カーテンを開ける音が遠くに聞こえた。窓枠の軋む音がぎしぎし鳴った後、柔らかな風が頬を撫でていく。恐らく、外から運ばれてきたのだろう。潮の香りがふわりと鼻を掠めていった。まだ、夢と現実の狭間を行き来しているものの、自分のいる場所が宇宙ではない事を薄々と認識し始めている。
思い返せば、ようやく掴み取った休暇で地球行きのチケットを確保できたのだった。
ここ最近は処理しなければいけない物が山積みで、目の前にある仕事をひたすらこなす日々が続いていた。だからだろう。自分に付き従ってくれている部下が、休暇に対し大いに喜んでいたのは。チケットが取れた時の嬉々とした声。喜びに満ちた瞳がこちらを見つめる。一緒に着いて行くと言って聞かない様子に「なんだか、御伽話の騎士のようですね」と答えたものだ。その時の情景がまるでさざなみのように寄せては返し、夢の中へ溶けて消えていく。
「……ん」
顔に当たる日差しの眩しさに眉を顰める。光の残像がキラキラと瞼の裏で明滅して、まるで星屑のようだった。降り注ぐ光の暖かさに包まれて、どこか心地よさを感じている自分がいる。
海の匂い、波の音。それらが横たわる己に向けて、このまま眠り続けても良いと訴えてくる。浮上する意識とは裏腹に、瞼が鉛のように重く開けない。寝返りをしようとするが、どうにも思うように体が動かせなかった。目をぎゅっと瞑りながら、渇いた喉を精一杯振り絞る。
「ぐぅ……っ」
掠れた声が聞こえたのか、近くで人が動く気配を感じ取った。
「起きましたか、シャリア中佐」
「うぅ、ん……?」
「今日は良い天気です。出歩くのにぴったりですよ」
聞き馴染みのある、爽やかな声が耳に届く。微睡の中でもこの声の主がはっきりと判別できる程に、シャリアは自身を呼ぶこの声が愛おしかった。優しさを含んだ声は、体を覆っている暖かさと相まって、心をじんわりと溶かしていく。こんなに良い気分を味わうなど、久しく無かったはずだ。無意識の内に、口元が段々と緩み始める。
「何か、良い夢でも見たんですか?」
ぼんやりと聞こえてくる問いかけに、シャリアはゆっくりとかぶりを振る。
この心地よさをまだ満喫していたい。あと少し。五分でもいいから。頭の中がその思考でいっぱいになっていた。もぞもぞと気怠げな体を無理矢理に動かしていく。被っていた寝具を適当に掴み、シャリアは布団にますます包まり始めていた。
「中佐、何してるんです?」
「えぐざべ、しょうい。あと五分は、このま……ま」
「あっ、ちょっと!」
二人分の重みを受け止めて、マットレスが少しだけ沈み出す。その反動でぎしりと鈍い金属の音が鳴り響いた。掛けている布団がエグザベによってぐっと引っ張られ、ひんやりとした外気が末端から体の中心へ伝わってくる。なんとか布団を取られまいと、寝ぼけ眼の中シャリアはぐっと腕に力を込めた。
「なんだ、これ! 力、強すぎだろっ」
「ぐぅ……っ」
日差しを受けて適温になっていた寝具が、エグザベによって少しだけ強引に剥ぎ取られた。心地よさを邪魔されたせいなのか、はたまた急激な明るさに眩しくなったのか。顔だけ露になったシャリアは眉を寄せながら、うんうんと唸り始めていた。
ふう、と荒く吐いた息づかいが聞こえてくる。てこでも動こうとしないシャリアに困惑したのか、どこか呆れが混じる吐息だった。エグザベに優しく肩を揺さぶられ、シャリアの体が僅かに身じろぎし仰向けになる。
「もう十時を過ぎてますよ。ほら、そろそろ起きてください」
「いやです、まだ……ねむ、い」
「そう言われてもなぁ」
ううんと唸る声色から察するに、この状況を打開するにはどうすれば良いのか困り果てているのだろう。エグザベの表情を覗かなくても、シャリアは感覚で理解していた。この年下の好ましい部下を困らせたいわけではないのだけれど、まだ横になっていたいという気持ちが大いに上回っている。その一心で一度は剥ぎ取られた掛け布団を、再び顔の近くへぐっと引っ張り始めた。片手で抑えていた布がシャリアによって不意に引っ張られ、バランスを崩したエグザベの驚く声が部屋に響き渡る。
「中佐。起きないなら、強硬手段を取りますよ」
「……あと三分」
しょうがない、と一つ溜息混じりの声が耳に入る。
エグザベがごそごそと動く気配を、シャリアは瞳を閉じながらも感じ取っていた。強硬手段とは、一体何をするつもりなのだろうか。寝惚けているせいか、普段の勘の良さが全く機能していない。ぼんやりと靄のかかる頭で考えている間に、顔にかかっていた髪の毛をそっと柔らかく避けられた。温かく筋張った手に頬を優しく撫でられ、微睡の海を漂う思考が先程よりも冴えてくる。その間にも、頬と髪を撫でる手は一向に止まる気配がない。甘ったるい優しさを受けて、シャリアは段々とむず痒さを感じ始めていた。
「しょう、い……くすぐったい」
「シャリア中佐」
愛しい者を呼ぶような優しさに満ちた声で名前を呼ばれた。同時に頬を撫でる手の動きがぴたりと止まる。もう観念したのか。シャリアが少し残念がり始めた矢先。エグザベの手が頬から輪郭へと伝っていった。そのまま、顎から首筋へと指をするりと滑らせてくる。
「んん?」
思ってもいない所に指先が触れ、シャリアは思わず眉を顰めた。ぞわりとした感覚が、自身の背筋に一瞬走る。
「ほら、起きてください」
寝起きの頭でもはっきり理解できるように、吐息混じりの声が耳元で囁く。少しだけ沈黙が続き、意を決したかのように額へ優しく口付けをされた。間近でエグザベの香りがふわりと漂い、自分が今何をされたのか、シャリアは理解する事ができた。
再び額に口付けが降り注ぐ。触れられる度に、微睡の中を泳ぐ意識がエグザベによって少しずつ引き上げられていくようだった。続け様に唇を落とされて、シャリアは僅かに身じろぎをする。口付けをされた額から全身へじんわりと熱が拡がっていくようだった。
このまま、共に寝直したらもっと心地よいのだろうか。抱きしめて、少し硬めの髪に顔を埋めていたい。溢れそうな愛しさから、シャリアはそんな衝動に駆られていた。エグザベの体を探そうと、重たい腕をどうにか動かして空を掴む。
「うぅん。しょうい、一緒に、にどね、し……」
「ダメですよ、今日はもう起きて」
熱を含んだ吐息が肌にかかる。そのまま瞼、耳、頬と順々に唇が落とされた。何度も、何度も、まるで雨が降り注ぐように優しく口付けをされる。その度に音が耳に届いて、妙な気恥ずかしさから心臓が早鐘を打つ。
「えぐざべ、くん」
「はい」
半分だけ瞼を開けば、ライトブラウンの髪が風でそよぐ。光を浴びながらキラキラ輝く髪の毛を見て「綺麗だなあ」と思いながら再び目を閉じた。
「あの、ですね」
「何ですか?」
先程から意図的に避けられていたのか、少しばかりの物足りなさをシャリアは心の底で感じていた。まだ、今日は触れられていない自身の唇に、指をわざとらしく置きぽつりと零す。
「中佐?」
「ここには、まだ……してくれないんですか?」
「……アンタなぁ」
逡巡していたのだろう。生唾を飲む音までもがはっきりと聞こえてくる。時間の流れが今だけはやけに遅く感じた。
エグザベが一度大きく息を吐く音が耳に届いた後、温かく柔らかい唇が重ねられる。一度離れて、慈しむかのように唇を指で撫でられた。再び口付けられて、下唇を甘く食んでくる。かと思えば、今度はじっくりと味わうように唇を吸われていた。心のどこかで期待していたこの空気に当てられ、身体中の熱が顔に集まってくる。
「ふ……」
「ちゅう、さ」
呼吸がままならなくなり、鼻から息が抜けてゆく。
流石に寝起きからこんな行為をし続けていれば、あれだけ微睡の中を揺蕩っていた頭は完全に覚醒しきっていた。
好き、大好きだ。起きないから。シャリアさんが煽ってくるのが悪い。
エグザベからシャリアに向けられる直向きな好意の思惟が、蛇口を捻るように流れ込んでくる。普段であれば理性が働く。だが、寝惚けた頭ではそうもいかない。止めどなく溢れてくる感情の刺激が強すぎて、脳をジリジリと灼き切っていくようだった。
だが、これ以上場の雰囲気に流されてしまうのも決まりが悪い。エグザベを煽ってしまったとはいえ、片隅に残るちっぽけな冷静さから何とかこの場を乗り切る策を絞り出そうとする。抵抗を試みるも組み敷かれるような形で上に乗られていて、シャリアは思うように力を入れる事ができなかった。思案を巡らせている間にも、エグザベからの熱のこもる口付けの雨が止まらない。空気を肺に取り込めず、目尻に少し涙が滲み出してくる。
「少、尉……。ふ……っ」
「……シャリア、中佐?」
「わかり、ました。私の負けです。もう、起きます、から!」
ぐっと力を振り絞り、なんとか上体を起こす。エグザベを引き剥がして顔を覗いてみると、緑と紫の混ざり合う目と視線が交わった。光を取り込んで輝く瞳が、熱を孕みこちらをじっと射抜く。時折、エグザベが自身に向けるこの熱を、シャリアは嫌いにはなれなかった。寧ろ、好ましいとすら思っていた。これが、惚れた弱みというものなのかもしれない、という考えが頭をよぎる。上下する肩を深呼吸して、なんとか心を落ち着かせた。
「おはようございます、中佐」
「は、はい……。おはようございます、エグザベ少尉」
パッと屈託のない笑顔を向けられて、先ほどの熱で上気した顔が一気に平静さを取り戻す。整えていないぼさぼさの髪の毛を手で掻き、一つ溜息を零した。ニコニコと黙っているエグザベをじっと眺めていると、なんとなくではあるが、犬の耳と尻尾が生えているように思える。幻覚を払うように、頭を何度かぶんぶんと横に振った。
「朝ご飯、用意できてますのであっちで食べましょう」
「はいはい、仰せのままに」
呼ばれた後、横目で外を見ると潮風で白いカーテンがふわふわとたなびいていた。窓の外には遥か遠くまで広がる地球の海が見える。窓枠を額縁に見立てれば、まるで自身が絵画の中にいるような、現実離れした光景がそこにあった。床を踏めば擬似重力ではない、独特の感覚が伝わってくる。景色に見惚れていると、潮の香りが風と共に部屋を抜けていった。
「ほら、早く来てください」
「今、行きます」
たまの休みだ。こういう目覚めも悪くはない。前を歩くエグザベを見て、シャリアは目を細めていた。
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