのかもしれない。ふとひらめきが走っていった。
 作り話のロブロイのように、おしまいの先がちゃんとあるように。これも同じで、言葉にしたものが全て、という訳じゃない。きっと。
 母の黒い瞳に「ありがとうございます」と言葉を転がした。

「ねえ」
「なんですか?」

 母との無言の会話を止めて、ジョンの方に向き直る。彼は、ええと、とか、その、とか口ごもりながら、またシャツの袖を触っている。きゅっと口を結んだかと思えば、胸に手を当てて深呼吸を一つ。
 そうやって貯めた勢いで、緑色の瞳で私をまっすぐ捉えた。

「帰って来ないの、ここに」
「にかいもいわせます?」

 にこり、と笑う。戻る気は元々ない。私は外を見て、進まないといけないし、ずっと見たことがないものを追いかけていたい。
 名は体を表す、なんて言ってしまったら、皮肉になってしまうだろうから胸の内にしまい込む。
 流れて来た雲が丁度日を遮ったのだろう。地面が暗くなって、ジョンの方に伸びていた私の影が薄くなる。

……いいや」
「じゃあ、やくそくしてください。わたしのいったとおりにするって」

 雲も薄かったようで、あっという間にどこかに流れて、また明るく草も、草の剥げた地面も照らされて、光の粒が舞っている。
 一歩、二歩、とジョンとの距離を縮める。そして、ん、と顔に向かって、小指を差し出す。
 ジョンは微かに開いた口をきゅっと結んで、それでも小指を絡めてくれた。