夜のジュノン。神羅社員しか入れない会員制バー、スリールには、穏やかなジャズが流れていた。照明は青く落とされ、グラス越しに光が揺れる。
そのカウンターに、イリーナがぐったりと突っ伏していた。
「……はぁぁ。もうだめだ……」
今日の任務は散々だった。判断ミスでルードの足を引っ張り、そのことを引きずったまま飲んだ三杯目が、想像以上に効いている。
「ルード先輩……ため息、三回ついてた……あれ、地味に刺さる……」
頬を赤らめながら、氷の残るグラスを指先でつつく。ゆるやかに流れる音楽とアルコールのせいで、瞼は重く、もう立ち上がれる気がしなかった。
「……迎え……頼も……」
呟きながらスマホを取り出す。ぼやけた画面が、二重に見える。
「……ツォンさんには……絶対、見せられない……」
憧れの上司の前では、いつだってちゃんとしていたいと思っていた。頼られる自分になりたいし、褒められたら――それだけで一週間は頑張れる気がした。
だから、こんなふうに酔っ払っている姿など、決して見せるわけにはいかない。
カウンターに突っ伏したまま、震える指先で連絡先をスクロール。「R」の欄に目をやって、レノの名前を見つけた。数秒じっと見つめたあと、顔をしかめて小さく叫ぶ。
「だめだめっ! 絶対バカにされる……ていうか送り狼になりそう……!」
首をぶんぶんと振って、却下。そのすぐ下に見慣れた名前があった。
「ルード先輩……なら……」
ふにゃっと笑って通話ボタンを押す。数回の呼び出し音のあと、静寂。
「せんぱぁ〜い……迎えに来てくださぁ〜い……」
甘えた声で呼びかけても、反応はない。それでもイリーナは喋り続けた。
「まーた、ため息ついてるんでしょ〜? でもね、私がんばってるんですからっ……失敗ばっかだけど……ちゃんと成長してるんですからっ!」
静かな間。まるで聞いてくれてるような沈黙に、イリーナは勝手に調子づく。
「レノ先輩みたいに器用じゃないけどぉ……いつか、“イリーナ、おまえに任せた”って言わせてみせますからねっ!」
少しの間を置いて、低く静かな声が返る。
「……どこにいる?」
「え……? ここ? なんだっけ……あっ、スリールです! ジュノンのバー! 青いとこ! ジャズの!」
「わかった。すぐ行く」
「……へへっ……すぐ……って……あはは……はやくこーーい!」
半分寝言のように叫んだあと、カウンターに突っ伏した。氷が小さく音を立て、グラスの中で揺れる。
スマホの画面には、通話履歴が残っていた。
“Rufus Shinra”
――頭が、割れるように痛い。
イリーナは呻きながら、枕に顔を押しつけた。喉はからからで、胃もきりきりと痛む。
「……なにこれ、二日酔い……最悪……」
重たい瞼を持ち上げると、そこには見慣れない白い天井。シーツは上質、カーテンは高そう。安宿の匂いはしない。
「え、ここどこ……?」
ゆっくりと上体を起こす。その瞬間、隣で寝息を立てる気配に気づき、ぴたりと動きが止まった。恐る恐る視線を向ける。
金髪。白いシャツ。整った顔立ちの男が、ベッドの上で静かに目を閉じていた。
「ヒッ!?」
声が裏返った。シーツを胸元まで引き寄せ、半ば悲鳴のように叫ぶ。
「しゃ、しゃしゃしゃ社長っ!?」
その声に反応するように、男がゆっくりとまぶたを開けた。
ルーファウス・神羅。神羅カンパニーの現社長は、まるで何事もなかったかのように軽く息を吸い、落ち着いた口調で言った。
「おはよう、イリーナ。起きたか」
「おはようじゃないですっ!! な、なんで社長がここに──っ!?」
「“迎えに来てください”と言っただろう。忠実に対応しただけだ」
「……えっ」
途切れ途切れだった昨夜の記憶が、一気に蘇る。電話、甘えた声、文句、泣きごと――。
「で、でも……私、ルード先輩にかけたはず……!」
「ルードの下に、おれの名前があったんだろう。酔ったおまえが押し間違えるには、十分な条件だったな」
「……えっ、うそ……ほんとに……?」
ぽかんとしたあと、言葉が遅れて押し寄せてくる。
「ええぇぇぇぇぇ!? じゃあ、迎えに来てくれたのって……社長が……!?」
シーツをぎゅっと握りしめたまま、顔面が一気に赤くなる。
「で、でも……なんで……一緒に……寝てるんですか!?」
「置いて行くなと騒いだからな」
その一言で、曖昧な記憶の奥底から、誰かの手を必死に掴んでいた感触が蘇る。
「……ま、まさか、変なこと……してませんよね!? してないですよねっ!?」
「寝相が少し悪かった。……落ちかけたおまえを何度か戻したが、それ以上のことはしていない」
「ひゃあああああ!! ほんとにすみませんっ!!」
ベッドの上で半ば土下座のような格好になりながら、イリーナは顔を真っ赤にして身を縮めた。その様子を横目に、ルーファウスは静かに息をついた。
「ツォンに連絡しておこう。部下が体調不良で遅れると」
「やめてくださいっ!! ツォンさんには黙っててください!!」
「なぜだ?」
「そっ、それは……」
言葉に詰まりながらも、勢いで叫ぶ。
「とにかく! バラしたらただじゃおかないですから!!」
その言葉に、ルーファウスの肩がわずかに揺れる。口元に手を当て、ふっと笑いが漏れた。
「……脅迫か。なかなか大胆だな、おまえは」
それは彼にしては珍しく、抑えの効いていない笑みだった。穏やかで、どこか楽しげで――イリーナは一瞬、言葉を失った。昨日まで遠くに感じていた“社長”が、初めてほんの少しだけ人間らしく見えた。
笑うと、こんな顔をするんだ。そう思った次の瞬間には、彼はもう表情を戻していた。シャツの袖を直しながら、静かにベッドを降りる。
「ではこの件は、おれとおまえだけの秘密にしよう」
何気ないように聞こえたその声が、どこかやさしく響いた。部屋を出ていく彼の背中を、イリーナはただ呆然と見送るしかなかった。
残ったのは、顔が火照るほどの恥ずかしさと、鈍く疼く頭痛、そして――胸の奥で静かに響き続ける、理由のわからない高鳴りだった。
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