それはどうやら、俺が眠っている間に国中に密やかに広がったようだった。くすくすと楽しそうに笑う従者によると、事の発端は小さな女の子だったらしい。
その日ーー俺が長い眠りについていた日ーーに、クラは公務でとある幼稚園へ行った。園の設備を確認し、責任者と仕事の話をした後に、少しだけ園児たちとのふれあいの時間を設けた。そこでひとりの女の子が「クラークさまとけっこんしたいです」とプロポーズをしたのだそうだ。弟はしばしポカンとしてから彼女の頭を撫でて「君がおうちのひととお友達と仲良く暮らしてもう少し大きくなったら、考えるね。ありがとう」と(彼にしては)優しく答えたらしい。それが園児たちの琴線に触れたのだろう。「私も(或いは僕も)クラークさまと結婚する!」と一気に場が盛り上がった。その話は数日で国中を駆け巡り、「クラーク様と結婚したい」と言い出す国民が続出した、らしい。小さな子どもから学生、或いは妙齢の大人まで。今では弟が街を歩けば「恋人にしてください」「結婚してください」と次々声をかけられているのだとか。
「…すごいね」
なんと言ったらいいか分からずそう呟けば、従者は笑顔で「クラーク様は『疲れた』なんて仰ってますが、楽しそうにしていましたよ」と言う。
「へぇ…」
「あ、もちろん言っている方も本気ではないですよ。クラーク様に恋をしているというより…何でしょう、憧れに近いというか」
そうかな、と俺は思う。クラは一見ぶっきらぼうだけれど、この国に住む人はその根本にある優しさや温かさを知っている。軽やかな告白に本音を潜ませていても不思議ではない。
「ルタール様?」
無言になってしまった俺を従者は不思議そうに見る。「何でもない」と答えれば、「まだ眠たいですか?」と彼は笑った。
「最近、人気者なんだって?」
夕食の席で少しからかうように言えば、クラは呆れたような顔をする。
「ルタのところまで話が行ったの?みんなふざけてるだけだよ」
ため息をついて弟は野菜を避けながらグラタンを口に入れる。耐熱皿に取り残された人参と玉ねぎを見て俺は顔をしかめてみせた。
「クラ、お野菜もきちんと食べて」
「だって苦手なんだもん」
「食べないと食後のアイスクリーム、出してあげないよ」
俺の言葉に弟は口をとがらせて、それから渋々といったふうに野菜にフォークを刺す。偉い偉いと褒めてやれば、少しだけクラの口元が緩んだ。彼のこんな姿を見ているのは自分だけだという優越感に似た何かが自分の中から湧き出てくるのが分かる。彼に告白したという国民たちも知らない、クラの姿。
嬉しい気持ちを抱えたまま食事を終え、食器洗浄機にお皿を収めていく弟の後ろ姿をじっと見る。大丈夫。こんな姿を知っているのは自分だけだ。だから大丈夫。
「そうだルタ。この間仕事で幼稚園に行ったんだけどね」
「——うん?」
「せっかくだからって給食を園児たちと一緒に食べたんだけど、ちゃんとその時はお野菜食べたよ」
偉いでしょうとばかりに胸を張ったクラを、俺はポカンと見つめた。野菜を食べた?クラが?俺が何も言っていないのに?ご褒美のアイスクリームもないのに?そんな問いかけをしたくなる気持ちをぎゅうと押し込めて、俺は無理矢理笑顔を作る。この場にふさわしい言葉を必死に脳内からかき集めて、どうにか吐き出した。
「——えらいね、くら」
「えへへ」
褒められた弟は目尻を下げて「アイスクリーム食べていい?」と甘えたように聞く。ほとんど無意識に頷いた俺に、クラは冷凍庫からカップに入ったアイスクリームを取り出した。お城のすぐ近くにある牧場で作っている、クラが大好きなアイスクリーム。このアイスクリームがクラの好物だと知っている人は、この国に何人いるだろう。牧場の人は知っている。お城で働く人もきっと知っている。そうだ、牧場からの帰り道に「何を買ったんですか?」なんて聞かれたこともあるだろうから——もしかしたら、国中の人が知っているかもしれない。
「おいしい?」と聞けば「もちろん」と彼は嬉しそうにアイスクリームを口に運ぶ。大丈夫、と俺は自分に言い聞かせる。クラがこのアイスクリームが好きなことを知っているのは俺以外にもいるかもしれないけれど、こうして食べている顔はきっと俺以外は知らないはずだから。だからきっと大丈夫。
あくる日は、ふたり揃っての公務だった。主へ「行ってきます」の挨拶をして、ふたり連れだって街を歩く。今日の仕事はお城から程近くにある国営図書館の周年式典の打ち合わせで、当日は主と4人で出向く予定だった。図書館の館長と挨拶をかわし、会議室へと向かう。クラは前にも何度か来ていたらしく、館長と親し気に話していた。
「この間新調した書庫システム、すごく便利と職員から好評なんですよ」
「だったら良かった。来月のメンテナンスは僕も立ち会うから、もし何か機能追加したかったらその時にでも言って」
はい、と館長は嬉しそうに言って、それから俺の方にも声をかけてくれる。
「ルタール様が以前寄贈してくださった絵は、子どもの絵本コーナーに飾っているんです。もしよろしければ帰りにぜひご覧ください」
「あぁ——うん。ありがとう」
「いえこちらこそ」
人当たりのよさそうな館長に連れられて、会議室へ入る。中には複数の職員がすでに座っていて、挨拶の後すぐに式典の概要が説明された。
「——そうしましたらその後に主のご挨拶をいただきます。ご挨拶は10分ほどを見込んでおりますが、それで大丈夫でしょうか」
「うん。伝えとく」
クラが答えて、配られたレジュメに「10分」と文字を書き入れていく。一瞬ぼうっとしていた俺はクラに倣ってペンをとった。いけない。集中しないと。
「ーーその後、子どもたちの合唱があって午前中は終了になります。主と騎士の皆様には一旦控室にお戻り頂き、お弁当を食べながら休憩して頂きます」
うん、と答えたクラに親しげに話しかけてきたのは年配の職員だった。
「お野菜少なめのサンドイッチボックスを予定していますので、クラーク様もご安心くださいね」
「……野菜、入ってても食べるし」
むぅ、と頬を膨らませたクラが言えば会議場に和やかな笑い声が広がる。俺はその優しい空間に相応しい顔をどうにか取り繕った。クラが、誰かよく分からない人と談笑している。その事実が、ずん、と俺にのしかかってくる。前に俺がこの図書館に来たのは、ずいぶん前に絵画を寄贈した時だった。その時はまだ、クラはあんなふうに笑っていなかったはず。その後あちこちの手入れだとかちょっとした催し物にクラは何度か来ている。その時に親しくなったんだろうか。俺はそんな話を聞いていないのに。
もやもやした気持ちを持ったままの俺を置いて、会議は滞りなく進む。クラは幾つかの質問をしたり、逆に聞かれたことに淀みなく答えていて、久しぶりに弟のそんな姿を見たなと思って、それから大丈夫だと思い直す。家で見せるような甘えた姿や疲れたと言ってソファでゴロゴロしている姿を見せているのは俺だけだ。だから大丈夫。
無事に会議を終わらせて、図書館の子どもフロアへ足を運ぶ。俺が以前に描いた絵を、クラは何度も褒めてくれる。色が綺麗。光があったかい。このお花の形が好き。この図書館の子どもフロアは地下にあって、読み聞かせやおしゃべりが気兼ねなくできるようになっている。だからクラも、本当に楽しそうに絵を見てあれこれ話してくれた。俺はすっかり嬉しくなって、彼と手をつなぎたいな、なんて思った。その、時だった。
「あっ、ルタールさまとクラークさまだぁ」
何人かの子どもたちがこちらへ駆け寄ってくる。クラはぱっと絵画から目を離して、小さな子どもたちに視線があうようにその場でしゃがむ。
「ここで、なにしてるんですか?」
「ろーどさまは、げんきですか?」
「どーやったら、きしになれますか?」
思い思いに話しかけてくる子どもたちに、クラと俺は少しずつ返事をする。今日はお仕事で来たんだよ。主はとっても元気だよ。騎士になりたいって気持ちが大切かな。
そんなふうに話しているときに、それはするりと割り込んできた。
「クラークさまと、けっこんしたいです」
そう真剣に言ったのは、ひとりの男の子だった。薄桃色の髪を短く切って、この国の子の多くがそうのように、白いきれいな服を着ている。クラはその子の頭を優しく撫でた。
「そう。うれしいな。君が大人になったら、ゆっくりまた話そう」
どうやらその言葉はクラがしょっちゅう言う断り文句のようで、男の子はじっと涙目で床を睨みつけている。
「ありがとうね」
クラが男の子の頭を優しく撫でる。慌てたように男の子の家族らしい人が走ってきて、クラと俺に挨拶をして、それから「すみません」と謝った。
「気にしなくていいよ、こっちこそごめんね」
そう言って笑うクラは、俺の知らない顔をしていた。
帰り道、クラはずっと式典の話をしていた。どんな服装にしたらいいかな。記念品のクッキーは何味かな。朝早いから前の日の夜は早く寝ないとね。俺はクラのそんな言葉たちに相槌をうつ。夕方の街は忙しなく動く人たちばかりで、それでも俺たちを見れば挨拶をしてくれたりお辞儀をしてくれたりする。
そんな人たちの中から、ひとりの少女が駆けてきた。年頃は、ミュンナと同じくらいだろうか。淡い紫色の長い髪が、綺麗に揺れている。
「クラーク様!」
「…また君?」
クラが眉をひそめる。知り合いだろうか。
「行こう、ルタ」
「え、でも」
戸惑う俺を引っ張るようにクラは歩き出そうとする。そんな俺たちを追いかけるように、少女は声を張り上げた。
「結婚、してください!」
おやおやといった風にまわりの視線が集まる。クラにプロポーズをするのが流行しているというのは本当なのだろう。驚いた顔をしているのは、俺だけだった。
「だからしないって。もういい加減諦めてよ」
ともすれば突き放すような言い方を受けて、少女はキッとこちらを睨むように見る。泣かないためなのかもしれない。
「わたし、クラーク様のことが好きなんです」
「そう。でも僕は誰かと恋愛や結婚をするつもりはないから」
「…ちっちゃい子には、大人になったらっていうのに、どうしてわたしには嘘をついてくれないんですか」
クラはため息をついて、少しだけ身体をかがめる。
「君は『理解している』側から言ってるの。本当はもう、分かっているでしょ」
クラの言葉に少女はしばらく俯いて、それから、こくん、と頷く。
「君のことはひとりの国民として、これからもきちんと大切に思ってるよ」
それだけ言うとクラはくるりと踵を返す。男の子にしたように、頭は撫でなかったし感謝もしなかった。ちら、と見やれば少女はぐちゃぐちゃの顔をしたままとぼとぼと歩き出していた。俺は少し思案してからクラの後を追う。少し疲れた風に歩くクラの背中を見ているうちに、陽は沈んで星が光り始めていた。
俺は、クラの言う理解している側の人間なのだと思う。年齢的にも立場的にもあの少女よりもずっと上なのだから。だから、クラの言葉をきちんと飲み込まなくてはいけない。
ーー僕は誰かと恋愛や結婚をするつもりはないから。
大丈夫、大丈夫。俺はそれを心の中で繰り返す。俺達は恋愛や結婚よりもずっと深く重たいもので繫がっている。一緒に主と国を守って、それだけでいい。
でももし俺がクラにプロポーズをしたら、彼はなんて答えるんだろう。
「ルタ?お風呂どうぞ」
先に入浴を終えたクラが顔をのぞかせる。濡れた髪と赤い頬のこのクラの姿を知っているのは、たぶん俺だけだ。だから、大丈夫。
「ルタ?」
心配そうにこちらを見るクラに、「大丈夫だよ」と俺は言ってバスルームへ向かう。すっかり暗くなった空を見ながら、床を睨んでいた男の子や泣きながら歩いていた少女を思い出す。俺もいつかあんな顔をしてしまうのかもしれないという思いと、俺は大丈夫だという思いと。
天秤にすら乗せられない稚拙な思いを抱えたまま、俺は静かにため息をついた。
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